第6節 『金の切れ目が』
シャルロットを乗せた馬車が大通りを走る。
対面には近衛騎士団長のカシムが座っていて、常にこちらの様子を窺っている。無断で城を抜け出したのだ。また何かやるかもしれないと警戒しているのだろう。
「もう、そんなに警戒しないでよ。逃げないから」
「そうはいきません。殿下が城を抜け出したのは今日が初めてではないのですから。申し訳ございませんが、その言葉を信じることはできません」
「城から抜け出すのと、ここから逃げ出すのじゃ、ぜんぜん難易度違うじゃん」
「それでも警戒するに越したことはありません。それに我々が警戒しているのは何も殿下だけではありませんので」
彼ら近衛騎士の職務は『王族の警護』だ。シャルロットの身の安全を確保するためには、どれだけ過度と思われようとも徹底した警護体制で臨む必要があった。
同乗する騎士は警護対象の様子を常に注視し、御者は進行方向に怪しい人物がいないかを警戒し、馬車の周囲を警護する騎士たちは各々の死角をカバー出来るような配置で周辺警戒を怠らない。
そして馬車の全ての窓はカーテンによって完璧に遮って、認識外からの遠距離攻撃にも最大限の注意を払う、という徹底ぶり。
「…………」
こんな油断も隙も無い完璧な警護体制を見せられては、シャルロットもこれ以上駄々を捏ねるような事はしたくなかった。
「何だか不満そうですね」
内心を見透かしたようにカシムが言う。
「当たり前でしょ。折角の食事を台無しにされたんだから。せめて食事が終わるまで待っててよ。お店の人に悪いことしちゃったじゃん」
「そんなもの金さえ支払っていればどうにでもなります。殿下が気にされるようなことではありません」
その言い分に思わずカチンとくる。が、咄嗟に握り締めた拳は振り上げない。
彼の境遇を知っていたからだ。カシム・ハルゼン・ポルポンドは伯爵家の嫡男として生まれ、飢えに困らず、勉学に困らず、武にも秀でていた。
だからこそ彼には理解できないのだ。
飢える恐怖や渇望が。食に対するありがたさが。
食料を生産してくれている人の気持ちや食事を提供してくれている人の気持ちが。
「世の中はお金だけが全てじゃないよ」
「本当にそうですかね? 私にはそうは思えないんですよ」
カシムは言う。
「金の切れ目が縁の切れ目──極東の島国、安土にはこういう諺があるそうです。人は欲深い生き物で、金さえ積めばどんな人間も非情な選択をする。生活のために自分の子供を売る親、快楽のために家も財も家族までも売る賭博中毒者、私の領地にも大勢の欲深い者たちがいました。それほどまでに人の欲というのは底なしで、終わりがない。金とは恐ろしいものです」
金に信用があるから、誰もが金に縋る。
金がないと生きていけないから、人は金を欲する。
金さえあれば、金さえ貰えるなら、人はたとえどんなに非情な事でもやる。
今を生きるために、明日を生きるために、必要だからだ。
そんな世の中で食べ物を粗末にするという些細な事を気にする奴はそういない。
誰もが生きることで精いっぱいの世の中で、金が最も価値ある世の中で、誰が金よりも価値のないものに配慮しようと思うのか。
「だったらそんな世の中にした国が悪いね」
世の中の仕組みを作るのは国家だ。
新たな価値観や仕組みを生み出すのも国家だ。
民衆はその中でしか生きることが出来ない。彼らは生きていくために順応してくしかない。ある意味、自由がないともいえるだろう。
だからこそ、国は彼らが安心して暮らせるような国作りをしなけばならない。
それが国の責務であり、果たすべき責任だ。
しかし、今回の件──カシムの発言──で改めて分かってしまった。
この国の抱える問題が。
「些細な幸せすら、幸せに感じられなくなるような国にした、私たちが一番悪いよ」
シャルロットはこの国を一から立て直す必要があると考えた。
「何をおっしゃいます。悪いのは現状を変えようともしない民衆の方ですよ、殿下。不満があるのなら、彼らこそ現状を変える努力をするべきでしょう」
「どうやって? 反乱でも起こせって言うの?」
国政に関われない一般市民が世の中の仕組みをどう変えられるというのか。
