第4話 新しい弟[挿絵有]
第4話 新しい弟
妾の子が、五歳まで生き延びた。
明日からは、一緒に食事をとるらしい。
弟が増えた。
そう思えればよかったのかもしれない。
だが、俺はその子の顔より先に、母上の顔を思い出した。
父上と母上は、あまり喧嘩をしない。
仲がよいからではないと思う。
食卓では必要なことを話す。
客がいれば、夫婦として並ぶ。
家のことで決めなければならないことがあれば、互いに言葉を交わす。
ただ、それだけだった。
母上が父上に甘えるところを見たことはない。
父上が母上に何かをねだるところも見たことがない。
そういうものなのだと思っていた。
貴族の夫婦とは、そういうものなのだと。
だが、一度だけ違ったことがある。
母上が声を荒げた。
父上も、黙って聞いてはいなかった。
あの時の屋敷の空気は、今でも少し覚えている。
扉の向こうから声が聞こえた。
侍女たちが、廊下の端で息を殺していた。
俺が近づこうとすると、乳母に止められた。
子どもが聞く話ではありません。
そう言われた。
子どもが聞く話ではないのなら、屋敷中に聞こえる声で話さなければいいのに、と思った。
もちろん、口には出さなかった。
その時の話が、ミラという女のことだった。
父上は、その女を屋敷に入れようとしていた。
最初は、側室として迎えたいと言ったらしい。
らしい、というのは、俺が直接聞いたわけではないからだ。
後から侍女たちの話や、母上の実家から来た者たちの様子で、何となく分かっただけである。
母上は激しく反対した。
母上の実家からも、人が来た。
トルガ家は伯爵家だ。
母上の実家は侯爵家。
俺はまだ幼かったが、そのくらいの違いは分かっていた。
母上は、この家で軽く扱われる人ではない。
その母上が、平民の女のことで顔を歪めていた。
俺には、それが嫌だった。
結局、ミラという女は側室にはならなかった。
だが、屋敷には入った。
そして、その女の子どもにはトルガの姓が与えられた。
ベルク・トルガ。
妾の子にしては、ずいぶん立派な名前だと思った。
当時の俺には、父上が何を考えていたのか分からなかった。
今も、全部分かっているわけではない。
ただ、あの頃の母上の機嫌がひどく悪かったことだけは覚えている。
母上の機嫌が悪いと、屋敷の空気が硬くなる。
使用人の足音が小さくなる。
食器の音が目立つようになる。
バルドまで、いつもより少し静かになる。
それが、俺の覚えているベルクの始まりだった。
だから、翌日から食卓に来るという弟に、特別な感情はなかった。
会ったこともない。
話したこともない。
遠目に何度か見たことはある。
庭の端で、母親らしい女と一緒にいた。
小さな手を伸ばして、何かを受け取っていた。
笑っていたかもしれない。
それだけだ。
それだけの相手を、弟だと思えと言われても困る。
次の日。
ベルクは食卓に来た。
思っていたより、小さかった。
いや、五歳なのだから小さくて当然なのだが、俺の中ではもう少し違うものを想像していたのだと思う。
母上を怒らせた女の子ども。
父上が屋敷に入れた妾の子。
そういう言葉の方が先にあったから、実際のベルクを見ると、少し拍子抜けした。
ただの子どもだった。
黒に近い髪。
まだ細い首。
椅子に座る時、少しだけ足元を気にしていた。
だが、怯えてはいなかった。
媚びてもいなかった。
使用人に椅子を引かれると、礼を言って座った。
五歳児にしては、妙に落ち着いていた。
母上は笑っていた。
食卓で母上が笑わないことはない。
だが、あの笑顔は、楽しい時のものではなかった。
バルドはベルクをちらちら見ていた。
あいつは分かりやすい。
新しい犬でも来たのか、という顔をしていた。
いや、弟だ。
一応。
父上はいつも通りだった。
「ベルク」
「はい、父上」
「食事には慣れそうか」
「はい。少し緊張します」
「そうか」
それだけだった。
それだけなのに、俺は少し驚いた。
父上が、ベルクに話しかけたからだ。
父上は、子どもにあまり話しかける人ではない。
無視するわけではない。
冷たいわけでもない。
ただ、言葉が少ない。
俺に対してもそうだった。
必要なことを聞く。
必要なことを言う。
終わる。
だから、その日の会話も、別に長いわけではなかった。
だが、ベルクは父上に問われると、きちんと答えた。
言葉を選んでいるように見えた。
