先輩にはみじめな翼が生えている
1、翼を落とした僕ら
一万年前まで、僕たち人間は空を飛ぶことができたといわれている。
飛べなくなった理由については諸説あるが、現在の主流は不要退化説だ。歴史や保健の教科書にもそう載っている。つまり僕ら人間は、ダチョウやペンギンやヤンバルクイナと同じで、進化の過程で飛翔能力を失っていったのだ。
ダチョウが地を駆けることを選んだように、ペンギンが水中での狩りを選んだように、僕たち人間は、翼を捨てて道具を手に取った。
一万年前、いわゆる氷河期が終わり、温暖期に入ったというのも大きいだろう。
僕らは空を飛ぶことで狩りをしたり天敵から逃れていたらしいが、温かくなってからは木の実や山菜を容易に手に入れることができるようになった。狩猟や漁業も手軽なものになり、余った時間でせっせと槍や弓なんかを拵え、熊や狼を追い払えるようになった。
空を飛ばずとも、人は暮らしていけるようになった。
忙しい狩猟採集生活の中で、人はやがて空の飛び方を忘れていった。
人の身体は地上での生活に適した、大きく重たいものになり、背中を覆うほどの翼があっても、持ちあげることができなくなった。やがて羽ばたくことはおろか動かすこともできなくなり、世代を重ねるごとに翼は縮こまっていった。
人が空を飛んでいた時代は、遥か彼方の昔の出来事。現代人の僕らにとって、神話やおとぎ話と変わりない。しかし面倒なことに、僕らにはかつて空を飛んでいた時代の名残がある。
僕ら現代人にも、まだ翼は生えている。それは、翼とはとても呼べない、醜く厄介な代物だ。ペンギンやダチョウのように、まだ生活の役にたっているならいい。けれど僕たちに残された翼の名残りは、身体を温めるとか、運動機能を補助しているとか、そういう役割をなにひとつ持っていない。一見すると翼というよりは手のように見えるそれは、肩甲骨の下のあたりに、だらしなくぶら下がっている。脆い骨と薄い皮、わずかな被毛で構成された、痕跡器官とも呼べないなれの果て。
僕ら現代人は、生まれてすぐにこの翼を切り落としてしまう
あっても邪魔になるばかりだからだ。洗うのが面倒だし、シャツを着るときに厄介だし、仰向けに寝ると潰れて痛い(動かすこともできないのに、痛覚だけは通っているのだ)。
だから僕ら現代人は、産声をあげた五分後には翼を切り落とされている。
赤子の手のひらほどしかない翼はペンチで簡単に落とすことができる。出血もわずかで、かさぶたさえほとんどできない。そして一度切り落としてしまえば、もう二度と生えてくることはない。
だからふつうの人は、背中に翼を持っていない。
日本のような先進国のみならず、出産のために行く病院のない発展途上国にあっても、翼の生えた人間はいない。
生まれた直後に翼を切りおとす。これは飛行能力を失った後、世界中の人びとが共通して持つようになった生活の知恵であった。
だから翼を持ったまま成長していくというのは、ふつうのことではなかった。
2、翼を落とされなかった先輩
狩りのない日、トラの散歩をするのは僕の役目だった。
トラは猟師をしているじいちゃんの相棒で、三日に一度は狩りに出掛ける。標的は主に野鴨と山鳥で、トラの役目は鳥を探すことと、落とした野鳥を拾いにいくことだった。
トラは優秀な猟犬で、本当は秋田の山奥なんかで、熊や猪を相手に取ることだってできたのに、貰われた先が大型の獣がいない辺鄙な島の猟師の家であったために、小さな鳥の相手ばかりさせられている。それでも不満を見せるようなことはなく、トラは己の仕事に懸命に取り組んでいる。立派な犬だ。日々をなんとなく生きている僕なんかとはちがって。
そんなトラの散歩の途中で、僕はトキを殺す先輩の姿を目撃した。
それは秋風の心地よい夕方だった。
日が落ちるのもすっかり早くなり、散歩に出たときには空は赤く燃え上がっていた。
トラの赤い虎毛も、夕焼けを受けて赤く輝いている。白いワイシャツを着た僕も、遠目にみればきっと、赤く染まっていることだろう。
トラに引っ張られるような形で、僕は畔道を進んでいく。トラは畔道が好きだ。それも自分の家の畔道をきちんと選んでいる。他所の畑や畔には決して入らない。畔を犬の散歩道にしたところで怒るような人はうちの周りにはいないが、トラは律儀に、自分の縄張りを守っている。
カエルと鈴虫の合唱が響き、数多のトンボが忙しなく行き交う田んぼを横目に、トラはいつも通り、気晴らしというよりは義務感に苛まれているかのような固い足取りで畦道を進んでいく。
「どうした?」
ふいにトラが立ち止まった。ピンと耳を立て、なにかを一心に見つめている。
トラの視線は畦道を一本挟んだ先にある、他より一段低い畑に向けられている。
夕日を背に、田んぼの中でなにかが動く。細く長いシルエット。わずかに広がった翼。トキだろうか?
