【第42話】 『言葉を持たぬ乳たちへ──亡命者の胸』
──誠実乳基本権憲章、国際的な波紋の広がりと共に。
ラグリス王国の西端、フェレスト辺境に位置する難民保護区域。
その朝、誠実乳育成塾へと一本の報せが届いた。
【連絡】
隣国〈ヴァルト=エン州〉より亡命した女性たちを、本日王都へ移送予定。
理由:乳育成に関する強制収容を逃れた者たちへの文化的保護。
乳による亡命。
それは一見、滑稽な言葉遊びに見えるかもしれない。
だが、彼女たちは真剣だった。
「揺れてはいけない」と教えられてきた。
「張るのは淫らである」と刷り込まれてきた。
揺れないことを正義として“沈黙”を命じられた彼女たちは、
命がけで“胸を張る国”を目指したのだった。
◆ ◆ ◆
──王都・誠実乳育成塾、中央講堂。
その日から特設講座《心に触れる乳の言語補講》が開始された。
担当は──エミリア=ハーツ。
自らも、魔導増殖という形で揺れを与えられ、揺れを恐れ、揺れを選び直した少女だった。
「みなさん、こんにちは。……と言っても、言葉は通じないかもしれませんね」
講堂の最前列には、10数名の女性たち。
いずれも年齢は20代後半から30代前半。
皆、胸元を縮こまらせ、姿勢を正しく固め、目を合わせることすらできずにいた。
「無理に笑わなくていいです。でも──見てください」
エミリアは、黒板にこう書いた。
【乳とは、心の動きの延長である。】
「あなたたちの国では、“乳は隠すべきもの”とされていたかもしれません」
「でも私たちは、乳を“選べる”と信じています」
彼女は、静かに胸に手を置いた。
「私は、あなたたちに“揺れろ”とは言いません。
でも、“揺れないことを自分で選んでいい”とも、言いたいんです」
亡命女性の中で、一番年上と思しき者が、手を挙げる。
言葉は通じない。けれど、震える指先で、胸元を握った。
「……かつて、私は張っていた。少女の頃に。けれど、そのせいで母に泣かれた」
「以来、私は乳を“止める”ことにした。でも今……ここに来て、それが揺れた」
通訳を通して伝わった言葉に、講堂が静かになる。
エミリアは、かすかに目を潤ませながら言った。
「矛盾してる。張りたいのに張れない。張ると誰かを傷つける。でも張らなきゃ、自分が壊れる」
「……その“矛盾”があるってことは、まだ“変われる可能性がある”ってことなんです」
「完全に沈んだ心は、何も感じません。でも、“揺れた”と感じた瞬間、
それはあなた自身が“生き直そう”としてる証です」
◆ ◆ ◆
その夜、宿舎で亡命女性たちのひとりが、こっそりとエミリアに聞いた。
「……どうして、あなたはそんなに自分の乳に自信を持てるの?」
エミリアは、しばらく黙ってから、ゆっくり言った。
「自信なんて、ないです。むしろずっと、持てなかった」
「でも、ある日気づいたんです。“私は、この乳と一緒に、泣いた”って」
「だからこそ、“この乳で笑っていい”って、自分で許したんです」
◆ ◆ ◆
数日後。
亡命者の一人が、初めて講堂の壇上に立った。
彼女は緊張で震えていたが、胸に手を置き、こう言った。
「私は……張ります」
「まだ怖い。でも……揺れても、誰も私を罰しないこの国で、私は……私の乳を信じてみたい」
その言葉に、会場が拍手で包まれる。
揺れとは、言葉よりも誠実だった。
そして、それは国を越えて、心を伝えていた。




