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邂逅というより仕組まれた再会

「んは……懐かしい匂いがする〜!」

 駅のホームに降り立って最初に聞いたのは、明日香先輩の郷愁から来る言葉だった。

「先輩、帰るの久しぶりなんですか?」

「うん、大学入ってからは帰らなかったしね……」

 明日香先輩が申し訳なさそうにちらちらとこちらの顔色を伺っている。ああ、なるほど。私たちの家は近いので、帰省すると私にエンカウントする確率が高くなるから気まずくて帰省しなかった、といったところだろう。

「違うの、課題とかバイトで忙しかったし……その、ね?」

「まあ、別に気にしてませんよ。今こうして隣にいてくれるならそれで」

「ほんと? 詩織ちゃんだいすき〜」

 はいはい、と適当に受け流すフリをするが、やっぱり好きな人から好きだと言われるのは嬉しい。顔がニヤついていないだろうか。明日香先輩はこういうところに敏感だから、気づいているかもしれない。

「あ、パパとママだ」

「おかえり、明日香。思ったより元気そうで良かった」

「詩織ちゃんもお帰りなさい。今日はうちに泊まってくの?」

「こんにちは、おじさん、おばさん。一度母のところに顔を出してから、今日はお邪魔させていただきます」

「じゃあ明日は詩織の家でお泊まりね」

「明日香が世話になるね、詩織ちゃん。香織さんにもよろしく言っておいてくれ」

「はい。母も先輩に会えるのを楽しみにしているみたいです。連れて来いってうるさくて」

 あまりかしこまりすぎないように軽くお辞儀をする。親しき仲にも礼儀あり、という言葉が私は好きだ。お世話になっている以上、感謝を伝えるのに礼儀は大切だと思っている。

 香織というのは私の母で、母さんとおばさん——明日香先輩のお母さんは旧来の仲らしい。私が物心ついた時からすでに二人は知り合いで、だから明日香先輩も物心ついた時から側にいた。

 私たち柊木家と先輩たち立花家は、そんなこんなで昔から家族ぐるみの付き合いをしている。母さんにとっても先輩は娘のような存在らしく、「明日香ちゃんの第二の母よ」なんてことをよく話していた。

「それじゃあ、行こうか。荷物持つよ」

 おじさんが私たちに向かって手を伸ばす。二人分のスーツケースを持って歩くつもりらしい。近くに車を止めてあるとはいえ、さすがに申し訳なかったので断った。

「おじさん、相変わらず優しいですね」

「うん。優しすぎて心配になっちゃうけど、でも、自慢の父親だよ」

 明日香先輩は誇らしげに胸を張る。そんな風に言える父親がいるのが羨ましかった。

 私の父はどんな人だったのだろう。記憶の中の父に悪い印象は無い。むしろ私も優しくしてもらっていた気がする。

 それならどうして、父さんは母さんを、私を捨ててどこかに行ってしまったのだろうか。

「詩織?」

 明日香先輩に呼ばれて、薄暗い思考から引き戻される。休日ということもあってか駅は人の往来が激しく、行き交う人々の声と足音が響いていた。その音に思考を巡らせていると、自然と少しずつ自分を取り戻していけるような気がした。

 立花家の車のトランクに二人分のスーツケースを並べて、私たちは後ろの席に座った。車内では、最近夜は寒くなってきたとか今日は晴れて良かったとか他愛のない話をした。途中、飲み物はいるかと聞かれ、有り難くコーヒーを頂戴すると、明日香先輩が飲めもしない私のコーヒーをせがんで案の定しかめっ面をした。

 私も立花家の一員になれたようで、家族になれたようで、本当に楽しい時間だった。でも、心の奥底に暗い気持ちが立ち込めるのはなぜだろうか。

「着いたよ、詩織ちゃん。それじゃあまた後で」

 ありがとうございました、と一礼して、先輩たちに別れを告げる。車が角を曲がるのを見届けてから、私は一週間分の着替えが入ったスーツケースを引っ張ってアパートの階段を上っていった。一週間分と言っても、途中で洗濯を挟む計算をしているので、実質四日分くらいだ。