トラが短く吠え、駆けだす。僕も後を追う。
近づいてみるとそこには、たしかに一匹のトキがいた。
「先輩?」
けれど僕が見た影はトキではなかった。
稲刈りを終えたばかりの、むき出しになった田んぼに佇んでいたのは、人間だった。
背が高く痩せていて、きれいな顔立ちをしていて、背中に翼が生えている、学校で一番の有名人の先輩だった。
「なにしてるんですか?」
先輩の足元には、一羽のトキが横たわっていた。
トキは半分だけ開いた翼をかすかに揺らしていたが、自力で動かしているのではなく、ただ風に煽られているだけのようだった。
「先輩」
僕の呼びかけに、先輩は応じない。
先輩は僕と同じで学校の制服姿のままだったが、僕と同じように白いシャツを夕日に染めてはいなかった。
夕日を背に立つ先輩は、ただ黒かった。
表情はまったくわからない。細身のシルエットだけが、夕日の赤に縁どられている。背中に生えた翼は、輪郭だけになっても、小さく惨めで、醜かった。
「トラ」
先輩は僕の足元を指さして、厳しい声で言った。
「トラ、静かに」
僕はそこでようやく、トラが激しく吠えたてていることに気が付いた。
「トラ、やめろ」
僕はリードを引いたが、トラは黙らない。
「これはウチの獲物だよ」
先輩は倒れていたトキの首をつかみ、持ち上げる。
大きなトキだった。翼長だけでも一メートル近くあるように見える。嘴と足も体格に見合っただけの、太く立派なものだった。
けれどトキは細身の先輩に軽々と持ち上げられている。
「死んでるんですか?」
夕日を受けて薄い朱色に輝くトキは、ぐったりとして動かない。よくみると右足をなにかに挟まれている。
「今日はトラの散歩の日じゃないだろ」
先輩は僕の質問には答えず、言った。
「トラの狩場を荒らさないよう配慮してやったのに、台無しだ」
「米の時期は忙しいから、あんまり狩りにいけないんですよ」
「だからか。飢えているところを刺激されて、たまったもんじゃなかったな」
悪かったよ、と先輩はトラに謝った。
「狩りがなくても飯は食ってますよ。そもそもトラの好物は市販のドッグフードですし、獲物を咥えるのは好きですけど、肉とか臓腑をあげても食わないってじいちゃん言ってます」
「適応してるな」
先輩は力なく笑った。羨ましがっているようで、寂しがってもいるような笑いだった。
「それでそのトキはどうしたんですか?」
「翼の足しだよ」
「翼?」
「そう。こいつの羽根をさ、ウチの身体に移植するんだ」
「移植してどうするんです」
「決まってるだろ。空を飛ぶんだ」
先輩が答えるのと同時に、ひときわ強い風が吹く。
トキの翼と先輩の翼が同時にはためき、広がる。トキの翼は先輩をすっかり覆えてしまうくらい大きい。一方で先輩自身の翼は、壊れた折りたたみ傘のように小さく惨めだ。
「本気だったんですね」
「本気じゃないことをわざわざ口に出したりしない」
先輩が空を飛ぼうとしていることは、僕はもうずいぶん前から知っていた。
けれどそれが本気だとは信じていなかった。
だってそうだろう?あんな惨めな出来損ないの翼で、どうやって空を飛ぼうというのだ。
3、先輩と僕
先輩は僕の通う高校で一番の有名人だった。
スタイルが良くて美人だから、というのが理由ではない。いくら美人でも、そこが狭い島の小さな学校であっても、全校生徒が揃えて「学校一番の有名人」といってその人を指さすのは異常なことだ。
そう、先輩は異常だった。
なにしろ背中に翼が生えているのだから。
もちろん翼が生えていること自体は異常ではない。人はかつて空を飛ぶ生き物だった。僕ら現代人もその名残として、生まれたときには誰しも翼が生えている。
けれどその翼には神経が通っておらず、わずかにも動かすことはできない。腫瘍のようなものだ。わずかな血管が通るだけの、骨と皮の塊。日常生活で邪魔になることはあっても必要になることは決してない。
