欠陥者と守護者
終はカエルの後についてアーチを潜った。石造りのスタジアムを想像していたが、そこは渦巻く銀河の真ん中に浮かぶプラットフォームだった。眼下には、巨大な光の球体が脈動している。
「あれが『ステージ』だ」カエルが手すりに寄りかかって言った。「ここからだと小さく見えるが、あの球体の中には無数の階層がある。破壊されるためだけに作られた、自己完結したマルチバースだ」
プラットフォームの周囲には、街の住人たちが何百人も集まっていた。歓声を上げているわけではない。彼らは飢えたような、切実な眼差しで戦いを見つめていた。
突然、二人の影が球体の中へと降りていった。一人はギザギザのガラスでできた翼を持つ女。もう一人は、身体が影と歯車でできているような男だった。
「見てろ」カエルが囁いた。
戦いは拳のぶつかり合いでは始まらなかった。論理の完全な崩壊から始まった。
ガラスの女が手を挙げると、終の奥歯がガタガタと震えた。球体の中で、銀河全体が自ら折りたたまれていく。彼女はただ惑星を壊しているのではない。「距離」という概念そのものを消去していた。影の男は自らの身体を解き放ち、シミュレートされた空間の中に「遍在」し始めた。彼はあらゆる場所に同時に存在し、女の存在を上書きしようとする生きた物理法則となった。
終は、シミュレーションの中の「神々」その世界の中では全能であるはずの存在が、嵐の中の火花のように消し飛ばされるのを見た。対戦者たちは次元の階層を突き破り、「時間」という概念さえも粉々に砕いていく。球体の中のマルチバース全体が、真っ黒に染まり始めた。
「最終階層だ」破壊の光を瞳に映しながら、カエルが言った。「最後の概念核を崩壊させた方が勝ちだ」
群衆からようやくざわめきが起きた。これこそが、彼らの生きがいた。広大な何かが「無」に帰す瞬間。
だが、終の額には冷たい汗が滲んでいた。彼は球体を見つめ、それから自分の手を見た。
観客たちにとって、これは究極の力の誇示だ。「全宇宙規模」の破壊だ。でも、終には……それが「軽く」見えた。まるで映画のようだった。銀河が壊れる様子はどこか演出的で、あらかじめ決められた動きに見えた。自分の部屋が消えた時に感じた、あの息苦しいほどの「厚み」がどこにもなかった。
彼は恐怖とともに気づいた。この対戦者たちが「マルチバース」を壊していても、彼らは結局、インクと紙の上で遊んでいるに過ぎない。彼らは「重い」キャラクターだが、所詮はキャラクターなのだ。
「どうした、坊主?」終の青ざめた顔に気づき、カエルが尋ねた。「刺激が強すぎたか?」
「……そうじゃないんだ」終の声が震える。
その瞬間、ガラスの女が咆哮とともに、シミュレーションの最後の一片を消し去る最後の一撃を放った。だが、何かが狂った。光の球体「ステージ」にひびが入り始めたのだ。ギザギザのノイズのような亀裂が大気を切り裂き、観客席のプラットフォームに向かって突進してきた。
島の防衛システムが悲鳴を上げ、黄金のルーンが激しく発光したが、漏れ出した「破壊」はあまりにも巨大だった。シミュレートされたはずの消滅が、現実の村へと溢れ出したのだ。
人々が悲鳴を上げた。カエルが終の肩を掴んで引き戻そうとする。「封印が解けた! 逃げるぞ!」
だが、終は動かなかった。彼は群衆に向かって さっき助けた少女に向かって飛んでいく「虚無」の奔流を見た。彼女は青い毬を落とし、立ちすくんでいた。
終は考えなかった。計画もなかった。彼はただプラットフォ ムから 歩踏み出し、迫りくる破壊の軌道上に割り込んだ。
「終、やめろ! 消されるぞ!」カエルが叫ぶ。
終は聞かなかった。彼は手を伸ばし、迫りくる「マルチバース消滅」の攻撃を素手で受け止めた。
