わたしだって傘をさしたい
届かない文字の羅列が、握りしめた携帯の画面を支配していた。
明日香先輩が私からの連絡を無視するようになって一週間。そろそろ何かしらのアクションを起こした方がいいんだろうか。
あれから一週間、別れ際に言われた言葉が、頭の中で壁打ちでもするように跳ね返って鳴り止まない。
『……詩織は、さ。わたしがいなくても、きっと生きていけるよね……?』
どうして明日香先輩はあんなことを言い出したんだろう。いくら考えてもわからなかった。考えれば考えれるほど、思考は宙に浮いてどこかに飛んでいってしまう。そのまま明日香先輩のところまで行けたらいいのになと思った。
返事が来ない理由を考えてみる。その一、私のことが嫌いになった。その二、携帯が壊れて連絡手段がない。その三、明日香先輩の身に何かが起こった。
「無事、だよね……?」
とりあえず潰せる選択肢は潰しておこう。と言ってもどうしたらいいものか。おばさんたちから連絡はないから、然るべき施設にお世話になっているなんてこともないだろうし、とりあえず電気が点いているかだけ確認して帰ればいいか。
指に鍵を引っ掛けて靴を履いて外に出る。陽も落ち始めたこの時間なら電気が点いているか確認しやすいし、いなかったら少し時間を潰してからまた覗きに行けばいいだけだ。いっそ張り込んでもいい。
徐々に夜色に染まっていく空を眺めながら、幻想的な空気を感じていた。この時期の空は綺麗で好きだ。もっとも、空が綺麗じゃないことの方が珍しいけど。空はいろんな表情を見せてくれる。笑ったり、輝いたり、泣き出したり。特に夜の空は、見上げれば月が見えるから好きだ。
「えっと、明日香先輩の部屋は最上階の角部屋だから……」
明かりは点いていない。外出中か、それとも何かあったか。嫌な予感が舌の上を転がってざらざらとしている。
その時、ポケットの中で携帯電話が自己主張を始めた。音は切ってあるのでバイブレーションだけだ。
画面に表示されたメッセージを見て、心臓が飛び上がりそうになる。
『ごめん詩織。お願い、話をさせて。あの歩道橋で待ってるね』
私は走り出していた。体中が汗ばむ。全身の血管が沸騰して心臓が破裂しそうだった。それでも私は足を止めない。いや、止められない。早く会いたい。会って話がしたい。ただその一心で走り続ける。
次の角を曲がれば目的地だ。急いで階段を上る。歩道橋の真ん中あたりに、欄干に背中を預けた明日香先輩がいた。
「あ……す……はぁ……はぁ……せんぱい……」
「……詩織。そんなに急いで来なくても大丈夫だよ。わたしはどこにも——」
「行ったでしょ……! この一週間、私に連絡も寄越さなかったくせに……! どこか遠くに、行っちゃったじゃないですか……」
「……ほんとにごめん」
肩で激しく息をしながら喋っているせいで、喉がカラカラだ。もう正直これ以上声を出すのは苦しかった。明日香先輩に手で合図を出して、呼吸が整うまで待ってもらうことにした。
「……どうして、急に音信不通になんかなったんですか」
やっとの思いで息を整え、明日香先輩に質問する。言いたいことは山ほどあったが、今こうして話ができるならすべて聞けるだろうと思った。
「……詩織、お父さんのことわたしに一言も相談しなかったよね。何かあったら相談してねって言ったのに。だから詩織にはもうわたしのことが必要ないんじゃないかって思っちゃったら……悲しくなって」
明日香先輩は空を見上げた。すっかり陽は落ちて、月が私たちを照らしていた。
「そんな時、元彼から連絡があったの。縁を戻したいって。『君が必要だ』なんて言われちゃって……わたしには詩織がいるからって断ろうと思ったのに、詩織にはわたしが必要ないかもしれないと思ったら急に怖くなった。自分がどこに立ってるのかわからなくなっちゃって……」
「だから、私の前から消えようとしたんですか?」
明日香先輩は力なく笑った。そのすべてを肯定した笑顔に、私はなぜか無性に腹が立ってきた。
本当に弱くて、どうしようもない。まるで誰かさんみたいだ。
「……私、いつも明日香先輩の背中を追いかけてきました。幼い頃からずっと。でも気づいたんです。今は私、先輩の彼女なんだって。追いかけるんじゃなくて、並んで歩くんだって。そしたら、私は自分の過去と一人で向き合わないといけないなと思ったんです。明日香先輩の力を借りたくないって」
汗が引いて少し寒くなってきた。肺に入ってくる空気が冷たい。
「父が帰ってきた時、私は帰る場所を失った気がしたんです。でもあの日、明日香先輩から電話をもらって気づいた。私の十二年間を作ったのは他でもない明日香先輩で。私の帰る場所はもう既に先輩の隣しかないんだって」
私ははっきりとした目で明日香先輩を見据えた。あの日と同じように。
「だから明日香先輩。私の側にいてください。私のことを離さないでください。私のこれからを……一緒に作ってください」
「うん……大丈夫。わたしね、自分の立ってる場所がわからなくなって。……元彼と、海に行ったの。そしたらね、月が出てた。大きな満月が、水面に揺れて。あの夜のこと、思い出したの」
明日香先輩は一歩前に出て、私の方を振り返って優しく微笑んだ。
「月を捕まえたんだから、わたしたちの愛は永遠だって、思い出したんだ。わたし、どんなに詩織が離れていっても、詩織のことが好きなんだって。今のわたしは、詩織にその手を振り解かれても、引っ張って抱きしめるだけの勇気がある」
月明かりが、明日香先輩の顔を照らし出す。その表情に、翳りは無かった。
「詩織、いつか言ってくれたよね。わたしの心に雨が降り止まないなら、傘を差すから側にいてって。わたしもね、傘をさしたいの。詩織の心に雨が降るなら、一緒に傘をさしたい」
「それじゃあ、傘は二つも要りませんね。だから——」
私は一歩踏み出して明日香先輩の隣に立つ。そして手をそっと握った。
「一緒に入りましょうか。二人で一つの傘を持って」
「うん。本当に弱くて、どうしようもないわたしだけど……これからもよろしくお願いします」
「はい。……ふふ、今日は晴れてるのに変な話ですね」
「そうだね。晴れてるのにね。ふふっ」
今日は満月だった。月夜に微笑む明日香先輩を見て、私は。
綺麗だな、と思った。