第7節 『神は乗り越えられない試練は与えない』
『──当初の予定通り、シャルロット王女が王都を脱しました。このままミグルス王国に入るのを見届けられますか?』
脳裏に響く清らかな声色に耳を傾けながら、アダムは窓辺に佇み夜空を見上げる。
全ての計画は順調に進んでいた。王国に金を貸すことも、王女を担保にすることも、王国内に潜む不穏分子を誘き出すことも、王女自身に研究意欲だけでなく成長意欲を抱かせることも。
『正直、見送ってもいい。彼の国にはシャロンの親友がいる。アカツキ王女なら彼女を必ず保護するだろう。奴らの思い通りにはならないはずだ』
第一王子フェルミオンの政敵、第一王女アカツキならば、シャルロットの意思を無碍にしてまで政略結婚させる事はないだろう。
『ですが、国王陛下が掲げた方針に逆らえるでしょうか? いくらアカツキ王女が人道的配慮に優れた方であっても、王命に逆らうような真似は出来ないと思いますが……』
今回の縁談はどうやらミグルス国王によるものらしい。
そのためアカツキが王命に異を唱えられるかどうかが争点になってくる。が、正直これに関してはかなりの運要素──逆らってほしいという願望が絡んでくる。
『いっそのこと抱き込むか』
『アカツキ王女もですか?』
『ああ、そうだ』
アダムは頷きながら、心の中で肯定した。
『一体どうやってです? 彼の国は今や軍事大国、大陸東の覇者と謳われるミグルス王国ですよ? 彼らに困っていることなんて何もないはずですが』
メルクリア王国がシャルロットを担保にしたのは、メルクリア王国の国庫が底を尽き、国家存亡の危機に瀕していたからに過ぎない。
対してミグルス王国はオルレーゼ大陸東側の軍事大国だ。
広大な国土を有し、強力な軍事力を有し、莫大な経済力すらも有している。何をおいても他の追随を許さない力が彼らにはある。
そんな国の王女とどう取引をするのか。どう上手く懐柔するのか。甚だ疑問だった。
『世の中、全ての事が上手くいくなんてあり得ない。大国であればあるほど悩みの種は多いだろう。にもかかわらず、ミグルス王国は上手く行き過ぎている』
大国であれば必ず抱えるであろう問題すらも、あの国では起こっていない。
『ああ、領土問題ですね』
『そうだ』
広大な国土を有しているからこそ隣接する国境も広大で、守るにも莫大な資金と膨大な戦力が必要になる。
国土が広がれば広がるだけ防衛費のコストが増大していき、それを補うための増税。
結果として民衆が生活苦に喘ぎ、経済が徐々に悪化していく。
という負の連鎖が起こり得るものだ。
『広大な国境を守るためのコストが相当掛かっているはずなのに、経済は相変わらず好調、税収も増税せずに年々最大値を更新。国内の治安も良好で、王国正規軍の総戦力は陸海空合わせて五十万を超えると言われている。非の打ち所がないくらいの理想的な国家だ』
誰もが望む理想郷を作り上げた、その手腕は見事と言わざるを得ない。
『だが、そこには必ず何らかの裏がある。表向きの情報だけが全てではないだろう。付け入る隙があるとすればそれだ。何としてもその裏を突き止め、アカツキ王女をこちら側に抱き込む』
『それなら数名の諜報員を派遣するのはいかがでしょう? 幸いメルクリア王国南部に遣わせている者たちがいます。彼女たちに任せるのが最適かと』
アヴァロニア金融はただの金融ではない。
融資をする相手はきちんと精査するし、そのうえでこちら側が欲しいものを担保として要求する。欲しいものがなければ融資は絶対にしない。たとえ相手に返済能力があったとしても。
それらの情報収集を担当している部署が諜報部である。
諜報部に所属している人員は皆、隠密系のスキルや魔法に秀でており、今現在に至るまで全ての任務で失敗したことが一度もない凄腕たちの集まりだ。
彼女たちならば今回の任務も問題なく熟してくれることだろう。
『ミグルス王国の諜報に関しての陣頭指揮はツバキに任せる。彼女は今どこに?』
『安土に帰郷中です。幸い、ミグルス王国とは海を挟んだ先の海上隣国ですから、到着までにそう時間は掛からないでしょう』
『問題は鎖国中の安土からどうミグルスに入国するか、だな』
極東の島国、安土は鎖国政策を敷いている国家だ。
そのため他国と国交がなく、出入国がかなり厳しい状況にある。
