97話 遠山鳴人と名瀬瀬奈
「………………え?」
「とぼけないでくれよ、藤堂。なんで、俺以外の男の話、そんなにするんだ?」
遠山の声色は穏やかだ。自分の探索者端末を写し身に渡しながら、ゆっくり前に進む。
その声、その足取りは穏やか。晴れの日にゆっくりとしたペースで寄せては引いてく波のように。
「え。え、え」
「どうした? その髪似合ってるよ。とても綺麗だ」
遠山鳴人が、急に女を口説き始める。
いつもは死んでいる三白眼、不思議なことに黒目がくりくりと、いつもより大きくなっているかのような。
「え、あ、え、えっと、たしかに手入れは、フフ、してる、けど……」
女神の化け物が、暗黒を梳いて空に溶かし込んだような黒い髪を弄り始める。
遠山からは目を、逸らしていて。
「そっか。日下部、ごめんな、1人にして。……ずっと気にしてたんだ。お前達を残して、死んだから」
《あ、あ、う、え、え? ど、どうし、ふ、フフフフフフフフフ、鳴人くん、私を、もしかして騙そうとしてる? 甘いよ、貴方はそんなこと言わないーー》
女神の化け物が、ふと声色を低く。
「また会えてよかったよ、日下部。それとも、藤堂? なんて呼べばいい? ほんとの名前の方がいいのか?」
それをすら無視して遠山の舌は踊る。
「え、いや、だから…… ふ、フフフ、ああ、そういうこと? 鳴人くん、まさかそうやって命乞いしようとしてるの? まさか、私が今更そんなことを言われたから貴方を殺すのをやめるとでも? 甘い、甘いよ、鳴人くん、そんなーー」
「俺が間違えてた」
女神の化け物は、遠山の言葉に逆らえない。
女神の化け物が正気に戻ろうとするたびに、冒険者の舌が彼女を狂わせ、離さない。
「………うん?」
「名瀬。俺が間違えてたんだよ。お前の言う通りだ。俺は、最近、どこかおかしい」
縋るような、声色で。
まっすぐ、しかしどこか陰のある瞳を遠山鳴人が浮かべる。
女神の化け物は、蜜が溢れる美しい花を見つけたミツバチのように硬直する。
「昔はどうでも良かったことが、昔は気にならなかったことが、今はとても大事なんだ。お前の言う通りだ、俺はどんどん変わっていってる」
【スピーチ・チャレンジ(誘惑) 判定中…… INT値によるプラスの補正が発生します。"名瀬瀬奈"との関係性 "私のイザナギ" により、誘惑判定に多大なるプラス補正が発生しています】
「ああ、ああ、鳴人くん! そう! そうなの! その通り! 貴方は変わってゆく! 貴方は変わってしまった! 私はそれが耐えられない! 美しかったの! 綺麗だったの! この嘘だらけで本物なんてない世界の中、全部全部頼りなくて、脆い世界の中、私は絶望していた!」
女神の化け物、その妄執だけで神域にたどり着いた恐るべき女が己の心を叫ぶ。
「でも、貴方だけは違う、違った。どれだけ世界が嘘とまやかしと誤魔化しでできていても、貴方だけは違った。貴方だけ、みんながこのくだらない世界を受け入れて、それぞれ妥協して生きていく中、貴方だけは、貴方だけに見える何かを目指して進んでいた、貴方だけが本物だった」
誰かの姿に、自分だけの意味を見出し、それを尊ぶ。
例え神域にたどり着いても、その女の言葉はどこまでも人臭く。
「それが美しかったの! 尊かったの! 誰にも何にも世界にも埋もれず、他人を必要とせずに一人で進む貴方が好きだった! 世界に自分は1人だけ! それでも生きていて良いって思えた、思わせてくれた貴方が!! なのに! 貴方は、貴方は!!」
他人に理想を求める。名瀬瀬奈の願いは、どこまで行っても当たり前の人間ならば誰しもが抱くもので。
「いいよ、言ってくれ」
遠山はそれを受け入れる。
優しくふわりと笑う。
【条件達成 隠し技能、"女運:hopeless"を保有した状態で女性へのスピーチ・チャレンジを複数回成功させました】
