第7話 視線が向く場所
前話で辿り着いたのは、
記憶を扱う場所――市場の外縁。
そこは騒がしくも、劇的でもなく、
ただ静かに、整って存在していました。
けれど、
静かな場所ほど、
「見られる」という感覚は鋭くなる。
この話では、
遥が初めて“市場に見られる側”になります。
市場の空気が、わずかに変わった。
音が消えたわけでも、
人が増えたわけでもない。
それでも、
さっきまでとは違うと、
はっきり分かった。
視線だ。
これまで、この場所にいる人たちは、
誰も誰も見ていなかった。
端末の画面だけが、世界の中心だった。
今は違う。
いくつかの視線が、
確かに――こちらを向いている。
理由は、分かっていた。
わたしの端末だ。
さっきから、
小さな振動が止まらない。
画面には、
短い警告文が繰り返し表示されている。
《アクセス経路:未分類》
《照合エラー》
《再確認を行います》
心臓が、
どくん、と鳴った。
「……遥」
彼方が、
声を落として呼ぶ。
「ここから先は、
市場の管理領域に近い」
「管理……?」
「本体に直接触れる人たちだ」
その言い方は、
どこか距離があった。
歩いているのに、
前に進んでいる感覚が薄い。
白い壁。
同じ明るさ。
同じ床。
なのに、
一歩ごとに、
息が詰まる。
そのとき。
「失礼」
静かな声が、
背後からした。
振り返る。
黒い服を着た男が、
そこに立っていた。
年齢は分からない。
若くも見えるし、
そうでもないようにも見える。
ただ、
距離の取り方が正確だった。
近すぎず、
遠すぎない。
「未成年の利用は、
原則として推奨されていません」
責めるような口調じゃない。
注意でもない。
事務的で、
感情の揺れがない声。
「ただし――」
男の視線が、
わたしの端末に落ちる。
「特定の条件下では、
例外が認められる場合もあります」
画面が、
一瞬だけ赤く光った。
《管理確認中》
喉が、
ひりつく。
「……珍しいですね」
男は、
わずかに眉を動かした。
「このアクセス経路」
空気が、
さらに張りつめる。
「生きているとは……」
一拍置いて、
言い直す。
「いえ。
雲隠れしていたと、
思っていました」
その瞬間。
「――その言葉は、
俺に向けて言え」
低い声が、
割り込んだ。
背後。
足音は、
聞こえなかった。
振り返ると、
そこに立っていたのは――
白い髪。
少し丸まった背中。
修理屋のおじさん。
ハクだった。
「……やはり、あなたでしたか」
管理側の男の声が、
ほんの少しだけ硬くなる。
「ここは、
あなたが来る場所ではない」
「昔の話だ」
ハクは、
淡々と答えた。
「今はもう、
表には出ていない」
「表に出ていない、ですか」
男は、
小さく息を吐く。
「それでも、
この経路が生きている理由は
説明がつきません」
ハクは、
わたしのほうを見た。
その視線は、
問いかけだった。
わたしは、
小さくうなずく。
「……すずの記憶の件だ」
ハクが言う。
「この子には、
知る権利がある」
管理側の男は、
一瞬だけ黙った。
それから、
静かに言う。
「記憶市場は、
善意で成り立っているわけではありません」
「知ってる」
ハクは、
即答した。
「だからこそだ」
わずかに、
一歩前に出る。
「ここで切ったら、
あとが厄介になる」
その言い方は、
脅しでも頼みでもなかった。
ただの事実だった。
男は、
端末に視線を落とす。
数秒。
時間が、
妙に長く感じられる。
《取引処理:一時保留》
《外縁滞在:制限付きで許可》
表示が切り替わった。
肺に、
一気に空気が戻る。
「……今回は見逃します」
男は、
感情のない声で言った。
「ですが、
次はありません」
そう言って、
背を向ける。
その背中を、
ハクは追わなかった。
「行け」
短い言葉。
「ここに長居するな」
彼方が、
わたしの腕を引く。
歩き出す。
市場の明かりが、
少しずつ遠ざかる。
振り返らなかった。
振り返ったら、
戻れなくなる気がした。
歩きながら、
胸の奥で、
一つだけ確かなことが残る。
――ハクは、
市場の“外”の人間じゃない。
そして、
すずの記憶は、
もう引き返せない場所にある。
それでも。
足は止まらなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第7話では、
記憶市場の「管理」という存在と、
ハクという人物の輪郭が、
はっきりと浮かび上がり始めました。
この世界で、
記憶は自由なものではなく、
誰かの手のひらの上に置かれています。
そして遥は、
もう後戻りできない場所に
足を踏み入れています。
次話では、
この「一時保留」が何を意味するのか、
市場の内側が、少しずつ見えてきます。




