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真っ黒な空にぽっかりと浮かぶ月が異様に大きかった。満月ではなく、微妙に欠けていびつな形をしている。
小さな窓から覗くその楕円を、ルキはぼーっと眺めていた。
「次は珍しい銀髪の娘です。染めてない本物の銀髪ですよぉ」
表から下卑た男の声が聞こえる。
「若い娘です。観賞用にするもよし、メイドにするもよし、妾にするもよしですよぉ」
見せろ見せろと騒ぐ声が大きくなる。
その声がわんわん響いて気持ちが悪い。
虫の羽音のようだったその声が、ふと悲鳴に変わった。
火事だ!と誰かが叫ぶ。
『高額商品』を守ろうと男が舞台から引っ込み、こちらへ駆けてきた。
その男が途中で白目を剥き、目の前でどうっと倒れ込む。
思わず息を呑み、小さな檻の中で後ずさった。
「大丈夫ですか」
倒れた男を跨いで、誰かが檻の前に膝をついた。
檻の前に跪く金髪の男と、その後ろに控える黒髪の男。
金と黒のコントラストが印象に残った。
それが、カインとルークとの出会いだった。
「ルキ、パンケーキ焼けましたよ」
「はあい」
お皿を持って行くと、さらっと長い金髪を靡かせたカインがフライパンを持って振り返る。
「わあ、おいしそう。どうやったらこんなに丸く焼けるの?」
「修行ですよ、修行」
皿に移したパンケーキにバターを塗ってたっぷりハチミツをかける。ナイフを入れ、幸せな一切れめにフォークに突き刺そうとした時、横からフォークが伸びてきてその一切れをさらっていった。
「あ!」
声をあげてそのフォークを追うと、その一切れを食べた黒髪のルークは思い切り眉をひそめた。
「よくこんな甘いものが食えるな」
「ちょっと。せっかくカインが作ってくれたのに。文句言うなら食べないでよ。返せ!」
「朝からうるさい。ぎゃあぎゃあ喚くな」
カインにフォークを返したルークが船室から出ていく。いつもと同じ光景である。
優しくて丁寧でまるでどこかの国の王子さまのような船長であるカインと、ぶっきらぼうで無愛想で口が悪い副船長のルーク。ルキを助けてくれたのはこの二人だった。
ルキが囚われていた檻を壊した金髪の男は、そっと手を差し伸べてくれた。その手をとって檻の外へ出たが、状況がいまいち理解できない。
「怪我がないようなら逃げますよ」
「え?」
彼に手を引かれて立ち上がる。
地下にあった競売場から外へ出ると、光が眩しかった。建物のあちこちから黒煙があがっている。
その建物の前で、ルキは金髪の男の手をそっと振り払った。
「ありがとう、助けてくれて。でも何で?」
「嫌いなんですよね、こういうの。だからです」
「……あたしをどうするつもり?高く買ってくれる人のところに売るの?」
ルキの問いに彼は綺麗な眉をきゅっとひそめた。
「そういうのが嫌いだって言ったじゃないですか。貴方は自由です。好きなところに行って良いんですよ。途中までなら送ってあげられるかもしれませんし」
自由?好きなところ?
