10
「海も良いですが、たまには内陸を旅したいと思いませんか」
「何言ってんだあんた」
珍しくルークがカインに呆れたような声を出した。カインは気を悪くした様子はまったくなく、にこにこして話を続ける。
「半分冗談、半分本気です。船がくたびれてきてるので、一度補修したいんです。それで、その間ちょっと内陸の方へ行きたいなと思って。交易も兼ねてね」
「良いんじゃねえの。ちょうどこの前ハルが舵壊してたし」
「わ!ロイド!ルークの前で言うなよ!」
ソファに座ったルークがじろりと下からハルとロイドを睨み付ける。
「おまえら魚十匹釣るまで帰って来るな」
「何で俺まで!」
ロイドが顔をしかめる。
「うるせえからだ。さっさと行け」
ルークが手をひらひら振って二人を追い出した。
彼はカインに呆れたようなことを言ったものの、反対する気はないらしい。好きにしろよ、と言って興味なさそうにコーヒーをすすっていた。
数日後、入港して船の修理を船大工に任せると、カインはひと月の自由時間を船員に与えた。自分たちは内陸へ行くが、行きたい者だけついてくれば良いと言う。
レックスが荷馬車と馬を数頭借りてきて、旅の準備が整った。荷馬車はカインが御し、ルークとレックスが馬で並走する。珍しく同行するドクターは、荷馬車の一角に何やら怪しいスペースを作り、揺れる馬車で何かを作り始めた。
ルキはカインの傍で地図を眺めていた。地名を追っていくうち、何やら鳩尾のあたりが気持ち悪くなる。思わず呻いたのに気付いたカインが振り返った。
「もしかして酔いました?」
「ううん。……いや、そうなのかな」
「顔色悪いですよ。そうだ。いい空気吸ったらどうです?」
そう言って彼は並走するルークを呼んだ。
「ちょっとルキを乗せてあげて下さい」
「えっ」
ルキは思わず及び腰になる。彼の馬に乗せて貰うということは、後ろから彼の腰にしがみつくということで、それはちょっと心臓に悪い。
しかしルークは、もっと心臓に悪いことをした。「おまえを乗せると馬が潰れる」と言いながら、ルキを彼の前に座らせたのだ。
「もたれていいぞ」
どぎまぎしていたらそんなことを言われて、ますます緊張してしまう。控えめに彼の胸に背中を預けると、彼は手綱を握り直して馬を進めた。
夜に街について、その日はそこの宿に泊まることになった。何となく気持ちが悪いのはずっと続いていて、馬からおりた時にルークまでもが「おまえ大丈夫か」と訊いた。
「大丈夫。ちょっと疲れたのかも」
そう言って笑おうとしたが、足元がふらついてそのまま倒れ込む。ルークが抱き止めてくれ、抱き締められるような形になって少し動揺したが、それどころではなかった。だんだん意識が遠のいていく。ルークが何か言っている。それがわからないまま、意識が完全になくなった。
誰かの手が、額にかかった髪をそっとよけてくれている。この感触は知っている。昔よく味わった。熱を出した時、近所の男の子にいじめられた時、両親に叱られた時、慰めてくれた手にそっくりだ。
「兄さん……」
「ルキ……?」
青い瞳が心配そうに覗き込んでいる。
しゅんしゅんとお湯が沸く音がする。
その後ろで、剣呑な声がしていた。
「どこも悪くねえのに倒れるわけねえだろ。おまえの頭は飾り物か、変態科学者」
「そんなこと言ったって、脈も体温も正常なんだよ。何度言ったらわかるの、岩石頭」
言い合うルークとドクターを、「静かにしなさい」とカインが叱りつけた。
「ルキ、大丈夫ですか。気分は?」
「平気。あたしどうしたんだっけ」
起き上がろうとすると、カインがそれを止めた。
「馬からおりて倒れたんです」
「うわ……ごめんね、迷惑かけて」
ベッドサイドまで来たドクターが、ルキの身体の診察を始める。特に異常が見つからず、釈然としない顔で唸っている。そして、「腹でも減ってたんじゃねえのか」と言ったルークを眼鏡の奥から睨み付けた。
「あたし大丈夫だよ。気持ち悪かったのも治ったし」
「そう?とりあえずこれ、吐き気止め。気持ち悪くなったら飲んで」
ドクターが小袋にいれた粉薬を渡してくれる。その後ろから気遣わしげにカインが覗きこんだ。
「ねえルキ、もしかして何か思い出したんですか?さっき兄さんって言ってましたけど」
「最近夢に出てくる人がいるの。あたし、兄さんって呼んでて……思い出せないけど、兄さんなんだと思う」
顔ははっきり見えないが、ルキと同じ緑の瞳が印象的だった。
「そうですか……。まああまり気負わず、ゆっくり休んで下さいね」
カインたちがひきあげて、「兄さん」はカインに似ているのだと気が付いた。カインに頭を撫でられると懐かしい気持ちになるのは、身体の記憶なのかもしれない。
そんなことを思っていると、とろとろ眠気が襲ってきた。その日はもう夢を見ないまま、眠りのなかへ引きずりこまれていった。
翌朝、ルキはすこぶる元気になっていた。
宿で朝食をとりながら、カインが地図を広げて宿の主人と話している。カインが今日の行く先を告げると、主人は驚いたように眉をひそめた。
「ヴェルデに行くのかい?あそこは何もないよ」