衝突音はしなかった。爆発もなかった。攻撃の黒いノイズは、ただ……止まった。終の手に当たった瞬間、それは巨大な鉛の山にぶつかった波のように、ぺしゃんこに潰れた。マルチバースを破壊するはずの「攻撃」は、終の指先一つ動かすことすらできなかった。
終は手のひらで明滅する黒いエネルギーを見つめた。くすぐったい感覚だった。それは「薄かった」。
闘技場全体が、死んだように静まり返った。球体の中の二人の対戦者が凍りついた。カエルは終の背中を、呆然と見つめていた。
終は少しだけ首を傾け、怯える住人たちを振り返った。
「大丈夫だよ」終の声は、不気味なほど穏やかだった。「これ、君たちを傷つけるほど『本物』じゃないから」
その場に残された静寂は、息が詰まるほどだった。何百もの目が、終の親指と人差し指の間で、無害な光の粒へと押し潰されようとしている「無」の残滓に釘付けになっていた。
カエルは幽霊でも見たかのような顔をしていた。青い毬を持った少女は、消えゆくシミュレーションの火花を瞳に映しながら、終を見上げていた。彼女にとって、彼は命の恩人だ。だが他の住人たちにとって、彼は自分たちの存在の根本的なルールをぶち壊した異物だった。
終の心臓は激しく鳴っていたが、それは攻撃への恐怖からではなかった。彼らの視線が怖かったのだ。注目を浴びたかったわけじゃない。ただ……普通でいたかった。
「……僕、もう行かなきゃ」終は呟いた。
逃げ出そうとしたが、カエルの手が伸びて終の手首を掴んだ。カエルの手は震えていた。男は、虚無に触れた終の手を見つめた。そこには、かすり傷一つ付いていなかった。
「お前……何者だ?」カエルが低く、震える声で尋ねた。「今のは手品じゃない。武器も魔法も使ってない。ただ……そこに『存在』しただけで、消滅を止めたんだぞ」
終は胸の苦しさを感じながら、手を振り払った。「言っただろ。分からないんだ。僕はただ……重いんだよ」
群衆の間から、ざわめきが広がり始めた。「重い」という言葉が、ウイルスのようにプラットフォームを駆け巡る。下書きや捨てられたアイデアたちの世界において、「重い」ということは「本物」であることを意味した。そして「本物」は、このゴミ箱の中で最も危険な要素だった。
カエルが次の問いを口にする前に、黒い尖塔の頂上から、高く澄んだ鐘の音が響き渡った。銀の槌で水晶の鐘を叩いたようなその音は、瞬時に闘技場全体を静まり返らせた。
塔の頂上に、一人の人影が現れた。彼女はバルコニーに立っているのではなく、ただ空気の上に立っていた。白い砂漠の砂で織り上げたようなドレスを纏い、髪は水の中に落としたインクのように背後で揺らめいている。
「女王様だ……」誰かが囁いた。
その女性は、対戦者たちを見なかった。壊れた闘技場も見なかった。彼女の瞳広大で暗く、冷徹な知性を湛えたその瞳は、終だけを射抜いていた。
「観戦試合は終わりです」彼女の声が降ってきた。穏やかで音楽的な響きだが、山のような重圧を伴っていた。「新参者を尖塔へ連れてきなさい。自分が立っている世界よりも『本物』である少年に、私は会いたい」
カエルは青ざめた顔で終を見た。「えらいことになったぞ、坊主。俺たちが溶けちまわないように繋ぎ止めてるお方の目に留まっちまった。もしあのお方が、お前をこの島の安定を乱す脅威だと判断したら……」
終は白衣の女性を見上げた。腹の奥で奇妙な引力を感じた。初めて、「キャラクター」を見ている気がしなかった。そこにいるのは、「外側」にいることがどういう意味かを知っている誰かなのだと、本能で感じた。
「行かなきゃ」終は、カエルにというより自分自身に言い聞かせるように呟いた。「あの人なら、僕がどうしてこうなっちゃったのか、知ってるはずだ」
