欠ける、月
わたしが詩織に依存するようになったのは、中学に入ってからだった。
自分で言うのもなんだけどわたしは周りよりテストの成績が良く、勉強ができた。そのせいか女子のグループに入れず、わたしはどんどん孤立していった。それこそいじめられるまではいかなかったけど、確実にみんながわたしを避けるような態度をとっていた。出る杭は打たれるってやつなのかな。学校に居場所がなかったわたしは、終業のチャイムが鳴ると逃げるように教室を後にしていた。
そんな時、詩織の側にいると落ち着いた。詩織の前では、得意な勉強を披露しても詩織に嫌われるどころかむしろ慕われた。いくらゲームで詩織を負かしても、詩織は拗ねるどころかわたしに尊敬の眼差しを向けてくれた。思えば人に好かれることの心地よさと、嫌われることの怖さを覚えたのは中学の頃だったと思う。
高校生になって、わたしは変わりたいと思った。人から好かれるようになりたい。だからまずは、入試の成績で一番になって新入生代表挨拶を勝ち取った。そこでは、明るく、はきはきと、笑顔で。学校生活では周りへの気配りも忘れずに。偏差値の高い高校に入れたから、勉強はさらに頑張った。それはもう、学年でトップを取るほどに。それから、積極的に活動して人を動かすために自分が手本になることを心がけた。そういうわたしを見て、最初はどう接したらいいかわからないような距離感だった人たちも、次第に心を開いてくれた。そんなわたしに好きだと言ってくれる人は中学の頃より確実に増えた。先生方からの信頼も厚く、男子生徒から告白されることも増えた。
でもわたしは、告白をすべて断った。だって、ひとりの人間を愛してしまったら、他の人からの好意を受けられなくなる。それにわたしは、ひとりからの愛が欲しいんじゃなくて、大勢からの好きが欲しい。適度な距離感から生まれる「好き」は心地よい。誰の物にもなりたくなんてなかった。
ただ例外がひとつ。あの子から告白されるなんて思いもしなかった。
人生の淵にいた頃にわたしを支えてくれた詩織からの告白に、わたしは返事をすることができなかったのだ。
「どうかした?」
それは詩織と実家に帰省した時のこと。詩織と一緒にわたしの家に泊まって、レンタルビデオ屋で借りた映画を二人で見ていた。
詩織が携帯を見つめて青ざめている。昨日もぼーっとしていたし何かあったんだろうか。
「いえ、母が急用らしくて。一度帰ってこいと」
「なんだろう……気になるね」
「はい……まあ、電話をかけるほどの急用じゃないんでしょうし、すぐ戻ってきます」
浮かない顔をして詩織はわたしに背を向ける。その背中を見つめながら、わたしはぼんやりと不安の輪郭みたいなものを感じていた。詩織の身に何か起こるんじゃないだろうか。暗雲立ち込めるとはまさにこのことだろうと思った。
そんな時、わたしの携帯が自己主張を始めた。軽快な着信音とは裏腹に、画面に表示された名前は重い。
一瞬取るか迷ったが、何か大事な用だったりしたら困るし、と言い訳をして電話に出る。
「……もしもし」
「ああ、よかった……! 久しぶり明日香。元気してた?」
どの面下げて元気にしてたかなんて聞いてくるんだろう。わたしをフったくせに。
「……久しぶり、悠くん。どうしたの」
「いや、別に用があるというかなんというか……そんな大事な用じゃないんだけどさ」
なんとも歯切れが悪い。つまり言いにくいことなのだろう。言いにくいことなら言わないでほしい。無性に腹立たしかった。
「俺たちさ……もう一度やり直さないか」
耳を疑った。それとも携帯が故障したんだろうか。今なんて?
