88話 主教・the・Night
〜夜、冒険都市アガトラ 丘陵 竜大使館へのケヤキ林にて〜
パカラッ、かたら、ポカラ。
ドワーフ製の蹄鉄と馬鎧を身につけた強馬が、グイグイと蹄を鳴らして馬車をひっぱる。
「作戦を整理するわ、速攻で竜大使館に侵入! どんな邪魔立てが入ろうと全部排除して、竜様に会うの! あ、でも殺しはなしよ! いい? トオヤマナルヒト! そこんとこ分かってる?」
「なんか内容が謝罪に行く人間の行動じゃ無い気がするんだけど分かった!」
幌無しの速度重視の馬車、言うなればオープンカー状態の馬車の席、遠山は向かいに座る主教の言葉に真顔で強く頷いた。
「あーに、甘っちょろいこと言ってんのよ、トオヤマナルヒト! いい? これはもうぶっちゃけ戦争よ! 竜大使館にノーアポで乗り込むんだもの、攻城戦と同じ気分で行きなさい!」
馬車が、夜風を切りながら進む、夜がその闇の帷をおろすと同時に、冷たい空気を世界にばら撒いていた。
「あー、まあ、謝るんなら早めがいいわな」
月明かり、明るく。
ライトに照らされているのではないかと錯覚するほど、今日は明るい夜だ。
明るい夜、流れる景色、馬車は街中を抜けて郊外へ。丘の上にある竜の住処を目指していく。
「今しかないのよ! 男どもはさぁ、これだからさあ! いい? よく聞きなさい、このデリカシーレス男」
「あ、はい」
主教の言葉に遠山は素直に頷く。
「女舐めてんじゃないわよ、いい? あのお方も女なの、竜であると同時に女なの。今はアンタに興味を持ち、アンタを尊重してくれてる。でもね、それは永遠のものじゃないの」
「はい」
「冷めるのよ、女は」
それは、静かで冷たい声だった。この夜の暗さに溶けてしまいそうな密やかな声。
「抱いていた感情が、その人への認識が、ある時急に冷めてなくなるの。コイツは違うって、なるとね、どうでもよくなるの」
「…………………………………それは、やべえな」
キッツイ。
遠山の感想はそれだけだ。
「そう、やばいのよ! これが別に普通の女だったら、アンタがどうなろうと知ったこっちゃないけど、あのお方は竜なの。トオヤマナルヒト、アンタにはあのお方の興味でいてもらわなければいけないのよ」
「主教様の理由はなんだっていい。俺は、俺の友達にしてしまったいい加減なことを謝らねえと」
「それでいいの! 女なんて一人で悩ましてたらロクな結論に至らないのよ、あのお方のことよ、このまま放っておけばもう2度と、アンタと関わらなくなってもおかしく無いわ」
「それは、やっぱきつい」
「はっ、なによ、トオヤマナルヒト、アンタ以外とーー」
主教が、キョトンとした、にまりと笑って
「ぶふおえ!!」
「うお!!」
ガタン!