王侯貴族相手に訴えようものなら不敬罪、王城や屋敷を取り囲んで抗議デモを起こせば騒乱罪、武力を用いて国に立ち向かおうとするなら内乱罪。
どんな手を使っても彼らに待っているのは極刑のみ。
そんな状況で行動を起こせと言われても、行動なんて起こせるはずもないだろう。
「まあ無理でしょうな。王国民の全てが武装蜂起したところで、我々には敵いません。他国の力を借りるならまだ勝機はあるでしょうが、それでは元も子もないでしょう」
たとえそれで王国を打ち負かしても、国が変わるだけで仕組み自体が変わることはない。
要は国の仕組みを変える予定が、王国ごと他国に乗っ取られてしまった。というオチになるだけだ。
「それに直にこの国は滅びますからね。今さら変える意味もありませんよ」
「……何、言ってんの?」
今、聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「そのままの意味ですよ、殿下。王国南部で起きた魔物災害は歴史上類を見ない規模のものです。今はドルクの采配が功を奏して食い止めていますが、防衛線を食い破られるのも最早時間の問題でしょう」
軍事大国でもないメルクリア王国が二カ月もの間、魔物災害を王国南部だけで抑え込めていたのは、近衛騎士団副団長のドルク・ローマンが総大将として戦線に赴いていたからだ。
彼は近衛騎士の中で唯一実力だけで成り上がった平民出身の騎士で、騎士として叙勲される前は隣国ミグルス王国でAクラス冒険者として名を馳せていた。
冒険者を引退した後、彼は祖国──メルクリア王国──へ帰郷し、冒険者ギルドの教官として生活をしていた。
そこに目を付けたシャルロットが彼を近衛騎士として起用するよう王に進言したのだ。
「確かにそうかもね。でもミグルス王国からの援軍が到着すれば、状況は変えられる。彼なら、私が見込んだドルクなら、絶対にそれまで持ち堪えてくれるはずよ」
近衛騎士団副団長となり、シャルロット専属の護衛騎士となった彼ならば、あと一月、いや、二月持たせることだって出来るだろう。
だが──、
「──些か過大評価が過ぎますな、殿下。ご自分のお気に入りだからと贔屓目で見過ぎてはいませんか?」
カシムの意見は違った。
「此度の魔物災害は昆虫系モンスターが主体なんですよ? 昼夜問わず行動し続けられる継戦能力に、ミスリルすらも弾く分厚い甲殻やミスリルすらも貫く鋭い爪、頭部を潰しても首を切り落としても胴体を真っ二つにしても暴れまわる驚異的な生命力、おまけに繁殖力が非常に高いときた。向こうは被害なんてお構いなしに増え続け、こちらは怪我ひとつすら致命傷に成り得るうえに日を追うごとに疲弊していく一方。ドルクを知っているのは殿下だけではないのです。我々にも我々なりの考えというものがあります。そのうえで言わせてもらうと、いくらドルクといえども今回の戦いは負けます」
昆虫系モンスターは魔物の中でも群を抜いて繁殖力が高い。
ゴブリンやオークは繁殖力は高いものの、母体となるメスがいなければ繁殖できない。
対して昆虫系モンスターは雌雄同体の個体が多く、母体となるメスが不必要であり、繁殖用のエサさえあればどんな環境下でも増え続けることが出来る。
その点で言うと、彼らにとって戦場は格好のエサ場であり、最適な繁殖場だ。
戦いが長引けば長引くほど力を増していく最悪な相手といえる。
ゆえにカシムの言い分も間違ってはいない。
「それでも私は信じてるよ、ドルクも、勝利も」
「当然、我々も信じていますよ。人類の勝利を、ですがね」
含みのある言い方にシャルロットは違和感を覚える。
「人類の勝利?」
「ええ、人類の勝利です。我が国だけで解決できるなら我が国の勝利でもいいですが、今回はそうも言えないでしょう。だから人類のなんですよ」
彼の言い分は理解できる。
だが、何故だかシャルロットにはそれが全てだとは思えなかった。
何か裏があるのではないかと思えてしまった。
「カシム、あなた何を企んでるの?」
「企んでいる、とは?」
「今のあなたにメルクリアに対する忠誠心がないような気がするんだけど」