「……えっと、その。確認なんだんけど、それは縁を戻したいってこと……だよね?」
声が震えている。驚きの色すら隠せず、戸惑いが宙に浮いているようだった。
「……うん、そうだよ。とりあえず、会って話がしたい。会えないかな……?」
「……ごめん。今実家だから、その……」
今のわたしには詩織がいる。だからもう、悠くんは必要ない。
それでも後ろめたさが残ってしまう。感情が、苦さを口の中に残して尾を引いているようだった。
「わかった……また連絡するよ」
それだけ言われて、悠くんとの会話は終わった。
悠くんとは、大学に入ってから出会い付き合った。誰の物にもなりたくなかったわたしは、詩織からの告白を受けて逃げるように男と付き合ったのだった。詩織からの告白を受けてわたしは、言いようのない戸惑いみたいなものを感じていた。誰の物にもなりたくなかったはずなのに、詩織からの告白を断ることができなかったのは、詩織の物にはなってもいいと考えているということなのだろうか。でも怖かった。そうして誰かの物になって捨てられるのが。いや違う。詩織に捨てられるのが怖かったのだ。
そんな気持ちにフタをするように悠くんと付き合ったのだが、彼は優しい人で、意外と円満にいってしまった。大学を卒業しても関係は続いていき、このまま結婚まで行くかもしれないと考えていた。そんな矢先、二人とも仕事が忙しくなって会えない時間が続いた。想いもすれ違うようになった。それでもわたしは彼のことが好きだったのに、彼の方から別れを告げられた。
人生で初めて人を好きになって、嫌われた。捨てられた。そのことはわたしにとって大きな挫折だった。職場でも猫を被ることに疲れてうまく馴染めていなかったわたしは、もうここに存在しているのがつらくなった。そんな時、詩織と再会できたから、やっぱり詩織はわたしにとって光だと思う。
でもそんな詩織にまで捨てられてしまったら? いつか海に行った時、詩織のことを絶対離さないと言った。でも詩織がその手を振り解いてしまったら? それでも手を離さない自信があるとは言えない。
「会いたいな……詩織……」
早く帰ってこないかな。詩織が出た後、悠くんから電話が来て、考え事をしていたから結構時間は経っているはずだ。やっぱり何かあったんだろうか。心配だな。
握りしめていた携帯には、じっとりと手汗がついていた。電話に出るために一時停止した、テレビに映る映画のワンシーンをぼうっと眺める。窓の外からはいよいよ本降り、といった雨音が部屋中に響いていた。
「詩織? 今どうしてる?」
結局詩織の声が聞きたくなって、電話をかけてしまう。
「明日香先輩……どうしたんですか?」
「外、雨降ってるしすぐ戻るって言ってたのになかなか帰って来ないから気になって……」
真意を悟られないように、早口で言い訳をする。まあでも、嘘をついているわけじゃないから。心配なのは事実だし。
「びしょ濡れです。正直風邪引きそうです」
「え、大丈夫? 傘無いなら迎えに行こうか? ていうか家にいるんじゃないの?」
一瞬、間があった。お願いしますという返事がすぐに返ってくるものだと思っていたから、その間が心に一滴の不安を垂らす。不安は波のように波及して、わたしの心を満たしていった。
「大丈夫です。もう少ししたら帰りますね」
「しお——」
プツン。電話が切れた。
「り……」
詩織を呼ぶ声が、空に浮かんで消えていった。
わたしは詩織のヒーローなのに。いつだって詩織を守ってあげたい。それなのに。
どうして詩織は、わたしの手を振り解こうとするの……?
『すみません、熱が出たので下がるまで家にいます。今日は一緒に泊まれそうにないです』
「わかった、お大事に……っと」
結局、詩織に何かあったのは確かだが、その何かはわからずじまいだった。少なくとも今回の件で、詩織はわたしを頼るつもりはないらしい。
わたしの周りに暗い霧が立ち込めるようだった。それを吸ってしまうと、心まで暗い気分になる。でも呼吸をやめることはできないから、次第に肺の中がその暗い霧に支配されてしまう。息苦しかった。詩織はもうわたしを頼ってくれないんだろうか。
「あれ、明日香。今日は詩織ちゃんのとこに泊まるんじゃないの?」
「なんか詩織、熱出たんだって〜。雨に濡れたらしくて」
「あら、そう……早く良くなるといいわね……」
「うん……」
なぜ詩織が雨に濡れたのか、ママも疑問に思っているだろうか。わたしもわかっていないので聞かれても困るから、これ以上この件には触れないでほしかった。
「ねえ、明日香……新しいお仕事は見つかった?」
動きが止まる。固まった、の方が正しいかもしれない。
「明日香が良ければ、その……家に帰って来てもいいのよ? 悠くんとも別れたって聞いたし、地元で働くのも——」
「んー、でも給料安いじゃん? ここそんなに都会じゃないし、そもそも仕事あるかもわかんないし、それに」
それに? 詩織がいるから、と言いかけて、言い淀んでしまう。わたしが詩織に縋っているだけなんだろうか。詩織はもうとっくにわたしの手を離していて、子どものように握りしめているのはわたしだけなんだろうか。それは、なんていうか悲しいし寂しい。
「まあ、明日香には詩織ちゃんがいるもんね。簡単にはいかないか」