終はカエルの後を追い、黒い尖塔へと向かった。静かな道を行くのかと思っていたが、塔の麓に近づくにつれ、人だかりは減るどころか増えていった。
そこには何百人もの人々がいた。塔の入り口を囲むように巨大な円陣ができていたが、彼らは先ほど通り過ぎた「住人」たちとは明らかに違っていた。あの疲れ果て、色褪せた様子がない。皆、怯え、混乱し、この場所に似つかわしくない危うさを放っていた。
「あの人たち……僕と同じなの?」終が低い声で尋ねた。
カエルは群衆を見て眉をひそめた。「新参者たちだ。一斉にこれだけの数が来ることもある。大物作家が精神を病んだり、出版社が雑誌を丸ごと廃刊にしたりした時だ。集団処刑みたいなもんさ。一度にここに放り出されるんだ」
終は彼らを観察した。未来的な鎧を着た男が膝をついて泣き、ただのプラスチックの塊に変わってしまったレーザー銃を見つめていた。豪華なドレスを着た女性は、そこにはいない衛兵に向かって叫び続けていた。彼らは皆、失ったばかりの「物語」にしがみついている。
だが、人混みの中を歩きながら、終はある異変に気づいた。
彼が新参者の 人に近づくたび、その人物が急に叫ぶのをやめるのだ。彼らは身震いし、顔を背け、本能的に終から距離を置いた。まるで、彼が磁石の反発力を持っているかのようだった。終は何もしていない。ただ、彼の「重み」が周囲の空気を水のように重く変えてしまっていた。
「待て」カエルが囁き、終を止めた。「足元を見ろ」
終は視線を落とした。他の新参者たちの足元の地面は完全に平らだった。だが、終が立っている場所だけは、島の結晶の床がわずかに-- 本当にわずかだが 沈み始めていた。まだ壊れてはいない。だが、島は彼を支えるために悲鳴を上げていた。
「女王様はただお前を呼んだんじゃない」カエルが目を見開いて気づいた。「お前を見つけ出すために、あいつら全員をここに集めたんだ。この大勢の中で、消えかかっていないのはお前だけだ」
突然、巨大な黒い扉がうなりを上げた。扉は外に開くのではなく、液状のインクとなって地面を流れ出した。
入り口の闇から、「守護兵」の一団が歩み出てきた。彼らは人間には見えなかった。白い磁器で作られたマネキンのようで、顔はない。ただ、胸の中央に つの黄金の瞳が埋め込まれていた。
新参者たちがパニックに陥った。鎧の男が衛兵に向かって突進したが、衛兵の人が指を差しただけで、インクの流れが男に絡みつき、塔の中へと引きずり込んでいった。
「選別を開始する!」塔の中から声が響いた。それは女王の声ではなく、冷たく機械的な響きだった。「『真実』に耐えうる密度を持つ者のみ、入塔を許す。それ以外は砂漠へと還元される」
衛兵たちは狼のように群衆の中を動き回った。次々と人々を捕らえていく。ほとんどの新参者は、衛兵に触れられた瞬間に灰色の煙となって消えてしまった。塔の衛兵に触れられるだけの「実体」すら持っていなかったのだ。
終は立ち尽くしていた。人の衛兵が彼に向かって滑るように近づいてくる。
「終、動け!」カエルがナイフを握りしめ、低く叫んだ。
だが、終は動かなかった。見たかったのだ。「真実の衛兵」が、「行き止まりの神」を還元しようとした時、体何が起きるのかを。
衛兵は磁器の手を伸ばし、終の肩を掴んだ。その胸にある黄金の瞳が、鋭く、激しい光を放った。
守護兵の手が終の肩を掴んだ。それは普通の握力ではなかった。磁石が皮膚と融合しようとしているような感覚だ。磁器の指は冷たかったが、兵の胸にある黄金の瞳は、終のアイデンティティを剥ぎ取り、台本や役割、あるいは本の中に記された名前を探し出そうとするような光を放っていた。
この衛兵に触れられた他の新参者たちは、ただ解けていった。彼らの「存在」は衛兵の接触に耐えられるほど強くなかったため、ノイズに変わり、そして塵へと消えた。だが、その光が終に当たった瞬間、衛兵の磁器の腕が震え始めた。
