第8節 『白昼の暗闘』
東部国境検問所を抜け、城塞都市メルンへ向かっている最中、シャルロットを乗せた馬車の一団は、ゲルミア平原のど真ん中で大雨と濃霧に襲われた。
踏み慣らされただけの土道はものの数分でぬかるみ、馬車の車輪を容易に呑み込んだ。
それにより一団は立ち往生を余儀なくされる。
近衛騎士団長のカシムは部下に対し、馬から降りて周辺警戒するよう指示を飛ばす。
打てば響くように部下の騎士たちは馬車を囲うように展開し、豪雨と濃霧による視界不良の中でも索敵スキルや索敵魔法を使用して、周辺にモンスターなどの敵が潜んでいないかを常にチェックしていた。
「……嫌な天気だ」
ある騎士が顔に降りかかる大量の水滴を手で拭いながら言う。
「豪雨だってのに風が一切ないなんて……」
気味の悪い天気だ。
豪雨なのに風がなく、おまけに濃霧まで出ている。
これは間違いなく人為的なもの。自然現象ではないことを誰もが理解していた。
「天候を変えられる魔物なんて聞いたことないぞ」
「ああ、俺もだ。天候を操れる魔導士は昔いたらしいが」
「でもそれって数百年前の話でしょ? 今も生きてるわけないじゃない」
雨音のせいで聞き取りづらい中でも、彼らは心の中から湧き上がる不安を解消するように、必死に会話を続けた。
「だとしたら精霊の仕業かもな」
「水の精霊の縄張りに侵入したってことか?」
「いやいや、それこそあり得ないだろ。だってここは街道のど真ん中だぞ? そんなところに巣を作ってたら問題になってるはずだ」
「それもそうか」
誰もが納得の声を上げる。
「じゃあ、これは一体──」
そこまで言いかけて騎士は口を閉ざす。
話の脈絡から推測するに、おそらく彼は「誰の仕業なんだ」と続けようとしていたのだろう。
急に言葉を止めた騎士を不思議に思った騎士の一人が、先ほどまで声がしていた方を見る。
濃霧と豪雨のせいで微かにしか見えないが、薄っすらと人影が窺えた。
「どうした? 何か見つけたのか?」
騎士は彼のもとへ近寄る。それから彼の肩に手を乗せた。
刹那、腹に杭を打ち込まれたような衝撃と共に生温かい雨がジワリと身体を濡らす。
感じたことのない感覚に騎士は驚きに目を見開き、ゆっくりと衝撃を感じた部分──鳩尾を見下ろして、ようやく理解する。
目の前にいた男が『敵』であることを。
騎士は鎧ごと鳩尾を貫かれた激痛に耐え切れず、地面に膝を突いて倒れる。
「きぁま──!」
掠れ切った声は雨音に掻き消されて誰にも届かない。
聞こえているのは目の前に佇む黒髪黒瞳のベストスーツ姿の男だけ。そして男の右手は真っ赤な血に塗れていた。
近衛騎士専用の金属鎧が貫かれたのだ。武器ではなく、素手で。
正直、意味が分からなかった。
防御魔法が付与されたミスリル合金製の装甲だ。ミスリル製の武器すらも弾く硬度を誇る鎧なのに、何故ただの素手がそれに勝てるのか。訳が分からない。
だけど、これだけは理解できる。
「静かに」
この男を敵に回すべきではなかった──という事だけは。
「君も苦しみたくはないだろう?」
その囁きを最後に騎士の意識は途絶えた。
「あいつ全然戻ってこないな」
「さあ? 二人でサボってるんじゃない?」
「こんな時に? 吞気すぎるだろ」
呆れたように溜め息を吐くと騎士の男は持ち場を離れる。
「ちょっと! 持ち場を勝手に離れないでよ!」
「一服だ、一服。索敵にも何も引っかからねーんだ。少しくらいはいいだろ」
「どうやって煙草吸うのよ! こんな天気の中!」
「俺は風の魔法を使えるからな。顔周りだけ風で防護しておけば、雨の中でも吸えるのさ」
「──ったく! 男って奴はどいつもこいつも!」
命の危険は油断した時にこそ訪れる。
女騎士ノイラは騎士見習いの時に学んだことを未だに順守していた。
だからこそ、場慣れした騎士たちがよく行うサボりに対して、彼女自身は非常によく思っていなかった。
城内でサボるなら勝手にすればいいと思っていたが、ここは外で、他国の地なのだ。
誰かの油断が全員の死を招くこともある。それを彼らは失念している。そのことが余計に彼女の機嫌を悪化させる原因となっていた。
「ノイラのやつ、なんであんなにイライラしてんだよ……。この遠征でストレス溜まってんのはお前だけじゃねーっての」
街道脇に立っていた一本杉に寄りかかり、顔周りに雨が来ないよう風魔法で雨除けを作る。
それから男は腰に携えた小さな革鞄から煙草を取り出して口に咥えた。
