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すれ違い

 記憶の中の父さんは、いつだって優しかった。

 運動が好きだった私は、よく父さんと母さんと三人で、ちょっと大きな公園でピクニックをしたものだった。父さんとキャッチボールをしたり、サッカーをしたり。母さんはそれを木陰で愛おしそうに見つめていた。お腹が空いたら母さんが作ったお弁当を食べ、帰りの車では疲れ果てて眠っていた。今思えば、私は運動が好きだったのではなく、家族で過ごすその時間が好きだったのかもしれない。

 だから、父さんが母さんと私を捨てた日から、私は体を動かす遊びが嫌いになった。




「そうか……詩織、大きくなったな」

 感心するような、感慨深いような声を出して、その男性は私を見つめる。

 肌寒いような嫌悪感が全身に流れ込んできた。外はぽつぽつと雨が降り始めており、息を吸い込めば冷たくて湿った空気が肺を満たしていく。

「何年ぶりだろう……十二年、かな」

「……そうだね」

 今さら何? という言葉を押し込むのに必死だった。しかしその努力は、母さんの次の言葉で全て台無しになってしまう。

「詩織、母さんね、父さんと……透さんと、一緒に暮らそうと思うの」

「……なにそれ」

 口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど冷たい色をしていた。

「それでね、詩織……その……いいかな?」

 知らない。

 みるみるうちに顔が熱くなっていくのがわかる。

「知らないよ。なんで私にそれを聞くの?」

「なんでって、私たちは家族で——」

「家族? 今さら何? その人は十年以上も前に私たちを捨てたんだよ? それがどの面下げて家族ですって戻ってくるわけ? この十二年間、何の連絡も寄越さなかったくせに。私のランドセル姿だって、制服姿だって、その人は知らない。見に来てくれなかった。一度も。一度も……」

 急に大きな声を出したせいか、喉に激痛が走る。喉は既にカラカラで、私はこの先声を絞り出すように話すしかなくなってしまった。

「詩織が許してくれないなら、僕は香織さんと一緒には住まない。……いや、住めない」

「なにそれ、笑える。許してほしい? そっちが全部勝手にやったことでしょ。勝手に出て行って、勝手に戻ってきて。それを今さら私に委ねないで。私はもう……子どもじゃないんだから」

 これ以上二人に言うことはなかった。踵を返して玄関に向かう。

「詩織……! 待っ——」

 母さんの静止の声を最後まで聞かず、私は家の玄関を乱暴に閉めた。玄関の戸は、見知った扉でなく感じるほどに重苦しかった。




 私は雨の中を夢中で走り続けた。母さんが追ってくるかもしれない恐怖もあったが、それ以上に、自分の中にある感情を吐き出したくて仕方なかった。なので特に行く宛てがあったわけではなく、この胸の中にある得体の知れない塊を振り落とすように走っていた。

 この気持ちを雨が全部流してくれたらいいのに。それか息が上がって、気持ち悪くなって、全部吐き出してしまえればいいのに。

 そう思っていたら、急に息が上がって苦しくなって、胸が張り裂けそうになった。心臓の音がうるさくて、痛くて、破裂しそうになったのでつい立ち止まってしまう。肩で激しく息をしながら、体の火照りを感じていた。どうやらこれ以上走るのは限界らしい。

 これは帰ったら熱が出るな、と思った。その思考に、乾いた笑みがこぼれる。

 帰る? どこに?

 考えてみれば、父さんと母さんが一緒に暮らすあの家に帰れるわけもなかった。想像しただけで心が冷たくなる。本当に、何を今さら戻ってきて、一緒に暮らすなんて言えるのだろう。

「あれ……? ちょっと待って」

 ここまで考えて、私は何かがおかしいことに気づいた。なぜ母さんの方から、父さんと一緒に暮らすという言葉が出たのだろうか。確かにあの時、母さんの口から、「父さんと一緒に暮らそうと思う」という話を聞いた。それが父さんからではなく、母さんから出た言葉なら。少なくとも母さんは、父さんと暮らすことに納得しているというか、むしろ望んでいるということだろう。

 母さんは私と同じで捨てられた側の人間だと思っている。いや、思っていた。しかし母さんが父さんを受け入れたということは、そこになにかそれだけの理由があるのか。

 少し、気になるなと思った。それを聞いたところで私が父さんを許せるようになるとは思えないけれど。

 その時、ポケットの中で振動を感じた。心当たりは携帯しかない。取り出して見てみると、着信一件アリ。呼吸を整えてから、画面をタッチする。先に切れてしまわないか不安だったが、杞憂に終わった。

「詩織? 今どうしてる?」

 ああ。

 帰る場所なら、あるじゃないか。

「明日香先輩……どうしたんですか?」

「外、雨降ってるしすぐ戻るって言ってたのになかなか帰って来ないから気になって……」

「びしょ濡れです。正直風邪引きそうです」

「え、大丈夫? 傘無いなら迎えに行こうか? ていうか家にいるんじゃないの?」

 お願いします、と言いかけて、先輩をこの問題に巻き込みたくないという思いが自分の中に芽生えたことに気づく。いくら家族ぐるみの付き合いをしているとはいえ、なんだか気まずい。それに、今先輩に頼ってしまったら、何もかもどうでも良くなってしまいそうだった。