ルキは困ってしまって金髪の男を見つめた。彼が怪訝な顔をする。もう一人の黒髪の男も金髪の男の傍らへやって来た。
行きたいところなんてない。珍しい銀髪のせいで故郷で疎まれ、売られては逃げ出し、捕まっては売られを繰り返してきた。故郷にももう戻る気はない。今回もまた、次に捕まるまで逃げ回るだけだ。
「一緒に行きますか」
金髪の男がにっこり笑いかけてきた。
「一緒に?」
「ええ。俺たちは世界中を旅してまわってるんです。もし良かったら、一緒にどうです?行きたいところが決まるまででも」
世界中、どこに行っても同じだとは思ったが、いろいろな場所へ行けるのは魅力的な提案だった。
金髪の男が黒髪の男を振り返る。
「良いですよね、ルーク」
「船長はあんただ。勝手にしろ」
黒髪の男は素っ気なく答えた。決まりですね、と金髪の男は笑った。
「俺はカイン。船長をやってます。こっちが副船長のルークです」
「ルチアです。ルキって呼んで下さい」
「はい」
カインはにっこり微笑んで頷いた。
カインとルークはルキを港に停泊している彼らの船へと案内してくれた。
「立派な船……」
ルキは思わず呟いたが、次の瞬間マストに翻る旗を見て息を呑んだ。
「海賊船!?」
「あれ、言ってませんでしたっけ」
先を歩くカインが長い髪を靡かせて爽やかに振り返った。
聞いてないし、カインは海賊船の船長には全く見えない。
「大丈夫ですよ。略奪なんてせこい真似していませんから」
カインはにっこり笑ってルキを船のなかへ誘った。ここで引くこともできたはずなのに、ルキは好奇心に負けて船のなかへ足を踏み入れた。
そして今に至る。
カインはとても優しく、反対にルークは口が悪くルキとは度々衝突した。しかし船での生活は思った以上に快適だった。
生計は交易の真似事で立てているらしく、それなら海賊船ではないのではとルキは思ったが、カインは「海賊船の方がロマンチックでしょう?」という一言で全てを終わらせた。
ルキは船で洗濯という仕事を貰い、その他に雑用をこなして生活していた。料理はカインの方が上手だったうえに鍋を焦がしかけたルキをルークが恐ろしい目で睨んできたので、料理には手を出さないようにしようとそっと誓い、カインに任せている。
カインは船長だったがあまり船長らしくなく、基本的に「ルークに任せます」という姿勢で船の指揮は副船長が執っていた。彼がぶっきらぼうで無愛想で口が悪いのは誰に対してもらしく、船員から「ひどい」「横暴」と文句があがるのはしょっちゅうだったが、彼に一睨みされるとみんな黙った。ルキは時々噛み付いたが、結局最後には「うるさい馬鹿女」と罵られて終わりだった。
「ルキ、悪いけどこれも洗っておいて」
甲板で洗濯をしていたルキのもとに航海士のレックスが顔を出した。ぽいっと放られたのは、彼のシャツだ。
「わ、真っ黒。これどうしたの」
「海図描いてたらインクこぼした」
レックスは決まり悪そうに笑って、洗濯桶を覗き込む。
「あーあ。うら若き乙女に下着を洗濯させるうちの男どもの気が知れない」
「あたし慣れてるから大丈夫。……と言うか、レックスのも入ってるでしょ」
「ばれた?」
レックスはぺろりと舌を出し、左手に丸めて持っていた海図を広げた。
「たぶんもうすぐ島が見える。おーいハル、なんか見えたか?」
見張り台にレックスが叫ぶと、台からひょっこり頭が覗いた。
「見えねえ。おまえの海図、正確なのか?」
「おいおい。信用ないな、俺」
レックスが顔をしかめる。
「南東の方、しっかり見ておいてくれよ。ルキは寄港するの初めてだっけ」
「うん。乗せて貰ってからはずっと航海してた」
「久々の陸地だ。満喫しないとな。あ、陸酔いに気を付けろよ」
「陸酔い?」
「ずっと船に乗ってると陸にあがった時に酔うんだよ。まあ気を付けてもなる奴はなるんだけどな」
初耳だ。