だからふつうは生まれてすぐに切り落とされる。まだ産声をあげているうちに、ペンチでぱちんと落としてしまう。
しかし先輩の翼は落とされなかった。
先輩自身はその理由を語らなかったが、察しはつく。つまり先輩は、正規の方法で産んでもらえなかったのだ。
産院に入って、資格を持った医師の手でとりあげられたわけではない。
おそらく先輩は母親ひとりの力で産み落とされ、適切な処置を受けないまま新生児期を過ごすことになった。
そうでもなければ、翼が落とされないなんてことはありえない。正しい知識を備えた医師でなくても、子供の翼を落とすことは誰もが知る常識だ。人の子が乳を飲んで育つのと同じくらい、当たり前のこととして知られている。けれど先輩の母親はそれを行わなかった。
手芸用のハサミでも簡単に落とせる赤子の翼を落とさずに放置した。
先輩の出自については謎が多い。
狭い島なのに、先輩がこの島で生まれたのか、本土から引き取られてきたのか、それさえもはっきりしない。
先輩は公営住宅の一室で、一人暮らしをしている。中学までは年老いたお婆さんと一緒に暮らしていたらしいが、お婆さんはいつの間にかいなくなっていて、いまでは先輩の一人暮らしということだった。
お婆さんと先輩に血縁関係があったのかもわからない。
いろいろな噂があるが、たしかなのは、先輩がまっとうな生まれではない、ということだけだった。
先輩のように、新生児期に翼が落とされなかった人は、日本に数人、世界中でみれば数千人はいるらしい。
翼を落とされないまま大きくなってしまった人びとは、等しく全員、心疾患を抱えている。
翼はただ邪魔だから切り落とされるのではない。身体に害をなすから落とされるのだ。
退化した翼は、生まれてすぐはただの無害な腫瘍でも、成長と共に身体を蝕んでいく。歪に
伸びた骨が心臓や肺に絡みつき、圧迫する。重要な血管を傷つけたり、炎症を誘発したりする。
手術でとりのぞこうと思っても、翼がある程度の大きさになると、それも難しくなる。身体の内側に深く複雑に食い込んだ翼は、現代医療では完全に取り除くことはできない。つい最近も十代に入ってから除去手術に挑んだ少年が術後ひと月で死亡したというニュースがあった。
最低でも生後一年以内に除去されなければ、後遺症なく翼を落とすことはできない。
翼を落とされないまま育った哀れな人びとは世界中から同情されているが、日本を含むほとんどの国は、二十四か月齢以降の翼の除去を禁じている。
翼を落とされないまま大きくなった人たちは、なんの役にも立たない翼と、翼に蝕まれる脆弱な身体を抱えて、生涯を過ごさなければならない。
制約の多い、不自由な人生を。
先輩が有名なのは、翼を落とされなかった可哀そうな子どもだからだ。
人並み外れて美しい容姿をしている、というのも、同情に拍車をかけているだろう。
愛嬌はない。いつもつまらなそうな顔をしていて、髪も制服も無頓着に乱れている。それでも先輩はきれいだった。背が高くて、肌が白くて、首が長い。黒目がちな瞳は色が薄く、太陽の下では鶯色に見えた。
長年農家をやっていた、じいちゃんの瞳と同じ色だ。日に焼けて色の失せた、農夫の瞳。まだ十七歳で、畑仕事をしているわけでもない先輩の瞳の色がなぜ鶯色なのか、その理由は僕にはわからない。
とにかく先輩は美人だ。おまけに背中に翼が生えている。壊れた折りたたみ傘と形容するのがぴったりな、惨めな翼が。
そんな先輩を周囲が放っておくはずはない。先輩に言い寄る人間が途絶えることはなく、国内外からひっきりなしに取材の依頼があった。スカウトは芸能事務所だけでなく宗教団体や犯罪組織からもあるという。盗撮された画像や動画はSNSで定期的にバズっている。
けれど当の本人はそれらすべてを無視していた。
同情的にすり寄られようが、冷やかされようが、侮辱されようが、一切を反応することなく、ただ沈黙していた。