大きな音、馬のいななき。馬車席が大きく揺れる。
主教は大きく体を揺らして、大きな悲鳴。遠山はなんとか馬車の張りを掴んでそれに耐えた。
「いったああああい! スヴィ、スヴィ、スヴィちゃああん、ちょーっと馬車の運転がワイルドすぎないかしら?」
頭を打ったらしい主教が、御者席のスヴィに声を向けて。
「主教様、ごめんなさい。お馬さんたちが……」
「ぶるるる」
「ヒヒヒン」
馬たちが、急停止したのだ。
スヴィの鞭にも反応しない。ぶるるといななき、その場に足踏みして動かない。
「いててて、ど、どうして。止まるの? 竜大使館にはこのケヤキの林道を越えたらすぐなのに スヴィ、スヴィ! 状況を!」
「ダメです、主教様、動かないで」
声を上げる主教に、聖女がそれを制す。
スヴィ・ダクマーシャル。
主席聖女、教会の保有する戦力の中でも最上位に位置する彼女、ヒトを超えたヒト、超越者に類される彼女の小さなが、静かに震え始めていた。
馬たちと同じく、それの存在に気付いてーー
「ほほほほ、利口な馬たちですな。よく調教されており、忠誠心も強い」
「ッ」
「…………げ、まじかよ」
主教が息を呑み、遠山は顔を顰める。
聞き覚えのある声が、カンテラの灯りとともにやってくる。
その男を、遠山は知っている。この世界にやってきて、竜を殺し、竜に持ち帰られたその先にいた男。
あの温泉で、遠山へ、竜の対等な友になってほしいと願った男。
「よい夜ですな、天使教会異端審問会のお歴々。竜大使館の中庭へようこそ」
いつからそこにいたのだろうか。
手に持った夜行用のカンテラの灯りがぼんやりとその男を照らす。
夜と同じ色の燕尾のタキシード、仕立ての良いシャツ、整えられたシルバーヘア。
片目につけられたモノクルを、柔和な微笑みが色めきたたせる。
整えられた執事服の上からもわかる、体格の良さ。
ごついナイスシルバーの執事が、そこにいた。
「ベルナル・オドニアス…… 大戦の鬼人……」
主教の声が、震えている。天使教会、古い歴史、忘れられた大戦の記録を一部保有するその組織。
カノサは、歴史が謳う鬼の強さをよく知っていた。
「あの爺さんか…… 主教様よ、ここは俺が」
遠山が席から立ち上がる、執事の爺さんに事情を話してここを通してもらわねばならない。
「ーーいい、遠山鳴人、私が話す。アンタは私か、スヴィが許可を出すまでお口チャック、これ、命令だから」
そんな遠山の言葉に、主教が首を横に振る。
音もなく、しかし、微妙に膝を震わせながら立つ彼女の言葉。声も震え始めていたが、不思議なことに反論する気が湧かなかった。
「……ウィルコ」
遠山は素直に、席に座る。
「お目にかかれて光栄ですわ、ベルナル・オドニアス様。大戦の英雄、炎竜に認められたお方」
馬車席かれ降りることなく、その場で立ち上がった主教が、ロングスカートの両端を掴み、軽く一礼。
気付けばもう、その振る舞い、声から震えは消えていた。
「ほほ、今は、竜大使館執事長のただのベルナルにて。お久しゅうございますな、主教殿」
「お、おほほほほ。では、執事殿。いい夜ですね。…………ごほん。夜廻りでしょうか? ここの敷地は広いから中々に大変でしょう」
「いえいえ、主教様のご公務ほどではありませぬ。いや、気苦労も多いことでしょう。天使教会の運営、帝国との折衝、各派閥の調停、それに加え今宵は、フフフ、男女の仲のもつれの仲裁ですかな?」
「わーお、バレバレじゃなーい。おほほのほ。……ご理解頂けて何よりです。竜大使館の敷地内に許可なく馬車を走らせた無礼は謝罪致しますわ」
「いえいえ、貴女様はあのお方とうまくやっていらっしゃる。竜大使館と天使教会が蜜月の関係を築けているのも、ひとえにカノサ主教様、貴女の辣腕で成り立つと言ってもおかしくありません」
「褒めすぎですわ、執事殿」
表面上は穏やかな会話。
互いにその張り付いたら笑顔さえなければの話ではあるが。
「事実を言ったまでです。故に、解せませんな。何故に貴女様がこのようなリスクの高いことを選んだ理由が」
「おほほ、……執事殿、無礼を承知でお伺いしますが、今宵、蒐集竜様への謁見は叶いまして? 天使教会として、どうしても今から竜様にお目通り願いたいのですが」
「ほほ、豪胆なお方ですな。敷地内への不法侵入がバレた途端、それを言えるのは貴女くらいでしょう。ですが誠に残念ながら、当大使館の主、蒐集竜、アリス・ドラル・フレアテイル様はおやすみになっておられます。何人たりともお会いすることはございません、例えそれが」
すうっと、好々爺ヅラしていたベルナルの目が開かれる。
猛禽にも似た鋭いそれが、天使教会たちを見つめて。
「友人であっても」
超越者として、ベルナル・オドニアスが唇を開く。
「っっはあ、う」
どさり。
それだけで、主教の膝が崩れた。顔を真っ青にし、脂汗を吹き出しつつ、馬車席になんとかもたれて荒い息を繰り返す。
「……主教様!? 大丈夫、大丈夫です。執事殿、我らの主教様に失礼です。不用意に脅してくるのはやめて」
遠山が動くよりもずっと早く、聖女が御者席から飛び移り、主教を介抱しはじめる。
「おや、聖女殿。これは失礼を。……主教様はご気分が優れない様子。今宵、敷地内にいらっしゃったこと、本来であれば正式に竜大使館から抗議を出すところではありますが、今素直にお帰りになるのならば、私は何も見なかった、ということにいたしますが?」
この男、面の皮が厚い。
自分で主教を乱しておいて平然と丁寧な言葉をそのままに。
優しい声色はしかし、はっきりした拒絶が見え隠れしている。
遠山は気付いた、この爺さん、割と本気でキレている、そして、割と大人気ない……!!