「……そうそう。詩織、わたしのこと追いかけてここまで来ちゃったみたいだし。今さら帰ったらまた詩織を悲しませちゃうよ」
「ほんとに仲良しよね〜。いいこといいこと」
ママは感心するように一人で頷いていた。
そうだよね、きっと今に詩織はわたしを頼ってくれるはず。詩織だって、わたしの手を離したくないはずだ。
そう思っていられたのは、ほんの数日だけだった。
「実は父が戻ってきてて、母と一緒に暮らしたいって言い出したんです」
詩織が熱を出して数日後、詩織から連絡があった。もうすべて終わった後みたいだった。
「そっか……それで詩織はなんて言ったの?」
「色々ありましたけど、まあいいかなって感じです。いつまでも変わらない訳にはいかないし」
詩織は変わってしまったんだろうか。強くなった? 大人になった? あの頃の詩織は確かにわたしを必要としていたけれど、今の詩織はもう。
「あ、そうだ。家に泊まりに来ます? 色々片付いたので落ち着いたし」
「家族三人で過ごしなよ。もうすぐ帰省終わるでしょ? 年末まで会えなくなるんだから、水を差すのは悪いよ」
乾いた笑みがこぼれる。詩織はもうわたしを必要としていないんだ。
握りしめていた手は、いつの間にか振り解かれた。それでも握り返すだけの勇気を、今は持ち合わせていない。
「もしもし、明日香?」
「今度はどうしたの、悠くん……」
悠くんからの二度目の連絡。自室のベッドに寝転んで天井を見つめていたわたしは、気怠げな声を出して電話の主に挨拶する。
「いや、また連絡するって言っちゃったし……ていうか明日香、今実家なんだ?」
「それがなにか」
「いや冷たくない? もっと優しかっただろ〜」
「そりゃ、わたしは好きだったのにある日突然別れようなんて言われた男が、今になって縁を戻したいって言ってきたら冷たくもなりますよ」
「いやまあ、その通りなんだけど……」
悠くんが力なく笑う。吐息が電話越しに伝わってくる。
「……なあ、明日香。俺には君が必要なんだ。今になってようやくわかった。だからさ、実家から帰ったら連絡してよ」
君が必要なんだ。その言葉が、わたしの心に一滴の雫を垂らす。それは波を作って、伝播していく。そうして心にゆっくりと染み渡っていったのを理解した時、その言葉が急に鎖のように重く巻きついてきた。
「……そうは言われても……わたし、仕事辞めたんだよ」
悠くんは音が割れるくらいの驚嘆の声をあげた。
「じゃあ、こっちにはもう戻ってこないのか……?」
「ううん、数日したら帰る予定。だからその……気が変わったらまた連絡するよ」
「わかった。……待ってる」
電話を切った。
君が必要、か。
わたしは詩織が好きなはずなのに、その言葉に揺らいでしまうのは、わたしが弱いからなんだろう。だって今の詩織にわたしは必要ない。真にわたしを必要としてくれる人がいるなら、そこに行きたい。
確固たる愛情がもらえないなら、かつて捨てられた相手でもこれが運命なんだと信じられる。きっと二人の愛を育むのに必要な時間だったんだって。そう、思いたい。
帰りは詩織のお父さんとお母さんが駅まで送ってくれた。
「それじゃあ詩織、元気で」
「健康には気をつけるのよ」
「うん、二人もね。それじゃあ——いってきます」
「明日香ちゃんも、元気でね」
「はい……ありがとうございます」
電車に乗る。幸せそうに、少し寂しそうに笑う詩織の笑顔。それはわたしが初めて見る顔だった。
「…………」
だからついじっとりと湿っぽい視線をぶつけてしまう。詩織はこちらの視線に気づくと、その湿っぽさに困惑したような顔をした。
違う、わたしが見たいのはそんな顔じゃないのに。
「どうかしましたか……?」
「……ううん、なんでも」
これ以上詩織を困らせたくなかった。でも、今のわたしにそれができる自信はない。だからすべてのことから目を逸らすように目を閉じた。見たくないものに蓋をして。そうしてわたしは、明日も生きていく。
パパとママには申し訳ないけど、自分の名前はまだ好きになれない。「明日が香る」で「明日香」なんて名前負けしてるよね、わたしの人生は。
電車を降りて、詩織と並んで歩く。わたしは詩織の方を一切向かなかった。ただ夕焼けに染まる街を見て、このままビルの影がわたしの暗い気持ちを飲み込んでくれたらいいのにと、そう思った。
「……明日香先輩。お疲れ様でした。また連絡しますね」
「……詩織は、さ」
吸った息があまりにも苦しくて、暗い色をしていたから。肺が完全に黒く染まってしまったから、つい美しくない感情を音に乗せてしまう。
「わたしがいなくても、きっと生きていけるよね……?」
息を吸ったはずなのに、消え入りそうな声だった。
「明日香先輩……?」
「……ううん、なんでもない。それじゃ」
詩織に別れを告げて歩いていく。悔しい。詩織の力になれなかったのが悔しい。詩織がわたしを頼ってくれなかったことが悔しい。
君が必要なんだ。その言葉が、頭の中にぽっと浮かぶ。まるで水面に木の葉が降ってきて浮かぶようだった。
「……もしもし、悠くん? ……うん、実家から帰ってきたから、会えないかな?」
そうしてその日からわたしは、詩織からの連絡を無視するようになった。