彼女がどうやって帰郷したのかも不明だが、安土からミグルスへ渡る手段にもかなりの疑問が残る。
とはいえ、難なく帰郷できるくらいの腕なのだ。
その辺のことは心配せずとも上手くやってくれるだろう。
『ハウスト商会にお願いするのはいかがでしょう。商会主のエルモンド・ハウスト様は以前、商会立ち上げ資金の融資依頼で我が商会をご利用されましたし、その際の貸しが残っています。それを利用すれば密入国も可能かと』
念には念をという事なのか、念話相手の女性──秘書、アナスタシアはある提案をした。
『ハウスト商会か。悪くない提案だな』
商会主、エルモンド・ハウストの事はよく覚えている。
長身で瘦せ型の中年男性で、金髪のオールバックに八の字に生え揃えた髭が特徴的な人物だ。
彼の性格は非常に穏やかで冷静、腰がとても低く謙虚、毎年贈り物を送ってくれる律義さ、ひと言で表現するならお人好し。人たらしな一面がある。
個人的には今後も人付き合いしていきたい部類の人間だ。
『ではハウスト商会に協力していただくよう遣いを──』
『──いや、その必要はない』
アダムはアナスタシアの言葉を遮って、それを否定した。
『俺が行こう。俺が直接彼と話してくるよ』
『よろしいのですか?』
余計な仕事を増やしたくないのだろう。
その気遣いはありがたいが、シャルロットのいないメルクリアに用はない。ここに残る意味もなくなった今、アダムが次に向かうべき場所は『ミグルス王国』だ。
『ああ、構わないさ。もののついでだからな』
『救いに行くのですね』
短い一言。それだけで全てを察する良き理解者、秘書である。
『俺のモノに手を出したんだ。相応の報いは受けてもらわないとな』
その言葉を最後にアダムは念話を遮断した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
シャルロットを乗せた馬車が国境を越えたのは、シャルロットが拉致されて一週間が経過した頃だった。
近衛騎士で編成された捜索隊が一向に戻らないことを不審に思った王は、再び別動隊を送ったが何の収穫も得られなかった。
得られたものと言えば、シャルロットの行方も、アダムの行方も、近衛騎士団長率いる捜索隊の行方も、全てが不明だったという事実のみ。
王国政府は情報の秘匿を一部解除し、各都市部・各国境検問所においてのみ情報を開示し、金融商アダムを指名手配した。
だが、王の判断は遅かった。いや、間違っていた。
何故なら東部国境検問所の騎士たちは皆、近衛騎士団長側に寝返っていたからである。
「さて、王女殿下。国境は無事越えました。もう我々を追ってくる者はおりません。ええ、分かっていますよ。分かっていますとも。悔しいんですよね。自分の思い通りにならなくて腹立たしいんですよね。ええ、ええ、分かってあげられますとも」
勝利の余韻に浸りながら同情する態度を見せるカシムは、シャルロットが猿轡を嵌められていることを良いことに言いたい放題煽り散らかす。
今のシャルロットは手足を枷で拘束されていて、身動きの取れない状態でソファに座らされていた。
「もういい加減諦めてはどうですか? あなたを助けられる者はもういないんです。たとえあなたの親友であるアカツキ王女であっても、この縁談はミグルス国王陛下からのご提案……。これに断固反対の意思は示せないでしょうな」
王の意向に異を唱えるという事は、王に逆らうのと同義。
反逆罪に問われてもおかしくはない。そんな状況で親友が助けてくれる可能性は限りなく低いだろう。それはシャルロットも解っていた。
だけど、そうだからといって、諦める理由にはならない。
どんな状況にも打開策というものは存在する。攻略法は常に存在するのだ。
(神は乗り越えられない試練は与えない。クリスタリア正教の教えが正しければ、必ず何らかの糸口が残されているはず……)
敬虔な信徒ではないシャルロットだが、宗教そのものを信じていないわけではなかった。
神は存在する。天使が存在したんだから。悪魔も存在したんだから。楽園が実在したんだから。世界を創った神も、神を裁いた女神も、存在している。そう信じていた。
だからこそ、こういう逆境の時には思い出してしまう。
クリスタリア正教の礼拝で耳にした『教え』の数々の中から、この状況に最適な『一節』を。
「なんだその目つきは!」