五歳の子どもが言葉を選ぶ。
それだけで、少し気味が悪かった。
数日もすると、ベルクは食卓に慣れた。
慣れた、と言っても騒ぐわけではない。
むしろ静かだった。
静かに食べる。
静かに聞く。
たまに話す。
その、たまに話す、が少し面白くなかった。
「父上、トルガ領では何が多く採れるのですか」
「ラウ麦とベルナ麦だ。北ではグラウ羊も多い」
「羊は、毛も使えるのですか」
「使える。肉にもなる。皮にもなる」
「便利ですね」
「そうだな」
そういう会話だった。
ただの質問だ。
子どもらしい質問に見える。
だが、俺はそこに引っかかった。
ベルクはまだ、マルク先生の授業を受けていない。
マルク先生は、俺とバルドに読み書きや家のことを教える先生だ。
領地の特産や作物の話も、少しずつ教わっている。
俺は十歳だ。
ベルクより五つ上だ。
それなのに、ベルクの質問には、時々俺がまだ習っていないことが混じった。
「川の近くの村は、荷を運ぶのが楽なのですか」
「楽だ。だが、水が暴れる時もある」
「暴れる、ですか」
「雨が続けば川は増える。畑も家も流されることがある」
「なら、便利な場所ほど危ないのですね」
父上は、そこで少しだけベルクを見た。
「そうだ」
それだけだった。
褒めたわけではない。
笑ったわけでもない。
だが、父上はベルクの言葉を聞いていた。
それが、少し気に入らなかった。
自分でも、なぜそう思ったのか分からない。
ベルクが何か悪いことをしたわけではない。
父上が俺を叱ったわけでもない。
母上が不機嫌になるのは、いつものことだ。
それでも、ベルクが父上と話すたびに、頭の奥で小さく音が鳴った。
カチン、と。
そんな音が本当にしたわけではない。
だが、そんな感じだった。
母上は、ベルクが領地の話をすると、少し黙る。
怒るわけではない。
食卓で声を荒げるような人ではない。
ただ、ナイフを置く音が硬くなる。
笑顔が薄くなる。
俺はそれを見ると、自然と口を閉じた。
バルドも最初はそうしていた。
最初は。
「お前、剣はやらないのか」
ある日の食卓で、バルドが言った。
母上の手が止まった。
俺は皿を見た。
馬鹿。
心の中でそう思った。
ベルクは少しだけ目を瞬かせた。
「剣、ですか」
「そうだ。俺は稽古している」
「すごいですね」
「すごいぞ」
「自分で言うのですね」
「本当だからな」
バルドは笑った。
ベルクも、少し笑った。
その時点で、もう駄目だった。
バルドの頭から、母上の機嫌は消えた。
「お前もやればいい。まだ小さいけど、木剣くらいは持てるだろ」
「持てるでしょうか」
「持てなかったら、軽いやつを使えばいい」
「なるほど」
「強くなりたいか」
ベルクは少し考えた。
五歳の子どもにしては、その間が長かった。
「弱いよりは、強い方がよいと思います」
「そうだな!」
バルドは嬉しそうに頷いた。
今の答えで嬉しいのか。
俺には分からなかった。
だが、バルドには十分だったらしい。
それから、食卓の様子は少し変わった。
父上とベルクが領地の話をする。
バルドとベルクが剣の話をする。
母上は笑っている。
俺は黙って聞いている。
いや。
聞かされている。
ベルクが食卓に来る前は、こんな感じではなかった。
何かが少しずつ変わっている。
それが良いことなのか悪いことなのか、俺には分からなかった。
ただ、気に入らなかった。
それだけは分かった。
◇
弟ができた。
兄上と母上は、あまり喜んでいないらしい。
俺には、そこがよく分からなかった。
話したこともない相手を嫌うのは難しい。
剣で打ち合った相手なら分かる。
強いやつ。
弱いやつ。
すぐ泣くやつ。
泣かないやつ。
負けても向かってくるやつ。
一回打たれただけで逃げるやつ。
そういうのは分かる。
だが、話したこともない弟を嫌えと言われても困る。
母上はベルクを見ると、笑う。
でも、あれは笑っているだけだ。
嬉しい時の顔ではない。
兄上も、ベルクにはあまり話しかけない。
だから俺も、最初は話しかけなかった。
話しかけない方がいいのだと思った。
でも、ベルクが剣に興味があるなら話は別だ。
剣に興味があるやつは、悪いやつではない。
たぶん。
「ベルク」
「はい、バルド兄上」
兄上。
そう呼ばれるのは、少し変な感じがした。
悪くはない。
「剣を見たいか」
「見られるのですか」
「俺の稽古なら見られる」
