prologue
その日はひどく雨が降っていた。
もう限界だった。打ちつける雨は、まるでわたしの心を表しているようだ。とても冷たくて、雨に濡れた前髪は顔に張り付いて前もよく見えない。でももう、見る必要もないか。わたしは歩道橋の縁に足をかけた。
だって次の瞬間、わたしはこの世に存在しなくなるのだから。
そう思って目を閉じて重心を傾けると、体がゆっくりと前に倒れていくのを感じる。はずだった。
「先輩……! まって……まって……!」
聞き慣れた声に、わたしの体はいともたやすく止まってしまった。
「詩織……!? どうしてここに……」
それは、わたしの一番かわいい後輩で、幼なじみの姿だった。綺麗な黒髪はわたしと同じように顔に張り付いていて、心なしか顔も崩れている気がする。呼吸も荒く、肩で息をしていた。
「明日香先輩、死ぬのは確かに先輩の勝手です。でも……死ぬ前に、私と付き合ってください」
「……は?」
「ずっと前から先輩のことが好きでした。私言いましたよね、先輩が高校を卒業する時。先輩は笑ってごまかしたけど、私は本気だった。だからその後先輩と同じ高校に入ったし、今年先輩と同じ大学に入った。次は先輩と同じ会社に入ります。全部先輩を追いかけて——」
「ちょ、ちょっと待って。それってほぼストーカーでは……?」
「否定はしません」
「いやしてよ」
「とにかく、そこから降りて、早く私と付き合ってください。それとも接吻が必要ですか? まったく仕方のない姫ですね」
そう言ってずかずか詩織は近づいてくる。このままだと本当にキスされそうだ。
「ちょ、わ、わかった、降りるから。降りるからキスはやめて」
そうして初めて、わたしは自分の足が震えていることに気づいた。
「……ごめん、手貸してくれる?」
「喜んで、姫」
両膝をがくがくさせながら、わたしは詩織に支えてもらってゆっくりと片足ずつ降りた。
「ふう……ありが——」
詩織はわたしをきつく抱きしめた。細い肩は震えていた。途端にわたしは心がすっと寒くなって、ほんの少し申し訳ない気持ちになった。
「明日香先輩……もうどこにも行かないでください……やっと……やっと、追いつきそうなのに……」
「うん……でも、わたし、どうしようもない人間だよ。こうやって、わたしのことを想ってくれる人を簡単に傷つけちゃう」
わたしは空を見上げた。雨はまだ止まない。打ちつける雨が目に入る。
「それでも先輩は降りてくれました」
「怖くなっただけだよ」
「それでも、です」
詩織ははっきりとした瞳で、わたしの目を見据えた。まるで何もかも見透かされているみたいだ。
「……今日の空、まるでわたしの心みたいなんだ。ずっと前から、雨が降ってた。だから、死ぬなら今日かなって思ったの」
「……はい」
「だけどね、詩織の顔を見たら、なんか安心しちゃって。昔を思い出して懐かしくなって……そしたら、急に怖くなっちゃった」
詩織の大きな瞳が、ゆっくりと近づいてくる。詩織の瞳に映るわたしの姿が見えそうだ。
どんな姿をしているのだろうか。詩織の瞳に映るわたしは。
「明日香先輩。先輩の心に雨が降っているなら、私が傘を差します。だから、一緒にいてください。あの頃と同じように」
2人で過ごした、懐かしい日々を思い出した。あの頃は何をするにも一緒だったな。詩織がよくわたしの真似をして——。
「先輩、なに笑ってるんですか。私そんなにおかしいこと言いましたか?」
「うん、言った。付き合って、なんて平常心じゃ言えない」
「私は本気です」
ぷくっと頬を膨らませる詩織は、愛おしくてかわいかった。さっきまで死にたかったのに、こんなにあたたかい気持ちになれたのは、きっと彼女のおかげだから。
「いいよ」
「え?」
「付き合おっか、わたしたち」
詩織は目を丸くした。そうしてとびきりの笑顔で頷いてくれた。
もう空は晴れていた。雲間から、一筋の光が差し込んでいた。
こうして、わたしたちの交際が始まったのである。