【新技能 "レディキラー(重たい女専用)が追加されます。重たい女とのスピーチ・チャレンジにおいて特殊な選択肢が解放されます】
「貴方は私を裏切った……! 私の前からいなくなって、それで、私じゃない、ううん、別の女や他の人間によって貴方は変わりはじめてる! 私はそれが許せないの! 嫌なの! 貴方は貴方のままで、一人で進む遠山鳴人じゃないと嫌なの!!」
「筋金入りね……」
『……恐ろしいものだよ』
重たい女の言葉に、自覚のない重たい女2人がぼやく。
人間、自分を客観的に見つめるのは難しいものだ。
「うん、うん。そうか。……ごめんな、名瀬。一人にして」
遠山は狼狽えることはない。ただ、ゆっくりと言葉に耳を傾けて。
「貴方は、貴方は、そう! 私の前からいなくなった! だから、私は、追いかけて、ここまで、ああ、鳴人くん、鳴人クン、ナルピ、遠山鳴人、ナルヒトくん!! だから、死んで! だから、生まれ変わって、だから、変わらないで、死んで、しんで、私の手でしんでよおおお」
『……聞くに耐えないな』
「ほんと、同感……」
無意識の重たい女達が嫌悪感を露わにする。彼女達からしても、名瀬のその言葉はあまりにな言葉だった。
《貴方に愛は必要ないの!! 他人も、女も、貴方の欠落を埋めるものなんていらない! そのまま変わらないで! すすんで、すすまないで、おいていって、おいていかないで、死んで、生きて、しんで、殺させて、生まれさせて、死んで死んで死んで死んでーー 死んで」
こどものわがままよりも幼く、悪党の戯言よりも空虚。
おおよそ人がほざける言葉の中でももっともくだらなくて、醜い言葉を黄泉の大神が、国産みの女神が叫ぶ。
自分の人生に対する空虚さを、己だけの絶望を、他人になんとかしてもらおうとしていた女の言葉が虚しく響いて。
「ああ、いいよ(嘘)」
《「『え』」》
その言葉をも、遠山鳴人は受け入れた。嘘だけれども。
「お前の気持ちはわかった。いいぜ、名瀬(嘘)」
《え、え、え…………………… いいの?》
その嘘は、バレない。探索者の酔いと名瀬瀬奈が行った暗示処理や外科的脳処理。
それによりハッピーに歪められた遠山の脳みそは、どんな危機的な状況であっても"敵を殺す"、そのためならばパフォーマンスを落とさない。
「ちょ、何を、トオヤマーー
味方すらも騙される嘘。
英雄の写し身が、つい身を乗り出そうとして。
『アレタ』
「っでも、ソフィ!」
『任せる、そう決めたはずだよ、我々は彼に』
それでいい。
遠山は背後で動きを止めたアレタ・アシュフィールドの様子に頷き、歩を進める。
怖い、怖い、怖い。
自分のした選択、気を抜けば冷静になって震えてしまいそうになる。
やめろ、やめろ、やめろ。言うな、止まれ。理性が悲鳴を上げ続ける。
それを言えばもう戻れない。やるしかなくなる。理性の喚き声をたしかに聞きながら、遠山の舌はそれでも止まらなかった。
「ああ、俺を食べてくれ(嘘)」
【スピーチ・チャレンジ(誘惑) クリティカル】
《………………ふ、フフフ、フフフ、フフフフフフ、な、んで? 今更、そんな》
「言わないとわからないか? ……嬉しかったんだ。俺のためを思って、俺のためにこんなことまでして、それでも追いかけてくれたお前の気持ちに気付いた。自分にとって大切なものに気づけたんだ」
カケラとも思っていない言葉、だがそれにはたしかに心がこもっている。
本当の嘘つきは、自分のついた嘘を嘘と認識しない。遠山鳴人の言葉は毒であり、蜜である。この男の知性と残酷性は今、全て目の前の"女"を口説くために総動員されていて。
《あ、ああ……》
「ありがとう。名瀬、そんなに想ってくれて。そんなお前に全部委ねたい、お前の言うようにお前の理想の俺になりたい、だから、俺を食べてくれ、だから、俺と」
過去最高に、遠山の脳みそは煌めき、舌は踊る。
「ひとつになってくれ(嘘)」
そして、その言葉の後。世界は動きを止めた。
