送球、思いよ届け
数日後、無事熱も下がった私はとある古びたアパートを眺めていた。そこは閑静な住宅街で、駅から徒歩十分とアクセスは悪くない。私の家から駅まではバスで行く距離なので、少し羨ましかった。
どんよりとした気持ちをかき消すように外の新鮮な空気を胸いっぱいに膨らませて、階段を上がっていく。目的地は三階にあった。
「ここだ……」
チャイムを鳴らす手が少し震えている。しばらくして、父さんが出てきた。
「詩織、その……いらっしゃい」
震える声と柔らかい笑顔で父さんは出迎えてくれる。ちぐはぐだ。その笑顔にはどこか疲れと不安が滲んでいた。だから、唐突に変なことを聞いてしまう。
「眠れてる?」
「あ、ああ、大丈夫だよ。心配には及ばないさ」
力なく父さんは笑った。私のせい、なんだろうか。心が灰色に染まっていく気がした。
「……立ち話もなんだし、入るね」
そんな思いをかき消すように、私は父さんの部屋へ一歩踏み出す。玄関からキッチンまでの距離も短く、その奥に広がる部屋も、キッチンに立ってしまえば見渡すことができた。部屋を見回すと、物悲しい印象を受ける。物が少ないせいだろう。だが、棚の上にひとつ、私にとってとても存在感のある物が置かれていた。
「……詩織、お茶で……いいかい?」
ぎこちなく声をかけてくる父さんへの返事も生半可に、私はそれを手に取る。革でできたそれは、最後に見た十二年前より幾分も色褪せていたが、大事に手入れされていることが見て取れた。
その隣には、私と母さんと三人で撮った写真が立てられていた。写真の中の私は、記憶に違わず幸せに満ちた顔をしている。それを壊した張本人が目の前にいる事実に、私は気持ちが宙に浮くような不思議な感覚を覚えた。まるで空を泳ぐようで、水の中にいるようで、暗く、底に沈んでいくようで。そこにある一筋の光を掴もうと必死にもがいても、手は空を切るばかりで。
それは、星に手を伸ばすような、そんな感覚だった。
「……ああ、それ。懐かしいだろう。昔はよくキャッチボールしたよな……詩織が覚えてるかわからないけど」
父さんはまた力無く笑った。
「……覚えてるよ、全部」
忘れるはずもない、父さんと過ごした大切な時間。父さんと過ごした時間より父さんがいなくなった時間の方が長くなってしまった今、だからこそその時間を覚えていなくちゃいけない気がして、ずっとしがみついてきた。
「ねえ、父さん」
だから私は、至極真面目な顔で父さんを見つめてこう言った。
「どうして今になって、私たちの前に現れたの」
ふっと父が息を吐く。それは、今まで抱えていたものを外に出すような仕草にも見えた。
「えっと……そうだな、どこから話せばいいやら……」
「聞くよ。この前と違って、聞く覚悟がある」
もう子どもじゃない。十二年の月日は、私を嫌でも大人にさせた。だからそこに意味があると信じて、私は父さんと、自分の過去と向き合いたい。
「……僕が家を出た理由は、香織さんから聞いたかい?」
首を縦に振る。でも私が聞きたいのはそれじゃない。その時父さんがどう思ったのか、どういう思いでこの十二年間を過ごしていたのかが知りたかった。
私は先を促すように目で合図する。父さんはそれを受け取ると、目を伏せながら話を続けた。
「僕は……僕はね、香織さんにずっと別の人を重ねていた。香織さんもそれを望んでいると勝手に思っていた。でもそれは……すごくいけないことだと気づいてしまったんだ。
人はね、誰かになろうとしてもなれない。自分自身にしかなれないんだ。それなのに僕は、ずっと香織さんにあの人の面影を探して、他の女性にもそれを探して……そのことに気づいた時、僕を愛してくれていた香織さんや詩織に、申し訳がなかった。こんな僕が幸せに過ごしていいはずがないと……その時は本当に自分勝手に思った」
いや、今も変わらないな、と父さんは独り言ちる。
「あれから十二年、君たちのことを忘れたことはなかった。でも、二人のことを思えば思うほど、僕は怖くなった。否定される気がして。見捨てられてしまう気がして」
「……本当に、自分勝手だね。正直びっくりだよ」
我慢できずにこぼれた言葉は、父さんの胸にすとんと落ちたらしい。噛み締めるように、納得するように、父さんは笑った。
