第8話 外縁の外へ
この話から、舞台は少しずつ移動していきます。
安全でも、安心でもない場所へ向かう途中で、
遥は初めて「外の世界」を意識し始めます。
静かですが、
確実に物語が一段階進む回です。
市場を離れてから、しばらく誰も口を開かなかった。
白い通路を抜け、
自動ドアをいくつか越える。
外縁の明るさが背後に遠ざかり、
代わりに、少しだけ暗い通路に出た。
足音が、やけに大きく聞こえる。
――コツ、コツ。
それが自分のものだと気づくまで、
少し時間がかかった。
彼方は、前を歩いている。
一定の距離を保ったまま、振り返らない。
ハクの姿は、もう見えない。
市場の中に残ったのか、
それとも、別の出口を使ったのか。
考えようとすると、
胸の奥がざわついた。
「……ねえ」
沈黙に耐えきれず、声を出す。
「ハクって……」
そこで、言葉が止まった。
何を聞きたいのか、
自分でも分からなかったからだ。
彼方は、少しだけ歩調を落とした。
「知りたい?」
短い問い。
「……うん」
「でも、知ったら戻れない」
淡々とした声だった。
脅しでも、忠告でもない。
ただの事実みたいに聞こえた。
「ハクは、
記憶市場の“外”にいる人じゃない」
それは、もう分かっている。
でも。
「じゃあ、なんで……」
「今は、
あそこにいないんだと思う?」
彼方の問い返しに、
言葉が詰まる。
理由なんて、ひとつしか思い浮かばなかった。
「……隠れてる?」
「近い」
彼方は、短く答えた。
「正確には、
“切られた”あとに、自分で消えた」
消えた。
その言葉が、
思ったより重く響く。
「記憶市場は、
記憶を売る場所じゃない」
彼方は、歩きながら続ける。
「管理する場所だ。
人と、ロボットと、
その境界を」
「境界……」
「曖昧なものは、
一番嫌われる」
すずの声が、
一瞬、頭をよぎった。
鈴の音みたいな、
あのやさしいさえずり。
「ハクは、
境界を越えたものを、
何度も見てきた」
「……助けてたの?」
「守ってた」
その言い方は、
はっきりしていた。
「でも、
守り続けると、
いずれ市場にとって
“邪魔”になる」
通路の突き当たりに、
小さなエレベーターがあった。
彼方がボタンを押す。
低い音を立てて、
箱が降りてくる。
「じゃあ……」
喉が、少し乾いた。
「ハクは、
これからどうなるの?」
彼方は、
少しだけ考える間を置いた。
「分からない」
正直な答え。
「でも、
君を行かせたってことは」
扉が開く。
中は、狭くて、無機質だった。
「また、
市場に戻る気だ」
胸が、きゅっと縮む。
エレベーターに乗り込むと、
扉が静かに閉まった。
下降する感覚。
身体が、
少しだけ浮く。
「……ねえ、彼方」
「なに?」
「すずの記憶を取り戻すってさ」
言葉を選びながら、続ける。
「誰かを、
ああやって危ない場所に
戻らせることなのかな」
彼方は、
すぐには答えなかった。
機械音だけが、
空間を満たす。
「記憶はね」
ようやく、口を開く。
「誰か一人のものじゃない」
「え……」
「君が持っていた記憶は、
君のものだ」
「でも、
すずが学んだものは、
君との時間だ」
その言葉が、
胸の奥に、静かに落ちた。
「取り戻すってことは、
“共有する”ってことでもある」
エレベーターが、
止まる。
小さな振動。
扉が開いた。
外は、
市場とはまるで違う空気だった。
少し湿っていて、
人の匂いがする。
遠くで、
電車の音が聞こえた。
「ここからが、本当の移動だよ」
彼方が言う。
「すずの記憶がある場所は、
もっと“現実”の中にある」
わたしは、
一歩、外に出た。
夜の風が、
頬に触れる。
怖さは、あった。
でも。
立ち止まりたいとは、
思わなかった。
すずの記憶は、
もうデータじゃない。
誰かの選択と、
覚悟の先にある。
――そんな気がしていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
移動中の時間は、
何も起きていないようでいて、
心の中ではいろいろなものが揺れています。
次話では、
その揺れが少しずつ形になっていきます。