*
「煩わしくはないんですか?」
どこかの宗教団体に拉致されそうになる、という大騒動があった数時間後、いつも通り平然と部室にやってきた先輩に、僕は訊ねた。
「慣れっことはいえ、いい加減うんざりしません?」
「うんざりしてるよ」
先輩は涼しい顔で答えた。部室に置かれたトキの観察記録をパラパラとめくりながら。
「いっそなにか大きな組織の庇護下に入った方がいいんじゃないですか?」
「なにか大きな組織ってなんだよ」
「国に保護してもらうとか、金持ちの養子になるとか、そういう誘い、いくらでもあると思うんですけど」
「ないことはないな」
「正直はやいとこ島を出たほうがいいと思いますよ。都会に出れば、すこしは目立たなくなるんじゃないですか」
「どこにいったって同じだよ。こんな醜いモンぶら下げてるやつ、どこにいたって目立つに決まってる」
先輩は翼の間に手を回し、ぼりぼりとかきむしった。
特注の制服には翼を通すための穴が開いている。翼は服の下に隠しておくと摩擦で炎症を起こすそうだ。悪化して擦過傷になると、そこから酷い膿と悪臭が出るらしい。
先輩は自身の翼を嫌っていた。憎んでいたといってもいい。どれだけ容姿が優れていようが、翼が生えている自分をこの世で最も醜いと感じているようだった。
僕はそんな先輩を、可哀そうだ、と思う。
ひとつ年上の先輩のことは、小学生のころから知っていた。狭い島だし、先輩は有名人だったから。
けれどこうして先輩と関りを持つようになったのは、高校に入ってからだった。
僕と先輩は同じ「野鳥研究会」という部活動に所属している。
部員は僕と先輩の二人だけだ。入学当初は先輩目当てにもうすこし人がいたが、肝心の先輩がろくに顔を出さなかったので、すぐに幽霊部員になってしまった。いまでは週に二回の活動日、部室とは名ばかりの図書準備室に通うのは僕だけになっていた。
だが、なぜか、僕が一人になったとたん、先輩は部活に顔を出すようになった。
先輩は鳥の図鑑を眺めながら、僕にいろいろ話かけてきた。愛想のかけらもないぶっきらぼうな態度に、僕ははじめ委縮していた。
先輩はいつも怒っているようなしゃべり方をしていたから。けれどやがて、それが先輩にとってふつうのしゃべり方なのだとわかるようになると、僕はリラックスして先輩としゃべることができるようになった。
先輩の話はほとんど愚痴だった。翼がわずらわしい、人目がうっとうしい、米が高い、自転車がパンクした、布団のダニがひどい。先輩はそういった文句をいつまでもしゃべり続けることができた。
僕は先輩のことを、大変な人だな、と思っていた。
なんとなく気楽に毎日を生きていて、それで十分満たされている僕とはまるで別の世界を生きている、可哀そうな先輩。
僕はそんな先輩の力になりたいと、いつからか思うようになっていた。
だから先輩が空を飛びたいといったとき、僕はよくわからないまま、手伝えることがあったら手伝いますよ、と約束してしまった。
そして一度口にしてしまったからには、撤回することはできない。
先輩が特別天然記念物であるトキを捕まえようと、捕らえたトキを使って翼を作ろうと、僕にはそれを咎めることはできなかった。
4、僕らは鳥にはなれない
「空を飛んで、それでどうするんですか」
僕の家の裏で、薄闇の中、せっせとトキの羽根を毟る先輩に、僕は訊ねた。
「どっかに行くんだよ」
「どっかって?」
「どっかはどっかだよ」
先輩は答えるのが面倒になるとよくおうむ返しをする。
僕は仕方なく質問を変えた。
「羽根を毟って、それでどうするんですか」
「補強用の骨格はもうできてるんだ。でも前のやつはずいぶん暴れて、羽毛はほとんどだめになっちまったから、こうして追加をとってるんだ」
「翼を作ってるんですか」
「ウチの出来損ないじゃ飛べないからな」
