61話 汝、その強欲を以ってゆめを率いよ
「あー? なんだ、その言い方。まるで俺が変なやつの親玉みたいに聞こえるぜ」
遠山はその奇妙な大扉から手を離し、上を見上げた。
神主が着るような白い狩布に、紫の袴。しかしそのムキムキマッチョの身体は薄い布では隠せていない。
見上げるような神主姿の大男、遠山の夢の住人その2、お札マッチョがそこにいた。
「うーむ、間違っちょらんじゃろて。わぬし、こんなとこで何しとるんじゃ」
お札マッチョが首を傾げる。その顔色は見えない。梵字が流れるお札がピッタリと顔全体を覆っている。
「調べ物だ、調べ物。そろそろ本気でパン屋作るとこまで来たからな。竜祭で現代パン文化無双かましてやる下準備さ」
「ほーう、また手広くやっちょるの。まさかあの知識の女の文書館を乗っ取るとは…… 良い良い、わぬしはそうして色々なことをやっておるのが似合っとるわ」
「誰目線の言葉だよ。お札マッチョ、この扉、開けるなって言ったよな、なんでだ?」
遠山は扉を親指で差しながら、お札マッチョに問いかける。不思議なことに先ほどまで感じていた大扉の向こう側への焦がれるような興味はいつのまにか薄くなっていて。
「ふむ…… まあ、なんじゃ。わぬし、そもそもここがどんな場所か理解しておるか?」
「夢の中のパン文書館」
遠山が近くの椅子を引いて、そこに腰掛ける。カンテラの光がお札マッチョの血の気のない薄紫の肌をしっとり照らしていて。
「そう、夢。つまりはわぬしの心や記憶を元にして、儂やあの吸血鬼、そしてあやつの力や存在により定義されとる場所じゃ。見てみい、こんな辺鄙な所に隠すように位置しといて、しかもこの妙な形。わぬしの心が隠すことを選んだものがあるんじゃないか?」
「なんだそりゃ」
お札マッチョの言葉に遠山は鼻の先に皺を寄せる。いまいち要領が掴めない言葉だ。
「この夢のなかには儂やあの吸血鬼でも触らぬものがたくさんある。あの大きな湖の底と、この扉の奥は多分同じものじゃ。悪いことは言わん、あまりアレに触れん方がええぞ」
「お前に言われてもなあ……」
怪しい奴に怪しい場所に近づくなと言われても説得力はない。そもそもコイツはキリヤイバを名乗る存在だが、なぜここにいるのかとか、その正体だとかはまだ何もわかっていない状態だ。
「儂はわかりやすいじゃろうが。わぬしを見ちょるのは面白い。じゃから、儂ゃわぬしがくたばるまでは、わぬしの力として振る舞おう。死んだ後は身体を貰う。ほら、簡単じゃろ」
太い腕を広げながら、戯けるお札マッチョ。しかし遠山の警戒は薄まらない。
道化じみた言葉だが、相対していると分かるこの異様な感覚。
じっと、お札マッチョを見ていると、不思議な感覚に襲われるのだ。それはまるで、海辺に立つ鳥居、ふと立ち寄った雑木林の中にある寂れた神社。それらが視界に入った時のようなおかしな感覚。
「いやー、ナチュラルに倫理観ねえのがやっぱ怖いわ、ちょっと待ってろ。お札マッチョ」
遠山はその感覚を振り払い、本棚のそばにあるローテーブルを漁る。
「む?」
「お、紙と鉛筆みっけ。んーと、どうしよっかなあ…… よいよい、ほいっと。ほい、これでよし。お札マッチョ、これ」
サラサラと、鉛筆を動かして遠山がその古ぼけた紙に文字を走らせた。
かり、かり。鉛筆の流れる音だけがしばらくの間響いて。
全てを書き終えた後、遠山は紙をつかんでお札マッチョに突きつける。
「なんじゃこら」
「誓約書だ。形だけでもこういうのはきちんとしとかないとな」
誓約書。遠山鳴人はこのお札マッチョとの初対面の記憶を思い出す。
