第38話 ひとふりの流れ星
命綱を手放して降下を始めた直後、真希はアストライアーの左手から、水を水平に勢いよく噴出させた。そうして得た推力に合わせ、機体をひねって回転させ、頭を下側に持っていく。一方、コックピット内の角度は90度ずれ、座席が真下を向く格好に。
姿勢制御を終えても、真希は水流を出し続けた。左腕を中心として、機体全身へと水の膜を薄くまとわりつかせていく。黒雲を抜ければ、すぐにでも敵の攻撃がある。その備えのために。
落下を開始して数秒後、真っ逆さまに落ちていく機体の視界目いっぱいに、黒い雲海が広がった。帯電した黒雲の中、海龍のごとき紫電が何本も疾走している。その黒雲に差し込む6本のサーチライトの交点目掛け、アストライアーは左手を伸ばしたまま、まっすぐに飛び込んだ。
機体が黒雲の中に入り込むと、強く帯電した黒雲の中で、漆黒の闇と雷光が慌ただしく切り替わっていく。ただ、コックピットのモニターは、愚直に外を映し出すようなことはしない。真希の視界が奪われないようにと、色調が整えられている。
そして、ほんの少しの間に黒雲も抜けきると、眼前には別の光景が広がった。日暮れに沈む暗い大海、中心に浮かぶハワイ島。そして、直下に輝く赤い光が、島と周囲の海をぼんやりと朱に染めている。
降下地点はドンピシャであった。真希がそれを認識するのとほぼ同時に、敵も反応を起こした。視界中央で待つ敵の中核が強く輝き、一瞬のうちに赤い光線が攻め寄せる。
覚悟していたことではあったが、敵の火力は甚大であった。真下へ突き出した左手と赤い光線が触れ合うや否や、手首から先の細かい部分が一瞬にして消し飛んだ。あらかじめ用意していた水流は激しく蒸発。広げていた左手の指先は破片となり、強烈な水蒸気で四散し、一瞬で視界から消えていった。
一方、コックピット内では、この一瞬の出来事で強烈なGが生じた。敵が放つ赤い熱の奔流は、機体質量相手に、無視できないレベルで対抗するほどの力を発揮している。もはや手首のない左腕から放たれる水流と、それがたちまち変じる水蒸気も、落下の勢いを大きく削いだ。
そして、いくら水で保護しようとも、敵の火力は強大だ。重力に引かれる力と、下から押し上げる破壊的な熱の板挟みの中、盾となっている左腕がジリジリと削られていく。随時更新されていく左腕先端部には、水蒸気の塊がまとわりつき、飛び散る破片や粒子とともに、下から迫る赤い光線の輝きで朱に染まる。
こうして身を削る痛みの最中にあって、それでも真希は、強く意志を保った。
(盾にしていいのは、今はまだ左腕だけ。姿勢を崩せば、すぐにやられる――)
研ぎ澄まされた彼女の集中力は、敵の攻撃を左腕一本で受け止めさせる、機体の姿勢を見事に保ち続けた。
落下速度の低下は、苦しむ時間を引き延ばすことを意味してもいる。しかしそれは、この作戦に関わる者にとって、織り込み済みであった。自由落下そのままに降下したのでは、敵の核に至ったタイミングに合わせての攻撃が困難だろう。それに、パイロットはまず助かるまい。
よって、パイロット保護と攻撃成功両方を目的として、落下速度の相殺は必須であった。
だが、即席のバックパックにドラッグシュートを仕込んではいるが、それだけでは心もとない。それに、最終段階での急ブレーキ単体では、それだけでパイロットが気絶、ないしは絶命しかねない。必要なのは、ある程度継続的な減速である。
そこで、機体とパイロットの精神力が持つ限りは、敵の熱光線とミズチで減速させ、どうにか適切な速度を保つ。それが、この常軌を逸する作戦における、勝利までの道筋である。
