12
あたし、ここが素直になり時?
行きしなにカインがくれたマフィンとともに街の教会にこもり、ルキは一人思案していた。
素直になってルークの考えが知りたいと言うべきか。しかしそれでまたへこむのは避けたい。
ふとポケットに入っている小瓶のことを思い出した。ドクターに貰った「例の薬」だ。
薬の力を借りるのはどうかと思うが、使ってみるのも手かもしれない。なんせ効くかどうかもわからないのだ。
思いきって小瓶を出し、蓋を開けてマフィンに何滴か垂らす。適量もわからないのでとりあえず数滴にしてみる。何かの良い香りがした。
バン、と教会の扉が開いて、ルキは思わずマフィンを落としそうになった。慌ててそれを掴み直し、何事かと振り返る。入ってきたのはルークで、それに驚いて今度は固まってしまった。
「何でここに……」
「おまえに用がある」
ルークははっきり言って、ルキの隣に腰を下ろした。
しかし、彼は何も話し出さない。居心地の悪さを感じていると、彼の手が伸びてきてマフィンを取り上げた。止める間もなく、ルークはそれを一口かじる。
「ん、うまい」
「ちょっとルーク、それ…………」
「何だよ」
眉間にしわを寄せた彼に、薬入りのマフィンだとは言えない。
ルークはマフィンを半分割ってくれた。ちびちびそれをかじっていると、ふいに「おまえはどうしたい」と訊かれた。
「あたしは……みんなと一緒に行きたい。でも兄さんと離れるのも悲しいの。せっかく会えたから……」
そうだな、とルークは同意してくれた。珍しく素直だと思って、はっとしてマフィンを見る。
薬が効いてる?
「ルークの考えが知りたいの」
思いきって言ってみる。
ルークはマフィンを食べ終え、足と腕を組んで唸った。
「俺はおまえの好きにすれば良いと思う」
「そうだけど……。あたし、ルークがどう思っているのか知りたいの」
ルークは腕を組んで唸った。
「…………おまえがいなくなると、もう面倒ごとに巻き込まれたおまえを助けに行く必要もないんだな」
「……そうだね。たくさん助けて貰ったね」
「面倒だったが嫌じゃなかった」
ルークがぽつりと言った。思わず彼の顔を凝視してしまう。
「じゃあ、これからも助けてくれる?」
「言っただろ。俺を用心棒にするのは高くつく」
ふっと彼の目元が柔らかくなる。
「ツケになってるんだっけ。どれくらいたまってるのか考えたくもない」
思わず苦笑すると、「清算するか」と訊かれた。
どうやって、と聞いた言葉は声にならずに呑み込まれた。
右手で後頭部を引き寄せたルークが、ルキに唇を重ねている。思わず固まったルキを離して、ルークは心なしか満足そうだった。
「これでチャラだな」
にやりと笑った顔に心臓が早鐘を打つ。耳の奥で血管が波打つ音がうるさい。
懸命に動揺を振り払い、離れていくルークの手を捕まえた。
「……これだけでいいの?」
ルークが珍しく脱力したように頭を垂れた。
「……おまえなあ……」
「違うの。そうじゃなくて……」
何回も助けて貰ったのに、借りを返すキスは一回なの、とはさすがに言えない。
しかしルークは、値上げすると言ってもう一度、今度は少しだけ長く口付けた。
「ドクター!」
「すごいよルキ。この森の異常な成長はおそらく疫病と」
「ドクター!この薬!」
眼鏡の前に小瓶を突きつけると、彼はにやりと笑った。
「使ったんだ?」
「これ、本当に素直になる薬なの?……惚れ薬か何かと間違えてない?」
もしくは、キスしたくなる薬、とか。
ドクターのにやにや笑いが強くなる。
「そんなもの作れたら、僕は今頃億万長者だと思わない?」
「それもそうね。でも素直になる薬だけでもすごいと思うけど」
「そうだね。本当に作れたらね」
「へっ?」
ドクターのにやにや笑いが最高潮に達した。
「それ、ただの香料だよ」
ルキはぽかんとしてドクターを見つめた。
「香料?」
「うん。いくつかハーブをブレンドして作ったんだ。紅茶に垂らすとリラックス効果はあるよ」
「ドクター、そんなこと言わなかったじゃない!」
「そうだね。嘘も方便って言うでしょ。信じるものは救われる。おかげでルークと話できただろ?」
笑おうか怒ろうか難しいところだ。信じた自分に呆れる気持ちもある。
これがただの香料で、惚れ薬でも人を素直にする薬でもないとすると、ルークは彼の意思でルキにキスしたことになる。
それって、つまり?
