第85話『リリアーヌ、帰還拒否──“正妻”と名乗る気は、もうない』
朝靄にけぶる湯乳郷の奥、まだ誰も踏み入れたことのない秘湯のそばで、リリアーヌは静かに湯煙を見つめていた。
王都からの使者が彼女のもとを訪れたのは、昨夜のことだった。
「リリアーヌ=ヴァン=ルクレール殿。王都より正式な勅命により、あなたを“正妻”として迎える旨をお伝えいたします」
その言葉は、誇りでもあり、呪いでもあった。
あの断罪式から月日が流れ、彼女は今ようやく「乳」と「誠実」という、二重の評価軸から逃れようとしていた。だがその矢先に届いた「正妻」としての帰還命令。
温泉の湯面が揺れる。
彼女の胸もまた、静かに、けれどはっきりと震えた。
「私は……戻りません」
リリアーヌの言葉に、使者の顔が凍りつく。
「これは、陛下の……」
「私にとって“正妻”という肩書きは、もはや“私”を縛るものです。私の“揺れ”は、誰かの称号のためにあるのではありません」
その言葉には、あの日、無乳街で出会った少女たちとの記憶が色濃く刻まれていた。
──“揺れない”ことで誠実を証明しなければならなかった少女。
──“見られること”が怖くて、胸元を押さえて震えていた仲間。
リリアーヌは知ってしまった。
誠実とは、胸の大きさでも、揺れの有無でもない。
その人がどこまで“自分”であろうとするか──それこそが、誠実の正体だと。
同時刻、王都の応接間では、拓真が静かに報告を聞いていた。
「リリアーヌ様より、『帰還辞退』の意思が届けられました」
周囲の重苦しい空気をよそに、拓真は微笑んだ。
「そうか……あいつ、ちゃんと選んだんだな」
誰かの“隣”であることではなく、自分の“居場所”を探すという選択。
それは、彼女にしかできない、誠実の形だった。
その夜、湯乳郷の星空の下。
エミリアやソフィアたちが温泉宿で乳談義を続ける中、リリアーヌは一人、手紙を書いていた。
「拓真へ。あなたが誰かを選んでも、私はもう泣かないわ。だって、私は私を選んだから」
その文字には、揺るぎない筆圧と、ほんの少しの滲みがあった。
夜風に髪がなびく。
湯の音、虫の声、そして遠くの祭囃子が、リリアーヌの心に響く。
「私は“正妻”じゃない。ただのリリアーヌ。けれど、私はきっと……この乳で、世界をもう一度、見つめ直せる」
その決意とともに、彼女の旅が、またひとつ、新たな道を歩み始めた──。