しかし、水による相殺は未知数ながら、左腕一本だけでは耐えきれないという推測が事前に立っていた。減速も重要だが、機体が耐えきれなくては話にならない。降下速度を抑えつつ、一方で落下までの時間増による損傷を軽減させる。そんな仕組みが必要だった。
その仕組みが起動した。コックピット内のモニターに、現状の視界にうっすら重なるようにレーダーが映し出される。それと同時に、真希は五感とも違う得体の知れない感覚ながら、レーダー上に示された飛来物の接近を感じ取った。
敵へめがけ、四方八方からミサイルが迫っている。敵の狙いが、直上から襲い掛かるアストライアーを優先するのなら、ミサイルは敵に直撃するだろう。
ただ、そういった”あわよくば”という目論見は、もとより極めて望み薄である。これらミサイル攻勢の真の目的は、アストライアーとパイロットの、負荷軽減にある。
実際、敵は当初想定通りの反応を見せた。より喫緊の脅威に対応すべく、赤い光線がアストライアーの左腕から離れていく。
その時、真希は強い痺れのある腕の中に、確かな解放感を覚えた。と同時に、下への再加速で座席に押さえつけられる感覚も。
光線が離れたこのタイミングが、立て直しのチャンスである。敵光線に対する最初の衝突で感覚をつかみ、2度目の攻撃に備える。その猶予は、ほんの数秒程度しかない。
そんな中で、真希の脳裏に一瞬のひらめきがあり、彼女は半ば反射的にミズチを動かした。前腕部がほとんど消し飛んだ左腕先端は当然保護しつつ、残存する左腕全体に、水の鞭を強く巻き付けていく。
彼女が光線との2回目の衝突を前に準備を整える中、眼下ではその赤い光線が、圧倒的な力と存在感を誇示していった。迫るミサイルたちは、光線によってあっけなく切り払われた。火山を中心に広がる赤い光の花弁の中で、技術の粋が散華していく。
攻撃としては、確かに、ものの役にも立たなかった。だが一方で、立て直しのための、有用な時間稼ぎにはなってくれた。痛みに歯を食いしばり、顔を歪めつつも、真希は不敵に口角を上げた。
(負けるもんか……!)
そして、ミサイルを横に薙ぎ払った光線が、今度は空を縦に切り裂いてアストライアーに迫る。
1回目の攻撃は、左腕の正面で受け止める形であった。2回目は違う。光線が腕を縦に斬るように入ってくることを、真希は短い猶予の間に察していた。
そのイメージが現実のものとなる。左腕にまとわせた水流をたやすく断ち切り、光線が腕を焼き切るように入り込んだ。
腕に入った裂傷は、腕を完全に両断するほどの深さではない。しかし、無視できるような浅いものでもない。腕の横には憂慮すべき深さで傷が刻まれ、正面からは高エネルギーの波動が容赦なく打ち付けてくる。この正面からの攻撃が腕に打ち付ける楔となり、横から刻み込まれた亀裂が広がって、しまいには腕が分断されかねない。
そこで真希は、腕の先端から水を放ちつつ、腕全体に這わせておいたミズチを強く締めあげた。道半ばで腕が泣き別れるのを防ぎ、盾の役目を最後までまっとうさせるために。
気が遠くなるほどの激痛の中、それでも彼女は気力を保ち、機体の操作に専念した。機体や水だったものが無残に飛び散り、赤い閃光がそれらを照らす血煙の中、彼女の胸中は深紅に燃え盛っている。
――作戦を始める前には、彼女の中で揺れ動く感情が確かにあった。肉親への想いや、ここに至るまでに関わった者への想いの裏で、拭いきれない死への恐怖が。
しかし、胸の内にべったりと張り付いていた暗いものは、アストライアーの左手とともに消し飛んでしまった。代わりに突如湧き出したのは、激しい闘争心と負けん気、そして言い知れない義憤である。得体のしれない怪物と、それが押し付けてくる理不尽への猛りが、彼女の中に満ち満ちている。