嵐を孕んだ黒い雲も、蝗害の如く空を埋め尽くす異形たちもぴくりと動かず。
【スピーチ・チャレンジ(誘惑)クリティカル。全てのチャレンジに成功しました】
《アアアアフウウウウアアアアフウウウウアアアアフウウウウアアアアアアアアアアアア! わかってくれた! わかってくれたんだね! 鳴人くん、ナルピ! 嬉しい、私、嬉しいイイイイイ!! ああ、貴方に愛は必要ないけど、貴方は私の愛を受け止めてくれる!! この信じられるもののない世界で! 貴方が! 私と、貴方だけが唯一絶対不変になるの!」
《優しく優しく優しく!! 貴方の味を損なわないように溶かしてあげる、貴方の全てを味わい尽くして、蕩けて、理解して、産みなおしてあげるからね》
「……ああ、頼む」
「トオヤマッーー」
「……………」
背中にぶつけられたアレタ・アシュフィールドの声。遠山鳴人は、それに振り返らず、親指をアップさせて応える。
信じろ。
声にはならない言葉、アレタ・アシュフィールドは声を詰まらせる。
《カカカン》
《ギャフフ カカカン》
2体の羽を持つ異形が降りてくる。"welcome!!"そう書かれた標識アタマが、遠山を左右から挟み込むような位置に。
《鳴人くん、いらっしゃーい》
ふわり。
右腕、左腕を異形の標識アタマたちに掴まれる。ひんやりとしたそいつらの手のひらの感触は、きっと死体と似ている。
「ああ、お邪魔します」
ふわり、そのまま持ち上げられ空に、高く、高く、空に。
風が強く吹いている。
ゆらゆら、高く昇る。
眼前に、眼下に。空から見える景色が広がる。足元にはジオラマのような、自分の生きた街が。
ああ、あの校舎の屋上があんなにも小さく。
「凄え景色……」
そして、目の前には、あんぐりと口を開いた女神の化け物が見える。
《おいで、おいで、おいで》
その女神の化け物の口の中は、きっと黄泉そのもの。全てを溶かし、全てを取り込む神の世界。
ここより先は人域にあらず、生命のいて良い場所ではない。
だが、遠山鳴人は冒険者だ。
危険を冒し殺して生きるものならば。
「ひでえ景色……」
そう言って、少し笑ってーー
『ーーーー!!!!』
風に乗り、どこかから声が聞こえた気がする。足元、空の下、地面。
ああ、あの校舎の屋上からだ。
そうだ、しまった。
遠山はふと、やり残しを思い出す。その校舎に置いてきた少女。濡れて風邪を引いたらいけないから、そこだけ台風の目のように凪いでいる場所。
屋上を見て
「ドラ《はい、頂きます》
ばくん。
一瞬で、ごくり。遠山鳴人のその呟きごと、女神の化け物は一口で全てを飲み込んだ。
嵐の夕焼けの中、ただ、異形たちが鳴らす踏み切り音のような鳴き声だけがずーっと響いていた。
◇◇◇◇
◇◇◇
◇
暗闇が、ぱっと、弾けて。
「う……あ?」
自分の声で意識が戻り始める。
うつ伏せに倒れているのだと、遅れて気づいた。
「あ、目が覚めたのね、鳴人くん」
声がした。
うつ伏せの自分、そのすぐ側から聞こえる声が。
「……名瀬、か」
遠山がゆっくり身体を起こして、その場に座る。
足を折り曲げて、膝をたたみ、こちらをニコニコと見つめてくる女がいた。
「ええ、そう! 名瀬瀬奈、貴方が選んでくれた貴方の答え。ああ、鳴人くん、嬉しい、わたし、とても嬉しいの、貴方が私を理解してくれた、受け入れてくれた、そのことが、本当に……」
「……ああ、どうも。ここは、俺はお前に食われた、よな」
真っ白な空間。
どこまで続くのか一切わからない奇妙は場所だった。
唯一わかるのは、ここにいるのは遠山と名瀬だけということだけ。
「ええ! ここは神体の中、ここで貴方はこれから生まれ変わるの! もう二度と誰にも侵されない自我、変わることのない強い精神、一人で全て完結して、完成した存在に! フフフ、ああ、素敵だなあ」
「名瀬、一つ聞いていいか?」
その言葉を遮るように、遠山が声を出す。
