第102話『それぞれの胸(こころ)に、別れを刻んで』
王都ルセンティアに吹く春の風は、いつもより少し暖かかった。
桜のような白花が道の石畳を染め、風が吹くたびに花弁が舞い上がり、王都の空気を甘い香りで満たしていた。
その日は、別れの朝だった。
だが、それは悲しみだけの別れではなかった。
それぞれがそれぞれの未来へ歩むための、誇り高い旅立ちの日だった。
王宮前の広場には、ヒロインたちが一列に並んでいた。
リリアーヌ、エミリア、クラリス、ソフィア、マリア。
王妃に選ばれることはなかった。
だが、それは敗北ではなかった。
彼女たちはそれぞれ、“王に選ばれなかった”のではなく、“選ばれない自由を選んだ”のだ。
その前に、王──拓真が立っていた。
胸に手を当て、深く息を吸い込む。
「……いよいよ、だな」
誰に言うでもなく呟くその声を、リリアーヌが聞きつけて微笑んだ。
「ええ。ようやく、ね」
最初に声を上げたのは、クラリスだった。
「おい、王様ぁ!」
いきなり声を張り上げ、胸を張って言う。
「お前のせいで、私の人生がむちゃくちゃになったんだぞ! けどよ……嫌いじゃなかった!」
彼女は笑った。
その笑顔は照れくさくて、でもどこか泣きそうで、胸元の布がわずかに揺れるのがわかった。
「私さ、やっぱり“王の女”じゃなくて、“自分で立つ女”になりたいんだ」
「……ああ、クラリスらしいな」
「うっせえ! 行くぞ! 王都の防衛は私が担う! だけど、お前が泣きそうな顔してたら帰ってくるからな!」
そう言い残し、クラリスは背を向けて歩き出した。
エミリアが、その後ろ姿を見送りながら言う。
「……ふふっ。あの子は最後まで不器用ですわね」
エミリアの胸元に、小さな風が吹く。
「私も……決めましたの。私はこの国のために剣を振るいます。あなたに認められた剣士として」
「エミリア……」
「でも、誤解しないでくださいませね?」
彼女が拓真の耳元にそっと囁く。
「恋も、女も、あきらめたわけじゃありませんのよ。いつか、私だけを見てくださる日が来るまで──胸を張って、剣を振り続けますわ」
「……ありがとう、エミリア」
「ええ」
彼女は背を向けず、真っ直ぐに歩き去った。
揺れるその背中は、凛として美しかった。
ソフィアが歩み寄る。
彼女は胸元に手を当て、小さく十字を切った。
「私も、ここでお別れを言います」
「ソフィア……」
「私は神に仕える身。これから先も、その道を選びます」
「……そうか」
「でも」
その瞳が、初めて少女らしく揺れた。
「神への祈りと同じくらい、あなたの幸せを祈っています。だから、あなたも胸を張って、生きてください」
「ありがとう、ソフィア」
「ええ」
彼女は笑い、神殿へ向かって歩き出す。
白い祭服が花びらの中で揺れ、その胸元の小さな揺れが光に照らされて消えていった。
次に歩み出たのはマリアだった。
眼鏡越しの瞳が、静かに笑う。
「私も、本を書き続けます」
「……マリア」
「あなたがくれた“揺れ”を、言葉に残すために」
「俺は……君の書く言葉に、ずっと救われてきた」
「私もよ」
そっと微笑むその姿は、大人びていて、でもどこか少女らしい儚さを帯びていた。
「また、いつか会いましょう。そのときに、私の本を手に取ってくれると嬉しいわ」
「必ず読むよ」
「ありがとう」
彼女はくるりと踵を返し、本を抱えたまま去っていった。
その背中が遠ざかるたびに、風が吹き、桜の花びらがひらひらと胸元に落ちて消えた。
最後に残ったのはリリアーヌだった。
静かな時間が流れる。
「……皆、行っちゃったわね」
「……ああ」
「私も、行くわ」
その言葉に、胸が痛んだ。
「……そうか」
「でもね」
彼女は、そっと近づいてきて、その柔らかな胸を拓真の胸に当てた。
「どこへ行っても、この胸だけは、あなたの前でだけは、私のままでいさせて」
「リリア……」
「私ね。選ばれなかったことを後悔してないの」
「……」
「だって、選ばれないことで、私たちは皆、自分で立てるようになったんだもの」
「……ありがとう」
「ううん。私が言う言葉じゃないわよ」
顔を上げ、優しく笑う。
「あなたが選んでくれたの。“私たち自身で生きる未来”を」
「リリア……」
「あなたが泣きそうなときは、必ず帰ってくるから」
「……うん」
彼女は背を向けて歩き出す。
でも、その歩みは遅く、振り返っては笑い、また歩き出し、最後に振り返ったときには小さく手を振った。
「じゃあね、王様」
その言葉が、春風に乗って届いた。
全員が去った後、拓真は一人、空席の玉座を見上げる。
風が吹く。
桜の花びらが散る。
「……どの胸にも、帰っていい扉を残しておくよ」
小さく、しかし確かにそう誓った。
それは、恋ではなく、友情だけでもなく、ただの王の責任だけでもない。
それは、「愛」だった。
揺れ続ける愛だった。
(第102話 完)