「僕もそう思うよ。……そんな時、がんが見つかったんだ。幸い、手術は成功して今は大丈夫。でも病気になって思った。人はいつ死ぬかわからない。それじゃあ、僕の人生で大切なものってなんだったんだろうかと考えた時、詩織と香織さんが真っ先に浮かんだ。それでようやく——二人に会う覚悟ができた。向き合うしかないとようやく気づいたんだ」
そこで父さんは一呼吸置いてから、私の目を真っ直ぐ見据えて言葉を紡いでいく。
「だから、詩織。許してほしいとは言わない。三人で、もう一度やり直さないか」
その言葉は、呪いのように聞こえた。父さんから暗い影が私に向かって伸びてくる。それは私の体に巻きついてそうして耳元で囁くのだ。
もう一度やり直さないか、と。
「……やり直すってなに。それじゃあ私の今まではなんだったの……」
父さんがいない十二年間、私は明日香先輩に救われて、恋をして。その時間まで奪われてしまったら、私にはもう何も残らない。
「この十二年間、父さんの面影をずっと探してた。いつか帰ってくるって母さんに言われて、それを信じてた時期もあった。でもそんなのは無駄で、父さんは帰って来なくて……」
強く握りしめた指が掌に跡をつけていた。行き場のない感情が波のように揺れていた。
「それが突然今になって帰ってきて、やり直したいなんて言われても私は……受け入れられない」
もうここに用はなかった。これ以上話すことも聞くこともない。
「……とりあえず、今日は帰るね。ごめん」
「詩織……この十二年間、本当に申し訳ないことをしたと思っている。だから新しく作りたいんだ。僕たちにとって失われた十二年を」
「……それが一番自分勝手なんだって、どうしてわからないの……」
私は乱暴に部屋を後にした。
「ダメだったみたいね」
家に帰って私を出迎えてくれた母さんはなんでもお見通しのようだった。
「わかるんだ」
「うん」
「どうして?」
「あの人は不器用だから、取り繕いもせずに詩織と向き合うだろうなって」
最後に言われた言葉を脳内で反芻する。
あの人は確かに、この十二年を作り直したいと言っていた。それはつまり、私たちにとってこの十二年は無かったことになる。なぜだかそのことに自分でも驚くほど腹が立っていた。
「ねえ、母さん。母さんにとってこの十二年はどんな十二年だった?」
そうね、と母さんは少し考え込むように唇に手を当て、やがて口を開いた。
「少なくとも、無駄じゃなかったとは思う」
「そうなんだ、意外」
「そう? じゃあ詩織にとってはどんな十二年だった?」
母さんに言われて、この十二年を頭の中に描いてみる。引き出しを開けて取り出した日記帳をめくるような気分だ。
記憶の中には、いつだって明日香先輩がいた。内気で学校でも上手く馴染めなかった私に、先輩は優しく寄り添ってくれた。父さんがいなくなったショックでまったく喋ることができなかった私に、明日香先輩は無理に話しかけることはなかった。ただ毎日顔を合わせて、たまにご飯を食べていって、長期休みの時は泊まりに来てくれた。次第に一緒にゲームをするようになったり、勉強を教えてもらったりして、私は明日香先輩に心を開くようになっていった。明日香先輩はゲームが上手で、頭が良くて、いつしか明日香先輩みたいになりたいと思うようになっていた。
父さんがいなくなって、水底に溶けるように沈んでいった私の心を、明日香先輩は掬い上げてくれた。いつしか明日香先輩が海水を掬い上げて月を映したことを思い出す。
私にとって明日香先輩は月だった。夜のような暗く深い水底を漂う私に、優しく目印をくれたのは明日香先輩だ。
「……明日香先輩や母さんと過ごした、大切な十二年だよ」
そこに父さんの姿はない。
「そっか」
「さっきね、父さんに言われた。この十二年を新しく作り直したい、って」
「それを聞いて詩織は……怒ってるのね」
怒っている。確かにそうかもしれない。
「逆に母さんは怒ってないの?」
「怒ってるわ。もうぷりぷりよ」
ぷりぷり、と腰に両手を当てて頬を膨らませる母が可愛かった。
「その点に関してはあの人は間違ってると思うわ。新しく作り直す、なんて、まるで私たちの十二年が無かったみたいじゃない。詩織と、明日香ちゃんと過ごした大切な十二年よ。まあ明日香ちゃんが大学に行ってからは詩織と二人になっちゃったけど……」