「うえ、おえっ、お、ほほ。ありがたい申し出だこと。……それは、蒐集竜様のご命令なのかしら」
溢した胃液を軽く拭いながら、主教がゆっくり立ち上がる。
「主教サマ、無理しちゃ、だめ……」
スヴィの言葉に、微笑むカノサ。それは己の右腕を安心させるための痩せ我慢の成したもの。だがそのちっぽけな見栄は、彼女をここまで押し上げた。
「………なにがでしょうか」
「何人たりとも会わない、友人であろうとも会わない。それは、アリス・ドラル・フレアテイル様のお言葉なのかって、聞いたのですよ……」
「ーーええ、もちろん」
圧、再び。
遠山ですら耳鳴りや悪寒を感じるその圧力。古い生き物がその圧倒的な存在力と魂をそのままに振る舞う傲慢な業。
それに耐えることの出来る存在は少ない、限界まで鍛えた凡人か、それとも元々素質のある人物か。
主教は、そのどちらでもない。だがーー
「ダウト、嘘が下手ね、執事殿」
それでも、主教の震える細い指が超越者を指した。
「なんと?」
「貴女、とってもナイスシルバーないいおじさまだけど、あまり女心について理解がないわね。モテそうだけど、……ふふ、本命には奥手だったか、それとも身を引いたのかしら? 男女のことをどーも綺麗事にしそうな雰囲気してるわ」
「ほほ、おやおや」
びきり。
ベルナルの年季の入った皺の中、青筋が一つ浮かぶ。
「わたしの見立てでは、これ、貴方の判断ね、ベルナル・オドニアス。蒐集竜様がうちのバカのせいで、おやすみになってるのはほんとだろうけど、誰にも会わないとか、誰も通すなとか、それは明言してないはずだわ」
「なにを根拠にそんなことを仰っていられるので?」
ベルナルの声が、僅かに固くなった。それに気づけたのは遠山と、主教だけ。
「女の勘と、簡単な推理よ。蒐集竜様はね、あの子は、まだうちのデリカシーゼロ男に、期待している。確かにこのバカはバカよ。どうしようもなくイカれてて、自己中で、何しでかすか分からない、バカのくせに頭と舌の回る厄介な男。……でもね」
威圧感で、バラバラに髪型の崩れた白髪を乱し、主教がふっと、笑った。
「でもね、一度のミスで全部がダメになるほどコイツは生温い生き方は、してないのよ」
同族嫌悪、だが、それと同時にカノサ・テイエルフイルドは知っている。
「何度もトオヤマナルヒトは私たちにその価値を示した。竜を殺し、竜と結び、教会に潜り込んだその能力に私は賭けてるのよ、アリス様は、まだ、トオヤマナルヒトに愛想を尽かしたわけじゃあない」
その男がこれまで繰り広げたぼうけんを。
竜を制し、騎士を蹴散らし、伝説の生物を下した。試練を乗り越えてきたそのぼうけんに、彼女は敬意を抱く。決して口にすることはないが。
「………蒐集竜様のお言葉を疑うと。それは天使教会主教としての意見ですかな」
ベルナルが静かに、主教へ問う。
天使教会、世界の安寧と平穏のために、天使教を広め大衆を導く宗教組織。
それの長たる彼女が、竜を軽んじる発言をする、それが何を意味するか。
「汝、誰がためにことをなせ、例え己がなじられようとも、止まること能わず」
「天使教聖典"ある昼下がりの銀の枝萹" 第六節 善い生き方のためにより"の言葉」
紡ぐのは、彼女の掲げる宗教の言葉。得体の知れぬこの世界の最深部、天使を恐れながらもしかし、それと同じくらい彼女は正しく天使を崇めている。
彼女が残したとされる言葉、それはどれも受け入れるに等しいもので。
「わたしには分かるの。ここは分岐点、ここがターニングポイント。今、ここで竜は独りになるべきじゃない。リスクは承知、馬鹿げたことをしてんのも承知」