 きちんと解決してから、私の帰るべき場所に帰ろう。だから、それまでは。

「大丈夫です。もう少ししたら帰りますね」

 今はこれ以上追求されたくなかったので、先輩の返事を聞かずに電話を切る。とはいえ、このびしょ濡れの服とぐちゃぐちゃになった感情を立花家に持ち込むわけにはいかないなと思った。

「仕方ない……一度家に戻ろう……」

 足取りは重いが、確かめたいこともある。明日香先輩に嘘をつく形になるのも気が進まないが、自分で解決すると決めた以上はやるしかなかった。心が地球の中心に引っ張られているような気分だ。

 父さんがいないことを祈りながら、ゆっくりと実家に向かった。その間に父さんが帰ってくれていることを願った。途中、小さな公園を通りがかった。ここは家の近所にある公園で、父さんや母さんとよく行っていた大きな公園とは違うが、ここでもよく父さんとキャッチボールをした。その公園は、小さいながらも遊具スペースと運動ができる広場に分かれており、近所の子どもたちしか使わないため人が多いわけでも少ないわけでもない。でもサッカーなんかは他の子どもたちの邪魔になるので、ここではよく父さんとキャッチボールをしたのだった。

 今日は生憎の天気のせいか、公園には誰もいない。いつも取り合いになるブランコでさえ寂しそうに揺れていて、その足下には水溜まりができていた。

 広場の方にも目を向ける。すると、幼い女の子が走り回りながらボールを取り、ぽーんとそれを投げている姿が見えた気がした。それを高身長で細身の男性が受け取る。お世辞にも上手いとは言えなかったが、二人とも楽しそうだった。

 五歳の頃の記憶って、案外覚えているものなんだな。

 それとも父さんと過ごした短い時間を、大切に箱に入れて仕舞っているだけなのだろうか。

 ふと、ブランコを漕ぎたくなった。あの頃に戻れる気がして。あの時仕舞っていた記憶をひとつずつ解いていくように、私はブランコを前へ後ろへゆっくりと揺らしていく。水溜まりに足がつかないように気をつけるが、もうあまり汚れることは気にしていなかった。

 思い出すのは、父さんの笑顔。私が転んで、痛いのに強がって泣くのを我慢していたら、父さんはこう言ってくれた。

 詩織は強いな、と。

 私は強い子になれたんだろうか。父さんのことを思うだけで、こんなに心は乱され揺れるのに。未だに過去を引きずり、囚われ、しがみついているのに。

「……くしゅん」

 ぼーっとしていたらいつの間にかくしゃみが止まらなくなっていた。早く戻ってシャワーを浴びよう。

 雨はまだ止まない。




 家に戻ると、母さんは居ても立っても居られない様子で、タオルと傘を片手に玄関に突っ立っていた。

「どうしたの」

「どうしたのって……詩織が傘も持たずに走って行っちゃったから迎えに行こうかと思ったんだけど行き先が分からなくて……」

「携帯に連絡くれればよかったのに」

 言ってから、それは酷だなと思った。私が母さんの立場なら、あの剣幕で出て行った娘に「いまどこ? 迎えに行きます」なんて言えるはずもない。

「……お風呂沸いてるわよ。入っちゃいなさい」

「うん。ありがとう」

 服を脱いでから、シャワーを浴びて湯船に浸かる。

 でも、母さんが私を心配してくれていることが嬉しかった。母さんは一人になった私をここまで育ててくれたし、明日香先輩が私の心の支えになっているのも気づいていて、よく二人で遊んだり泊まったりすることを許してくれた。それどころか、まるで家族のように先輩に接してくれていたから、私は父さんがいない寂しさを埋めることができた。父さんがいなくなっても、三人で食卓を囲むことができた。明日香先輩はかっこよくて、いつだって私の側にいてくれて、私を守ってくれた。

 お風呂から上がって髪を乾かしている間も、くしゃみが止まらない。だんだんと左右の鼻から垂れるものがあることに気づく。これは完全にやらかしたな、と思い、髪を乾かし終えたところで体温計を取り出した。先っぽは銀色になっていて、脇に挿すとひんやりとする。

 特徴的な機械音が部屋に鳴り響く。高熱、とまでは行かないが、微熱でないことも確かだった。開けっぱなしになっていた部屋のドアから母さんが顔を覗かせた。

「やっぱり熱、ある?」

「うん、ちょっとね。大したことないから、大丈夫」

「お粥でも作ろうかしら」

「少しだけ食べようかな」

 お風呂に入ったというのに、体が温かくなった気がしない。お粥でも食べたら体が温まるだろうか。

 とりあえず明日香先輩にメッセージを送る。

「すみません、熱が出たので下がるまで家にいます。今日は一緒に泊まれそうにないです」

 いろいろと心配のメッセージが来るかと思ったが、予想に反して返事は簡素だった。

『わかった。お大事に』

 それだけ言って、明日香先輩との会話は途切れてしまった。なんだかいつもと違う様子に、少し気持ちが焦る。でも今はそれを考えているだけの余裕がなかった。

 程なくして、母がお粥と生姜湯を持ってきてくれた。卵とネギが入っていて出汁の効いた——それはもう、お粥というよりは雑炊だった。ふーふーと軽く息を吹いてから口へ運ぶ。冷えた胃に優しく溶け込むようだった。心まで温かくなる気がする。