黄金の瞳が点滅する。明るい黄色から、深い警告の赤へと色を変えた。
終は動かなかった。痛みは感じない。ただ、爪楊枝で山を動かそうとされているような、わずかな圧力を感じただけだった。彼は顔のないマネキンの、目があるべき場所を見つめ、奇妙な憐れみを覚えた。
「僕は、消えないよ」終は静かに言った。
次の瞬間、衛兵の腕にひびが入った。蜘蛛の巣のような亀裂が磁器の肌を駆け上がる。終を「還元」しようとしたインクのようなエネルギーが逆流し、彼の密度を貫通できずにいた。ダイヤモンドに水を注ごうとしているようなものだ。
カエルはナイフを半分抜いたまま固まっていた。数瞬前まで何十人もの人々を消し去っていたはずの、絶対的な守護兵が、終に触れているだけで文字通り崩壊していく様を目撃していた。
塔からの機械的な声が変わった。リズミカルな唸りが消え、鋭く、パニックに近い響きになった。「エラー。対象の密度が『余白』の限界を超過。選別プロセスを中断。全ユニット、特異点に集結せよ!」
他の守護兵たちが新参者たちを放り出した。彼らは一斉に振り向き、黄金の瞳を終に固定した。もはや滑るような動きではない。狂ったような、ぎこちない速さで動き出し、インクの触手を鞭のように振り回した。
「終、塔の中へ入れ!」カエルが叫び、溶けかかったインクの扉へと終を突き飛ばした。「お前を消すことはできなくても、島ごと飲み込むほどのインクで埋め尽くす気だ! 走れ!」
終は二度目の指示を待たなかった。彼は走った。一歩踏み出すたびに、世界に凹みを作っているような感覚があった。磁器の衛兵たちが必死に手を伸ばす中、その脇をすり抜ける。尖塔の境界を越えた瞬間、空気が変わった。
新参者たちの悲鳴も、衛兵たちの機械的な叫びも一瞬で消えた。彼は中に入ったのだ。
そこは建物ではなかった。壁が流動するインクででき、床が巨大な紙のシートでできた、終わりのない垂直の図書館だった。何千もの本が宙に浮き、あるものは明るく輝き、あるものは腐り落ちて崩れていた。
そして、織りなされた言葉でできた橋の真ん中に、白いドレスを着た女性が立っていた。
「遅かったわね、終」彼女は言った。恐怖の目ではない。ついにページから飛び出して、自分と同じ部屋に立ったキャラクターを見るような、そんな目で彼を見ていた。「あなたの足元で島が傾き始めていたわ。自分であなたをキャッチしに行かなきゃいけないかと心配したくらいよ」
終が足を止めると、エリは動かなかった。彼女は女神のようにも、怪物のようにも見えなかった。ただ、長い間一度も休みを取らずに働き続けてきた女性、といった風情だった。
「……誰なんだ、あんたは」終の声が、インクの壁に奇妙に反響した。「どうして僕の名前を知ってる?」
「私はエリ」彼女の声は淡々としていた。「あなたの名前を知っているのは、世界が崩壊するたびに報告書をまとめなきゃいけないのが私だからよ。普通は数滴のインクがこぼれる程度で済むんだけど……あなたは、ボトル一本分を丸ごと床にぶちまけたようなものね」
彼女は言葉で編まれた橋から降り、終の方へ歩いてきた。浮遊しているわけではない。ただ歩き、裸足が紙の床を叩く小さな音だけが響いた。終の数歩手前で立ち止まると、彼女は終を難解な数学の図形でも見るような目で見つめた。
「見てなさいな」エリは自分に言い聞かせるように呟いた。「いたるところから『現実味』が漏れ出しているわ。あなたがそこに立っている一秒ごとに、私の図書館に穴が開いていくのよ」
「……ごめん。衛兵を壊すつもりはなかったんだ。ただ、消えたくなかっただけで」