主教がゆっくり、立ち上がる。ベルナルの問いに天使の言葉を持って返事をする。
「主教、サマ……」
聖女の助けを制し、一人で立ち上がる。バサバサに乱れた白髪を、後ろ手に一つに縛り、糸目に隠された紫瞳を見開いて。
「このバカを、トオヤマナルヒトを天使教会に引き入れたそのときに! このバカを審問官に選んだ時にすでに、決めた! わたしはコイツにベットした! 投資はもうすんでんのよ! 必ず回収させる、捨てることはないわ」
「……竜は今、何人たりとも会いません。お帰りを、天使教会」
「いいえ、ダメね! 聞かないわ! 私たちはここでやらないといけないことがあんのよ、天使教会主教として、我が帝国と教会の良き隣人、アリス・ドラル・フレアテイルのより良き未来のために、わたし達はここに来た!」
ずびし!
髪を振り乱し、主教が叫ぶ。膝は笑い、鼻水を垂らしつつも、もはや彼女は止まらない。
「……なにをしにおいでで?」
ベルナルの言葉に、主教の口がにんまりと。
半月の形に微笑んで。
「ふふ、聞いたかしら! トオヤマナルヒト! バカ男子! お家の方が何しにきたかですってよ! 答えてやりなさいな、"竜殺し"!!」
何をしにきたのか、この言葉を竜の従者から引き出した。ならば、あとはーー
主教は呼ぶ、その男のあだ名を。彼女にとってようやく手に入れた必要な手駒につけられたその名前を。
パンッ。
合図だ。
スターターピストルが鳴らされた音がした。
主教、カノサ・テイエルフイルドは超越者の圧に胃液を吐きながらも、役割を果たした。
そして彼女は認めてくれている、こんなバカをやらかした自分を正しく見つめ、それを信じてくれている。
ああ、ほんとに、バカか、俺は。
遠山が止まる理由なんてどこにもなかった。
「ーー謝りに来た!!!!」
ここで、正直に言えなくて、何が男だ、何が友達だ。
遠山鳴人がまっすぐ叫ぶ。
「友達に、俺が言ってしまったこと、やってしまったことを謝りに来た!」
「ほう、そうですか、そうですか。……謝りに、ね」
だが、そんな勢いだけで動く老人ではない。
太く、静かで、おおらかな声。
そのはずなのに、まるで光届かぬ深海に叩き込まれたような威圧が、声と共に満ちる。
「「っ」」
「あ、無理無理、倒れる倒れる、もう無理よ、ほんと」
遠山とスヴィが体をびくりと大きく震わせ、主教がふらりとその場に崩れる。
「誰も彼も、勝手なことばかり。よりよい未来のために? 謝りにきた? 笑わせてくれますなあ」
「怖え顔しないでくれよ、爺さん」
「まだ軽口が叩けるのはさすが、と言っておこうか、小僧。私はたしかに、貴方に、お嬢様の対等な友人となるようにお願いをした身、なれど…… ああ、あのような顔をさせるのは願っていなかったぞ」
シンプルだ。ベルナルがここに立つのはシンプルな怒り。
彼にとって、世界よりも大切な存在、それの忘れ形見である幼竜の、家に帰ってきた時の憔悴した顔。
鬼は、それを受け入れることは出来なかった。
「……う、ぉ、ほんと、なにくってんだ、アンタ……」
「謝るなど、それは貴様の自己満足に過ぎん、それで解決するのは貴様のちっぽけな罪悪感だけだ、トオヤマナルヒト」
ーーベルナル、テメー様さ、きっと執事服とか似合うわよ、間違いなく。
鬼が想うのは、彼女の言葉。
偉大なりし水の竜。鬼は水の竜のおかげで、殺す以外の生を知ることができた。
「今、お嬢様に必要なのは時間だ。わかるか? 貴様の思いつきにも似た謝罪など、何も役に立たん。お嬢様はお前のその歪みを受け入れる為の受け皿でも、お前の欠けたものを赦す為の試金石ではない」
ーーごめん、ベルナル。あたし、今から死ぬから。うちの人と、うちの子達、それとアリスのこと頼んだわね