「ただいま」

 鍵を回して家に入ると、狭い2DKの家のダイニングで母さんがテレビを見ていた。こちらに気づくと、私の方に駆け寄って荷物を持ってくれた。

「お帰りなさい、詩織」

 母さんはにっこり笑って出迎えてくれた。少し疲れているようにも見えたが、こちらも長旅で疲れていたので、きっとそう見えるだけだろう。

「半年ぶりくらいね、どう?」

「こっちは変わりないよ。大学もまあまあうまくやってるし」

「明日香ちゃんは元気?」

「先輩はまあ、心配してたけど思ったよりは元気だったよ」

 ふと、あの日のことを思い出す。雨の中、先輩は酷い顔で歩道橋から身を投げ出そうとしていた。それを止められたのは本当に良かったけど、そんなこと言えるわけもなく。

 もちろんその時私が明日香先輩に「付き合って」なんて言って、本当に交際しているなんてことも言えるはずがなかった。

「母さんはどう? 何か変わったこととかない?」

「変わったこと……」

 ないよ、という返答を予想していたので、母さんが言葉を詰まらせたのに一抹の不安を覚える。

「どうしたの?」

「あ、ううん……なんでもないの」

 そうして母は頼りなげな笑顔を貼り付けた。舌がざらつくような、嫌な感じを覚える。

「……ねえ、詩織。お父さんのこと、どう思ってる?」

 その瞬間、母さんの言葉が私の心臓を射抜いたかのような衝撃が走った。血が全身を一気に駆け巡り、背中にはじっとりとした汗が泡のようにぷつぷつと現れてシャツに染み込んでいく。

 どうって、なぜ急にそんなことを聞くのだろう。一縷の冷静さで母さんの様子を窺うと、先ほどの笑顔とは裏腹に深刻な顔つきをしていた。もっとも、先の笑顔はその深刻さを隠すように貼り付けていたように感じられるから、裏腹と言うのは少し違うかもしれない。

「……優しい人だったなって思うよ。だからどうして私と母さんを捨てたのかわからない」

 そうして私は、少し冗談めかしてこう言うしかなかった。

「会えるなら会ってその理由を聞いてみたいくらい」

 その先にあるのが明るい感情ではないことを、ここで言うのは憚られた。

「そう……わかった」

 母さんは小さくそれだけ呟いた。その表情が意を決したような、固い表情だった意味を、この時はまだ知る由もなかった。



 それから母さんは何も言わず、私もそれ以上何も言えなかったので、今日の分の衣類をリュックに移して、そそくさと実家から明日香先輩の家に向かった。私は私で、先ほどの母さんの言葉と表情が頭の中でぐるぐる回って離れない。まるで風邪を引いた時に見る夢を見ているような気分だ。

「——って詩織、聞いてる?」

「え? ああ、すみません。なんでしたっけ」

「今日の夕飯、リクエストはあるかママが詩織に聞けってさ」

 徒歩で迎えに来てくれた明日香先輩と話しながら、橙に染まる住宅街を歩いて行く。リクエスト、つまり食べたいものがあるかどうかということだ。明日香先輩とおばさんには申し訳なかったが、そんなことは今どうでもよかった。

