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涙に濡れたキスの味

「うわ汚ったな……」

 私はシャワーを借りるために明日香先輩の家に来ていた。そこでいの一番に出た言葉がこれである。

「汚くないもーん。散らかってるだけだし」

「先輩、世の中ではそれを汚いって言うんですよ」

 汚い、と言っても目に見えてゴミが散乱しているわけではなく、主に本棚にしまわれずに出しっぱなしになった本や、何が入っているのかイマイチわからない段ボールが置いてあるとか、洗濯物が畳まれずに放置されている感じだ。

 だが、一縷の不安を覚えた私は、キッチンとリビングのテーブルをすぐに確認した。しかし、その不安はすぐに払拭されたので私は胸を撫で下ろした。

「明日香先輩、お酒あんまり飲まないんですね」

「んー、あんま強くないし美味しくないしね。あ、でも……」

 明日香先輩は言葉を切って私の方に向き直った。

「詩織が二十歳になったら、一緒に飲みたいかな」

 少し恥ずかしそうな顔で、でも先輩は笑っていた。

「まあ、わたしがそれまで生きてたら、だけど」

 明日香先輩の笑顔が一瞬で悲しそうな、どこか自嘲したような風になった。先輩にそんな顔させたいわけじゃないのに。

「……先輩、お風呂一緒に入りましょうか」

「え、うち湯船狭いよ」

「いいですよ、狭い方がお互いを感じられるじゃないですか」

「……なんかえっちだね」

「いやそれが目的なんですけども」

 先輩はきょとんとした顔をして突っ立っている。間抜けな顔もかわいい。

「ま、まだ心の準備が……」

「昔はよく一緒に入ってたじゃないですか」

「だってあの頃は、その……詩織がわたしにそんな性的な好意を抱いてるなんて知らなかったし……」

「顔が赤いですよ、先輩」

「う〜」

 そっと先輩のおでこにキスをした。いじらしくてかわいい先輩。でも確かにあのとき、先輩は歩道橋から飛び降りようとしていた。先輩が高校を卒業した日、私が先輩に想いを伝えた日から、先輩は連絡をくれなくなった。先輩は大学進学で地元を離れてしまったし、何より先輩が先輩の答えを私にくれなかったことに、私はジリジリと心が焼き尽くされるような、燻るような気分になってしまった。私たちは親同士の仲が良かったから、明日香先輩がどこの大学に入ったのかは聞いていたし、私たちが仲良しなのも親には知られていた。だから、もう何年も連絡を取ってないと言ったら驚かれてしまった。

「ねえ、詩織。どうしてわたしがここにいるってわかったの?」

 私たちは湯船で体を温めていた。お互いの肌が密着するように、同じ方向を向いて体を重ねて浸かっている。

「わかった、というのは少し違います。教えてもらったんです」

「ママか〜……」

 先輩のお母様から、明日香先輩が会社を辞めたことを聞いて、私はすぐに住所を聞き出し、会う決心をした。

「おばさん、心配してましたよ。最近会社辞めて元気なさそうだって」

「そこまで知ってるのか〜……でも一番最悪なとこ見られちゃったね」

「止められて良かったです」

「あはは」

「笑い事じゃない。実際私があそこを通ったのたまたまなんですから」

 先輩の頭にチョップを入れる。いてて、と呟くあたり、あざとい。

「……実は会社辞めてちょっと元気なんだよね」

「嘘言わないでください」

「ほんとだよ? だってこうなってるのは会社のせいだし」

「……」

「ごめん、半分は嘘。会社辞めて男にもフラれたからプラマイゼロ」

「……それで死にたくなったんですか?」

「うーん、そうだねえ……まあ会社でもうまく馴染めなかったし、大学の時から付き合ってた彼にはフラれたしでなんか参っちゃって」

 先輩は目を伏せた。多分、いろんな理由があるんだろう。小さなことが重なって、いつの間にか気分が暗くなって、自分の生きる意味が見出せなくなって。そんな時に、愛していた人から別れを告げられる。考えてみると残酷な気がした。先輩は何も悪くないのに。

「人ってさ、死を考えた時、毎日死にたい、死にたいって感情が湧いてきて、でもその時、『あ、自分まだ生きてるな』って生を感じられるの。だけどそれが救いかって言われると全然そうじゃなくて。挫折して、もがいてみるけど、また挫折して。それを繰り返していく内に生きることに挫折しそうになる。今日こそは死のうって手をかけるけど、結局怖くなって死ねないんだ……」

 先輩は震える声でこう続けた。

「死ぬことにさえ挫折した人間はどこに行くんだろうね」

「明日香先輩……」

 正直私は、先輩になんて声をかけていいかわからなかった。でもあの時、私は先輩に飛び立ってほしくなかった。だって先輩と過ごした日々はあんなにキラキラしてて楽しかったから。あの時私を守ってくれたのは明日香先輩だったから。だから今度は私が守ってあげたい。

 だから今の私にできることは、明日香先輩の目を見て、こう言うことだけだった。

「明日香先輩。つらかったんですね。でもこれからは、私が明日香先輩を幸せにしてみせます。だから……いっぱい泣いてください。そしてそのあとは、いっぱい笑ってください。明日香先輩の笑顔が、何よりの宝物なんですから。先輩が生きていることが、先輩と過ごしたこれまでとこれからの時間が、私にとって宝物なんですから」

 明日香先輩の顔が少しずつ歪んでいくのが見えた。そして先輩は両手で顔を覆って呟いた。

「やっぱり怖いな。詩織もいつかどっか行っちゃうんじゃないかって」

「どっか行っちゃったのは先輩の方じゃないですか」

「……あはは、確かに」

「……でも私は、こうして先輩を追いかけてきました。少しくらい信じてくれてもいいんじゃないですか」

「……うん、ごめんね」

「許しません」

「えー」

 軽口を叩いて笑い合う。やっぱり先輩のことが好きだ。

「先輩、顔貸してください」

 私はそっと先輩に口づけをした。そして先輩の細い肩を後ろから抱きしめた。

「愛しています、明日香先輩。今は受け入れられないかもしれませんけど、ゆっくりでいいですから。いつまでも待ってますね」

「詩織はずるいよ…………でも」

 先輩は私の腕をぎゅっと引き寄せた。

「ありがとう、詩織。大好き」

 そうして先輩の涙が枯れるまで、私たちは何も言わなかった。

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