この国が滅ぶと断言したり、滅ぶことに何の感情も抱いていないようだし、人類の勝利という部分を強調するあたり、すでにメルクリア王国を見限っているような気がした。
「あるかないかで言えば正直ないですね」
カシムは戸惑いなく言い切った。
「先ほども申し上げたように、金の切れ目が縁の切れ目です。国庫の金が底を尽き、他国への援軍要請もままならない状況で、陛下が取った行動はまさかの金融商からの融資。多額の金を借りてまで無理やりこの国を存続させようとした。まさに愚の骨頂といえましょう」
言葉の節々から感じていたが、やはり彼にとっては金が全てなのだろう。
それにこの件に関しては国王の独断──いや、シャルロットの進言が招いた結果だ。
賛否両論あるのも致し方がない。当然、その覚悟のうえで行ったことだ。
「それに先ほど殿下は世の中金が全てではないと仰いましたが、だったらどうして殿下はミグルス王国との縁談をお断りになったのですか? 第一王子、フェルミオン殿下の側室になれば、金など用意せずともすぐに援軍を要請できたのに」
魔物災害発生の報せを受けたミグルス王国は即座に遣いを出し、メルクリア王国に援軍の用意があることを伝えた。
その際にミグルス王国側が提案してきた条件が、第一王子フェルミオンとの婚約──第二婦人として輿入れ──することであった。
一般的に王侯貴族の子女は、政における取引材料とされる場合が殆どだ。
血の繋がりを持つことで国家間の同盟関係を強くしたり、家同士の繋がりを確固たるものにしたりと、その意図は多岐に渡る。
「そんなの嫌に決まってるでしょ。なんであんなののお嫁さんにならないといけないのよ。死んでもごめんだわ。自分の妹を蔑ろにするような奴なんて」
だが、シャルロットはそれを拒絶した。
たとえどんな事情があろうとも、自分の意志だけは絶対に曲げたくなかった。
何事にも縛られず、自由に行きたいという自分の意志だけは。
「将来王位を奪い合う仲なのですから、関係が悪いというのも当然でしょう。継承争いをしなくてもいい殿下には無縁の話でしょうがね」
メルクリア王家にシャルロット以外の後継者はいない。
母である王妃は出産時の医療事故が原因でもう子供を産めないし、父である国王も側室を取る選択も出来たがそれを拒否した。
「王位を継承できるのが私しかいないから、他国に嫁ぐことなんて出来ないの。もしそうなったらこの国が終わるでしょ?」
そう理由もあって、シャルロットが嫁ぎに行くという選択肢は取れなかった。
王家の存続が危ぶまれたからだ。
「良いじゃないですか。それでも」
「は?」
不敬にも程がある言動に、思わず低い声が出てしまう。
「祖国がなくなろうとも、民衆は生き続けます。なくなって困るのは権力や利権に依存し続けてきた我々王侯貴族の面々だけ。違いますか?」
「ふざけないで! そんな単純な話じゃないでしょ!」
確かに国が滅んでも人々は生き続ける、かもしれない。だが、今まで通りの生活が保障されるかどうかは、占領した側の国の方針によって変わってくる。
財産を全て奪われるかもしれない。
人権すらも取り上げられて奴隷にされるかもしれない。
女は性の道具に、男は労働の道具に、子供は性別ごとに違った育成をされるかもしれない。
そんな世の中になるかもしれない。
常に最悪の想定を考えて物事を判断しなければ、もし選択を間違えた時に取り返しがつかなくなってしまう。
だからこそ、安易な取引をするわけにはいかないのだ。
「至って真剣ですよ、殿下。民衆なんて馬鹿の集まりなんですから、国の未来なんて誰も考えてなどいません。彼らは今を生きていければいいんです。今さえ生きていられれば国なんてどうなろうと関係ない。だから今もあんな呑気に生活していられるんですよ」
王国の置かれた立場を知っていても、彼らは普通の日常生活を送っている。
「それの何が悪いの? いいじゃん。普通に暮らしてたって」
けれどそれは王家が望んだことでもある。
「私はみんなが恐怖に怯えて暮らしてる方が嫌だし、気が気じゃないよ。それにみんなが普段の生活をしてくれているからこそ、治安維持に回していた戦力の殆どを前線に充てられている。みんなの勇気と協力あってこその今があるんだよ」