「つまり、作った翼で先輩の翼を補強して、空を飛ぶ、と?」
「そうだよ」
やっぱり意味がわからない。
そう思ったけど、口には出さなかった。
僕は家族やトラが覗きに来ないよう見張りに立って、先輩が羽根を毟る姿をぼんやりと見下ろしていた。
「先輩は自分の翼が嫌いなんだと思ってました」
「嫌いだよ」
先輩は僕に背を向けたまま、作業の手を止めないまま、答えた。
「落とせるならいますぐに落としたい」
「落としたら死にますよ」
「わかってるよ。だから落さずに我慢してんだろ」
「それなのにどうして飛ぼうとしてるんですか?」
「落とせないから飛ぶんだよ」
先輩は作業の手をとめ、背をすこし丸めた。
ぎい、と立て付けの悪い戸が軋むような音を立てて、先輩の羽根は動いた。
僕は驚き、ええっ、とまぬけな声をあげてしまう。
「それ、動かせたんですか?」
「動かせなきゃ飛べないだろ」
「でも、翼は動かせないって……」
「お前も十七年翼を背負えばわかる。昔の人間は動かせたんだ、努力すれば動かせるようになる」
ぎいぎいとぎこちなく揺れる翼は、みるからに痛ましかった。
そして実際に、先輩はひどい苦痛を感じているようだった。
「大丈夫ですか。やめておいた方がいいんじゃないんですか」
「うるせえよ。放っておけ」
「そんなんで空なんか飛べるはずないですよ」
僕は先輩が飛び立つ姿を想像しようとしたが、うまくいかなかった。
空を飛べるくらい大きな翼は、先輩の華奢な身体には不釣り合いだった。
痛みを堪えながら羽ばたく先輩の姿は、いまよりずっと惨めに思えた。
「飛べたってほんの数メートルです。どっかになんて行けません。この島を出ることだってできやしませんよ」
「じゃあどうすればいいんだよ」
先輩は翼を動かすのをやめた。
その声はかすれ、肩は震えていた。
翼を動かして疲れただけなのか、それとも泣いているのか、僕には判断がつかなかった。
かといって確かめる勇気もなかった。華奢な先輩を力づくで振り向かせることなんて、簡単にできたのに。
「こんなみっともないもの、これ以上晒していられない。落とせないなら本来の役目をはたしてもらうしかないだろ」
空を飛びたいという先輩の願いは、僕が思っていたよりずっと切実なものだった。
そういえば先輩は高校三年生だが、進路の話をこれまで一度として口にしたことはなかった。
進学にしろ、就職にしろ、先輩はやはり、ふつうにはいかないだろう。
翼に邪魔をされて、多くの苦労をしなければならないのだろう。
僕は先輩に同情した。
心から可哀そうだと思った。
この人を助けたいと思った。
空を飛ぶなんて馬鹿げた夢以外の方法で。
「じゃあ、僕が落としますよ」
「なにを?」
「先輩の翼を」
先輩は僕の方を振り向いた。
その目に涙はなかったが、縁はほんのり赤くなっていた。
「ウチのこと殺す気?」
「いや、死なせるつもりはありません。殺さないように翼を落とす方法を考えます」
「できるわけない」
「わかんないですよ。僕のじいちゃん猟師なんで、鳥とか詳しいんで、先輩の翼だってきっとうまいこと落とせますよ」
「世界中の誰にもできなかったことがお前のじいちゃんにならできるってか」
「いや、じいちゃんにはできないと思いますけど、僕はできるかもしれません」
「は?」
「だからその、僕がやるんです。じいちゃんに教わって、鳥の解体覚えて、先輩の翼を落とします」
先輩は僕をじっと見つめた。
薄闇の中、いつもはうるさいくらいの蛙の合唱と鈴虫の鳴き声が、今日はどうしてか聞こえない。
どくっ、どくっ、どくんっと、僕の心臓が早鐘を打つ音だけが、やかましく響いている。
先輩は翼を役に立てるか落としてしまうかしないとおさまりがつかないのだ。どこに行くことも、ここに居続けることもできないのだ。
だったら一人で痛みをこらえて飛ぶよりも、僕に任せてくれた方が、ずっと楽なはずだ。