これから、やるべきことをやる前にどうしても遠山鳴人は聞いておきたいことがあった。
「うん、なあに? 今の鳴人くんならなんでも話してあげるよ! だって、私を受け入れてくれたんだもの」
どこまでも上機嫌に、昔の知己に、仲間によく似た顔の女が笑う。
「……そうか。なあ、俺の知ってるお前、お前が演じていた二人。藤堂も、日下部も、正直2人とも何考えてるかたまにわからねえことはあった。でも、2人ともいい奴だった。少なくともカイキを殺したり、他人にここまでめちゃくちゃする奴じゃなかった」
「んー? 何がいいたいの? 鳴人くん?」
美しい顔だ。藤堂と日下部。2人のいいところをそにまま抽出した整った顔立ち。
目元は鋭いくせに、目つきは柔らかく。両目の下にある泣き黒子が白い肌にすっと、あしらわれていて。
「……これが、本物のお前か?」
これがまず、聞きたいことの一つ目。
「んー? フフ、そうだよ、ふ、フフフ、フフフフフフ、ずっと。ずっと、こうしたかった」
遠山の重々しい問いかけとは裏腹に、名瀬の返答はどこまでも軽いものだ。
「……カイキさんも、他の子も、みんな好きだった。あの時間は私にとっても本当に大切なものだった。
名瀬瀬奈が、藤堂未来の顔で語るのは共に過ごした青い日々。
「鳩村やナルピと駆け抜けた炎の日々。命を懸けて探索者として生きたあの日々は、私の宝物だったよ」
名瀬瀬奈が、日下部日菜の顔で語るのは共に駆け抜けた命を燃やした炎の日々。
「なら、なんで」
こんなことを。
遠山鳴人はその先の言葉を喉につっかえて。
名瀬瀬奈は、遠山鳴人の人生の半分以上、そこにいた。名前を変え、外見を変え、性格を変え、ずうっと、ずっとそばにいた。
「藤堂……、お前、無口で何考えてるかよくわかんなかったけどさ、それでも名瀬のバカみたいな思いつきに律儀に付き合って、周りをよく見て色々フォローしててくれてたよな」
藤堂未来には何度も助けられた。
海城優紗のめちゃくちゃに巻き込まれた時や、割と笑えない事態の時も、藤堂は無表情に、無感動に、それでもいつも遠山を手伝ってくれていた。
「……うん、君はいつもそんな私を見ててくれてたね」
遠山鳴人が、藤堂未来に言葉を。
「日下部、お前は何も考えてないようで、一番チームのことを優先して動く奴だった。どれだけやばい状況で、俺や鳩村が投げ出しそうになっても、お前だけはいつも明るく、笑ってたよな。お前のそれは俺たちを救ってくれてた」
日下部日菜には何度も救われた。
その底抜けの明るさに何度救われたことだろう。血生臭い探索者としての生き方の中、その善性にほんの少し憧れてすらいたかもしれない。
「ナルピの為だよ。ほっといたらナルピ、どんどんダウナー入って、自爆戦法取ろうとするからさ」
遠山鳴人が、日下部に言葉を。
「……ああ、お前はいつも、いい奴だった。いい奴だったんだよ。なあ、色々言いたいことはあるんだ。でも、やっぱり納得出来ない、なんで、カイキを殺した?」
「だってそれが私だもの」
無意識に遠山が繰り返した言葉は、縋る、という行為に等しいもの。可能性を、僅かにまだ残っていた名瀬という存在との和解の可能性を探すもの。
だが、その遠山のそのちっぽけな願いは、決して叶うことはなかった。
「これが、私。鳴人くんを自分の理想の存在にしたい。1人で完成する貴方をずっと見ていたい。変わっていく貴方に耐えられない。それが私、私の願い」
名瀬瀬奈が答える。
藤堂でも、日下部でももはやないその女が淡々と己の理想の男を眺める、、
「私は私の願いが一番大事なの。それが、私。名瀬瀬奈という人間なの」
漆黒と表現するにふさわしい言葉。もはや、この女は何者にも染まることはない。
確立された傲慢な自我を隠すことも悪びれることもない。
「…………ひひ、ああ、ほんと、なるほど。なるほどね。お前、やっぱ海城の友達だわ。アイツと同じ」
「フフ、たしかに海城さんもそうだね。私と海城さんは似てる、だから、海城さんも貴方に惹かれたんだろうね」