「消えようと思ったって無理よ」エリは溜息をつき、腕を組んだ。「それが問題なの。あの衛兵たちは『ソフト・データ』……つまり、役目を終えたキャラクターをリサイクルするためにいる。でも、あなたはソフトじゃない。あなたは『ハード・コード』された存在なのよ。あなたの世界が折りたたまれた時、あなたはインクに戻らなかった。固形のまま残ってしまった。あなたは、水槽に落とされた鉛の塊のようなもの。浮いているんじゃなくて、ただ底を突き破って沈んでいるだけなの」
終は浮遊する本を見渡した。「カエルは言ってた。ここはもう物語の中にいない人たちの場所だって。みんな独立してるんだって」
「カエルは楽天家なのよ」エリは、黒い液体に溶けかかっている一冊の本を目で追いながら言った。「ここは別荘地じゃない。濾過システムなの。ここにいるほとんどの住人は『下書き』だわ。軽いから、何に影響を与えることもない。でも、あなたの密度は感染するの。あの村にあなたを放置しておけば、いずれ地面が耐えきれなくなるし、あなたが触れる人たちは皆、あなたの実存の重みに押し潰されてしまうわ」
終の胃の底が冷たくなるのを感じた。「……じゃあ、僕は彼らにとって危険なんだ。そんなつもりはなくても」
「その通りよ」エリはインクの壁を指し示した。「ここのすべては『かもしれない(Maybe)』でできている。あなたの世界は『である(Is)』でできていた。あなたは、この場所が抱えきれないほどの『である』を持ち込みすぎているの。もし自分を『固定』する方法を学ばなければ……自分の現実を垂れ流すのを止めなければ、この島を壊すだけじゃ済まないわ。『余白』に穴を開けて、本物の虚無まで落ちていくことになる」
彼女は背を向け、図書館の中央へと歩き出した。そこには白い光の台座に置かれた、一冊の巨大な本があった。この部屋で唯一、動くことも腐ることもない本だ。
「おいで、終」彼女は肩越しに呼びかけた。「触れるものすべてを壊すのをやめたいなら、インクが本当はどう動いているかを知る必要があるわ。本の中のキャラクターであることと、ペンを握る側であることの違いを、ね」
終は、あまり強く踏み込まないように気をつけながら彼女の後に続いた。床は紙でできているはずなのに、足元では古びた乾いた革のように妙にしっかりとした手応えがあった。エリの背中を見つめる。彼女は女王のようには歩かなかった。やるべき仕事が山ほどあるのに、時間が全く足りない……そんな風な歩き方だった。
「……で、その本は何?」終は台座の上の巨大な本を指差した。タイトルはない。ただ白く、そして……静かだった。
エリは振り返らなかった。「重石よ。この島が何もない虚無へと流されていかないように繋ぎ止めているもの。『余白』で起きるすべての記録ね」
彼女は本の前に立ち、こちらを向いた。感心したような様子は一切ない。ただ、疲れていた。「自分は壊してばかりだって、あなたはさっきから謝ってばかりね。でも問題はあなたが怪物だからじゃないわ、終。あなたがまだ、脇役みたいに振る舞おうとしていることが問題なの。もう存在しないはずの台本を待っているのよ」
終は首の後ろをさすった。「……何かを待ってるわけじゃない。ただ、普通に戻りたいだけなんだ」
「普通なんてものはないわ」エリの声は乾いていた。「普通なんてものは、誰かが書いた嘘だったのよ。今のあなたは、下書き同然のこの場所に、『現実』を垂れ流しているだけ。見てなさい」
彼女は台座の足元を指差した。終が立っている場所から、小さな黒いインクの染みが広がり始めていた。白い床をじわじわと侵食していく。
「何もしなくても、あなたはもうこの部屋を溶かし始めている」彼女は言った。「自分の『重み』をコントロールすることを覚えないと、あなたはこの床を突き抜けて落ちていくわ。カエルも、あの女の子も、この図書館も全部道連れにしてね。私も、永遠にその穴を塞ぎ続けることはできないのよ」