もし失敗しても、全部僕のせいにしてしまえばいい。
「翼はもう完成する。こいつを移植すれば、ウチは明日にでも飛び立てるんだよ」
先輩は毟った羽根をかき集めて、両手いっぱいに抱えた。
「お前がウチの翼を落とせるようになるまで何年かかるんだよ。その間ずっと待ってることなんてできねえよ」
「別に待ってなくてもいいですよ」
僕は先輩が拾い残した羽根を手に取った。
「飛びたきゃ飛んでください。でもきっと飛ぶのって先輩が思うよりいいもんじゃないですよ。寒いし、疲れますよ。トキと同じ時速六十キロで飛んだって、本土まで一時間もかかります。先輩体力ないから、一時間も飛べずに海に墜落しますよ」
「そのくらい飛べる」
「先輩一キロも走れないじゃないですか。ビート板ないと泳げないし」
先輩は舌打ちをしてそっぽを向いた。
図星なのだ。飛ぶことだけしか考えていない。飛んだあとどうなるか、考えようとしていないのだ。
現実的に考えて、もし本当に飛べたとしても、飛び続けるだけの体力が先輩にはない。
歪に食い込んだ翼のせいで、先輩の身体は弱い。翼の骨が絡みついた心臓と肺はすこしの運動で悲鳴をあげる。圧迫された胃はすこしの食事しか受け付けない。体力がないうえにすぐエネルギー切れを起こす先輩の身体では、ニワトリ程度にしか飛ぶことはできないだろう。
「それに、飛べるようになったら今まで以上に目立って、四六時中野次馬に追われることになりますよ」
「飛べないまま追われるよりましだ」
「すぐにくたびれますよ。今まで以上にうんざりして、僕の言う通りにしてればよかったって思いますよ」
先輩は僕を睨む。
両手いっぱいに羽毛を抱える姿が子供っぽいせいか、迫力はまったくない。
僕はもう、先輩を可哀そうだとは思わなかった。
「だから、うんざりしたら、僕のところに戻ってきてください」
僕は拾った羽根を先輩に差し出した。
「それまでに腕を磨いておきますから。先輩の翼、しっかり落とします。後遺症なんてなんにも残らないくらい、ほんのちょっとの痕も残らないくらい、きれいさっぱり落としてみせます」
先輩は黙ったまま歩きだした。地団太を踏むような足取りで。
僕は差し出した羽根を無理やり先輩の手に握らせた。
「僕、本気ですからね」
暗い畦道を去ってく先輩の背中に、僕は声をかけた。
先輩は立ち止まらなかった。
僕も追いかけることはしなかった。
心臓はいまだ早鐘を打ち続けている。頭の中ではそれに合わせて火花が散っている。
いますぐ家に帰って頭から布団をかぶりたい。
けれど我慢しなければならない。
僕がいまなによりもやるべきことは、すっかり禿げ上がった哀れなトキの死骸を、どこかに埋めてしまうことなのだから。
5、飛んでいった先輩
先輩は翌日から学校にこなくなった。
行方不明になった、自主退学した、男と駆け落ちした、など、さまざまな噂が流れたが、本当のところは誰にもわからなかった。
先輩は飛行に成功したのだろうか。
無事本土にたどり着いて、出来損ないではない本物の翼を持った人間として、たくましく生きているのだろうか。
それとも海に墜落しただろうか。
ろくに飛べないままどこかで苦しんでいるのだろうか。
僕にはなにもわからない。
先輩はたくさんの痛みを僕に吐き出したが、僕は結局なにひとつ理解することはできなかった。
ただ先輩を大変な人だな、と思い、可哀そうな人だな、と思っただけだった。
それでも約束は約束だ。僕はあれからじいちゃんと一緒に猟に出るようになり、鳥の落とし方と捌き方を学んでいる。
まだ半人前とも呼べない腕前なので、正直いま先輩に戻ってこられては困る。先輩には悪いが、もう少し耐えてほしい。必ず約束は果たすから、もう少しだけ一人でがんばってほしい。
けれどいつかは必ず僕のもとに戻ってきてほしい。
僕に先輩を助けさせてほしい。
僕はそう願いながら、今日も鳥を落としている。