「アイツがそうとは思えねえけど…… なあ、名瀬。俺はこれからどうなるんだ?」
一つ目の聞きたいことは終えた。
なら、遠山が聴きたいことはあと一つだけ。
「大丈夫、怖がらないで。痛みもなにもないから。一つになるの、一度鳴人くんの全てを溶かして、そこからまた作り直すの。フフフ、楽しみ」
「そんなこともできるのか、すごいな」
柔らかな表情を作り、遠山がつぶやく。
その様子ににこーっと微笑み名瀬が返す。
「うん、頑張ったんだよ、貴方の為に。アレフチームの人がすごい栄養になってくれてるのもあるけどね。フフフ、数多の神をも飲み干す力、それを利用して鳴人くんを作り直すんだよ、フフフ」
「へえ、今、そいつはどこにいるんだ?」
上機嫌の名瀬に、さりげない遠山の言葉。
賽は投げられた。
「近く。ちょうどこの場所の下の、更に下、かな。鬼さんや、河童さんもそろそろ諦める頃だから、安心して、鳴人くん」
ーー二つ目。名瀬瀬奈に聞きたいこと。
「ああ、そりゃ安心だ。アレフチームのバカはまだ生きてるんだな」
遠山が問いかける。作ってみせたその柔らかな表情に、名瀬は決して気付かない。
藤堂未来なら、日下部日菜なら気付けたであろう遠山のその表情。
「うん、そうだよ、まだ生きてる」
その表情の意味に、もう名瀬瀬奈は気づくことは出来なかった。
「その言葉が聞きたかった」
「…………え?」
ピッ。
刃が、名瀬瀬奈の喉元を裂いた。
遠山鳴人が、瞬時に己の首元から抜いたキリヤイバ。それの欠けた刃が、名瀬瀬奈の首を掻き切った。
「説明ご苦労サマ。あとは自分でたどり着く」
聞きたいことは全て聞いた。
「ゴボッ…………だま、した、の?」
名瀬が目をぱちくりしながら、尻餅をついたままつぶやく。
ごぼり、こぼり。口から黒い泡を漏らす。
赤い血は出ない。
代わりに名瀬の首元の傷からは黒いモヤが垂れていて。
「ああ」
悪びれることなく、遠山がすっと立ち上がる。
ごぼり、首元を抑えて虚な目でこちらを見上げる名瀬の視線を受け止める。
「なんで? 違うでしょ。ね? 違うよ、ね? 貴方はやっぱりおかしくなってる、変えなきゃ、貴方を、あるべき姿に、変えなきゃ、ね? そうだよね? だって、貴方に愛は必要ないから、ね?」
差し伸べられる手、しゃがみこんだ名瀬の手が遠山を求めるように上に、上にーー
「ね、じゃねえんだよ」
ばしゅ。
その身体が刻まれる。首元を斬った際に入り込ませたキリが名瀬瀬奈の身体を内側から刻んでいく。
「ア……」
差し伸べた手を遠山が受け取ることは決してない。
指先が、肘が、肩が、順番に皮膚が裂けて、黒いモヤが吹き出していく。
「さよなら、藤堂」
口下手で、しかし優しかった彼女はもういない。
「さよなら、日下部」
お喋りで、しかし優しかった彼女ももういない。
「そして、お前は、始末するべき化け物だ。名瀬瀬奈」
いるのは、遠山鳴人が始末するべき"敵"のみだ。
身体から黒いモヤを噴き出しながら刻まれていく名瀬。
それがしばらく、黙って遠山を見つめる。
そして、笑う。
「そ。フフフ、フフフ、フフフフフフ、フフフフフフ、フフフフフフフフフフフフ、フフフフフフ、フフフ、フフフフフフフフフ、フフフ、フフフフフフ、フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ、また、またなの? 貴方はまたそうやって、私を騙して、私から逃げるの、伊弉諾、伊弉諾、伊弉諾伊弉諾、貴方は伊弉諾、許さない、また逃げるなんて、また裏切るなんて、なんてなんてなんて
ーーブチ犯す」
どぽん。
名瀬が、溶けるように白い空間に消えていく。
メッセージは出てこない、だがわかっている。これで終わりなはずがない。
「さて、こっからが本番か」
読んで頂きありがとうございます!ブクマして是非続きをご覧ください!




