湧き上がる感傷
「北條さん、北條さんってば」
苗字が呼ばれるのは決まって叱られる時だけだと思っていた。だけどこの声は叱るというよりも、もっと優しい声色だった。懐かしい気持ちにさせる、誰なんだろう。
眠気まなこを擦りながら、声の主に目を向けようと瞼を持ち上げる。ぼやけた視界が明るくなった。もう一度、誰かが私に声をかける。
ゆっくりとした私の動作に業を煮やしたのか、その人は強引に腕を引いた。よろめき立ち上がった私の膝から、呆気なく鞄が滑り落ちる。
「もうなにしよん! はよいくよ!」
はっとした私は、ようやく声に反応した。
「え、ま、待ってよ」
何が何だか分からず、引きずるようにして鞄を手繰り寄せる。そのまま両開きのドアをくぐって外にまろび出た。
駆動音とともに扉が閉まる。振り返ると、電車のドアが見えた。窓際に座っていた年配の男性が、何事かとこちらを見つめていた。
私は辺りを見回す。
ここは、駅……?
なんだか懐かしい景色だった。見慣れた古びた大きな駅。行き交う通勤通学の人々。学生の頃はよくこの電車を乗り換えに使ったものだ。ホームの数がやたらと多く、使ったことのないな路線の電車がホームを跨いで点在する。
だけど変だった。この駅は数年前に改築が終わり綺麗に整備されたはずだ。私の眼の前には今は無き地上階の改札口が、あの頃のまま残されていた。
どうして?
「北條さん………大丈夫………?」
心配そうな声が耳に入ってきた。さっきから私の名を呼ぶ声。顔を向けた私は、大きな衝撃を受けた。
「凛………?」
高校からの同級生。向井凛が、驚いた顔で私の横に立っていた。
最後に会った時のまま、何も変わらない。いや、幼くなっているような気さえする。懐かしい、本当に懐かしい。
華奢で小さく、愛らしい顔立ち。昔遊んだドールハウスの住人であるウサギやリスにそっくりだったが、彼女の前でそれは禁句だった。寒さで顔が赤くなった彼女が目を白黒させながら呟く。
「え……今、凛って……」
私は怪訝な顔を作って凛を見た。何を今更言っているのだろう。私たちは大学まで一緒だったのに。
眉をひそめた私、そしてようやく事のあべこべさに気が付いた。
待って、やっぱり変だ。なんで凛が高校生の格好して一緒の電車に乗ってるの?
私は目線を下げて自分の体をまじまじと見つめた。
………なにこれ、どうなってるの?
高校の時愛用していたキャラメル色のダッフルコート。その下には凛と同じ制服を着込み、覆うような紺色のスカートと膝下までの靴下を履いている。
もちろん、こんなものに着替えた覚えはない。
握りしめていた鞄には見覚えのある某黄色い熊のぬいぐるみ。これは確か、実家にずっと置いてあるはずだった。
状況の飲み込めない私に、凛が心配そうに尋ねる。
「本当に大丈夫? 具合悪いの?」
見上げる彼女の仕草に、私は胸が突かれる思いだった。私は過去の自分になっているし、凛も過去の凛だ。
広い駅舎もあの頃のまま、古くてぼろぼろ。私の脳内だけが、この時代に取り残されたみたいに不思議な感覚に陥る。
私は鼻で笑い、頭を振って凛に返事をした。
「ううん、平気。心配かけてごめんね」
これは夢だ。そうに違いない。うん、私はまだおかしくなってない。
私は変なテンションで嬉しくなって目を輝かせた。天井を見上げ懐かしさを全身で浴びようと、腕を広げる。
夢、そうよ。夢じゃなきゃこんな光景、説明がつかない。
「……北條さんって……面白いね……」
あくまで取り繕ってくれる凛の言葉。そう言われた私は、恥ずかしさよりも臆面ない喜びが溢れてくるのを感じた。
彼女ともう一度会って話しができるなんて、まさに夢のようだ。
高校一年生の冬、私は東京から引っ越してきた。都会に慣れた私にとって、地方で暮らすことがどんなことか、あの頃はよく分かっていなかった。電車は来ない。コンビニは少ない。山と畑はやたらと近い。訛りに訛った地元の人間と、チャンネルの少ないテレビ欄。
まさに異世界への転生。
流行りの言葉に乗せられて、そんな世迷い言が出てきてしまう。