終はインクの染みを見つめ、胸の奥にいつもの嫌な感覚を覚えた。「……止め方なんて分からない。自分が何なのかさえ分からないんだ」
「生き残ってしまったバグなのよ、あなたは」エリは巨大な本を開いた。ページは白紙だったが、低い振動が伝わってきた。「物語の中では、作者がルールを決める。彼らがそう言えば重力は働き、彼らがそう書けばあなたは息をする。でもここでは? そんなことは自分で決めるしかないの」
彼女は小さく、何の変哲もない木製のペンを差し出した。特別なものには見えなかった。
「床を壊したくないなら、床に『壊れるな』と命じるの。自分をこの世界に書き込みなさい。キャラクターとしてじゃなく、環境の一部として。一瞬だけでいいから、人間であることをやめて、『法則』になりなさい」
終はペンを受け取った。軽かった。あまりにも軽すぎた。「……書き方なんて知らないよ」
「なら、急いで覚えなさい」エリは一歩下がった。「島がまた三度傾いたわ。もう時間がないのよ」
終は木製のペンを握りしめたが、指先が震えていた。足元のインクの染みはさらに濃くなり、紙の床を溶かす酸のように泡立ち始めている。まるで、今にも割れそうな薄氷の上に立っているような気分だった。
「……急に『法則を書け』なんて言われても、意味が分からないよ」終の声が裏返った。
エリは答えなかった。代わりに、彼女は図書館の奥に広がる影の方を向いた。「もう出てきなさい。彼は噛みついたりしないわ。……もっとも、近くに立ちすぎれば、うっかり世界の底まで落とされてしまうかもしれないけれど」
朽ち果てた本の巨大な山の陰から、三人の影が光の中に足を踏み入れた。終は目を丸くした。自分と同じくらいの年齢に見える少年少女だったからだ。彼らには、村の住人たちのような色褪せた幽霊のような雰囲気もなければ、新参者たちのようなパニックに陥った様子もなかった。彼らは「しっかり」していた。この場所でどうやって存在し続けるかを、長い時間をかけて学んできた者のようだった。
ボロボロの軍用ジャケットを着た赤毛の少年、鋭い眼差しで重そうな革の鞄を提げた少女、そして、服が黒いインクで汚れてはいるが、まるで部活動の帰り道のような格好をしたもう一人の少年。
「……この人たちも、『新参者』なの?」終は安堵と緊張が混ざったような気持ちで尋ねた。
「まさか」エリの声はそっけなかった。「彼らは誰よりも長くここにいるわ。守護兵に触れられても消えなかった子たちよ。自分の重みを支える方法を身につけているの」
鞄を持った少女が、終の周囲に広がるインクの染みから安全な距離を保って一歩前に出た。彼女は終を頭の先から足の先まで眺め、つまらなそうに鼻を鳴らした。「で、こいつがその『特異点』? 島を傾かせてる張本人? 自分の足に躓いて転びそうなツラしてるじゃない」
「よせよ、レン」軍用ジャケットの少年が言ったが、彼もまた警戒した表情で終を観察していた。「女王様が俺たちを呼んだからには、理由があるんだろ」
エリは終と三人の若者の間に立った。彼女は終の世界が滅んだことや、彼がマルチバースを壊す攻撃を素手で受け止めたことなどは一切話さなかった。ただ、簡潔に伝えた。
「聞きなさい」エリは三人を見渡し、それから終を見た。「『余白』が不安定になっているわ。新参者の流入が多すぎて、『現実味』のレベルが限界を超えようとしている。あなたたちを島の端……『遠界』へ送るわ。尖塔の根元近くに現実の裂け目ができている。虚無が入り込む前に、それを塞いでもらわなきゃいけないの」