カシムは嫌悪感を隠さない。
他国の地に入った。もう助けは来ない。この国唯一の親友は王女だが、王の意向に逆らうことはない。どこにも希望なんてない。それなのに目の前にいる小娘は諦めない。
自棄になっているのかと思えてしまうほどに、意味の分からない不可解な態度だった。
それがどうにも気味が悪くて、得体の知れない怒りが湧いてくる。
二度とそんな目付きが出来ないよう殴ってやろうか。痛みで立場を理解させてやろうか。などという悪辣な感情が前のめりに押し出される。
「ふん、往生際の悪い小娘が……!」
だが、そこは踏みとどまった。
折角の手土産を傷だらけにしては元も子もない。ここは辛抱強く耐えるべきだ。
「悪いことは言わん。早めに諦めることだな。貴様の心が壊れる前に」
心が死んでしまっては利用価値がなくなってしまう。
廃人同然の人間に新たな研究も発明も出来ないのだから。将来性のない人間を交渉のカードになど出来るはずないのだから。
「それに貴様がフェルミオン殿下の第二婦人になれば、たとえメルクリア王国が滅んだとしても、父君や母君が戦犯として処刑される未来はなくなるだろう」
メルクリア王国が魔物災害を阻止できず、後にミグルス王国が介入して魔物災害を解決した場合、民意はミグルス王国の統治に傾くだろう。
もしそうなった場合、現在の王家は魔物災害で多くの犠牲者を出した戦犯として斬首刑、もしくは絞首刑に処され、市中引き回しの末に十字架の上で晒される。
そんな未来を回避できるとすれば、シャルロット自身がミグルス王家の一員になることだけだ。
(私が、ミグルス王家の一員になれば、なりさえすれば、お父様とお母様は助かる……)
負けた先の未来を考えるなら、彼の言い分は正しい。
シャルロットにとっての最善だった。
けれども──、
(──やだよ。そんなの嫌だ! 好きでもない相手と結婚なんて、そんなの嫌だよ!)
シャルロットは常に自由を望んでいた。
父も母も、それを知っていたからこそ、シャルロットの意思を最優先に、今までの縁談も全て断っていたのだ。
その想いを踏み躙ってまで屈したくない。諦めたくなかった。
(おにいさん……)
シャルロットは左手の薬指に嵌められた青薔薇の指輪を見つめる。
『たとえ失敗しても王都は消えないし、俺も君も死なない』
『どうして?』
『そのために俺がいる』
たった一日の思い出。
けれどもシャルロットにとって、その一日は数年にも感じられるほどの充実した一日だった。
『後悔するぞ……』
『してもいいよ。おにいさんと一緒に居れるなら、酸いも甘いも、苦いも辛いも、全ての出来事が、思い出が、私にとっての幸せになるの。だから覚悟はできてるよ』
『──だったら俺は精いっぱい君の幸せを守らないとな』
そんな時間を与えてくれたのは彼が初めてだった。
⦅ちゃんと守ってね、私の、私だけの王子様……⦆
だからこそ、あり得ないと分かっていても願ってしまう。
(お願い……。助けて……)
来るわけないと。
来れるはずがないと。
心の中では理解しているのに、頼ってしまう。
(おにいさん──っ!!)
自分の、自分だけの、王子様を。
そして──、
「──見つけた」
アダムは馬車の一団を目視する。
『雨を降らせろ。霧を出すことも忘れるな』
念話で命じた瞬間、天候が快晴から土砂降りに変わる。
それだけでも視界は悪い。が、更にそこへ追い打ちをかけるように、濃霧が辺り一帯を覆った。
当然、視界不良の状態では馬車は動けない。立ち往生するしかなくなる。そして周囲を警護している騎士たちも馬を降りて警戒するしかない。
「全ての準備が整った。あとは奪われたものを取り返すだけだ」
大雨と濃霧の影響で彼らは視覚も、聴覚も、足場も失った。
これなら目撃者を気にして、結界術による人払いをする必要もない。思う存分に暴れられる。
業務外の突発依頼だったにもかかわらず、完璧に熟してくれた彼女らには感謝だ。
全てが片付いたら諜報員たちには特別ボーナスを与えるべきだろう。
「カシム・ハルゼン・ポルポンド。いや、裏切り者の騎士諸君。今から君たちには──」
アダムは豪雨の中を静かに歩いていく。
発したすべての言葉が雨音によって掻き消される。それでも──、
「──報いを受けてもらう」
アダムの殺意だけは決して消えることはなかった。