ドクターはいつの間にか森の異常成長と疫病の関係について熱烈に語っている。しかし、ルキの頭には何も入ってこない。いつの間にかルークの唇が触れた自分の口元に手をやり、「それって、つまり?」の先を一生懸命考えていた。
フレッドは、森から離れた街の一角に畑を作っていた。ルキの取り戻した記憶では、そこはたしか町長の花壇だった気がする。
悶々と悩みながらそこへ行くと、フレッドが野菜を収穫しているところだった。
「悩んでる顔だな」
「え?ああ、うん」
目下の悩みは今後のことからルークの真意にすりかわっていたのだが、それは兄には言わないでおく。というか、誰にも言いたくない。
ルキはワンピースの裾を縛って、フレッドと一緒に畑へ入った。
フレッドは作業の手は止めずに口を開く。
「俺昔言っただろ。いつかおまえの髪の色のこと関係なく、おまえ自身を見てくれる奴が現れるって」
「うん」
「あいつらはちゃんとおまえを見てくれるんだろ」
「そうだね」
「おまえはあいつらが好きか」
「うん」
フレッドが手を伸ばし、ルキの頬についた土を拭ってくれた。
「一緒にいたいんだろ」
「……そうね」
「安心した!」
フレッドがいきなりルキを力一杯抱き締めた。思わず呻き声が出る。
「に、兄さん、何ごと……」
「あの船長なら人柄も申し分ない。おまえを安心して任せられる」
「そ、そう……確かにカインはいい人だけど……」
フレッドがルキを離し、眉をひそめた。
「しかし、あの副船長の愛想のなさはどうにかならないのか」
どうにもならないので、何も返事ができない。
フレッドはため息をついた。
「まああいつもおまえのことが大事みたいだけどな。気に食わん」
「え!?」
ルキの動揺に気付かないのか、フレッドは収穫した芋類を籠に放り込んで立ち上がる。
「俺のことは本当に気にしなくていい。俺もこの街は出るつもりだから」
「そうなの?」
「ああ。おまえの安否確認のためにいたようなものだからな」
フレッドはそう言って歩き出した。ルキも慌ててあとを追う。
にっこり笑ったフレッドが差し出した手を握り、昔のように並んで家へ向かった。
「ねえ、何で百面相してるの」
夕食後、片付けをしていたルキにハルが不思議そうに問いかけた。
「してないよ」
「してるよ。何かあったの?ルークに訊いたらドクターに変な薬でも飲まされたんじゃないかって」
あれは薬じゃなかったの、と叫びたいのを我慢する。ルークはもうラグの上で寝そべっていて、起きているのか寝ているのかもわからない。フレッドも自室に引っ込んでいて、レックスは食後のコーヒーを飲んでいる。ドクターはどこかへ出掛けてしまった。
「ルキ、結局どうするか決めたのか」
コーヒーをテーブルに置いたレックスに訊かれ、ルキはこくりと頷いた。
「そうか。決まって良かったな」
どうするのかは訊かれなかった。きっと、カインがいる時に聞くべきだと思っているのだろう。ハルも訊きたそうにしていたが、何も言わなかった。
カインとロイドが帰って来た時、ルキの心は完全に決まっていた。だから、カインが荷馬車から降りるなりお帰りなさいも言わずに彼にしがみついてしまった。
「カイン、あたしを連れて行って。あたし、カインたちともっといろんな世界を見てみたい」
ヒュッと口笛が鳴った。きっとハルだ。
「また迷惑かけるかもしれないけど、お願い。一緒に連れて行って」
「そう言ってくれるって信じてました」
カインがそっと軽くルキの身体を抱き締めた。
「ルキは俺の大事な仲間ですから。これからもよろしくお願いしますね」
「ありがとう!」
ルキもカインを抱き締める。カインはルキの頭をそっと撫でた。
「お兄さんとは話してありますよね?」
「そのことなんだが」
後ろにいたフレッドが口を開いた。
「俺も途中まで乗せて貰えないか。行きたいところがあるんだ」
「もちろん構いませんよ。良かった。貴方がここに留まる気だったらどうしようかと思ってました」
カインがにっこり笑う。フレッドもあと少し一緒にいられることがわかって、ルキは嬉しさのあまり彼にも飛び付いた。
「兄さん、言ってくれたら良かったのに!どこに行きたいの?」
フレッドもカインと同じようにルキを軽く抱き、頭を撫でてくれながら微笑んだ。
「ちょっとある港町にな。以前商いで行ったんだ。そこで店を開きたくて」
「港町なら船が寄港してまた会えるよね?」
「ああ。きっと」
嬉しくて、フレッドをぎゅっと抱き締める。
後ろからカインが訊ねた。
「それで、どこの街へ行くんです?」
「トリエンテだ」
「ああ、あそこ……あの街なら商いもやりやすくて良さそうですね……」
そう言いながらカインは少し歯切れが悪い。フレッドがそっとルキを離した。
「そちらへ行かないなら、どこか適当な港で降ろしてくれ。そこから自力で行くよ」
「いえ、大丈夫です。トリエンテならよく知ってますから、送って行きますよ。懐かしいなあ……」
その日の夕方には、みんな荷物をまとめて出発することになった。大量の交易品に埋もれて荷馬車に乗り込む時、生まれ育った街を離れることに少し寂しさを感じた。しかしそれ以上にドクターが「森の成長の経過観察をしたかったのに!」と涙を流しており、ルークに思いきり頭を叩かれていた。終いには、「この現象に魅力を感じないとは君には知性がないのか」と暴言を吐かれ、「おまえみたいな変態学者と一緒にするな」とルークがもう一発お見舞いしてドクターが折れた。
ルークとは、あのよくわからないキス以来一度も話していない。あれを取れこれをしろなどの会話はあったが、ちゃんと話してはいない。こうなると、あのキスがますます非現実的になってきていっそなかったことにしようかと思えてくる。
ドクターはただの香料だと言ったが、やはりあれは香料ではなく人の心を惑わす薬だったのではないだろうか。
そう思うと、今度はだんだん考えるのが空しくなってきて、ルキは思考を無理矢理止めた。