「良いんです。泊まるだけなので」
「いやいや、宿屋もないんだよ。もう人がいないからね。森に呑まれた街って言われてるよ」
「おいおい、そりゃどういうことだ?」
レックスが話に加わる。
「森の傍にあった街なんだけど、数年前に住人がみんないなくなっちまったのさ。それから森に手が入らなくなって、街が半分森に呑まれたってことだ」
「へええ。そりゃすごいね。ぜひそれは見てみたいな」
さらに話に加わったのはドクターである。
「ねえ、カイン。野宿になってもその事象は見てみるべきだよ。森の異常成長かもしれない。異常成長が起こる時っていうのはね……」
ドクターの講義が始まり、レックスはこっそり離脱してルキの向かいに座った。
「あれが始まると長いんだよな」
「でもそんな街があるんだね。なんて街だっけ」
ワッフルにハチミツをかけながら訊ねる。レックスも食事を再開した。
「ヴェルデ」
「ヴェルデ?どこかで聞いたような名前だね」
「そうか?」
サラダを食べながらレックスは不思議そうにした。
向こうでは、ドクターがまだ講義を続けている。その向こうでは、ロイドとルークが喧嘩を始めていた。
「てめえさっき俺に枕投げつけただろ」
「おまえが間抜け面で寝てるからだ馬鹿」
「てめえこそ寝てる時まで眉間にしわ寄せんな。見てて怖え!」
「じゃあ見るな。気色悪い」
「何だとてめえ表出ろ!」
何あれ、と訊くと、レックスは肩をすくめた。
「知らねえ。聞くのも馬鹿らしいから放っとけ」
食糧と水を調達して出発する時、ルークは当たり前のようにルキを自分の馬に乗せてくれた。あまりにも自然だったので、ルキも普通にそれに従い、後ろから抱き込まれるような状態になって初めて今日は荷馬車でも良かったのだと気付く。しかし、今さら降ろせと言うのも変だし、何よりこの体勢が嫌ではない。
ルークの胸に軽く背中を預け、あまり話しかけるとまた喧嘩になりそうなので特に話しかけない。ただ、隣を走るレックスが時々話しかけてくるので、それに応じていた。
しかし、進むにつれて今度は頭が痛むようになってきた。こめかみに手を当てていると、「痛むのか」とルークの低い声が耳元でした。
「大丈夫」
「馬車に移るか」
「ううん、平気」
そう言うと、ルークの腕が腰を引き寄せた。体重が完全に彼の身体に預けられる。
ルークは何も言わなかったが、その優しさに甘えて目を閉じた。
並走していたレックスと荷馬車を御すカインが目配せしたのも、荷馬車の中から外を見たロイドが八つ当たり気味にハルの頭を叩いたのも知らなかった。
次に目を開けると、もうすぐ街に着くところだった。人気のない街道を走っていると、何だか妙に不安な気持ちになる。
行きたくない。
行ってはいけない。
思わずルークの腕を掴んでいて、「痛い」と文句を言われた。
「ごめん」
「どうかしたか」
「ううん……」
そう言ったものの、背中に汗をかいてきた。
この嫌な感じはなんだろう。
「森が見えてきたぜ」
隣でレックスが言った。顔を上げると、鬱蒼と茂る森が見える。
動悸が速くなり、思わずまたルークの腕を握ってしまう。
「お願い、このまま……」
後ろでルークが口を開く気配がして、それを懇願で制する。彼は「止まるか」と訊ねてきたが、それには首を横に振る。
森がだんだん近付いてきて、街道が森の中に続いていたのでそのまま森の中へ入る。
最初は街道沿いに木々しかなかったが、その中に突然街の入り口である門が現れた。木の弦が張り付いたそれをくぐると、次第に木々に呑み込まれた家が現れるようになった。
「へえ、本当に街が森に吸収されてるんだな」
レックスが興味深そうに呟く。荷馬車では降りて調査をさせろと喚くドクターをハルが必死で押さえているようだ。
ルキはその景色も見ずに、目を閉じてルークの腕にしがみついていた。気付くと、彼は左手で手綱を掴むのをやめて代わりにルキの腰を抱いている。しかし、そのことに動揺することも抵抗することもできない。今はただ、訳のわからない不安感に負けないことしか考えられなかった。
急にあたりが明るくなり、目を開けると森を抜けていた。朽ち果てたような石造りの街が目の前に広がっている。それを見た途端、頭の奥がずきんと痛んだ。思わず呻くと、ついにルークが馬を止めた。有無を言わさずルキを馬から降ろして座らせる。
「おい変態、ちょっと来い」
ルークに呼ばれ、ドクターが荷馬車から顔を出す。まだハルに羽交い締めにされたままだ。
「その呼び方は頂けないなあ。ルキ?大丈夫?」
ドクターの声が遠くに聞こえる。頭の中に靄がかかって、何もわからない。
その靄の中に、先ほど見た石造りの街が浮かび上がった。活気が溢れ、人々が行き交う街の姿だ。幼い自分が、「兄さん」に手を引かれて歩いている。もうすぐうちだよ、と彼が笑いかける。
誰かが、乱暴に顎を掴んだ。視界に真っ黒な双眸が入り込む。
「ルキ、この馬鹿が見える?」
ドクターの声に頷くと、黒い瞳は少し細められた。それを見て、やっと頭の靄が晴れた。
「ここ……」
出した声は少し掠れた。
「ここ、あたしの故郷なの」