89話 アイ・愛・I
「く、く、くははははははははははははははははは!!」
夜、笑い、鳴り響く。
月からも揺り動かさんと錯覚するのは、鬼の笑い声。
「いや、これは、一本取られたわ。くはは、愉快! このベルナル・オドニアス、久しぶりに愉快だ!」
パシリ、ベルナルが己の額を叩く小気味の良い音。
上品な好々爺はもうそこにはいない。
いるのは1人、見事己を言い負かした定命の者の奇手に嗤う鬼だけで。響く笑いは怒りでも憎しみでもなく、ただ愉快。
見事なり、見事なりて定命の者、儚く弱く脆いその身の上でよくぞ、とばかり、鬼がそれを讃えて笑う。
「くはははは!! ーーさて」
ふ、と。笑い声が止まり。
ーーそして、鬼が、馬車を見た。
「おっと、まずいねえい」
反応出来たのは、彼女だけ。
ベルナルと同じ古い生き物にして、上位生物の竜が1人。
魔術の祖、人知の竜。
「え?」
「は?」
風が強く吹いた、遠山にはそうとしか感じられない。
だが、それは風ではない。実体を持った"暴"
「術式、仮説定理構築」
人知竜のまさに、神業と言うしかないその所業。既に、この世界を侵す式。
魔術式の起動準備は完了している。
「魔術式"モベーレムベンベ百葉の盾"」
ギュ、ジギィィィイイ
捻り捻れる音が夜を震わせる。
「止めるか、全知竜」
眼前で起きたことを少し遅れて、視覚として認識。
殴りかかってきたベルナルの拳は、不思議な紋様の壁に阻まれて止まっていた。
「…… 人知竜って言ってるよね、いきなり殴りかかってくるんじゃあないよ、全く」
ぴし、ぴし。
幾重にも重なった葉っぱのような紋様の壁盾に亀裂が走り始める。
恐るべきは、鬼の呂力。
人知竜が式で詠んだ盾は決して個人の膂力でどうにか出来るようなものではない。
古い大戦の時代、小国の民を最後まで護りきり、最期はその守った民にめった打ちにされて死んだ英雄の奇跡の再現。
それが、ただの拳の一撃でゆっくり、ゆっくりヒビが入り始めて。
「とりあえず、離れてもらうよう、えい」
「む!?」
壁に阻まれたベルナルに向けて、人知竜がその細い指を、ピンっと弾く。
ゴム毬のように、ベルナルの逞しい身体が後方へ跳ね飛ぶ。しかし、当たり前のようにバク転しながら受け身を取り、無傷で地面に着地して。
「くははははははは!! 良い! 愉快! 見事なり、よもや天使教会主教! 貴公のその舌の脂の乗りようときたら、貴公! 何故大戦に生まれなんだ!」
満面の狂相。
己の初めの一撃を防いだ人知竜の魔術式ではなく、未だ主教の神算鬼謀を褒め称える。
鬼が湧く、わくわくわく。完全にその目は愉しみを見出していて。
「お、ほほほ。ヤベ、鬼のスイッチ入れちった」
たらーっと、主教がその整った顔に粘り気の強い汗を流す。薄く開かれた糸目、そこから覗く紫瞳はやっべーと泳いでいた。
「良い、認めよう。第一の騎士、ストル・プーラ。そして異端審問官、トオヤマナルヒトを竜謁に値する者たちだと」
執事服の埃を払いつつ、ベルナルが笑う。
「竜の従者として、選別させてもらう。それなら、筋が通っているだろう?」
「うわーお、ヤッベ。ああいうのは開き直られたら一番厄介なのよね。わたし、仕事したからもう帰っていいかしら」
「……俺がーー」
責任がある。
ここを通らなければならないのは自分だ、なら、この爺さんは自分がーー
遠山が、馬車から降りようとした、その時。
「遠山くん、行っておいで。あの幼い竜を、ボクの友人の可愛い孫を頼んだよ」
大きな魔女帽子を被り直し、銀髪の美竜が振り向き微笑んだ。
「……いいのか?」