力を貸す代わりに、死んだ後は体を寄越せ。
大雑把すぎるそのやり取りにはしかし、保証するものが何一つない。
夢の中のやりとりとはいえ、ここに来るのは2回目。たかが夢とはもう思えない。
「ほう、誓約書…… 盟状のようなものか。ふむふむ、"お札マッチョ、『以降甲と記載』は、遠山鳴人、『以降乙と記載』の存命している限り、乙への協力を惜しまない。また遠回しな方法や乙の認知出来ない如何なる方法を用いての乙に対しての不利益となる行動を起こさない。これに反した場合、甲は速やかに乙への報告後、乙が指定するペナルティを受けなければならない。そして乙の死亡『死亡の定義は乙の心臓が完全に停止し、いかなる方法を持っても蘇生が叶わないと資格を持った医師の判断、もしくはそれに準ずる人物の死亡判断が降りた時のことを言う、脳死状態や、乙が意思表示能力や責任能力を失った場合は死亡とは扱わない』後は、甲は乙に代わり乙の肉体を使用する権限を得る…….」
お札マッチョが受け取った書面を諳んじる。遠山が短時間で簡潔にまとめた誓約書の内容はつまるところ、勝手なことはするな、という内容だった。
「誰も担保しない形だけの誓約だ。だが、どんな存在との約束であれ筋を通しておくのは大事だろ? 内容に納得したらサインしてもらおうか」
「ふんむ、よかろ。キリヤイバっと」
「待て、きちんと本名、いいや、違うな。お札マッチョって書けよ」
「………まあ、良かろ。ほれ、これでいいか?」
でかい指で器用に鉛筆をつまみ、サラサラと一筆を施すお札マッチョ。
サインした紙を遠山に差し出そうとして、ぴくりと動きを止めた。
「ああ、問題ない。……どうした? 早く渡してくれないか?」
遠山が、目を細めて紙を受け取ろうと手を伸ばす。しかし、お札マッチョは自分の手元に誓約書を引き戻して。
「む、むむむ? ……わぬし、右隅の方にすごい小さな字で色々書いてあるんじゃが」
「あー、但し書きの部分だな。いや、でももうお前サインしてるから今更無しとかは出来ねーぞ。はい、これは回収させて頂きまーす」
ぱしり、遠山がひらひらした誓約書をひったくる。既に、署名は為された。形だけでも、遠山とこの異様な存在は紙を交わした形で互いの利益を定めたのだ。
「あ! ちょ! 待たんか! なんと抜け目のない奴…… せめて内容の説明くらいせえよ」
「なに、シンプルな条文だよ。ほれ」
遠山がぱしりと紙を叩いて伸ばし、お札マッチョに見えるように掲げる。
巨体がしゃがみ込む。じっと、見えているか見えていないのか分からないが、お札マッチョがその紙を凝視して。
「むむ、ほんに人の子というのは可愛げのある奴とない奴の差が激しいわい。わぬしのような子がムラを立て、儂らを利用し民を扇動していくのじゃろうなあ…… なになに、甲は乙の死亡によりその肉体の操作権を得た後は以下の約定を守る必要がある。これに反した場合、速やかに甲は肉体の操作権を手放すこととなる。
その一、乙の死亡理由が他殺の場合、どんな方法を使っても乙を死亡せしめた原因を滅ぼすこと
そのニ、乙が生前構築していた友人関係、または利害関係においての味方、友軍勢力に対してのいかなる敵対行為も認めない、どんな形での不利益も与えることを厳禁とする
その三、上記の2つを守るのなら後は自由。お前の好きなように生きればいい
……な、る、ほ、ど。貴様、やはり抜け目ない、のう」
その紙、遠山があえて右隅に小さく書いていた細かい約定をお札マッチョが読み上げた。
しん、とお札ヅラが遠山を見下ろす。
遠山は静かに汗を流した。耳の奥、音が聞こえる。お囃子の音、誰かが囁く音。