鬼が愛した水の竜。傷ついた世界を洗い癒すため、その命を懸けて運命の死に殉じた彼女の言葉。
それはきっと、竜が遺した愛の言葉。
それはきっと、竜が遺した呪いの言葉。
「トオヤマナルヒト、お前は俺の宝を傷つけた。貴様がアリスに謝るのは、彼女のことを想ってではない。打算や、保身ゆえだろうが。貴様の自己満足に、アリスを付き合わせるな」
遠山が、息を呑む。
その威圧感ではなく、その思いの分厚さに。
自己満足。
その通りだ。アリスに謝りたいというこの気持ちも、利己的、打算がないとは言い切れない。
遠山鳴人は言い返せない。あまりにも、ベルナルの言葉は純粋で、その怒りは無垢で。
自分がひどく、汚いものように思えてーー
「ふ、ふ、ふふふふふ、ふふふふふ、笑える」
それは夜に響く笑い声。女の笑い声。
主教に、強さはない。超越者の圧に耐えれる頑丈さなど併せ持っていない。腰は砕け、膝は笑い、顔は引き攣る。
だが、笑う、だが、笑え。
「ふふふふふふ、まったく笑わせてくれるものね、ベルナル・オドニアス」
カノサ・テイエルフイルドは、試練に向けて笑顔を向けれる女だ。
「なに?」
「自己満足、よく言ったものね。でもそれを言うならあなたのそれだって、何も変わらないわ」
「………」
「そもそも、利己的なこと、保身、打算が混じって何が悪いのよ、あなた達超越者とは違って、こちとら生きるだけで、どんどん薄汚れていくちっぽけな存在なのよ。はあ、男って意外と潔癖よね、純粋とか、無垢とか、そんなところに価値を見出すんだもの」
ある意味夢見がちな男の世界、そこに冷や水をかけるような女の言葉。
だが、それこそがきっと真実なのだろう。
「…………ほう」
「いいこと! よくお聞き! 竜殺しに、竜の従者! そこの純情男バカども! 女は正直、あんたらの美学とかは割と! どーでもいいのよ!」
だが、それこそがきっと真実なのだろう。
「……ひひ」
「………」
男は引き攣りながら笑い、もう一人の男は表情を動かさない。
「ベルナル・オドニアス! あなたの行動が、竜のためを想う判断ならば、それはわたしたちとて同じこと、ここに本人もいないのに、その御心推し量ることなど全て児戯に等しくてよ、そう、我らは皆同じ愚か者! 大いなる竜のお気持ちを測ろうとすること自体、不遜なこと!」
「ならーー」
執事、古い英雄、炎の竜の喧嘩相手となり得る超越者が唇を開いて。
「なればこそ!! ちっぽけな定命の者のみなればこそ、私達はただ、己が思う正しさを、己が思う義理と筋を、竜に対して示すのみ! 会いたくないだの、会うべきではないなど! そのような沙汰を下すのはただひとり! 蒐集竜様をおいて! ほかならない!」
その言葉を、白髪糸目の麗人が遮る。
言葉よ、舌よ、回れ、現実や、全てひれ伏せ。
権謀術数、話術、インチキ。
それだけで、平民という卑しき生まれからこの世界の宗教の頂点に上り詰めた女の言葉が、古い英雄に言葉を引っ込ませる。
「……言うじゃ無いか、天使教会主教。確かに、私情が過ぎましたな。である……ならば、俺は俺の、いえ、私の職務を果たすまで」
「いひ」
再び漏れる怒気に、しょぼんと縮こまる主教。身体中の水分が漏れ出しそう、いや、もう少し漏れている。
「不法侵入者ども、貴公らは当大使館の敷地を無断で踏み荒らしている。出て行かないのならば、実力で排除する」
それは最後通告。
竜の従者は、己が従者たるべく抑えて隠していた獣性を漏らしつつ、低い声で告げる。
鬼、おとぎ話の中の住人が、今を生きるヒトの前に立ち塞がるのだ。
