月を捕まえて
七月のとある夏の夜。その日は、茹だるような暑さで寝苦しかったのを覚えている。
「先輩……? どうしたんですかこんな時間に」
時計の針は0時のあたりで長針と短針が重なりそうだというのに、電話越しの彼女の声は愛おしいくらいに溌剌としていた。
『ねえ詩織。今から海行かない?』
「……また唐突ですね」
『だって今日暑いじゃん』
「エアコンつけたらいいじゃないですか」
『つけてるけどさ〜……そういうんじゃなくて……』
「ていうか外に出る方が絶対暑いですよ」
しばらくの無言の後、間の抜けた声が返ってきた。
『……さすが詩織ちゃん、頭いいね……』
「はあ。まあいいです。着替えますから、迎えに来てくださいね」
電話を切ってベッドから出る。もうすっかり目は覚めていた。
「……あ、服どうしよ」
さすがに部屋着のままで出たくはなかった。別に明日香先輩に部屋着を見せたくないわけではなかったが、突発的なデートとはいえある程度可愛い格好をしたい。それは単に可愛い自分を見て明日香先輩に惚れ直してほしいという気持ちから来るものだった。
「海、か……」
海といえば、いつかのために用意していた服があったことを思い出す。そのいつか、がこんな深夜に呼び出されて叶うとは思いもよらなかったが、逆に好都合かもしれない。
だって、私にしては露出度高め。普段なら絶対に履かないホットパンツ。
「明日香先輩しか見ないなら、まあ……」
今思えば、なぜそれを買ったのかわからなかった。ただその時は、先輩の喜ぶ顔が思い浮かんだのだと思う。
恥ずかしさを隠すためにそそくさと着替えて、私は部屋を後にした。下に降りると明日香先輩はもう着いていて、こちらに気づくと手を挙げて合図をくれた。なにせ先輩の家から私の家までは車で五分もかからない。信号をいくつかくぐり抜けたら着く距離だ。
車に入ると、外の暑さと打って変わって程よく涼しい空気とメロウな音楽が流れてきた。夏の夜にぴったりなドライブミュージックをかけるところまではいいのだが、明日香先輩は私の格好を見るなり、
「詩織ちゃん、キスしていい?」
と雰囲気台無しな一言を放った。
「先輩、目が獣になってますよ」
「だって〜普段スキニー履いてるような愛しの子が急にホットパンツで来たらそりゃ獣にもなるよ」
「先輩に情緒を求めたのが間違いでした」
周囲に響かないように、昼間より気持ち優しめにドアを閉める。
「でも持ってたんだね、そんな服」
「先輩といつか行く機会があるかもって、思ってたので」
「え?」
「いいです、別に。早く車出してください」
少し拗ねてみる。どうせキスすればすぐ機嫌直るとか思ってるんだろうな。
否定できないのが、憎たらしいけど。
「詩織、かわいいしスタイルいいんだからそういう服も似合うと思うな〜。もっと自分に自信アリな服装していいと思うよ」
私はそっぽを向いて窓の外を眺めた。
「耳、赤くなってるよ〜」
ここで反応したら負けだ、と思いしきりに無視を決め込む。まあ、でも……。
明日香先輩がそう言うなら、こういう服を着るのも悪い気はしなかった。
それから明日香先輩はにこにこしながら車を走らせた。運転中は私の何でもない話に耳を傾けながら、海沿いの道を軽快に走っていく。
「それにしてもどうして急に海なんかに? しかもこんな夜中から」
「んー、そうだなぁ。今日は月を捕まえたくなった」
大の大人が月を捕まえに海に行くなんて、普通の人が聞いたらどう思うだろう。
でも私は、その答えがあまりに明日香先輩らしくて、なんだかおかしくなってしまった。
「笑ったでしょ」
「笑ってません」
「笑った!」
「ふふ、笑ってませんよ」
「もー……バカにしてるでしょ〜……」
「いえ、いつも通りの明日香先輩で安心しました」
「それ褒めてる?」
「どうですかね。でも——」
でも、明日香先輩なら本当に捕まえてくるかもしれない。もし本当に捕まえられたら。
「本当に捕まえられたら、二人の愛も永遠かもなって思います」
意図せず私の言葉と明日香先輩がエンジンを切るタイミングとが重なってしまう。だから音楽も一緒に止まってしまって、夜の帳を下ろすように私たちの間に沈黙が流れた。月明かりに揺れる明日香先輩の表情は儚げで、どこか不安そうだった。
でももし、明日香先輩が月を捕まえるのを諦めてしまったら?