遠山鳴人の人間としての機能が、悲鳴をあげ始める。這いつくばれ、膝を折れ、首を垂れろ。
畏れ。
ドラ子たち、竜に感じるそれや、本気になったストルや執事の爺さんと相対した時に感じたものとも違う。
祭囃子の音が、どんどん大きくなる。見たこともないはずの光景がまぶたの裏で踊り出す。
「……お前がなんか得体の知れない奴というのはよくわかるよ、仮称キリヤイバ。お前は決して善意だけでは動かない。お前はどちらかと言えば悪玉の方だ。勘だけどな」
痛む頭、響くお囃子に耐えながら遠山はただ、前を見る。わかっている、目の前のコレはあまり良いものではないということくらい。
「ほう……? 我が夢の主人にして、我が刀剣の繰り手よ。聞きたい。それを理解していながら、儂をそこまで警戒しておきながら何故、今この場で対策を取らん?」
「何が、言いたい」
お札マッチョの言葉1つ1つが耳鳴りとなる。お囃子の音は更に強く、鈴の音まで聞こえてきた。
「怖くないのか、と聞いてあるのよ。定命の者よ。貴様らは死を恐れるだろう? それはすなわち己が消えることを恐れるわけだ」
お札がざわめく。
それは、ソレを押しとどめる。その荒御魂を鎮めるためにその国の歴代最強の霊的防御機構の力を込めて作られた対怨霊兵器。
卑弥呼の時より継ぎ足し、継ぎ足し編まれてきたソレの動きを止めるための機構。
だが、しかし世界を渡り磨耗したことによりソレを完全に抑える力はなく。
お札マッチョ、ソレが嗤う。腹の底が震えるような超越者の嗤いだ。
「怖くないのか? 貴様が死したのちは、この儂が即ち貴様となるのだ。遠山鳴人、ソレはつまり貴様という個の尊厳の冒涜よ。我はまつろわぬ者、我は境界を隔てる者、平原に溜まる霧、山間に広がる霧。貴様は死した後、我に尊厳を奪われるのだ。個人の定義、遠山鳴人という個の絶対性を我は貴様から奪うのだ」
お札マッチョ、キリヤイバの声が続くと共に足元に溜まる霧が更に濃くなってゆく、
紫色の肌、血の気の失せた肌、筋骨隆々のそれが霧の海にぽかりと浮いていた。
「定命の者よ、答えよ。怖くはないのか?」
それは大いなる者から小さき者への問いかけ。本来であるならば、相応しい血を持ち、特別な力を持つ人間のみが聞こえるはずの声。
神職、神事、巫女。古来よりニホン人は、自分たちの力ではどうしようもない世界の力に神を見出した。
それを崇め、それを畏れ、敬い、共に生きてきた。
「怖いな。自分が死んだ後に、他人が自分の身体を使って動くのなんて想像しただけでキショイわ」
畏れ。ニホン人、民族として遠山の中に備わるその概念が身体に異常をもたらす。
正直に、遠山は意識を気合いで保ちつつ、嘘をつかずに答えた。
「ならば」
お札マッチョ、まつろわぬ者、天原に棲まう大いなる者が小さき者の言葉を聞いた。
恐怖を口にするのならば、恐れを理解しているのならば。
ソレは小さき者の恐怖に忍び込む。
遠山鳴人の言う通り、ソレは善玉の存在ではない。隙あらば、遠山鳴人という依代を今すぐにでも乗っ取りたい。
だが、ソレは同時に遠山鳴人を本気で恐れていた。遠山鳴人の冒険を、人生を間近で見てきたそれは本気でその小さき者を恐れていた。
だから今は待つ、余計なことはしない。
まあ、それはそれとしてちょっかいはかけてやろう。いつかその時の為に少しずつ、少しずつ、準備をしておこう。
大いなる者が更なる言葉を紡ごうとして。
「だがそれはリスクの話だ。お前という存在がもたらすリスク、いや、デメリットの話だろ」
「……でめりっと?」