「いいえ、いいえ! NOと言いますわ、ベルナル・オドニアス!!」
回れ回れ回れ。
主教の脳みそがフル回転、もう戻れない、ここまで来た、賭けてしまった、参加してしまった。踊り方を間違えれば即死のクソ舞台。
だが、上等、彼女にとってそれはある意味慣れっこの修羅場。
「竜の平穏、竜の無事、これすなわち世界の安寧、これ即ち、教会の主命! 私たち、天使教会はこのクソ要素だらけの世界をなんとしてでも延命させる! そのために、蒐集竜様にはハッピーになってもらう必要があるんだっピ!!」
「え、いま、なんかカノピーいた?」
「後輩、今、主教サマノリノリだから邪魔しないの」
カノピーの原罪はきっと、強欲だろうか。だが、それは遠山鳴人の助けになるだろう。
「と、言うことで執事殿、全ての沙汰は、私たちのこの愚行の裁きは全て、蒐集竜様に委ねます! なので、ここを通りますわよ」
もう戻れない、カノサは言いたいことを言いたいように全て言い切った。
「……ははは、主教様、貴女を我が主人が気にいる理由が分かるよ、ですがーー」
ベルナルのモノクルの向こう側、穏やかな瞳が何か眩しいものを眺めるように細められ。
「いくら言葉を弄しても、いくら想いを吐いても、なんの意味もありません。ここは私有地、そして今、私、竜大使館執事長のベルナルはお嬢様に誰にも会わせるつもりはございません。……それが聞けねえなら、もう俺たちの間に言葉なんざ、いらねえよな」
豹変、剥き出しになるのは鬼の瞳。
果たして、それに見つめられ平静でいれる生き物がこの世界にどれだけいるものだろうか。
「あばばばば、漏れるって」
「……主教サマを怖がらせるのはやめて」
ぶくぶくとあぶくを吐き出す主教、彼女の腰にぎゅっと抱きつく聖女が、鬼の瞳を真っ向から睨み返す。
「おや、これは失敬。では、お帰りを願いますかな。それとも押して通りますか。いやはや、それもいいかも知れません。天使教会が最大戦力の一つ、主席聖女、そして竜を落命さししめ、伝説の生物たる"古代種"をも討ち取ってみせた冒険者。試す価値はあるでしょう」
ぼきぼき。
ベルナルがその大きな手のひらを開いたら、閉じたり。それだけで、腹に響く太い音が届く。
「……先輩。あの爺さん、言っとくけどマジでやばいぞ」
「……知ってる、後輩。前、何も出来ずに負けたから、どうしますか、主教サマ。ご命令を頂ければ、スヴィは命に代えても、あなたの願いを叶えてご覧にいれますが」
ピコン。
矢印が、浮き出す。
【警告 レベルが足りません、警告、非常にレベルの離れた相手です。勝てません。貴方が蟻だとすれば、相手は巨像です、踏み潰されて終わりでしょう】
久しぶりにまともなメッセージが流れる。
「いえ、大丈夫よ、スヴィ。……時間だわ」
「……貴女の先程の言葉、なかなかに刺さるものがあったのも事実です、が、いささか無理がありますな。あなたがたが、なんの権利も、道理もなく、竜の家に踏み込む下手人であることに代わりはないのですから」
来る、動け、初撃、初撃、初撃だけはなんとか絶対かわさないと。
「ここは我が主人の領域、何人たりとも通さぬ。道理もなく、通りたくば、定命の者よ、強きものよ」
一歩、ベルナルが進む。
その度に呼吸すら、危うく。
「見事、鬼の首を取ってみよ」
鬼が、古兵が立ち塞がる。
「すぷぷ。鬼の首取り、ボクも混ぜてもらおうかなあ」
「……なに?」
鬼の動きが止まる。
「え?」
聞き覚えのある冷たい声に、遠山が声を上げ。
「間に合った、のね。ナイス、トッスル」
主教が、冷や汗を流しながらも、にやり、笑う。
コマは全て、カノサの描いた絵の通りに動いた。