それは、あまりにも都合の良い言葉。今、遠山は自分がどんな顔をしているのかも分からなくて。
「なんでそんなことしてくれるのか、って聞きたい香りだねえい。やば、かわい。連れて帰ろうかな…… ああ、ダメダメ、そういうのはダメだ……、こほん、答えは簡単だよ、遠山くん」
「人知竜?」
遠山の問いかけに、何かやばい目つきの人知竜がふわり、音もなく、当たり前の空中に浮いて、馬車のヘリに立つ。
見下ろす人知竜、見上げる遠山。
古い魔術の祖、ヒトを知り、人を思い知った竜が口を綻ばせる。
そっと、腰を折り、遠山の頬をその柔らかな手で包み込んで。
「ご覧、みんな、君を見ている」
竜の言葉が、夜に染みる。
この場にいる全員が、その竜に、その竜が見つめる男に、魅入られていて。
闇色の瞳に映るのはただ1人、たどり着くべき所だけを見つめて進む欠けた人間、ただひとり。
「キミは今回、ミスを犯した。選択を誤り、道を見失いかけた。だが、それで終わりじゃあないんだよ」
人知の竜の薄い、桜色の唇が動く。
「カノサちゃんは、良いことを言ったよ。彼女の言う通りだ。みんな、キミに賭けてるんだ、遠山くん」
人知竜の冷たい手のひらの感触が、夜風で、さらに冷たく。
「キミの冒険譚は皆を冒していたんだ。ボクも同じ、キミに期待している、キミに価値を感じているんだ、だからこそ、ボク達は知っている、ここで、こんなところで、この程度のことで、キミが止まるはずがないってさ。トオヤマナルヒトくん」
どれだけの想いが込められた言葉だろう。
遠山鳴人は分からない、この知人と呼ぶにはあまりにも近く、友人と呼ぶにはあまりにも理解不能な竜の言葉がわからない。
「だから、キミはそれを証明し続けなければならない。どれだけ苦しくても、どれだけ辛くても、どれだけ失っても、キミは、前進し続けるんだ」
それは、はっきりとした上位生物からの、呪いの言葉。
「見せておくれよ、ヒトの、ううん、人間の可能性の証明を。キミならきっと出来る筈だ」
その期待を向けられる存在がこの世にどれだけいるか、その期待に応えられる人物がどれだけいるか。
「人知竜」
遠山が、己を試す上位の生き物の名前を呼ぶ。
「ありがとな」
短く、自分がきっと、人としてきちんと口にしないとならない言葉を口に。
「………」
「お前、よくわかんない奴だけど、なんだかんだいつも助けて貰ってる。だから、ありがとう。今度家に遊びに来てくれ。歓迎するよ」
正直に、そのままを。
ああ、そうだ。変にカッコつけたりする必要なんて全くないんだ。あの時、ドラ子にも正直に言えばよかった。
遠山は同じ過ちを決して犯さない。人生はそれを許してくれるほど余裕があるものではないと知っていたから。
「…………………………………………………………………………………………え、プロポーズ?」
「いえ、そうは言っていませんディス、人知竜」
ぱしっと、ほおを染めて自分の口を押さえてつぶやく人知竜。
無表情にその言葉をすかさず否定するストル。
「ずいぶん、変わったものだな、全知の竜。ヒトの庇護者、残酷な探究者よ」
じゃり。
休憩時間は終わりらしい。
ベルナルが一歩を進みはじめる。
「行きなよ、遠山くん。ここはボクと、そうだな、聖女殿、一緒に踊ってもらえるかい?」
表情が切り替わる人知竜。
馬車のフチからふわり、ロングのスカートを翻し音もなく地に降りる。
「……主教サマの命令しか聞かない」
聖女スヴィはそう言いながらも、馬車の手綱を手放し、小さな肩をぐるぐる回しつつ、前に立つ。
「ふうん、ら、し、いけど?」
「ひえ。……いえ、貴女がいれば…… わかりました、聖女スヴィ、頼めますか?」