遠山の言葉が、お札マッチョの言葉を遮る。
お札マッチョが言葉を紡ごうとした途端、動きを止めた。
遠山鳴人の目を、見たから。
「ああ、お札マッチョ。お前が本当にキリヤイバなら、お前は力だ。お前は素晴らしい力だ」
その男は酔っている。その男は酔いながらも知っている。
力。
人生を生き抜くために、己の欲望のままに進むために、手に入れるために、奪われない為に必ず必要はそれの名前を知っている。
「ちから、だと?」
「ああ、何度でも言おう。死後、お前に俺の死体を乗っ取られるなんて胸糞悪い。得体の知れないお前が何を狙っているのかはっきりしないのも怖い。お前が俺の死体を使って、俺の知ってる人間に近づくのも吐き気がするよ」
「それを理解していながら、なぜ儂を受け入れる?」
「簡単な話だ。それを補って余るほどに、そのデメリットを飲み込んでなお、キリヤイバ。お前が俺には必要だ」
霧が、歪む。
お札マッチョを包み、まとわりついていた霧が、キリがゆっくりと遠山鳴人の方へ流れ込む。
「ーー」
その様子をただ、お札マッチョは黙って見つめるだけ。
キリは知っている、己の主人がどちらであるのかを。
キリは知っている、大いなる者をすら飲み込むその男の強欲を。
「お前は力だ。ちっぽけで何もない俺が欲望のままに生きるためにはお前という力がいる。……冒険の続きがあった。あそこで終わりじゃなかった。俺の現代ダンジョンライフに続きがあったんだ」
力が必要だ。この世界は気を抜けばすぱりと死ぬ。もう多分次はない。死んでも死なない、そんな力が欲しい。
遠山は、その歪みを自覚してなお求める。知っているのだ。力がない者の末路を、無力の惨めさを。
全部奪われる、弱いままだと全てなくなる。その喪失の恐怖を知っている。
「この異世界で、俺は今度こそ必ず辿り着く。俺の夢、俺の欲望、そこに必ずたどり着く。そこに必要な奴らを連れて、どんな方法を取っても必ず」
栗色の瞳に、お札マッチョがはっきりと映る。それを見ても目は潰れない。
人は、自然を恐れる、人はソレを敬う。
しかし、時に人はそれすらも利用し、己がものとする。
この異世界には存在しない概念。人を造りたもうたもの、あるいは人が作りしモノ。
これは再現だ。過去、どこかの誰かが踏破した瞬間の焼き直し。
人の中には必ずそれが現れる。今の遠山のように其れを嗤い、ソレを乗り越え、踏み越える者が必ず現れてきた。
「俺はこの世界で欲望のままに生きていく」
遠山の理由なんて、それだけだ。
全ての問いに対してこの男はこのたった1つの答えしか持っていないのだ。
「ほ、う」
「だがな、これは現代でも同じだが残念ながらこの世界にもクソ野郎は多い。どこもかしこも獣ばかり、うざってえ人間、恐ろしい化け物、生かす価値もない悪党ども。ああ、全部目障りなんだよ。そいつらは想像力のない頭で俺を殺そうとしてくる、俺の邪魔をしてくるだろ」
遠山鳴人の人生は、常に奪われ続けてきた人生だ。選ばれた者でない、しかし、持たざる者でもない。
ただ、奪われた者。故にどこまでも欠落を埋めるものを求めるのだ。
欲望。それを叶える為に必要なものを遠山鳴人は幼い頃から知っていた。
「力が欲しい。金、人脈、権力、物資。この世を愉快に生きていく為に力はどれだけあっても足りゃしねー。そして、キリヤイバ。お前はその力の中で最も大事な存在だ」
キリが、遠山に集う。
白いモヤの中、血の気のない肌をもつ巨人と、目つきの悪い男だけが相対する。
「言うてみい、くくく、少し、いやかなり、気になるぞ。定命の者よ」
お札マッチョは、愉快げに喉を鳴らした。何かを期待するように、言葉を待つ。