彼女は終を見た。「あなたも一緒に行きなさい。あなたは『壊さずに動く方法』を学ぶ必要があるし、彼らには『高圧地帯でも溶けずに立っていられる存在』が必要なの。……社会科見学だと思って」
陸上部員のような少年が力なく笑った。「現実の穴へ社会科見学? 最高だね。……僕はハル。よろしく。心配しないで、僕らは奈落に落ちないことに関してはプロだからさ」
終は手の中のペンを見つめ、それから三人の見知らぬ同年代の若者を見た。初めて、自分はただの「怪物」でも「被害者」でもなかった。チームの一員になったのだ。
「……何も壊さないように、気をつけるよ」終は小さく言った。
「気をつける、じゃなくて『絶対に壊さない』のよ」少女――レンは背を向け、先導しながら言った。「あんたが落ちる時は、私たちも道連れなんだから」
四人が尖塔の外へ出ると、島の冷たい空気が終の顔を叩いた。図書館の濃縮されたインクから離れたせいか、足元の地面は先ほどよりは安定しているように感じられたが、それでも終は卵の殻の上を歩くような足取りだった。
ハルは踵を鳴らすようにして歩きながら、光る懐中時計を確認した。「なあ、『遠界』へ行く前に少し時間に余裕があるだろ。闘技場に寄っていこうぜ。第2レベルの試合が始まるらしいんだ。C級の『破壊者』たちの対戦だよ」
軍服の少年、レオが眉をひそめた。「ハル、俺たちには仕事があるんだぞ」
「通り道だよ!」ハルは言い返し、終に向かってニヤリと笑った。「それに、新人もこの場所での『力』ってやつを見ておいた方がいい。自分の影に怯えるのをやめるためにもな」
レンは鞄を直し、巨大な闘技場のドームが光を放っている地平線を見つめた。「C級の試合? ということは、今回のサンドボックスは『複合マルチバース級』ね。あのシミュレーションの構造は、ナビゲートするだけでも悪夢だって言われてるわ」
終は首を傾げ、話についていこうとした。「複合マルチバース? さっきの試合を見たけど……ガラスの翼の。あれとは違うの?」
「あれはウォーミングアップ、ただの見せ物よ」レンの声は分析的だった。「第2レベルの試合では、銀河を吹き飛ばす以上のことが求められる。対戦者は『根源』を消去しなきゃいけないの。シミュレーションは存在と非存在の階層で構築されていて、その根源は『無』という概念のさらに向こう側に隠されているわ。根源を見つけて削除できなければ、マルチバースは勝手に書き換えられ続ける。ただの力押しじゃない、論理の戦いよ」
「実行中のファイルを開いたまま削除しようとするようなもんさ」ハルがスタジアムの轟音に向かって歩きながら付け加えた。「一行でもコードを書き漏らせば、すべてが再起動しちゃう。かなり派手だぜ」
彼らは観客席の端にたどり着いた。村のプラットフォームとは違い、このエリアは現実の漏出を防ぐために重厚な光のルーンで補強されていた。球体の中の「サンドボックス」は現在、何十億もの宇宙がトランプの束のように積み重なった、無限の色と数式が渦巻く目も眩むような光景だった。
二人の対戦者はすでに激突していた。一人は純粋な白光でできた存在、もう一人は「死んだ星」で作られたような鎧を纏った巨人だった。彼らが打ち合うたびに「サンドボックス」は震え、シミュレートされた何千もの文明が一瞬で消え去った。
終は目を見開いてそれを見つめた。鎧の巨人が槍を球体の中央に突き立て、概念的な「無」を貫いて隠された根源を探し出そうとしているのが見えた。その衝撃で闘技場全体がガタガタと音を立てた。
「見たか?」ハルが手すりに身を乗り出して囁いた。「あの男は、あのマルチバースの『始まり』という概念そのものを消そうとしてるんだ。根源を叩けば、シミュレーション全体が白紙に戻る」