配信を開始して以降、ネット上では「金のかかった自殺」という表現まで飛び出したこの作戦は、実際にそういうものなのかもしれない。命綱から手を放して降下を始めた時、真希は実際、命を手放した感覚に囚われてもいた。
だが、敵からの攻撃がスイッチになった。破滅的な力を受けてなお、機体も自分も健在でいる。その事実が、生きているということを鮮明にした。手放したと思っていた命は、まだその手の中にある。真希自身のものばかりでなく、春樹のものも、ステラのものも。
彼女は、それを手放してしまわないよう、強く固く握りしめた。機体の左腕は大きく損なわれ、真希自身の左腕も、痛みや熱感以外の感覚がない。それでも彼女は、虚ろになった左手に熱を感じた。敵が放つ光線の熱だけでなく、内奥からほとばしる熱さを。
激しく燃え盛るロウソクのように、見る見るうちに削れていった左腕は、しかし十分な時を稼いでくれた。もうじき、敵の懐に到達する。
ここに至るまでも、相当の難易度があった。押し上げてくるようにすら感じられる勢いの熱光線を相手に、左腕だけを撃たせるように体勢を整えなければ、機体の別の個所が撃ちぬかれるか、焼き切られていたことだろう。この難行を、真希は激痛に耐えながらもやってのけた。
しかし、本番はここからである。タイミングと姿勢制御に誤りが許されない一発勝負を前に、彼女は今一度精神を深く集中させ――
ついに、詰めの時がやってきた。彼女の意志がステラに伝わり、それが電気信号となってバックパックへ伝達。機体背部から十数個のドラッグシュートが展開され、空気抵抗で機体が急減速していく。
その機に合わせ、真希はそれまで以上に気力を振り絞った。根元近くまで削れた左腕からミズチが解き放たれ、瞬間的に濃密な蒸気が立ち込める。先のドラッグシュートに加え、突発的な水蒸気による減速により、落下速度が大きく相殺された。
瞬間、強烈なGが真希に襲い掛かるが、彼女の意識が途切れることはない。水蒸気の勢いに水の奔流も加え、彼女は機体を縦に回転させていく。敵に背を晒すように機体が回る一方、コックピットの角度は正常に。
しかし、それぞれの角度に食い違いが生じても、今の真希に不都合はなかった。目を閉じても自在に動かせるほど、彼女の集中力は高まりきっている。
そして、機体の回転により、敵光線の着弾点は左腕からバックパックへ。さらには腰背部を抜けて右脚の裏側へ。濃密な水蒸気をもってしても、敵光線を完全に散逸させるには至らないが、その威力を十分に低減することはできている。被弾箇所が動いているということもあって、深刻な貫通は生じていない。ただ、広い範囲に渡って熱を刻み込まれているだけだ。
最終的に、機体は突発的な濃霧の中で、ほぼ半回転した。左腕を撃たせ続けていたのが、今では右脚だ。足からミズチを出す訓練はしておらず、左腕のように耐えられるわけではない。
だが、もう充分であった。濃霧の中、ゆるやかに破壊されていく足裏で光線を踏みつけるそのすぐ下に、敵の本体がある。浅いすり鉢状に広がる敵の上端部と、その中央でこんもり浮き上がった、赤い光を放つ巨大な核が。
――間合いだ。
直前の回転の勢いに乗せて、アストライアーの右腕が振り上がる。右腕に直接据え付けられたヴァジュラに火が入り、射出口からは、ほのかな青い光が漏れ出る。
そして、真希は、腹の底からの雄叫びを上げた。
「うわああぁぁッ!!」
彼女の血の猛りにヴァジュラが応え、間に合せの右腕はスパークを撒き散らしながら、大剣のごとき青い閃光を放った。振り下ろされた青い刃は、落下の勢いとともに赤い核へ。
直後、双方が放つ力がぶつかり合い――赤い光の濁流を、青い光が切り裂いた。青い光は核に至り、打ち破られた核からは、正視に堪えない爆発的な閃光が生じた。周囲一帯が、真紅に塗りつぶされていく――