「やあ、ベルナル。相変わらず、キミはなんというか、激情家なものだ。アリスを愛するのはいいけど、そろそろキミ、子離れする時なんじゃあないかい?」
月が、似合う。
一際高いケヤキの太枝の上に、彼女はソファにでも腰掛けるかのように呑気に座っていた。
大きな魔女帽子を被り、夜に指す月光を梳いたような銀髪を流して。
ぞっと、するほどの美。
夜とは彼女のためにある時間、彼女を引き立たせる為にある時なのかも知れない。
人知竜、アイ・ケルブレム・ドクトゥステイルが、まん丸の月を背後にクスクス喉を鳴らしていた。
「全知、竜」
鬼が、銀髪の美竜を見上げてつぶやく。
「人知竜、だよ、鬼人。居候してた時に何度も訂正したはずだけどね」
「なぜ、お前がここに…… 屋敷から出ていったはずだ」
「野暮用、さ。ボクもこの街に根を下ろそうとしていてね。手始めに、商人ギルドに出かけていたら、面白い話を教会から聞かされてね。いてもたってもいられなくなったわけさ。……遠慮して監視の魔術式を休めていたのは、ミスだったねえい」
よよよ、大きな魔女帽子で口元を隠しながら泣き真似をする人知竜。
「厄介な…… 貴様の出る幕ではない。これは当家の問題だ。帰れ」
「いやいや、それがそうもいかないのさ。全くの無関係とはいかなくてね。そうだよねえい」
人知竜が目を細め、口元をにまりと歪める。
薄い色素の小さく潤う唇が、動いて。
「ストルちゃん」
「ディス」
物凄く聞き覚えのある声が、背後から。
遠山は目を丸く見開いて。
「ストル?!」
銀鎧の上からローブを羽織った水色髪のポニテ少女。
ストル・プーラがいつのまにかテクテクこちらに徒歩で来て。
「人知竜殿、途中で置いていくの、ヒトとしてどうかと思いますディスけど」
「 すぷぷ、ごめんねえい。ボク、竜だし。それに、こんな感じに勿体ぶって登場した方が、こう、全員集合! みたいな感じて映えるかなあ、ってさ」
呑気な会話を繰り出す人知竜と少女騎士。
遠山は何がなんだかわからない。
「主教様?」
それは聖女も同じだったらしい。
唯一おそらく、この場で全ての盤面を理解しているだろう人物に声を。
「あー、よかった、間に合った」
幸運にも、遠山鳴人は竜とすれ違う。
だが、しかし、ここにそんなものも寄せ付けぬ確かなものがあった。運命、宿命、そんなもの一度も信じず、これまで己の才覚と頭脳だけで成り上がった女がいた。
「天使教会主教、貴公、なにを、考えておられるか」
「静かに、ベルナル。キミが喋ると主教サマが話せないだろう? お静かに頼むよ」
「ふ、ふふふふ。ベルナル・オドニアス。耳が痛かった、耳が痛かったわ。貴方、冷静なんですもの。たしかに貴方の言う通り、このままだと、私達は道理なく竜に無理矢理会おうとする愚か者、道理なき勇気は蛮行だものね」
全て、布石、全て時間稼ぎ。
鬼へ語った竜への想い、教会の責務、竜殺しに叫ばせた本音も。
全て、カノサ・テイエルフイルドのこの時のために。
その全ての言葉は本心なれど、その全ての言葉は誠なれど。
鬼を刺すための本当のナイフではなかった。主教は二度刺す。
「……その通り、貴公らには、竜に会うための権利などない。拝謁を許されるのは彼女が許した時と、古い約束の………………………」
ベルナルの言葉が止まる。
そして、目を見開き、馬車の側に立つ水色髪の少女、その月の光を照り返す銀の鎧を見つめて。
「 待て、その少女の銀鎧、まさか……」
主教が、にいっと、歯を剥き出して笑った。
「ーー天使教会主教の名により、今この時をもって、取り上げていた資格を返還します。ストル・プーラ。再び剣を構えなさい、再び銀色の輝きを纏いなさい。我らが剣、我らが正義」
