第101話『王政再編──“王妃なき王”の船出』
王都ルセンティアの空は、くっきりと晴れていた。
まるで王国がようやく長い混乱の夜を抜け、新しい朝を迎えたかのような空だった。
だが、広場に集まった民の表情はその空のように澄んではいなかった。
乳をめぐる戦い、笑顔、涙、揺れ、別れ、そして誓い──
すべてを経て、それでもまだ残る「王妃なき即位」という現実が、彼らをざわつかせていた。
「──王子殿下改め、新国王・拓真陛下、ここに即位いたします」
老王の言葉と共に玉座の上に歩み出る少年──いや、青年となった拓真。
青の礼服に金の飾緒。
剣は腰に下げられず、胸元には王家の紋章が光る。
その胸元に掲げられた紋章の周囲は、広場を埋め尽くす民の視線で埋められていた。
「……王妃席が、空席のままだ……」
誰かのつぶやきが、静寂の中に溶けて消える。
だが、その“空席”こそがこの国の選択であり、拓真自身の答えだった。
拓真は深呼吸をひとつ。
掌が汗ばむ。足の裏が震える。
それでも、踏み出す。前を見て。
「──私は……」
声が響く。風が止まる。世界が注目する。
「私は、“王妃を選ばない”ことを、選びました」
どよめきが起こる。
「王妃が必要だという意見はわかっています。私も、ずっとそう思ってきた。王妃とは、国母であり、民の象徴であり、未来への希望だと」
その言葉に、多くの老人たちが頷く。
「でも、私には選べなかった。……いや、選ばなかったんです」
手が震えているのが自分でもわかる。
だが、それを隠さずに彼は続ける。
「乳に順位をつけることが、私にはできなかった。誰かを選ぶことが、他の誰かを否定することになると知っていたから」
誰もが知っている言葉だった。
誰もがわかっていた痛みだった。
「でも、だからこそ……私は、誰も選ばないことを選んだんです。国の未来は、誰かひとりの乳で決まるものではない。揺れることを恐れず、共に揺れて生きることが、私たちの未来だと信じています」
王妃席の空席が、揺れた風に僅かに鳴った。
風に乗って舞う花弁が、その空席に触れたとき──
まるで笑っているかのように見えた。
即位式が終わると、王都は二つに割れた。
「王妃不在など国家の恥だ!」と叫ぶ保守派の老人たち。
「選ばない王様って最高に優しいじゃん!」と目を輝かせる若者たち。
市場の真ん中で、二人の老婆が言い争っていた。
「だからあんたたちの若いもんは甘いんだよ! 王妃がいない王なんて、料理に塩が入ってないようなもんだろうが!」
「塩分過多のあんたらの料理よりよっぽど健康的だよ、ばあさん!」
どちらが正しいのかは、誰にもわからなかった。
ただ、みんなが揺れていた。
乳のように、心の奥で揺れていた。
夜が来ると、王宮は静まり返る。
いつものように乳会議──“後宮非公式乳会議”──が開かれることもなかった。
拓真はひとり、自室のテラスに出て夜風を受けていた。
「……これでよかったのか」
誰に問うでもなく、空に投げかける。
その問いに、答えはなかった。
ただ、夜風が頬を撫でるだけだった。
そのとき、ドアがノックされる。
「……どうぞ」
ゆっくりと入ってきたのはリリアーヌだった。
銀髪が夜の灯りに揺れ、白いドレスの胸元が、静かに呼吸に合わせて上下している。
「見事な演説だったわ、王様」
微笑むその顔は、どこか寂しそうで、どこか誇らしげで、どこか悲しそうだった。
「……ありがとう。でも、ごめん」
「何を謝るの?」
「……選べなかったことを」
リリアーヌはふっと笑った。
「私が選ばれたかったとでも思ってるの?」
拓真は黙ったまま、彼女を見つめる。
「あなたが選ばなかったことは、私たちを否定したことじゃないわ。私たち全員を肯定したことなのよ」
歩み寄るリリアーヌ。
近づくたび、胸の柔らかな揺れが布越しに伝わる。
「それに……」
目の前まで来た彼女が、そっと手を伸ばして拓真の胸に触れた。
「あなたが王様になった瞬間、私も決めたの。私は私でいるって。誰かの“ための乳”じゃなくて、私自身のための乳でいるって」
その言葉は、誓いだった。
「ありがとう、リリア……」
「いいのよ。だってあなたの選択は、私の選択でもあったから」
そして、彼女はそっと踵を返した。
「明日から、本当の“王政再編”が始まるわね。ハーレム政、王妃なき王国……あなたの挑戦はこれからよ」
その背中を見送りながら、拓真は胸に刻む。
「……選ばない自由を選んだ俺の責任だ。俺は、逃げない」
夜風がその言葉をさらっていく。
夜空に浮かぶ月は、どこか笑っているように見えた。
それが祝福なのか、嘲笑なのかは、まだわからない。
だが、王国は動き始めた。
“王妃なき王”という船出が、夜の海を進んでいく。
これが、この国の、新しい朝の始まりだった。