「邪魔になりませんか」
「見ているだけなら邪魔にならない」
「では、見たいです」
「よし」
俺は頷いた。
兄上は少しこちらを見た。
何か言いたそうだった。
だが、何も言わなかった。
母上も、その場では何も言わなかった。
なら、いい。
たぶん。
次の日、俺は稽古場にベルクを連れて行った。
ベルクは歩くのが少し遅い。
俺が普通に歩くと、少し遅れる。
仕方ないので、少しだけゆっくり歩いた。
「ここで稽古するのですか」
「そうだ」
「広いですね」
「剣を振るからな」
「なるほど」
ベルクは稽古場を見回していた。
木剣。
丸太。
砂の地面。
端に置かれた水桶。
そんなものを、一つずつ見る。
珍しいのだろう。
俺にとっては、いつもの場所だった。
俺は木剣を取った。
子ども用ではあるが、軽すぎるものではない。
振ると、腕に重さが来る。
その重さが好きだった。
「見てろ」
「はい」
俺は木剣を振った。
上から下へ。
横へ。
踏み込んで、打つ。
木剣が空気を切る音がした。
悪くない。
今日は体がよく動く。
見られているからかもしれない。
弟に見せるのだから、変なところは見せられない。
俺は何度か素振りをしてから、丸太に打ち込んだ。
乾いた音が鳴る。
ベルクが少し目を見開いた。
「すごいですね」
「そうだろう」
「思っていたより、音が大きいです」
「力を入れてるからな」
「八歳で、こんな音が出るのですね」
「普通だろ」
「普通、ですか」
ベルクは自分の手を見た。
その顔が、少し変だった。
何かを考えている顔だ。
まただ。
父上と話している時の顔に近い。
「どうした」
「いえ。少し、考えていました」
「何を」
「この世界の人間は、思ったより強いのだなと」
「何だそれ」
「こちらの話です」
よく分からない。
だが、ベルクは俺の打ち込みを見て、本気で驚いていた。
それは少し気分がよかった。
「お前も持ってみるか」
俺は壁に立てかけてあった軽い木剣を取った。
初めて持つなら、これでいい。
そう思って渡したのだが、ベルクは木剣を見て少し固まった。
「……これで軽いのですか」
「軽い」
「なるほど。剣士の道は厳しいですね」
「まだ持ってもいないだろ」
俺が差し出すと、ベルクは少し迷ったあと、両手で木剣を受け取った。
その瞬間、木剣の先が少し下がる。
だが、落としはしなかった。
腕は細い。
足も小さい。
俺より力があるわけではない。
それでも、思ったより姿勢は崩れなかった。
「振ってみろ」
ベルクは頷いた。
木剣を持ち上げる。
そして、振った。
音は小さい。
俺の打ち込みとは比べものにならない。
だが、思ったより真っ直ぐ下りた。
「もう一回」
「はい」
もう一度。
今度は少しだけ速い。
その分、力が入ったのか、少しふらついた。
ベルクは自分でそれに気づいたらしく、足の位置を直した。
そして、もう一度振る。
さっきより、ましだった。
「お前、わりとやるじゃないか」
「そうなのですか」
「そうだ。初めてなら、もっと変になる」
「変にならなくてよかったです」
ベルクは真面目な顔でそう言った。
俺は少し笑った。
こいつは変なことを言う。
でも、木剣は思ったより扱えている。
俺の弟は、それなりに剣が使えそうだ。
そう思うと、少し胸の奥が軽くなった。
一緒に鍛えるやつができるかもしれない。
「よし。稽古をつけてやる。俺が軽く打つから、受けてみろ」
「軽く、ですか」
「軽くだ」
「少しだけ信用します」
「信用しろ」
俺は木剣を握り直した。
軽く打つ。
本当に軽くだ。
そう思って、剣を振り上げた瞬間だった。
「何をしている!」
稽古場に声が響いた。
俺の腕が止まる。
背中が、すっと冷えた。
振り返ると、ガルム・ヴォルフェンが立っていた。
老騎士。
トルガ領の軍務を預かる人で、俺に剣を教えている人でもある。
白髪交じりの髪。
傷の残る顔。
曲がっていない背筋。
立っているだけで、稽古場の空気が固くなる。
さっきまで兄貴分のつもりでいた俺は、すぐに木剣を下ろした。
「せ、先生。すみません」
声が少し裏返った。
情けない。
だが、仕方ない。
ガルム先生に稽古場で怒鳴られると、腹の中まで揺れる。
ベルクは、木剣を両手で持ったまま、きょとんとしていた。
「バルド様」
「はい」
「五歳の弟君に、足運びも、倒れ方も教えず打ち込むおつもりでしたか」
