第94話『リリアーヌ密談──婚姻を拒否する選択肢』
宮廷の奥深く、午前二時の静寂。
蝋燭の明かりがぼんやりと揺れる小部屋に、リリアーヌはひとりの男と対座していた。
「……これは、国家に対する挑戦とも受け取られかねませんぞ」
囁く声は、王国官僚局・次席参事官オルフェ・セラン。政略婚の監督官であり、同時に、王国における婚姻制度の設計者の一人でもある男だ。
「ええ。だからこそ、あなたと話しているのよ。これは“禁じられた議論”であってはならない。むしろ、今こそ語られるべきなの」
リリアーヌの瞳は、まるで燃える薔薇のように紅く、そして静かに強い。
誰よりも“選ばれる”ことに縛られてきた彼女が、今、“選ばれないこと”を望んでいる──それが、彼女自身をも揺さぶっていた。
「正妃という地位に、私は名乗り出た。だけど、それは愛の形ではなく、制度の枠だった。……タク真様にとっても、私たちにとっても、本当にそれだけが“愛”の証明なの?」
官吏の指先が震える。
彼は長年、法と制度の正統性を守ることに全てを捧げてきた。だが、目の前の令嬢はそれを真正面から突き崩す。
「……あなたの案を、議会に上げることはできません。ただし、草案として残すことは……できなくはない」
「なら、残して。これは“誰も選ばれない可能性”のための記録よ。
正妃を選ばない自由──それがあるからこそ、私たちは“愛し合う自由”を再確認できるのよ」
彼女の言葉は決して激情ではない。
どこまでも穏やかで、しかし反論の余地を許さない美しさを帯びていた。
──愛とは、誰かに“選ばれる”ことでしか成り立たないのか。
──正妃とは、ただの「政治的回答」に過ぎないのではないか。
翌朝、その密談の噂は、まるで羽根のように王城中を舞った。
「ねえ、聞いた? リリアーヌ様が“結婚しない自由”を訴えてるって……」
「でも、それじゃあ王子様の正妃はどうなるのよ?」
「選ばれなかった女たちは……どうすれば、心を納めればいいの?」
そしてヒロインたちの胸にも、揺れが訪れる。
クラリスは、剣の鍛錬中に剣を止めて呟いた。
「……私が求めてたのは、愛の証だったはず。でも、それって“婚姻”だったのかな……?」
エミリアは鏡の前で髪を結いながら、鏡越しに自分に問いかける。
「私は……彼に“選ばれたい”のではなく、“一緒にいたい”のだと思っていたのに……どうしてこんなに不安になるの?」
ソフィアは礼拝堂の一隅で、膝を抱えていた。
「神よ、私は誰のものにもなりたくありません。けれど、彼の隣にはいたいのです。……これは、罪でしょうか?」
誰もが“選ばれる”ことに固執しながら、同時に“選ばれたくない”という矛盾を抱え始めていた。
リリアーヌの提案は、甘美なる毒だった。
社会はそれを危険思想と見るかもしれない。だが、それでも、誰かが最初に口にしなければならなかった言葉だ。
「タク真様……もし、あなたが“選ばない”という決断をしたとしても、私はきっと──」
窓の外に目を向けるリリアーヌ。
揺れるカーテン。その向こうに、まだ見ぬ“未来の愛のかたち”が在る気がした。




