第67話 見えざる手
遠くに見える球体の中には、周囲よりもほんの少し強く輝く、小さい珠が見える。少なくとも、真希の目はそれを感じ取った。
すると、最初は核だと思われていた球体が動き出した。球体全体が縦にひねって絞られた布きれのようになり、細長く引き絞られた後、反動のように縮む。
その収縮と、ひねり絞られる回転の勢いで、今度は細長くなった軸から何かが飛び出てきた。細長いそれは、全身の緑が蔦のようにも見せるが――人の四肢のようにも見える。
やがて、その物体は変形を止め、アストライアーと対峙した。半透明の緑色をしたそれは、蔦のような繊維をより合わせた腕と脚を4本ずつ持つ、人と蜘蛛を足し合わせたような怪物だ。
自機とほぼ同程度の大きさを持つ敵の出現に、真希は表情引き締めた。
「先生」
「逃げ道は確保してあるわ」
「さっすが」
真希としては褒めたつもりだったが、香織は別の受け取り方をしたのかもしれない。「何だか逃げ足速いみたい」とポツリ。
「抜け目ないねってこと」と付け足した真希だが、このやり取りで少し緊張がほぐれた感はあった。もしかすると、香織の一言は、そういう意図もあったのだろうか。
真希は気を取り直し、残る二人に「行くよ」と声をかけ、機体を前に進ませた。
敵の方は、動く気配がない。とはいえ、目の前の異常存在は、台風全体と連動しているはず。動いていないように見えても、相当な速度で移動しているのには変わりない。
むしろ、その速度に合わせるために、アストライアーは飛行し続けなければならない。その上で、戦闘機動を行おうというのだ。
そこでステラが提案を入れた。
『ここまでは、迎え撃つ形で接近しましたが、一度回り込みましょう』
「バック走よりも、追いかける方が操作しやすいからね」
『はい』
背面に飛行ユニットを背負っているという都合もあり、後ろ向きに飛ぶというのは非効率だ。敵を中心として円を描くように回り込んでいく。幸いにして、敵から何か干渉しようという動きはない。
「飛び道具はないのかな」と真希。一方香織は、「凄まじい範囲攻撃されてるけど」と応じた。この台風の規模を射程と見るなら、マクロフォージの熱光線も慎ましいものである。
さて、回り込みが完了したところ、敵に追いすがるように機体を飛ばしていく真希。最高速度から考えれば、追随するのは余裕だ。全身のみならず、左右上下への動きを織り交ぜるだけの余力も十分にある。
しかし、彼女はまず、接近戦よりも飛び道具での様子見を選んだ。右腕からミズチを飛ばすが……前に飛びながら撃っているせいか、水は後ろに流れていくばかり。
機体にかかる水にバツの悪い思いをした真希は、「両手使うよ」と宣言した。機体前方に両腕を持っていき、両手を合わせて細長い筒を作る。
これは、単に片方の手から水の鞭を放つのではなく、両手から水を出しつつ、一点にその力を凝集することで弾速を増す技だ。
両手構えから放たれた高圧の放水は、今度は後ろに流れることなくまっすぐ飛び、瞬く間に敵との間を詰め切って――
「あれ?」
「まっすぐ飛んでない?」
見えない風の動きに邪魔されているのか、直進させたはずの水は、敵を迂回するように流れていく。敵本体にはまるで届いていない。
しかし、香織は「このままで」と言った。
「撃ち続けて、相手の反応を見ましょう。別に、この戦いで勝たなくてもいいから、次のための情報収集と思って、ね?」
「オッケー、任せて!」
真希は機体の飛行操縦を継続しつつ、前方へと水を飛ばす両腕を、慎重に動かしていった。風の繭らしきものに守られている敵にも、直撃するようなポイントがあるかもしれないし、見えない防御膜の挙動がわかれば、それはそれでよしである。
結局、敵に直撃するには至らなかったが、ステラによれば『射撃データは収集できました』という話だ。
「後は、接近する?」
「そうしましょう」
自身の問いに対し、間を置かず返した香織に真希は少し驚いた。ただ、香織の指摘は至極まっとうで、真希も納得できるものだ。
「無茶は禁物だけど、私たちには逃げる手段があるもの。世界の取り返しがつかなくなる前に、多少のリスクを負ってでも、情報を集める価値はあると思う」
「わかった……少し痛い目見るかもしれないけど、覚悟してね!」
「ええっと……お手柔らかにね」
『お任せします』
同乗者たちの承認を受けたところで、真希は機体をさらに前方へと動かした。彼我の距離が縮んでも、モニターにはこれといった変化が現れない。
しかし、前に進めるほどに、より一層の力を要求される感覚がある。見えない大気の壁が凝集され、行く手を阻んでいるようだ。
これを跳ねのける程度の出力を出すことはできる。だが、勢い余ってという可能性は否定できない。思いのままに進めない中、焦れる感じを押さえつけ、真希は慎重にじっくりと距離を詰め続ける。
そうして、じわじわと敵に近づいていき――やがて、腕と脚を4本持つ怪物は、上の方の腕2つをゆっくりと上げてアストライアーに向けた。
すると、腕の先から飛ばされたであろう見えない何かが、機体に襲い掛かる。それに捕まれたのか、機体が大きく揺さぶられ続ける。
これで悲鳴が上がるコックピットではないが、見えない力が締め上げられ、機体外層部の金属がかすかに泣き始める。