「軽くです」
「軽くでも、当たれば倒れます」
「はい」
「倒れ方を知らぬ者は、稽古で怪我をする。剣で死ぬ前に、転んで腕を折りますぞ」
「……はい」
何も言い返せなかった。
言われてみれば、その通りだった。
軽く打つつもりではあった。
だが、俺の軽いと、ベルクの軽いはたぶん違う。
俺はそこまで考えていなかった。
ベルクが、俺とガルム先生を交互に見た。
「倒れ方、というものが必要なのですか」
「必要です」
ガルム先生は、ベルクに向き直った。
声は低いが、怒っている声ではなかった。
「剣を持つ者は、打つことより先に、転ばぬ立ち方を覚えます。崩された時の身の守り方を知らぬ者は、稽古でも戦でも長くもちませぬ」
「なるほど」
ベルクは真面目に頷いた。
ガルム先生は、その反応を少しだけ見ていた。
「ベルク様は、剣を習いたいのですか」
「興味はあります」
「興味だけでは続きませぬ」
「痛いのは嫌ですが、弱いのも困ります」
ガルム先生の眉が、ほんの少し動いた。
俺はそれを見て、少しだけ驚いた。
ガルム先生は、あまり顔を動かさない。
「よろしい」
ガルム先生は短く言った。
「今日は打ち合いはなしです。バルド様は素振りを続けなさい。ベルク様は、まず木剣の持ち方と足の運びからです」
「はい」
ベルクは素直に頷いた。
俺は少し残念だった。
打ち合いをしてみたかった。
だが、ガルム先生に止められた以上、仕方ない。
俺は少しだけベルクに顔を寄せた。
「明日も来い」
小さな声で言う。
ベルクも小さな声で返した。
「来てもよいのですか」
「俺がいいと言っている」
「母上は」
そう言ってから、ベルクは少し口を閉じた。
母上。
ベルクにとっての母上は、ミラという女だったはずだ。
俺たちの母上とは違う。
たぶん、今のは言い方を間違えたのだろう。
俺は少しだけ考えた。
それから言った。
「母上が駄目と言ったら、父上に聞けばいい」
「強いですね、バルド兄上は」
「強いからな」
「そういう意味ではなかったのですが」
「なら、どういう意味だ」
「いえ。何でもありません」
ベルクは少し笑った。
俺はよく分からなかったが、悪い気はしなかった。
そのあと、ベルクはガルム先生に足の置き方を直されていた。
一度では直らない。
だが、二度、三度と言われると直る。
直したところを覚えている。
木剣の先がぶれると、自分で少し顔をしかめる。
俺は素振りをしながら、それを横目で見ていた。
やっぱり、思ったより動ける。
俺よりはまだ弱い。
それは当然だ。
だが、何もできないわけではない。
言われたことを聞く。
自分で直そうとする。
逃げない。
なら、たぶん強くなる。
弟ができるというのは、こういうことなのかもしれない。
一緒に食事をするだけでは、よく分からなかった。
でも、同じ稽古場に立つと少し分かる。
こいつとは、一緒に稽古できそうだ。
その日の食卓で、俺はベルクが木剣を持った話をした。
「ベルクは結構動けた」
母上の手が止まった。
兄上が俺を見た。
父上も、少しだけこちらを見た。
ベルクは水を飲みかけて、むせそうになっていた。
「バルド兄上」
「本当だろ」
「本当ですが、食卓で言うことではないと思います」
「本当ならいいだろ」
「そういう問題でしょうか」
「そういう問題だ」
俺がそう言うと、父上がほんの少しだけ笑った。
本当に少しだけだった。
だが、笑った。
「そうか」
父上は言った。
「動けたか」
「はい。俺よりは弱いですけど」
「そこは当然だろう」
父上が言った。
「でも、初めてにしてはよかったです。言うと直るし、逃げないし、考えます」
「考える?」
「はい。先生に言われた足の置き方を、自分で直してました」
父上は少しだけベルクを見た。
ベルクは、気まずそうに視線を逸らした。
俺は肉を食べた。
今日の肉は少し硬かった。
でも、稽古の後だったのでうまかった。
新しい弟は変なことを言う。
父上と難しい話をする。
木剣はまだ下手だ。
でも、思っていたより動けた。
言えば直す。
逃げない。
勝手に考える。
なら、たぶん強くなる。
その時の俺は、ただ、新しい稽古相手ができたと思っていた。
まさか、あいつの剣が自分に向く日が来るとは、思いもしなかった。
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