「なにか考え事してるみたいだったけど、どうかしたの?」

「……いえ、別に。ちょっと長旅で頭が回ってないだけです」

「ふーん、そっか」

 明日香先輩は少し残念そうな声を出して、こう続けた。

「ま、なにかあったら相談してね。いつだってわたしは詩織を守ってあげるんだから」

 えっへん、と言わんばかりに明日香先輩は胸に手を当てていた。夕陽に照らされたその光景があんまり眩しくて、似つかわしくなかったから、思わず吹き出してしまう。

「なんですかそれ、正義のヒーローみたいです」

「こっちはすごく真面目なんだけどな〜」

 でも、と先輩は言葉を続ける。

「詩織の笑顔が見られてよかった」

 言われてはっとする。私、そんなに暗い顔をしていただろうか。

「ありがとうございます、明日香先輩」

 先輩はにっこり笑った。その笑顔に若干翳りが見えたのは、きっと夕焼けで影ができていたせいだと思いたい。

「ねえ、詩織。そろそろ詩織もわたしのこと呼び捨てにしてみない?」

 呼び捨て。

 急に何を言い出すんだこの人は。

「急に何を言い出すんですか」

「だってなんか距離を感じるんだもん。わたしは詩織、なのに詩織は明日香先輩って呼ぶでしょ?」

「そりゃそうですよ、明日香先輩は私より年上なんだから」

 恥ずかしいとかそういう理由ではない、決して。

「だって昔は明日香ちゃん明日香ちゃんって後をついて回ってたじゃん」

「いつの話をしてるんですか」

「わかった、恥ずかしいんでしょ」

「違います」

「じゃあ言ってみてよ、試しに」

 明日香先輩。明日香。あすか。

 頭の中でその文字を、形をなぞってみたが、やっぱり恥ずかしくて無理だ。

「……親しき仲にも礼儀あり、です」

「あーっ! ごまかしたなー!」

 いつか私も、先輩を呼び捨てにする日が来るんだろうか。

 想像できないな、と思った。私たちはこのくらいの距離感がちょうどいい。

 そう思っているはずなのに、この幸せが恒久的なものではないとどこかで感じてしまうのは、どうしてだろうか。

 そしてそれが、こんなに早く崩れ去ってしまうなんて誰が予想しただろう。



 翌日は明日香先輩を連れて実家に泊まる予定だった。夕食は母さんが腕を振るうというので、先輩と近所のスーパーで頼まれたものを買ってから向かうはずだった。

 お昼過ぎ、先輩の家でレンタルビデオ屋で借りてきた映画を欠伸を噛み殺しながら見ていたら、携帯の画面が光った。

『今ちょっと帰ってこられる?』

 母さんからだ。急用? と返すが、返事はない。十分ほど経ってから、『とりあえず来て』とだけメッセージが届いた。

 とてつもなく嫌な予感がした。心臓が、行ってはならないと叫んでいる。感情が胸の中で荒波を立てるように、ざらざらとした感覚が胸を焼いていく。どこかで味わった気がする、この感じ。しかもつい最近。

「どうかした?」

「いえ、母が急用らしくて。一度帰ってこいと」

 そっか、とだけ明日香先輩は言って、大きく伸びをした。

「なんだろう……気になるね」

「はい……まあ、電話をかけるほどの急用じゃないんでしょうし、すぐ戻ってきます」

 そうして私は、明日香先輩の家を後にした。実家までの道のりは、どんよりとした空気が立ち込めていて、空は今にも泣き出しそうだった。まだ昼間だというのに、太陽は持ち前の明るさを雲に遮られていた。

「ただいま」

 玄関に入って靴を脱ごうとしたら、やけに狭いな、と思った。片付けられていない大きな靴が一足、玄関に並んでいた。明らかに大きく、それはどう見ても男物の革靴だった。

「詩織、なのか……?」

 案の定、私を出迎えたのは母さんではなく、ニット帽を被っている高身長な男性だった。

 一瞬、誰だかわからずまじまじと見つめてしまう。よく見るとお世辞にも顔色が良いとは言えない。顔にある小皺から想像するに、母さんとそんなに歳は変わらないだろう。だが、その顔つきはどこか疲れを感じさせるもので体は痩せ細っており、言うなれば病人めいていた。

 私はこの人を知らない。知らないはずなのに、口をついて出た言葉は、全く逆のものだった。

「父さん…………?」

 その声は、驚きと恐怖に満ち溢れた色をしていた。

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