それでも大切な日々だったわ、と母は笑った。
「でもね、もっと怒ってるのは、私たちの十二年間に透さんが少しもいなかった、みたいな言い方をされたことよ」
虚を突かれたように私は目を見張る。
「私だって透さんのことを考えていたわ。元気にしてるかなとか、いつ帰って来るんだろうとか、時には憎たらしいとかも考えたわね。詩織はどう?」
言われてみれば、私はこの十二年間、父さんのことを考えていた。父さんに捨てられた理由を考えていた。それは確かに、私の中に父さんは存在していて、正確には過去の父に囚われていたわけだけども、それでもよく父さんのことを考えていた。
「だからこの十二年間なくして、これからの時間を作ることはできないわ。そこははっきり言ってやらないとね」
母さんは口を膨らませて鼻からふんすと息を吐いた。怒っているようだ。いくつになっても愛らしさが残るな、と思った。
「それでも母さんは、どうして父さんのこと愛してるの?」
「そうね……敢えて言うなら、たぶん私は、透さんのそういうどうしようもないところが好きなのよ。弱くて、意地っ張りで、自分のことしか考えてないところ。でも自分なりに相手を幸せにしようと考えているところ。正義感が強くて、それで自分自身や周りの人を苦しめてしまうところ。全部含めて、愛してるのよ」
「……物好きだね、母さんも」
「詩織にだって心当たりはあるでしょ?」
記憶の中の父さんは、いつだって優しかった。頑張ったら褒めてくれて、よく一緒に遊んでくれて、欲しい物を強請ったら母に内緒で買ってくれて、あとでバレて一緒に怒られてくれた。寝るときはいつも絵本を読んでくれた。そういうなんでもない当たり前をしてくれた人だった。
そうか。多分私も、母さんも、父さんのことを愛していたんだ。だから自分勝手でも、どこかで待ち続けていた。父さんが帰ってくるのを。
「ねえ、詩織。別に透さんのこと許さなくたっていいのよ?」
「え?」
驚きの声が漏れる。だってそれじゃあ、私が今まで悩んでいたのはなんだったんだ?
「でも、許さないと一緒に暮らせないんじゃ……」
「許してほしいのは、あくまで一緒に暮らすことであって、透さんがこの十二年詩織を放置したことじゃないわ。それは到底許されるべきことじゃないと思う。詩織に考えてほしいのは、過去を許すことじゃなくて、未来を一緒に作っていってもいいかってことよ」
過去を許さなくてもいい。怒ったままで、これからの未来を作れるか。そのことを考えてほしいと、母は言っているのだ。それは将来結果的に父さんを許すことになると思うのだが、始まりは今のままでも良いということなのだろう。
「そうだわ。また三人でキャッチボールしない? 私、久しぶりにお弁当作りたくなってきたわ。明日行きましょ。車は出すわ」
「ま、また急だね……」
でも、不思議と悪い気はしなかった。今なら、何かが変わる気がするから。
「……やあ、詩織。その……」
「うん、昨日ぶり。……昨日はごめんね。私、父さんと母さんの前では、まだ子どもみたい」
父さんは目を丸くした後、目尻に皺を作って優しく笑った。
「いいんだ……僕の方こそ悪かった」
「うん。まだ父さんのこと許したわけじゃないけど、将来的に許せたらいいなと思ってる。だからさ——」
私は目を閉じて記憶を巡らせた。瞼の裏に焼きつくのは、十二年前の幼い私。
「キャッチボール、しない?」
その言葉を合図に、私は新品のグローブを、父さんは古びたグローブを手に取り、お互い距離をとる。父さんと母さんと三人でよく来た大きな公園は、今では少し手狭に感じた。
新しいグローブの感触を確かめるように形を整えながら、しっかりとボールを受け取って、返していく。十二年前より、私は上手く投げられているだろうか。父さんの送球は逸れることなく、私のグローブに真っ直ぐ収まっていく。私のボールも、真っ直ぐ、揺れることなく父さんのグローブに届いていく。お互いに会話するよりも、今はこうしてボールを投げ合っているのが心地よかった。次第に送球は力を増して、速くなっていく。
先に口を開いたのは私だった。ボールに思いを乗せれば、全部届く気がして。
「父さんと過ごした十二年前は、毎日がキラキラで、楽しくて、あたたかかった。それなのに、それが突然失われて、私は深い海の底に突き落とされた気分になった。だからこれは、その恨みの分」