終はその壮大な破壊の光景を見つめた。群衆にとって、それは恐怖だった。対戦者にとって、それは存在の頂点だった。だが、存在と非存在のすべてを消し去るはずの巨人を凝視しながら、終はまたあの奇妙で空虚な感覚を覚えた。
彼は木製のペンを握る自分の手を見た。あの巨人の槍は、どれほど「複合的」であろうとも、自分の肺にある空気の、どっしりとした重さに比べれば、芯の丸くなった鉛筆で描かれた絵のように見えてしまった。
「……いつも、こんなにうるさいの?」終が静かに尋ねた。
「破壊ってのは、大抵そういうもんだ」レオが試合から目を離さずに答えた。「どうした? 怖いか?」
終はゆっくりと首を横に振った。「ううん。ただ……そこにない壁に向かって、叫んでいるみたいに見えるんだ」
レンは手すりに身を寄せ、鎧の巨人がまた攻撃を外すのを見つめた。本来なら命中しているはずの「虚空」を、槍が虚しく通り抜けていく。
「その通りよ」レンの声は、聞き飽きた数学の難問を解説する教師のような響きだった。「目では見えない。心で感知することさえできないわ。だって『根源』は『物』じゃないから。それは一連の指示書なの。『ここには無が存在する』というコードそのものなのよ」
「じゃあ、どうやって当てるの?」終は身を乗り出して尋ねた。
「概念論理を使うんだ」レオが、深く落ち着いた声で答えた。「彼らは人物や惑星を狙っているわけじゃない。その惑星が存在する『理由』を狙っている。あの巨人はただ槍を振っているんじゃない。数学的な矛盾を証明しようとしているんだ。シミュレーションに対して、『根源は存在するべきではない』という事実を認めさせようとしている。論理が十分に強ければ、根源は一瞬だけ実体化せざるを得なくなる。そこを消去するんだ」
ハルが白い光の対戦者を指差した。「あいつを見てな。動いてさえいないだろ。『観測』してるんだよ。巨人が論理的なミスを犯すのを待ってる。C級の試合じゃ、『ゼロ』も一つの数字だってことを一瞬でも忘れれば、たった今破壊したはずのマルチバースが全部自分の頭の上に跳ね返ってくるんだぜ」
終は再び試合を見た。それは幽霊たちのダンスのように見えた。彼らはそこにないものを奪い合い、アイデアでできた武器を振るっていた。
「……疲れそうだね」終がぽつりと呟いた。
「そうよ」レンが終に視線を向けた。「だから大抵の奴らはC級のままなの。何十億という宇宙を壊せても、『真のゼロ』にぶつかると止まってしまう。彼らはまだ、キャラクターのように思考しているから。概念を斬るために、まだ剣が必要だと思い込んでいるのよ」
彼女は闘技場に視線を戻し、少し苦い表情を浮かべた。「ここの連中は、数千年かけて『無の向こう側』に到達する方法を学ぶわ。……それなのに、あなたはただそこに立っているだけで、彼らが探している根源よりもずっと『確か』なんだものね」
終は答えなかった。ただ、巨大な鎧の巨人を見つめた。巨人はシミュレートされた星々を震わせる咆哮を上げた。純粋で、必死な力の叫び。けれど終には、それが「薄く」聞こえた。分厚いガラスの向こう側から誰かが叫んでいるような、そんな響き。
「根源がただのルールなら……」終は手の中の木製のペンを見つめた。「壊すんじゃなくて……書き換えることはできないの?」
ハルは笑った。でも、それは馬鹿にした笑いではなかった。「書き換える? 新人くん、それは『作者』レベルの話だよ。C級はただのハンマーだ。物を壊すことしかできない。根源を書き換えようなんて思ったら、シミュレーションそのものよりも『本物』じゃなきゃいけないんだから」
ハルは言葉を切り、終の足元にまた広がり始めたインクの染みを見て、ゆっくりと笑顔を消した。彼は唾を飲み込んだ。
「……ま、とりあえず先へ行こうぜ。試合もマンネリ化してきたしな」