レックスによると、陸酔いする船員はせっかく寄港してもすぐに船に戻ってしまうらしい。
「お、副船長」
レックスが左舷の方から歩いてきたルークを呼び止めた。「次の港でどれくらい停泊するんだ?」
「そんなことカインに聞けよ」
ルークが鬱陶しそうに答える。
「船長があんたに聞けってさ」
「……三日でいいだろ」
投げやりに答えて、ルークは船室に入って行く。
「相変わらず愛想ないんだよなあ」
レックスが苦笑した時、見張り台からハルが顔を出した。
「あ見えた見えた!レックス、見えたぞ!船長に知らせて!」
頭の上からハルの声が降ってきた。レックスが手を挙げて船室に戻って行く。
港か。楽しみだな。
ルキはわくわくする心をおさえられなかった。
上陸前、船員に指示を出していたルークがいつもの仏頂面で注意してきた。
「無駄なものばっか買うなよ。特におまえ」
じろりと睨まれ、ルキもきっと睨み返す。
「買わないよ」
「面倒も起こすな。いいな」
「わかってるわよ」
思わず喧嘩腰で返事をしてしまう。
しかし、本当はわかっていなかった。自分の境遇をすっかり忘れていた。
人相の悪い男数人に取り囲まれ、ルキは手に持った武器ーーただの棒切れーーを彼らに向かって構えた。
ひと月ほどの快適な海上の生活で、自分の容姿を忘れていた。珍しい銀髪を隠すこともなく港におりたルキは、あっという間におかしな輩に目をつけられたのだ。カインたちのひく荷車の後ろを歩いていたところを路地へと連れ込まれ、現在の状況である。
頭が平和ボケしていた自分に説教してやりたい。
どう切り抜けるか考えていたが、ふと気付いた。カインたちが正式な船員でもないルキを助けに来てくれるかはわからない。
これは、いつもの逃げては捕まり、捕まっては売られのループではないか。
それなら下手に抵抗せず、捕まってしまえばいいーー‥‥。
ルキはぽいっと木の枝を放り出した。
「そうだ、大人しくしろ。どうせそんな棒切れじゃ何もできねえしな」
男の一人がにやりと笑った。
「それは使い方によるんじゃねえか」
頭の上から低い声がした。
はっとした時には家の屋根から誰かが飛び降り、ぐっと腕を掴まれる。
掴んだのはカインで、同じく飛び降りたルークがルキの放り出した棒切れを拾った。
「カイン、ルーク……」
「探しましたよ、ルキ」
カインの顔に安堵の表情が浮かぶ。それから前に立つ副船長に呼び掛けた。
「ルーク、ほどほどにして下さいよ」
「ああ。棒切れを馬鹿にした落とし前をつけるだけだ」
あたしを拐おうとした落とし前じゃないのね。
ルキが思わず苦笑いした時、ルークが動いた。
素人のルキにもわかる、隙のない動きだ。
彼は斬りかかってきた男のナイフを利用し、うまく棒切れの先を鋭利なものに変えた。それを絶妙な力加減で男たちの太股に突き刺し、戦闘不能にしていく。
最後の一人を地面に蹴倒し、ルークは棒切れを捨てた。
「早く医者に行くんだな。傷が膿むと面倒だ」
「あらら、珍しく優しいじゃん」
揶揄する声にルークがじろりとそちらを睨んだ。通りの方から赤毛の青年が歩いて来る。船員のロイドだ。彼はルークを素通りしてルキの前まで来た。
「ルキ、無事で何より」
「うん。ありがとう」
「船長に任せとけば安心かと思ったけど、気になって見に来ちゃったよ。怪我はない?」
「おかげさまで」
「来るのが遅れてごめんなさい、ルキ」
カインに謝られて、ルキは慌てた。
「ううん。助けてくれてありがとう。……ルークも」
ルキの言葉にルークは振り向きもしなかった。
「船長命令を聞いただけだ。面倒事を起こすなと言ったはずだが」
慢心していた羞恥で、カッと顔が熱くなった。
「……ごめん」
謝ると、ルークがちらりとこちらを見た。しかし何も言わずに倒れて呻く男たちを跨いで行ってしまう。
「ほら、行こう」
ロイドに促され、ルキは黙って頷いた。カインとロイドの優しさが、少しだけ気を楽にしてくれた。