「ちっ! 火ねーじゃん!」
カバンの中を探るも火種用の魔法石が見当たらず、煙草が吸えないことに更に苛立つ。
そんな中──、
「──発火石ならここにあるぞ」
背後から声が聞こえたかと思えば、男の顔の横に紅蓮色の水晶が差し出された。
「おっ、気が利くじゃねーか。ありがとよ」
今すぐにでも欲しかった男は何も考えずにそれを受け取る。
そして念願の煙草に火を着け、一服。数日ぶりに吸った煙草の味は美味い。王城で出される料理よりも全然美味い。格別の美味さだった。
「ふぅ~~~~」
もう一口。ああ、美味い。最高のひと時だ。
先ほどまでのモヤモヤが嘘のように消え、頭の中が一気に晴れ渡るのを感じた。
「満足したか?」
また背後から声が届く。
どうやら火種をくれた人物は一本杉の反対側で、同じように雨宿りをしながら一服しているようだ。
丁度良いところに良い一服仲間がいたもんだ。
「ああ、最高だぜ……。今にも天に昇っちまいそうな気分だ」
明日が世界最後だと言われても今なら納得してしまう。
それくらいには最高な気分だった。
「そうか。だったら手伝ってやろう」
意味の分からない返答が背後から届いた瞬間──、
「──うぐぅッ!?」
男の首が縄で絞め上げられる。
何の抵抗もする間もなく宙に吊り上げられた男は、咄嗟に腰にある剣に手を伸ばす。が、雨で濡れた手甲のせいで上手く握れない。何度も挑戦するがつるりと滑って引き抜けない。
息が出来ない。手が滑る。血行が鈍い。思考が回らない。心拍数がどんどん上がる。身体が生きようともがく。しかしそれでも剣は引き抜けない。
死ぬ。死にたくない。死ぬ。死にたくない。死ぬ死ぬ死ぬ。死にたくない死にたくない死にたくない。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
男は血の涙を流しながら、首筋を一生懸命掻き毟る。
剣で縄を斬るのは無理だと悟って、我武者羅に縄を引き千切ろうとした。
しかし──、
「──君は落雷を浴びたことがあるか?」
不意に届いた冷徹な声に動きが止まる。
得体の知れない何かが背筋を這い回る様を幻視した男は、恐る恐る眼下を見下ろした。
そこには一週間前に王都の宿屋で会った金融商の男がポツンと佇んでいた。
微かな笑みを浮かべてこちらを見上げながら、ベストスーツの男は懐から向日葵色の水晶を取り出し、そしてそれを木の根元に抛った。
「死ぬ前に一度浴びてみるといい。煙草なんかよりも飛べるぞ」
刹那、目も眩むような閃光が一本杉を襲った。
一本杉は先端から真っ二つに裂け、そこに吊るされていた男は全身を炭化させた状態で、ぬかるんだ地面の中に沈んだ。
即死だった。痛みを感じる間もなかっただろう。
「な、なんなのよ! 落雷なんて聞いてないんだけどっ!?」
外で周辺警戒をしていたノイラは突然の落雷に、一時的にでもいいから馬車の中に避難させてほしいと思った。
しかし近衛騎士である自分が任務の途中でそんなことを言えるはずもない。
「落雷があったのはあの燃えてる杉の木ね。確かライアンがそっちの方に行ったっけ」
ノイラは落雷があった地点を凝視する。
雨が入らないよう目を細め、額を手で押さえながら。
濃霧も相まって微かに紅蓮の光源が視認できる程度で、光の規模からほぼ鎮火済みなのだろうと判断する。
だが、唯一気掛かりだったのは仲間の一人が煙草を吸いに行ったことだった。
その方向がまさに落雷があった木のあたり。
「ベイル! ちょっとライアンの様子を見てくるわ」
「ああ、気を付けてな」
御者台から周囲を窺っていた騎士の男にそれだけ言い残し、ノイラは落雷地点へ向かって行った。
あと数メートルまで迫った時、何かの焼けた臭いが鼻腔を襲った。
今まで嗅いだことのない変な臭い。似ている匂いで言うと蠟が一番違い気がする。ただ少なくともこの臭いは、木の燃える匂いではない事だけは確かだった。
そして──、
「──うっ!! な、何なのよ……。これ……」
ノイラは顔を顰めて嫌悪感を露にする。
そこには煙草を吸いに席を外した騎士、ライアンが真っ黒焦げの状態で斃れていた。
頭髪は完全に燃えていて炭化した頭皮が丸見えだった。
首には太い縄が括られており、何本も抉られた痕が首筋にあることからも、彼が必死に縄から逃れようとしていた事が窺えた。
(これは事故じゃない! 誰かがいる!)