未曽有の危機に不安を煽られてパニックを起こされるよりも全然マシだったからだ。
不必要な人的災害を出すくらいなら、まだ平時と同じ心持ちで生活してくれていた方が、王国側としても非常にありがたかった。
「でも、国を見限ったあなたには分からないでしょうね」
「言わせておけば──ッ!!」
カシムはシャルロットの細い首を締め上げる。
ソファに抑え付けるように押し倒し、必死に抵抗するシャルロットの細い両腕をもう片方の手で拘束した。
「この際だから言っておく! この馬車が向かっているのは王城ではない! ミグルス王国、フェルミオン殿下のものへ向かっている! 貴様にはフェルミオン殿下に嫁いでもらう!」
息が出来ない。そのせいで上手く思考が回らない。
言われている内容は何となく理解できる。けれど、それを否定したいのに言葉が出てこない。いや、出せない。物理的に否定が出来ない。
(この手際の良さ……。初めから仕組まれていたのね……)
シャルロットは薄れゆく意識の中、彼らの一連の行動を思い起こす。
王城に連れて戻るだけなのに、何故外交用の馬車を用意したのか。馬車に乗り込んだ後に閉められたカーテン。暗殺対策と言っていたが、時刻は夜。遠距離から車内が見えるわけがない。
王城に帰還するだけにしては過剰すぎる警戒具合。まるで追っ手を気にしているような徹底ぶり。
よくよく考えてみれば怪しい部分は沢山あった。
「後継を失ったメルクリアは存続のためミグルス王国に併呑され、メルクリア王国の領地は全てフェルミオン殿下に付いた貴族たちに分配される! 我々は今以上の領地と権力を手に入れられるというわけだ!」
カシムは血走った眼で、下卑た笑みを浮かべながら喚く。
「これほどワクワクすることはないだろう! そうは思わないか? ぐふふ、思うはずがないか。ないよなぁ。今から貴様は我々のために全てを失うのだからな!」
言葉が出せない。
腸が煮えくり返るこの思いを、この怒りを、彼に浴びせることは出来ない。
全ての主導権が今、彼に合った。
「愚かな女だ。初めからフェルミオン殿下のモノになっていれば良かったものを。片意地張って要らぬプライドで死ななくてもよかった無辜の民を死なせて、時間稼ぎと謳って悪戯に多くの騎士や兵士、傭兵や冒険者たちの命を弄び、最後には一番信じていた側近にすら裏切られるとは……いやはや、実に不幸で不憫な小娘だよ、貴様は」
シャルロットの眦から涙が零れる。
紅潮した頬を伝い、深紅のソファに染みを作った。
(ふざ、けんな……っ!! ふざけんな……っ!! 悪いのは、あなたたちの方じゃない! 国を裏切って、みんなを裏切って、悪いのはあなたたちの方よ!)
悔しかった。悲しかった。辛かった。
今までの全てが、不誠実な奴らに踏みにじられたことが。
この国のために、守るべき大切な人たちのために、戦い続けた者たちの勇姿を蔑ろにされたことが。
でも一番許せなかったのは──、
(──私に、私にもっと、ちゃんと、力があれば! 戦える力があれば、こんなことにはならなかったのにっ!!)
全ては自分自身の無力さが招いたことだと自分を責めた。
「もう王都は脱した。後は国境を越えるだけだ。そこさえ通過してしまえば最早、この国にできることは何もない」
国境さえ超えてしまえば王国軍が追ってくることはない。
越境行為に及ぼうものなら軍事侵攻と見做されて、大軍を以って蹂躙される未来が待っている。
それに今のメルクリアが置かれた立場を考えると、ミグルス王国と事を構えること自体望ましくはない。
ゆえに王国側がこの異変に気付いたとしても越境後ならば、彼らも彼らで受け入れるしかないのだ。
「希望を抱くだけ絶望も深まる。そう考えたら希望とは、ある意味厄災なのかもしれんな」
下卑た笑みが木霊する。
朦朧とする意識、もう持たない。気絶する。
そんな中でもシャルロットは諦めきれずにいた。どうにかしてこの状況を打破できる可能性はないかと考え続けていた。気を失う最後の一秒まで、ずっと。
しかし──、
「──堕ちたか。意外としぶとかったな」
シャルロットの抵抗虚しく意識は闇の中へと消えていった。