「全て貴女の御心のままに」
聖女が満足そうに、薄く笑う。
竜と聖女、鬼の前に並んで。
「全知竜、俺がそう簡単にここを通らせるとでも?」
びきき。ベルナルの白い手袋に包まれた拳が引き捩れるような音を響かせた。
ぐにゃり。
彼の背中、夜の月光すらも歪ませる鬼の闘気。
それの背中を容易に抜けるとはーー
「ストルちゃん、合図をする、それに合わせて何も考えずに馬車を走らせてもらえるかい? 遠山くんと主教くんはそのまま席に座っていなよ」
「合図?」
「人知竜、あの爺さん、マジでやばいんだ、いくらアンタでもーー」
「だいじょうぶさ、ボクにはあの男をここに釘付けにする必殺技があるからねえい」
ふわりと笑う人知の竜。夜に似合わぬ、にひひと彼女らしからぬ、そう、まるで幼児がいたずらを思いついたかのような。
「必殺技?」
見当がつかない。遠山が首を傾げて。
だが、ここに、古い人知竜の知己のみが、なにか心当たりがあったらしい。
「何をーー ッまさか!!?!! 全知、おい、やめーー!!」
嫌な予感に、ベルナルが本気で焦った声、悲鳴に近い声を上げて。
「ーーああ、愛しのケルブレム、其方の暗黒よりも暗く、太陽すらも遠さぬ黒髪のなんと美しきことか」
「「「え」」」
人知竜が懐から取り出した古ぼけた便箋を読み上げた。
それは、昔、イケイケだった鬼が一番調子に乗っていた時期に贈った恋文。
美しい黒い竜、魔術師を魅了し、ヒトを愛し、眷属すらも惑わす美を持った女。
大戦の時代、全知の竜の美に狂い滅んだ国がいったいいくつあったことだろうか。
「あーー」
ベルナルは間に合わなかった。己の黒歴史を握られていたことに気付くのが遅過ぎた。
「すぷぷ、彼が若い頃、水竜と出会う前に贈られた恋文。ボクは物持ちがよくてねえい。さーて、音読会しちゃうぞー」
「!!ケルブレムウウウウウウウウウウウ!!!」
鬼が、本気で焦って地面を蹴る。なんの罰ゲームだろうか、己の黒歴史の発表会(当事者による)を止めるべく。
あまりにも無策で。
「はい、隙あり」
神業。詠唱もなく既に、式の構成は完了している。
ベルナルの足元から、なんの脈絡もなく、水が沸いた。
夜を溶かし込み、月光が煌めく冷たい水。それは意思を持つように一瞬で、繭のように。
鬼を、その中に閉じ込めて。
「ガボボボボボボ!!!」
水の繭。鬼の慟哭はむなしく、水の中に大量の気泡を生むだけ。
水は冷たく、しかし、鬼にとって心地よいものではなかった。
「今だよ、お行き、遠山くん。お、言っておくけど、あの純情ナイスシルバーとはボク何もないからね、腐れ縁が長いだけで、この恋文も全部無視してたから、あれに靡いた事ないからねえい。……あ、待って待って、でもでも、遠山くんに誤解されたら嫌だなあ…… 違うんだよ、遠山くん、遠山くん、ほんとにほんとに、なんでもないんだ、でもこうでもしないとアレ相手に水牢なんて当たらないし……、わた、ぼく、ボクね、ほんとにほら、一途なほうだから、色々言い寄られてきたけど、ほんと全部どうでも良くてね、ね、ど、どうしよう、何を言っても言い訳みたいに…… そうだ、ベルナルを始末すれば、少なくともアイツに告られた事実は消せーー」
躁鬱。
余裕そうな顔から、焦り始め、気付けば昏い表情に。
人知竜は決して、善なる存在ではーー
「アイ」
関係ない。遠山にとって人知竜が邪悪な存在だろうとなんだろうとどうでもよかった。
「しゅぷ」
名前を、遠山がよぶ。
人知竜が鳴き声をあげて。
「アンタすげぇ、マジでカッコいい! ありがとな!」