 今なら聞けるかもしれない、と思った。生姜湯を一口含んで喉を温めてから、胸の中に広がる疑問をゆっくりと言葉にしていく。

「……ねえ、母さん。どうして今になって父さんと住む、なんて言い出したの」

 母さんは一瞬躊躇うような、逡巡するような様子で口を尖らせたが、すぐに答えてくれた。

「透さんを愛しているからよ」

 その言葉に、胸に棘が刺さったような気分になる。説明が足りないな、と思った。

 だから私は母さんが次に言葉を紡ぐのを待つ。

「……詩織には話してなかったわね。私たちが離婚した理由」

 母さんが息を吸う音が聞こえる。母さんの肺を満たす空気はどんな色をしているのだろうか。その肺から喉を通って出る言葉が、私の耳に届く頃には綺麗な色をしているといいなと思った。

「透さんにはね、幼なじみがいたの。とっても綺麗で、太陽みたいに笑う子だった。透さんもその子も、お互い好き合っていたわ。婚約までしていた。

 でもね、ある日突然事故で亡くなってしまったの。本当に突然だった。私たち三人は大学の同期で、学生時代はよく一緒にいたから透さんがどれだけその子のことを愛していたか私は知ってた」

 そして母さんは鉛のように重い唇を開くように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「私はね、その子の代わりになろうとした。透さんの欠けた穴を埋めようと思って。でもなれなかった。程なくして私たちは付き合って結婚することになったんだけど、透さんはいつまでも彼女のことを忘れられなかったみたい。遂には寂しさから他の女性を求めるようになったわ。それでも私は側にいる覚悟をしていた。

 ……覚悟が無かったのは透さんの方ね。君の夫である資格がない、詩織の父である資格がないって言って逃げたの。でもね、その日が来たら必ず二人を迎えに行くって言った。それには十年以上かかったみたいだけど。でもその言葉を十二年待ち続けて、そしたら目の前に現れた。正直、腹が立ったわ。自分勝手よね。でもね、もうそんなことはどうでもよかった。私、まだこの人のことを愛してるんだって、そしてこの人もやっと私の気持ちに向き合う気になってくれたんだってことに気づいたらーーもう覚悟は決まったわ」

 おかしな話だと思った。愛しているからといって、そこまで人を簡単に許せるものなのだろうか。この十二年は、母にとっては捨てられた十二年ではなく、愛の準備のための十二年だということなのだ。

 じゃあ私は? 私にとってのこの十二年は、なんだったんだろう。ずっと捨てられたと思っていた。理由も聞かされず、ある日突然、父親はしばらく帰って来ない、でもどこかで元気でやっているからその内帰ってくるよと言われ、十二年経った私のこの時間は、結局虚しさだけが残った。大人になるにつれて、それは母さんの口から出た私を守るための嘘で、本当は私たちは捨てられてたんだと思うようになった。それが今さら嘘ではなく本当のことだったと、どうして信じられるだろうか。

「……どうして最初からそれを言ってくれなかったの?」

「そのことについては謝るわ。ごめんなさい。でもね、詩織に愛が分かるようになるまで、この話をしても伝わらないと思ったの。大人になるまで、とっておこうと思ったの。でもそれが詩織を苦しめることになるなら、もっと早くに伝えておけばよかったかしら」

 母さんの言い分は正しかった。正直、幼い頃にこんな話をされても一考することもなかっただろう。でもそれは、結局のところ、私の十二年間が帰ってくるわけではないことを意味していた。

「透さんは詩織に許してもらえないと意味がないって言っていたわ。三人で、家族なんだって」

「都合が良すぎるよ。私は……多分父さんのことを愛せないと思う。でも」

 向き合うしかないのかもしれない。父さんという人間と。私が愛する母さんが、そこまで情熱を傾ける相手と。そして父さんは今、十二年越しにきっと私と向き合おうとしているから。

「……透さんの連絡先よ。今の住所も書いておいた」

 母さんは小さな紙切れをくれた。そこには電話番号と思しき数字の羅列と、ここから二駅先くらいの住所が書かれていた。

「早ければ明日、行ってくるよ」

「病人は病気のことだけ考えてなさい」

 母さんに宥められる。とはいえ、母さんも少し嬉しそうだった。

 私たちはまた、三人で出発できるのだろうか。あの頃みたいに笑って過ごせるのだろうか。それを実現するには、父さんの思いを確かめなければいけない。それでも、私たちの関係はきっと前のようには行かないだろう。でも、変わらないものはない。それが少しでも良い方に向くようにするのが、前進するということなのだ。

 私と明日香先輩の関係も、変わって行くのだろうか。

 無意識に握りしめていたコップを覗くと、水面に映る私の輪郭は朧げに揺れていた。

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