第78話『君が、私の乳のはじまりだった』
舞台の灯が、また一つ、落ちた。
張り詰めた静寂の中で、ただ一人、彼女は立っていた。
薄紫のドレスは揺れの気配さえ拒むように静かで、けれど胸元にだけ宿る光が、唯一“今も揺れている”ことを証明していた。
「……来てくれると思ってたわ」
リリアーヌ・ド・ラグリス。
かつてこの劇場で“断罪された”悪役令嬢が、同じ舞台に立ち、今度は自らの意志で観客の視線を飲み込んでいた。
そしてその視線の中に──ただ一つ、特別な“目”を見つける。
それが彼、拓真だった。
王都を二分するスキャンダル、外交を巻き込む婚約劇、そして“誠実乳理念”そのものの揺らぎ。
すべての中心に置かれた少年は、たった一つの言葉を口にできずに、ここまで来てしまった。
彼は、誰も選んでいない。
彼は、誰も否定していない。
──でも、それでは誰も救われないことも、わかっていた。
「……俺は、誰の乳も否定しなかった」
拓真の声が、照明の合間に届く。客席からではない。彼は、舞台に歩み出ていた。
「でも……誰の乳も、まだ選べてない」
その言葉に、ざわめきが広がる。
誠実乳王配候補でありながら、拓真は今、公式の場で“選ばない”ことを表明しようとしている。
リリアーヌは、そんな彼を真っ直ぐに見つめ、微笑んだ。
「それでもいいの。私は、誰かに選ばれるために揺れているわけじゃない」
彼女のドレスが、ふっと風に舞った。
音もなく、光の粒が零れ落ちるようなその動きに、場内の誰もが息を呑んだ。
「私が揺れるのは、私の意思。でも……あなたの目が、私の揺れを支えてくれた」
それは告白ではない。
でも、告白よりも深く、告白よりも重い、宣言だった。
──君が見てくれたから、私は乳を張れた。
──君が見てくれたから、私は乳を誇れた。
そして──
──君が見てくれる限り、私は私を嫌わない。
拓真が、一歩前へ出た。
劇場の中央、光の円の中。ふたりはついに“並ぶ”立ち位置を得た。
「リリアーヌ。……俺は、まだ何者でもない。選ぶ勇気も、まだ全部はない。でも」
彼女の瞳が、わずかに潤んだ。
「俺は、お前が揺れる姿を、誰よりも綺麗だと思ってた。……今も、そう思ってる」
彼女の足が、自然と拓真に近づいた。
まるで、あの日。初めて彼に見られた瞬間と同じように。
「なら、これでやっとわかったわ」
リリアーヌが、静かに口元を綻ばせる。
「あなたは……私の“乳のはじまり”だったのよ」
その瞬間、劇場の天井が静かに開き、夜空の星が降り注ぐ幻想演出が始まった。
風に舞う光の粒。それは、揺れる心の可視化。誠実乳理念が可視化した“感情の乳”だった。
誰かに見られる勇気。
誰かを見つめる誠実。
それらが、揺れとして、形を超えて、世界に宿る。
ふたりは手を取り合わない。抱き合わない。ただ、並んで立っているだけ。
でも、それだけで十分だった。
──誠実とは、“揺れ”を肯定すること。
──愛とは、“選ばなくても、見続けること”。
拍手も、歓声もない。ただ、沈黙だけが、この時間の尊さを支配していた。
そして次の一幕。
世界は、また動き出す。
ふたりが並んだ瞬間、観客席では誰もが息を呑んだ。
──まるで“あの日の断罪”のやり直しだった。
ただし、今回は違う。誰もリリアーヌを責めない。
誰も、彼女の乳を「傲慢」だとは言わない。
それどころか、今の彼女の揺れは、王都中の“理想の揺れ方”となりつつあった。
だがその空気に、ただひとり噛みついた者がいた。
「──茶番ですわね」
照明の端に立ち、ゆるくウエーブのかかった金髪を揺らしながら、
高飛車な目線で睨み下ろすのは──新たな令嬢、クラリス・フォン・アルザリア。
「“選ばない”という選択肢で、どれほどの女が泣かされてきたか。
その罪を、あなたは“誠実”という言葉で包んで逃げるのですか?」
クラリス。
誠実乳大陸・北方辺境国の代表令嬢であり、政治力と乳力の両方を兼ね備えた逸材。
それは同時に、“見せない揺れ”の美学を体現した存在でもあった。
「……逃げてなんかいない」
拓真の声が、静かに応じる。
「俺は、俺の言葉で、自分の気持ちを見つけてる最中なんだ。
……“この胸で応える”ってことの重さ、まだ全部は抱えきれてない。でも」
リリアーヌが小さく頷く。
拓真が彼女の“揺れ”を認めたからこそ、彼女もまた、
クラリスの“揺れなさ”を否定しなかった。
「ならば問います。あなたにとって“乳”とは何ですか?」
クラリスの声が、観客席すら凍らせるように響く。
──来た。これが、この舞台の本質だ。
乳における定義闘争。
“揺れること”と“揺れないこと”、どちらが誠実なのかという対立。
「……人を思う証だ」
拓真が、真正面から答える。
「揺れるのも、張るのも、隠すのも……みんな誰かを想うからだ。
その形はひとつじゃないし、正しさはひとつじゃない。
でも俺は、そのどれも、笑いものにはしたくない」
──静寂。
誰かが泣いた。
誰かが拍手した。
誰かが、「やっと言ってくれた」と呟いた。
舞台上。
リリアーヌが、そっと横顔を向ける。
「……やっぱり、あの時見ててくれたのね」
「ずっと見てた。……でも、ちゃんと“見返した”のは、今だ」
ふたりの間には、何も生まれない。
キスも、契約も、愛の誓いも──まだ、ない。
ただ、乳が“はじまった”だけだ。
「君が、私の乳のはじまりだった」
「そして……君が、俺の“見る理由”になった」
そうして幕は静かに下りる。
まだ何も決まらない。
だからこそ、観客たちはこの物語の“続きを”求めるのだった。