その時二人の関係は、今と変わらずにいられるだろうか。
「じゃあ、捕まえに行こっか、月」
明日香先輩は私の手に触れた。そして精一杯の笑顔を見せた。その手が少し震えていることも、笑顔がぎこちないのも、私の心にそっとしまっておこう。
今日の私は意地悪かもしれない。明日香先輩が私にとってどういう存在なのか、急に確かめたくなってしまった。
二人で車を降りて、海へ向かった。そこはビーチではないものの、砂浜と広大な海が一面に広がっている良いスポットだ。私たちは海岸線と平行に歩いた。私たちが歩いたところは、砂浜に足跡がついていて、振り返ると二人分の足跡が並んでいた。が、それも波に何度かさらわれると徐々に形をなくしていった。
今日は満月で、月の光がゆらゆらと水面に揺れている。
「ね、夜の海も悪くないでしょ」
「そうですね。まあ、先輩と二人ならどこへ行っても悪くないですけど」
「素直じゃないな〜詩織は。どこへ行っても良い、でしょ?」
「……はい、そうです」
軽口を叩いた先輩に、私は声のトーンを普段より二段階ほど落として答える。そのせいか、明日香先輩は驚いたように目を一瞬見張った後、すぐに不安そうに睫毛を揺らした。
今日の私は、本当に意地悪だ。自分の手の中にあるものが、本当に離れていかないか確かめたくて仕方なかった。
「明日香先輩。こうして先輩と歩んでいけるのが、今はとても幸せです。でも、先輩は一人でも生きていけますか?」
「……どうしたの、急に」
「私はいついなくなるかわからないってことです。それこそ、明日事故で死ぬかもしれない」
私がいない世界でも先輩には生きていてほしい。それは本心だった。しかし同時に、私のいない世界で生きていけるような人間になってほしくなかった。あの人みたいに。
「そうなった時、先輩には生きていてほしいんです。私と生きてた世界は、あんまり悪いものじゃないから、これからも少しだけ生きてみようって、そう——思ってほしくて」
半分は本心だった。でももう半分は、私の中のどろどろとした感情が、月夜に映る明日香先輩の不安げな姿を捉えて離さない。
私は多分、捨てられるのが怖いんだと思う。依存されたいのか、と言われればはっきり違うとは言えない。だってきっと、依存することは苦しい。いつか人はいなくなる。それならせめて、一緒に死ぬという選択肢をとってもいいのではないか。結局はそれが依存した関係だとしても。
でもそれが永遠の愛でないと、誰が言い切れるだろうか?
私は海に向かって歩き出した。膝あたりまで水が浸かる。この時期とはいえ、夜の海は冷たかった。
「だから先輩。私がいなくなっても——」
「やめて……」
先輩に後ろから抱きつかれた。まるで、親にもう一生会えないくらいの勢いで抱きついてくる子どものようだった。それは、まさにあの日の私と同じだった。
忘れもしない、あの人が私を捨てた日。私はまだ六歳で小学校に入学する前だった。幼い私は、お別れの意味もわからず、またいつものように会えると思っていた。だが、入学式にあの人は来ず、私のランドセル姿を見ることもなかった。あの日、私は大好きだった人に見捨てられたんだと思った。
明日香先輩は優しく、それと同時に私を離すまいときつく抱きしめていた。そうしてひとつひとつ言葉を紡いでいった。
「詩織はさ……怖いんだよね? わたしが詩織のお父さんみたいに、詩織のことを見捨てるんじゃないかって。でもね、詩織。みんながみんなあなたの下から離れていくわけじゃないし、もし離れたとしてもそれはあなたのせいじゃないんだよ。みんな自分勝手な生き物だからさ、自分のことしか考えてないんだ」
先輩は私と向かい合わせに立って、私の両手を取って優しく握った。
「大丈夫、わたしはどこにも行かない。わたしはずっと詩織と一緒。もし詩織がわたしの下を離れて行っても、わたしは絶対詩織を捕まえてみせるから」
そうして明日香先輩は、足元の水を掬って私に差し出した。
「ほら、月だって捕まえられる。月は今、わたしの手の中。詩織、言ったでしょ? 月を捕まえられたら、二人の愛は永遠だって」
月が、明日香先輩の姿を照らしていた。夜なのに、先輩の姿は私の目には十分すぎるくらい眩しかった。ああ、そうか。私はずっと、光を探していたんだ。
「ごめんなさい、明日香先輩。少し意地悪を言ってしまいました」
あの頃と同じように、夜の暗闇で泣いていた私に手を伸ばしてくれたのは、優しく光となって導いてくれたのは、紛れもなく明日香先輩だった。一度消えてしまった光だからこそ、今度こそは絶対に捕まえたい。そして放したくない。私は明日香先輩に抱きついていた。
「私も、怖いんです。明日香先輩が私より先にいなくなるのが。そして私が明日香先輩より先にいなくなってしまうのが。ずっと二人でいたいのに、運命が、それを許してくれない気がして」
「じゃあ変えちゃおう、そんな運命。そんでもって、ずっと二人でいられる未来を探そうよ。わたしは詩織が、詩織の想いをわたしに伝えてくれて——救われた。最初は逃げたけど、二回目は逃げなかった。だから詩織もわたしを信じてよ」
「明日香先輩……」
私にとって明日香先輩は光だ。だから明日香先輩がいなくなって一人で生きていけないのは、きっと。きっと私の方だ。
「わたしが不安にさせてたんだよね。またいつかみたいに、ふっと消えてしまうんじゃないかって。でも大丈夫だよ、詩織。詩織がいるなら、わたしも、きっと大丈夫だから。だから詩織が、わたしのこと捕まえててよ。わたしは詩織のこと、捕まえてるから」
そうして先輩は私の額にキスをして、手で涙を拭ってくれた。
「……明日香先輩、手、拭いてください。海水が目にしみます」
「あはは、ごめんごめ——」
私はその言葉を塞ぐように唇を重ねた。そして額をくっつけて、見つめあった。
月明かりだけが私たちを照らしていた。水面に揺れる私たちの影は、脆く、儚く、消えてしまいそうだったけれど、確かにそこに存在していた。