今はただ、感謝を。遠山は知らない、無意識に浮かべた顔は普段の彼が決して浮かべない満面の笑顔。
夏休みにカブトムシを見つけたがきんちょが浮かべるような顔でーー
「…………………………しゅき」
その笑顔は、人知竜から理性を消しとばした。
「トオヤマ!! 何してんディス! 竜を口説いてる暇あったら行きますディスよ! 主教様、お席に捕まって!!」
ストルのがなり声が唐突に。御者席に座る彼女はもう準備万端だ。
「え、私? え、もう私の仕事終わったくない? これで帰ろうかと思ってたんだけど」
当たり前に同乗することが決まっている主教様がぼやく。
「行こう! 主教様! 竜の巣へ!」
「ちょ、待っ、トオヤマナルヒト、肩抱いてんじゃねえわよ! なにその急にイキイキした顔! 似合わねえからやめてくんないかしら! さぶいぼ立つんだけど!」
満面の笑顔のテンションのまま、遠山が主教様に笑みを向けて。
「いや、この台詞言ってみたかったから!」
馬車が進む。第一の騎士が握るたづなが馬たちを鼓舞する。
宙に浮かぶ水の繭。
黒歴史をばらされてまんまと閉じ込められた鬼の背中を、抜いた。
馬車が進む。鬼が通せんぼしていた道を進む。
「意味わかんないですけどおおおおお!!」
夜闇、月明かりの中、主教の悲鳴が響いた。
「行ってらっしゃい、遠山くん」
人知竜が、それを見送る。騒ぎながら夜を駆ける定命の者を、どこか羨ましそうに見つめて。
「ガボボっ!!」
閃くのは蹴撃。
ベルナルのたくましく、長い足が水を掻くように。それで、ぱしゃり。
水の繭が割れた。
「おや、さすがだねえい、鬼人。小さく若い鬼の娘はこの水繭で充分だったけど。キミは一筋縄ではいかないようだ」
「……はあ、はあ。小癪。良い、魔術の祖、古き友よ。してやられたのは認めよう。すぐに彼らを追いかけたい。ここで寝ておけ、全知の竜」
ピッ、と濡れたシルバーヘアをかきあげベルナルが地面を踏みしめる。
「主教サマの所へは、行かせません」
その圧におじけるものはもういない。
教会の兵器にして主教の右腕たる彼女、一度主教の命令を受けたからには彼女は止まらない。
「というわけさ、ベルナル」
「上等、鬼の相手に不足なし」
互いに手の内を知り尽くした間柄。
互いに静かに笑い合う。ベルナルの頭にはしかし、黒歴史を処分することが占め始めていたが。
「ひとつ、聞いておこうかな、ベルナル」
「なんだ? ケルブレム」
少し、小さな問いかけ。互いに会話の切れ間を伺い、仕掛ける時を待つ。
人知竜が、選んだ言葉はーー
「キミ、大戦のことを覚えているかい?」
「どういう意味だ? 忘れるわけないだろう」
「………ふむ。では、あの大戦、どのように終わったかわかるのかな」
人知竜のその問いかけの意味。
それは彼女が抱いてる違和感。記憶を継承し、過去と未来を全て意味のないものにした筈の、彼女の違和感。
「知らない」
表情、無し。鬼はただ、決められたことのようにその言葉を返す。
「ーー」
ベルナルは何も思わないのだろうか。その返答のあやはやさを。
その返答の気味の悪さを。
「………キミもか。すぷぷ、気色悪いなあ」
「む? 今、なんの話をしていた?」
「いや、いいよ、夜も深くなっている。そろそろおねむの時間だよ、おじいちゃん」
魔術式の複数展開、仕込みは既に完了している。
「抜かせ、若作り」
「……それ、遠山くんの前でほざいたら殺すからね」
「……ハードな仕事のよかん」
聖女のため息が、ふわり。夜に溶けた。
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