大雨と濃霧が支配するこの空間に刺客が潜んでいる。
そのことにいち早く気付いたノイラは、馬車で待機している皆に知らせようと踵を返す。
しかし、彼女の足はその場から一歩も動くことはなかった。
「──ッ!!」
ノイラは即座に足元を確認する。そして直ぐに原因が分かった。
(あ、足が……! 泥にハマって……!)
土、いや、泥だ。
大雨によって急激に水気を帯びた土壌が、信じられないほどに柔らかくなっていたのだ。
そこにミスリル合金製の具足が完全に沈んでしまっていた。
「チッ! なんで、こんな時に……っ!!」
近くに敵が潜んでいるかもしれない。そんな時に限って不運は訪れる。最悪だ。
しかも足が沈んだと思えば今度は膝まで泥沼に浸かる。時間が経つに連れて更に地中へと身体が誘われていく。早く抜け出さなければ。
ノイラは焦燥に駆られながらも、騎士見習いだった頃に学んだ底なし沼の脱出法を実践する。
全身の力を抜き、片足を小刻みに震わせながら徐々に抜いていく。その間ももう片方の足は沈んでいくが、ここで焦っては全てが水の泡だ。
こういう時こそ冷静に、落ち着いて、今やるべき最善の手段を最後までやり遂げる。
前のめりに寝そべりながら片足を引っこ抜き、それから今度はもう片方の足も同じように引き抜こうと──、
「──抑圧する鎮静」
全身の力が急に抜けた。
意識はある。思考も正常。呼吸もできる。だけど全身の力が入らない。動けない。
体重と鎧の重さで全身がゆっくりと泥の中に沈んでいく。両手両足が完全に地中に埋まり、ノイラの美しい顔も半分が泥の中に沈んだ。
鼻呼吸は無理だ。少しだけ開いた口で呼吸するしかない。
それなのに泥は容赦ない。
まるで呼吸をさせまいとばかりに開いた口から問答無用で侵入する。
鼻口から入った泥は喉を難なく通り過ぎ、食道を伝って気管と胃に落ちた。
本来なら不快感に嘔吐くものだが、何故か平気だった。
「不思議そうだな」
いつの間に現れたのか、気付けば目の前に人がいた。
ノイラは辛うじて動かせた目を必死に動かして、突然現れた人物を視界に収める。
そして自分の身に一体何が起きたのかを理解した。
「君には麻痺の魔法を掛けさせてもらった。なるべく苦しませたくなかったからな」
優しい声色、紳士的な佇まい。
敵のはずなのに殺意も怒気も全く感じられなかった。
それが余計に彼女の恐怖心を煽った。
「この魔法は一時間で解ける。それまでに雨が止むといいな」
「……ぁ、ぇ」
呂律の回らない口で、泥塗れの舌を微かに動かして、ノイラは必死に命乞いをする。
待って、待ってください。お願いします。何でもしますから。
本当はそう言いたかった。
けれど──、
「──幸運を祈るよ、ノイラ・カポック」
男は聞くまでもないとばかりに踵を返し、知っているはずのないノイラの本名を口にして、立ち往生している馬車の方へと消えていった。