第6話 売られる記憶
第6話です。
今回は、
「記憶が扱われている場所」を
遥が初めて目にする回になります。
正解も答えも出ません。
ただ、見てしまった――
その感覚を、一緒に辿っていただけたら嬉しいです。
最初に感じたのは、静けさだった。
騒がしくもなく、
暗くもない。
むしろ、
拍子抜けするくらい、
整っていた。
白い壁。
一定の明るさ。
低く流れる、音とも呼べないノイズ。
ここが、
記憶を扱う場所だと、
誰が思うだろう。
彼方が言った。
「ここは、市場の“外縁”だ」
「外縁……?」
「本体に入る前の、
緩衝地帯みたいなものだよ」
彼方の声は、
いつもより少しだけ低かった。
人が、いた。
何人も。
年齢も、
服装も、
ばらばら。
でも全員、
端末を見ている。
誰とも目を合わせず、
誰とも話さない。
画面の中だけが、
この場所の現実みたいだった。
壁際の椅子に、
一人の女性が座っていた。
わたしより少し年上に見える。
膝の上で、
端末を両手で抱えている。
その画面を、
ちらりと見てしまった。
《記憶データ:個人所有》
《分類:生活記憶》
《感情強度:高》
胸が、
ひくりと動いた。
「……あれ」
声が、
小さくなる。
「あれは……」
「売却前の表示だ」
彼方は、
淡々と答えた。
「価格が確定する前に、
本人が最終確認をする」
女性の指が、
少しだけ震えた。
画面には、
短い映像が流れている。
夕方の光。
誰かの背中。
笑い声。
音は聞こえないのに、
それが、
大切な記憶だということは、
分かった。
女性は、
しばらく画面を見つめてから、
目を閉じた。
そして。
指を、動かした。
《売却を確定しますか》
その表示が出た瞬間、
わたしは息を止めていた。
確認のボタンは、
とても小さい。
でも、
押されたら戻らないことだけは、
はっきり分かった。
彼女は、
一度だけ深く息を吸って。
――押した。
何も、
起こらなかった。
叫び声も、
崩れ落ちる音も、
ない。
ただ、
画面の表示が変わっただけ。
《取引が完了しました》
女性は、
しばらく動かなかった。
それから、
端末を膝の上に置いて、
ゆっくり立ち上がる。
その顔は、
泣いているようにも、
泣いていないようにも見えた。
通り過ぎるとき、
一瞬だけ、
目が合った。
何も、
映っていなかった。
わたしは、
視線を逸らした。
「……大丈夫なんですか」
気づいたら、
そう口にしていた。
彼方は、
少しだけ間を置いて答えた。
「大丈夫かどうかは、
誰にも分からない」
「じゃあ……」
「でも、
生きるために、
選ぶ人もいる」
その言い方が、
妙に現実的で、
胸が苦しくなった。
歩きながら、
別の画面が目に入る。
《記憶データ:対話学習》
《感情応答:高適合》
それは、
ロボット用の記憶だった。
誰かと話した記憶。
寄り添った時間。
声の間。
わたしは、
思わず立ち止まった。
「……すずの記憶も」
喉の奥が、
熱くなる。
「こうやって……?」
彼方は、
答えなかった。
代わりに、
わたしの端末が震えた。
知らない番号。
表示された名前に、
息が詰まる。
《HAKU》
画面を開くと、
短いメッセージだけが届いていた。
『……そこまで行ったか』
心臓が、
強く打つ。
すぐに、
次の通知。
『いいか、遥』
『まだ、売るな』
『それだけは、約束しろ』
画面を、
強く握りしめた。
そのとき。
背後で、
低い声がした。
「……珍しいですね」
振り返る。
いつの間にか、
黒い服を着た人たちが立っていた。
視線が、
わたしではなく、
端末に向けられている。
「そのアクセス」
男が、
静かに続ける。
「生きているとは……」
一瞬、
言葉を選ぶように間を置いて。
「雲隠れしたと思っていましたよ、ハク」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第6話では、
「記憶が売られる瞬間」を
遥と一緒に見てしまう回でした。
誰かにとっては救いで、
誰かにとっては失うこと。
そのどちらも否定できない世界が、
少しずつ見え始めています。
ハクの言葉や行動も、
まだ理由は語られていませんが、
この先で必ず意味を持っていきます。
次話では、
市場の中で、空気が大きく変わります。
よろしければ、もう少しだけ
遥の旅にお付き合いください。