ボールを思い切り投げる。父さんのグローブに届く。
「……僕は太陽を手放した。詩織と香織さん、二人分の太陽を」
ボールが返される。先ほどより揺れて弧を描きながら私のグローブに収まる。
「でもね、母さんがいてくれた。そして何より、明日香先輩がいてくれた」
私は握りしめたボールを見つめて俯く。そして前を向く。
「だからこの十二年は無駄じゃなかった。父さんがいなくても明日香先輩がいてくれたから。それは否定されたくない」
さっきより丁寧にボールを投げる。ちゃんと父さんに届くように。
「僕にとっても、この十二年は無駄じゃなかったかもしれない。こうして二人と、ちゃんと向き合えた。それも長い時間がそうさせたのかもしれない」
ボールが返って来る。さっきよりも真っ直ぐ、的確に。手にじんわりと痺れるような衝撃が走った。強い送球だった。
今度は私の番だ。
「父さんが帰って来るのを、心のどこかで待ってたのかもしれない。こんなに遅くなるなんて思わなかったけど。それでも、今の私を作っているのはこの十二年間だから。だから——」
私は父さんに向けて真っ直ぐ、そのグローブに思いが届くようにしっかりと投げた。
「これからは三人で、新しい未来を作ろう。やり直すんじゃなくて、新しい思い出をさ」
父さんのグローブにボールが吸い込まれるように収まった。父さんはボールを投げ返そうと握りしめていたが、しばらく立ち尽くした後、顔を歪めて言葉を漏らした。
「……ありがとう。ありがとう、詩織。香織さんも、詩織も、待っててくれてありがとう…………こんな僕を受け入れてくれて、本当に、本当に……」
私と母さんは無意識に父さんに駆け寄っていた。母さんは背中をさすって、私は肩に手を置いて。止まっていた私たち三人の新しい時間が、ここから動き出したのだ。だから私が今言うべき言葉は一つしかない。
「おかえり、父さん」
風が、優しく囁くようだった。
その後、父さんの引越し準備を手伝っていたら、あっという間に帰省が終わってしまった。途中、明日香先輩に連絡を入れたら「家族三人で過ごしなよ」と言われて結局明日香先輩とはあれから会っていない。
これでようやく明日香先輩のところに帰れる。私の十二年間、そのほとんどが明日香先輩だった。父さんと向き合うことで、改めて自覚できたのはいいことだと思う。
帰りは父さんと母さんが明日香先輩と私を駅まで送ってくれた。
「それじゃあ詩織、元気で」
「健康には気をつけるのよ」
「うん、二人もね。それじゃあ——いってきます」
電車の窓から手を振る。穏やかな表情で父さんと母さんは手を振り返してくれた。
きっと二人は、ううん、私たち三人は、これから幸せの形を見つけていくのだろう。
「…………」
ふと、明日香先輩からの視線を感じる。じっとりとするような、湿った視線を突然向けられて困惑してしまう。
「どうかしましたか……?」
「……ううん、なんでも」
そう言って明日香先輩は目を閉じた。まるでこれ以上話すことがないみたいだ。
私、明日香先輩に何かしてしまったんだろうか。そう思わせるように、明日香先輩は私との間に壁を作っていた。透明なビニールを貼り付けて仕切りを作るような、手を伸ばせばそこにあるのに何かに邪魔されて届かないような、そんな感覚だった。
「……明日香先輩、着きましたよ」
「ふぁ……うん、おはよ」
結局途中から眠っていた先輩を起こして、駅から途中まで一緒に帰る。その間、明日香先輩は無言で夕焼けを眺めながら歩いていた。私の方には一切見向きもしない。そう思った次の瞬間には、先輩は俯いて歩いていた。次の交差点で私たちはお別れだ。
「……明日香先輩。お疲れ様でした。また連絡しますね」
「……詩織は、さ」
明日香先輩が俯いたまま口を開く。夕焼けが先輩に大きな影を作っていた。
「わたしがいなくても、きっと生きていけるよね……?」
消え入りそうな声で呟く先輩の声は、行き交う車の音にかき消されそうだった。その顔があまりに深刻で、寂しそうだったから、つい戸惑って名前を呼んでしまう。
「明日香先輩……?」
「……ううん、なんでもない。それじゃ」
その後、私からの連絡に明日香先輩からの返事が来ることはなかった。