竜に挑むのは、騎士の誉れ。
「汝、これより教会の剣となり、誰がための正義を為しなさい」
誉れある天使教会騎士には赦されている、その美しい生き物に、命を懸けて挑む権利を。
「天使教会騎士団、第一の騎士、ストル・プーラ、拝命いたします」
剣の鞘を立て、己の胸の前に掲げて答える。
いま、ここに剥奪された称号は返還された。天使教会騎士団のおぞましい血と選別の営み。
それの最高傑作、"正義"の依代たる選ばれた少女は第一の騎士となる。
「お初にお目にかかります、竜の従者。早速ディスが、私に認められ、古い約束によって守られた権利を執行します」
騎士たちに赦された権利、竜を殺した冒険奴隷が未だ、アガトラに辿り着く前の空白の1ヶ月間。
幾人もの騎士が、その権利を行使し、死んでいった。誉れと共に竜へ挑み、無謀に死んだ。
だが、皆誰一人として後悔したものはいないという。
竜に謁することこそ、騎士の最大の栄誉であり、誇りであるのだから。
「天使教会騎士として。竜との古い約束により、これより竜に拝謁し、挑む権利。"竜謁"を申し出ます」
この場にて、唯一、"約束"により竜に謁することを赦された少女が告げる。
「や、られた………」
ベルナルがぼそりとつぶやく、その口髭はしかし、どこか愉快そうに。
理由はつげた、体裁は整えた。児戯に等しい戯言なれど、天使教会にはこれで大義名分が揃った。
「全ては我らが、竜の為に。ええ、ここに天使教会に許された、天使教会主教カノサの名により、"竜謁"を許可します」
教会と竜には古い盟約が存在する。
竜謁。
いついかなる時、どんな場合、状況においても、教会騎士は竜に挑むことが出来る、そして、竜はーー
「竜の従者、知らないとは言わさないわよ、我らが誇り高き竜はいつ、いかなるときも、小さき者からの挑戦を断ることはない。……挑まれたら受けて立つのも、竜の誇り、よね?」
一手。
この瞬間、天使教会は、竜の敷地に無断で侵入した賊から、古い約束の元、竜へ謁見する教えに殉じるものへと様変わり。
もはや、誰に憚られることもなく。
「………………これは、見事だな」
「すぷ、ふ、ふふふふ。あははは、詭弁だねえい、でもよい。嫌いじゃないよ、主教殿?」
上位者たちすら、その手管に舌を巻く。
小さき者への感嘆を小さな微笑みとともに。
「主教様、ご命令通りに、人知の竜様とストル殿への工作完了して」
「ご苦労、お見事よ、トッスル、私の羽達」
猫獣人、面隠しと猫耳の黒装束の羽達が、主教の側に音もなく現れる。
天使教会、カノサはその性能をつかいこなし、幸運に歪められた盤面を取り戻す。
「アンタ、マジか、どこから準備して……」
遠山が一手で全てをひっくり返した女に驚愕を向ける。
得意げに、憔悴した顔でそれでもドヤ顔かました主教が口を開く。
「異端審問官、トオヤマナルヒト」
そして、最後のコマを前へ。
道理は揃えた。大義名分は教会に在り。
「天使教会主教、カノサ・テイエルフイルドの名において命ずる。異端審問官トオヤマナルヒト、全武装、全能力を懸けて、ストル・プーラの竜謁を助けなさい」
はい、出来上がり。
「ーーッ、ヒヒ。ご命令のままに、ボス」
初めてだ。
上司と、本気で言いたくなる人間に出会ったのは。
遠山が、主教からの指令を受け取る。
「誰がボスよ、誰が。この下っぱ」
涙目、半泣き、膀胱ギリギリ。
それでも、主教は遠山の軽口を打ち返し、腕組みしてフンと鼻息を、吐いた。
「主教様とお呼び」
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