第9話 残された経路
記憶市場を離れたあとも、
遥の胸には、いくつもの視線が残っていました。
これは、逃げ切ったはずの場所から、
もう一度「つながってしまう」話です。
市場を離れてから、
どれくらい歩いたのか分からない。
白い通路はいつの間にか終わり、
無機質な光は背後に置き去りになっていた。
今いるのは、
人の生活とシステムの境目みたいな場所だった。
古い高架の下。
通信ケーブルがむき出しになり、
ところどころでランプが瞬いている。
「……ここ、安全なの?」
遥が小さく聞くと、
彼方は一度だけ立ち止まった。
「安全じゃない」
「でも、切られてもいない」
その言い方が、
少し引っかかった。
「切られてない?」
「うん。
市場から完全に遮断された経路なら、
ここには来られない」
彼方は、
天井を走るケーブルを見上げる。
「誰かが、残してる」
「……誰かって」
答えはなかった。
代わりに、
遥の端末が、また震えた。
一度。
二度。
今度は警告文じゃない。
《非公式リンクを検出》
《接続安定率:低》
「……また?」
遥は思わず端末を握りしめる。
「無視してもいい」
彼方は言った。
「でも――」
「でも?」
「これは、
すずに近い」
その一言で、
足が止まった。
胸の奥が、
きゅっと音を立てる。
「……近いって、どういう」
答えを聞く前に、
画面が切り替わった。
音声ログ。
短く、欠けた波形。
――ピィ……
かすれた音。
鈴の音とは言い切れない、
でも、確かに覚えのある響き。
「……すず」
声に出した瞬間、
ログが途切れた。
静寂。
遥は、
息を止めたまま端末を見つめる。
「今のは――」
「残響だよ」
彼方が言う。
「完全な記憶じゃない。
でも、消えきってもいない」
「じゃあ……」
「誰かが、
意図的に経路を残してる」
遥は、
ハクの顔を思い出した。
市場の外の人間。
でも、
外にいられる人間じゃない。
「……ハク、なの?」
彼方は、
少しだけ間を置いた。
「可能性は高い」
それを聞いて、
なぜか安心よりも、
重さが残った。
「守ってくれてるってこと?」
「それだけじゃない」
彼方は、
遥を見る。
「残すってことは、
いずれ辿り着くってことだ」
遥は、
端末を胸に引き寄せた。
怖くないと言えば、
嘘になる。
でも。
「……行こう」
自然に、
そう言っていた。
「このまま知らないままより、
ちゃんと見たい」
彼方は、
小さくうなずいた。
「じゃあ、次は――」
言いかけて、
言葉を止める。
彼方の視線が、
遥の背後に向いた。
「……誰かいる?」
「いや」
「でも、
見られてる」
振り返っても、
誰もいない。
ただ、
暗がりの奥で、
小さなランプが一つ、
遅れて点滅した。
それは、
市場の色だった。
遥は、
はっきりと分かった。
まだ終わっていない。
すずの記憶は、
探されている。
そして同時に――
こちらも、探されている。
市場を離れても、
物語はまだ「外」に出きれていません。
守られているのか、
導かれているのか。
その境界が、少しずつ曖昧になっていきます。
次話では、
残された経路の正体に、もう一歩踏み込みます。




