第103話『リリアーヌ、北境の風に立つ』
王都ルセンティアを出て七日。
北境の大地は、思った以上に寒かった。
空気は張り詰め、吐く息はすぐに白くなり、指先が冷えて痛くなるほどだった。
それでもリリアーヌは、一度も背筋を曲げなかった。
「ふぅ……」
馬上で息をつくリリアーヌの吐息が、細く長く伸びて消える。
銀の髪が氷の風に靡き、純白の外交礼装の裾がふわりと揺れるたびに、その胸元がわずかに上下する。
王の女としてではなく、外交官として。
“王妃”としてではなく、“自分”として。
彼女は今、ここに立っていた。
北方領・氷雪の王都フロストヴァル。
雪に閉ざされたその城塞都市は、白と青の石造りの街並みが続き、吐息を凍らせるような冷たい風が吹き抜けていた。
その玉座の間で、ひときわ冷たい視線をリリアーヌに向ける少女が座していた。
氷姫エルシア──
氷のような銀髪に冷たい碧眼、雪のように白い肌。
そして、薄い衣装の下には隠せぬほど豊かな乳房が鎮座していた。
その胸元を冷気が撫でるたび、胸の頂がわずかに立ち上がり、氷姫の冷たさと女としての温度が同居する。
「遠路はるばるご苦労だったわね、王都ルセンティアの“王の女”」
冷たく笑うエルシアの瞳には挑発の色が宿っていた。
リリアーヌは笑わなかった。
「私は“王の女”としてここに来たわけではありません」
「そうかしら?」
エルシアが立ち上がる。
雪のように白いドレスの胸元が揺れるたび、城内の冷気が揺れ、周囲の兵士の視線が泳ぐ。
「あなたは王の側にいた。王妃の座を奪えず、王の隣に立つこともできなかった。ただの女が、一体何をしに来たというの?」
「私の名はリリアーヌ=エストレーラ。王都ルセンティアから外交任務で来た“王国の使者”よ。あなたの国と私の国の未来を繋ぐために来た」
「……“王の女”としてではなく?」
「いいえ」
リリアーヌの銀髪が揺れる。
「“私”としてよ」
交渉の席。
白い雪花が外で吹き荒れる中、氷姫エルシアとリリアーヌは向かい合って座っていた。
エルシアの碧眼は冷たく、しかしその奥で何かが揺れている。
「王都は“王妃なき王”を認めたそうね。滑稽だと思わない? 王の座に座るくせに、その隣を空席のままにするなど」
「それが彼の選択だったから」
「あなたはそれを認めるの?」
「ええ。彼が決めたことなら」
エルシアは少しだけ表情を崩した。
「そんなに愛しているの?」
「愛してるわ」
「その愛の証は何?」
「私がここにいることが、その証よ」
エルシアは声を失った。
だがすぐに小さく笑う。
「強いのね、あなたは」
「ええ。だって私は、私の乳で生きているもの」
リリアーヌは胸を張った。
その胸が呼吸に合わせてわずかに上下する。
それは挑発でも誇示でもなく、“誠実”の証だった。
交渉は難航した。
氷雪の北方領は独自の文化と政治体系を持ち、ルセンティアの“王妃なき王政”に懐疑的だった。
だが、リリアーヌは一歩も引かなかった。
「私たちは乳で国を分けるつもりはありません。乳で国を繋ぐつもりもない。ただ、私たちは“私たち自身で立つ”未来を望んでいるだけ」
「乳で揺れる女の戯言ね」
「ええ、それで結構」
リリアーヌは笑った。
「でも、あなたも揺れているわ。……女として」
「……何を言って」
エルシアの胸元が、わずかに震えた。
夜。
交渉は一時休戦となり、リリアーヌは氷姫の私室に呼ばれた。
雪を思わせる純白の寝間着姿のエルシアが、暖炉の前で立っていた。
「今夜は冷えるわね」
「そうね」
「……ルセンティアの王は、どんな男?」
「優しくて、弱くて、強くて、臆病で、勇敢な男よ」
「よくわからないわ」
「私もよ」
リリアーヌは笑った。
「私も……本当は、王の隣に立ちたかった。でも、彼が選んだのは“選ばない”という選択だった。だから私も、選ばれるための乳じゃなく、自分で立つ乳になることを選んだの」
「……そう」
エルシアは胸元を握った。
「私もね、本当は“誰かのために揺れる乳”でいたかった。でも、私は氷姫。揺れることは許されない」
「揺れない乳なんて、乳じゃないわ」
リリアーヌがそう告げると、エルシアの瞳から一筋の涙がこぼれた。
「……私、揺れたいのかもしれない」
「いいのよ、揺れても」
リリアーヌはエルシアに近づき、その手をそっと握った。
「私も、あなたも、揺れていいの」
翌朝。
交渉は成功裏に終わった。
氷姫エルシアはリリアーヌの手を取り、宣言した。
「ルセンティアの“王妃なき王”の未来を、私も見てみたい」
「ありがとう」
「でも、負けないわよ。“王の女”としては」
「望むところよ」
二人は笑い合った。
北境の風は冷たい。
だがその風に揺れる銀髪と白い胸元は、確かに暖かかった。
その胸は揺れていた。
誰かのためではなく、自分のために。
リリアーヌは北の空を見上げ、静かに誓った。
「私の旅は、まだ終わらない」
その胸元に、春の風が優しく触れて揺れた。
(第103話 完)