その何かを振り払おうと、真希は反射的に動いた。両腕からアグニファイアを解き放ち、締め上げてくる見えない力へと、赤熱の刃を繰り出す。この一撃で、見えない力を断ち切れたようだ。機体が解放されてフッと楽になる。
だが、油断するのはまだ早い。敵の腕の内、下2本が機体の下半身に向けられたかと思うと、真希は足元をすくわれるような感覚に襲われた。実際、アストライアーの両脚が見えない手に捕まれ、下半身からひっくり返されそうになる。
その時、真希の全身に悪寒が走った。相対速度がほほゼロになったこの戦いだが、両者ともにかなりのスピードを出して動いている。この状況で、推力の方向を大きく変えられたらどうなることか――
そこで真希は、意図的に飛ぶのをやめた。瞬間、急激に座席へと押し付けられ、足元からすくわれる動きも加速する。機体が勢いよく後方宙返りする格好になった中、真希は回転の勢いをそのままに、赤い刃を両腕から展開した。
この反応で敵との距離が一気に離れ、見えない何かの力が急激に弱まり、それを縦回転する火車が斬りつけていく。
完全に開放されたと感じた真希は、機体の回転を落ち着け、落とした高度と開いた距離を埋め直すように飛行を再開した。少ししてから、同乗者に問いかける。
「先生、大丈夫? 舌噛んでない?」
「大丈夫……ちょっとびっくりしちゃったけど」
「ちょっとで済むんだ」
「おかげさまで」
気丈な同乗者の有り様に、真希は励まされる思いだった。
それから、ステラがこの状況を分析し、彼女なりの見解を口にした。
『おそらく、敵は空気の流れそのものを操っています。距離を詰めるほどに、その支配力が増すと考えられます』
「それを、アグニファイアで切れる感じだね」
『はい。しかし、現時点では十分に距離を詰め切れたとは言えません。アグニファイアが真価を発揮する近接戦闘のレンジで、相手の力がどこまで伸びるか、なんとも言えません』
「うーん」
敵がどこまでやれるか、知りたくはある。しかし、無理すれば身が持たない。仮にアストライアーが損傷を受ければ、修復までの期間は全力を出せなくなる。その間に上陸でもされようものなら……
操縦者としてのジレンマに悩む真希は、香織に助言を求めた。
「どうすればいいと思う?」
「私が、離脱用の転移だけに集中するから、真希ちゃんは接近戦を。できるだけ機体を長持ちさせて、少しでも情報を引き出せれば……それで、どう?」
「近づいても、大したことができないかもしれないけど……」
「それはそれで、重要なデータじゃない? 接近戦には足りないものがあるって」
自信なさげに言葉を返した真希に、香織は普段の調子で声をかけ、少し陽気な感じで付け足した。
「今の真希ちゃんでも足りないものがあったら、その情報を持ち帰って、みんなに考えてもらいましょう。それで、リベンジすればいいじゃない」
「……おっけ。ありがとね、先生」
得体のしれないこの敵に、どこまで肉薄できるかはわからない。ただ、この赤熱の刃が届くことはきっとない。そういう直感が真希にはある。
それでも、香織の言葉に勇気づけられた真希は、敵をまっすぐ見据えた。少しずつ敵へと詰め寄り、精神を研ぎ澄ませていく。
それから、前に敵が動き出した距離に近づいたところで、彼女は動きを少し変えた。飛行する方向はそのままに、敵に対して半身を向けて構える格好に。これならば、見えない何かに体の両側を同時に攻められる可能性は低い、そう判断してのことだ。
新たな構えを取り、機体に吹き付ける風の動きに、彼女は意識を傾けた。視覚はもはやあまり当てにならない。薄目を開け、ただ緑色の物体が動き出す、その行動の起こりにだけ注意を向ける。
やがて、敵が動きを示した。上の方の腕が2本、機体に向けられる。それとほぼ同時に、機体全体が揺さぶられ、敵側に向けた機体右側を、大気の鞭が締め上げてくる。
機体から伝わるその感覚に、真希は即応した。拘束された右半身はそのままに、体幹を軸にして今度は左半身を敵側に差し向け、大外から回り込ませるように赤い剣を刺し込んでいく。
すると、熱が大気の流れを断ち切り、右半身がフッと楽に――そう思ったのもつかの間、今度は左半身が締め上げられ、それを感じた真希は、先程と同様の流れで体を回して束縛を断ち切っていく。
赤熱の刃を振り回しながら、徐々に機体を接近させていく真希。しかし、敵に近づくほどに、見えない力の拘束力は増していく。
やがて、機体は完全に身動きが取れなくなった。体全体が拘束され、締め上げられた腕が、見えない何かに掴まれて引きちぎられそうに――
激痛を覚悟した瞬間、真希は機体が敵よりも数十m離れた事を認識した。「短距離の転移で、まずは確実に」とは香織の談。
この攻防で、彼女も息が上がっているようだ。ただ、真希はそれ以上に、強い疲労感を味わっていた。すぐに言葉を返せず、拭っても拭っても、額からは汗が滴り落ちる。
そんな彼女に、香織は声をかけた。
「今日は……このところで帰りましょう」
「……うん」
「次は勝ちましょうね」
「うん」
胸中に伝う苦い感じを噛み締めながら、真希は機体の高度を下げていった。
見上げた青い空、遥か遠くに白雲の城壁が連なり、その中で緑の怪物が日を戴いている。
近いうちの再戦を期し、真希は強く拳を握った。