「暴力だ」
にいっと、遠山が嗤う。
汚い笑みで、醜い顔だ。取り繕うこともなく、その力を振るう時と同じ顔で嗤う。
「お前は、俺の力。俺の暴力。この世界を生き抜く為に絶対に必要なものだ。お前を運用するためならば、飲んでやるさ、薄気味悪い契約も、死んだ後てめえに好き勝手使われる屈辱も、全て飲み込もう」
冒険者、遠山鳴人の行動倫理はただ一つ。
欲望のままに。
「だから、今は俺に従え、俺の為の道具として」
遠山はその力の運用を既に決めていた。
未登録遺物キリヤイバ、それはもう遠山鳴人の欲望を叶える為の道具なのだ。それ以上でも、以下でもない。
もう、お囃子の音は聞こえない。
霧が、ゆっくりと薄くなる。見上げる遠山、見下ろすソレ。
互いに互いを恐れ合う奇妙な関係。
コイツは自分を害することが出来る存在だ。遠山とお札マッチョは互いに、同時に、同じ認識を得ていた。
沈黙、霧に揺蕩う。
「……は、はは。ああ、良い」
最初に口を開いたのはお札マッチョだ。
「ああ、なるほど。"鹿島の"が言うてたことはほんとじゃったか。"道敷の"にその生を定められ、いずれ必ず滅ぶ小さき存在、しかしその生の儚さゆえに生まれる歪さから我らをも魅せるものがたまに現れる……」
お札に覆われた顎を撫でながら、遠山を見つめてつぶやく。
「く、ははは、ああ、良い、よいよいよい。ああ、アレがわぬしを主人として認めちょる理由がよーくわかったわ」
ちらり、丸い扉の方を一瞥し、その笑い声響く、響く。
「くはは。改めて誓おう、遠山鳴人。我が最大の天敵にして、我が勇者よ。儂を何度も恐れさせ、幾度も感嘆させた褒美ぞ。我が霧、存分に使うといい。そして、1つ教えよう」
「あ?」
遠山が目線を向ける。
「どうしても、勝てぬ敵。どうしても勝たねばならぬ敵。それが現れた時、一度だけわぬしに無条件で手を貸してやる。……人間を辞める覚悟が出来た時、絶望と殺し合うその時に、我が名を呼べ、我が剣を心の臓に突き立てよ」
ピコン
【条件達成】
「こえーって。死ぬじゃん」
「死なぬように突き立てよ。く、ははは。ああ、今日は愉快よな。なるほど、道敷に伊弉諾め、ほんに面白いものをよくもまあ、くははは」
霧がふと、濃くなる。お札マッチョは満足そうに笑いながら遠山へ背を向けた。
遠山鳴人は勝手に現れて、勝手に去りゆくその背中に向けてため息をついて。
「おい、お札マッチョ。今回は見逃してやる。次、しょうもないことで俺を揺さぶろうとしてみろ。契約違反だ。ペナルティを受けてもらうぞ」
「ああ…… それは、恐ろしい、ほんに、恐ろしいのう…… くわばらくわばら。我が勇者の望みのままに」
ひらひらと手を振り、のっしのっしと去っていく。本棚の向こう側に霧を連れてお札マッチョの足音はいつのまにか聞こえなくなった。
「……消えた。エンジョイ勢かよ。てか、あいつ普通にパン文書館出入りしてんのな」
どっと、疲れた。夢の中でも色々あるのは油断出来ない。やたら血を吸いたがるメガネに、お札を顔面に貼り付けた怪しいデカマッチョ。
ヤダ、俺の夢、クセ強すぎ。
遠山が眉間を揉みつつ、薄くなっていく霧を払う。
少し、湿っぽくなってしまった本を抱えて、適当な椅子とサイドテーブルの置いてある場所に腰掛けた。
本来の目的、竜祭についての準備を進める。
今夜のホストバトルを制したおかげで、出店参加の目処はついた。
Zeniからの妥協を引き出せたのもデカイが、ホスト騒動を見ていた上流階級の連中の何人かが口利きもしてくれるらしい。
後は、その出店を成功に導き、竜祭の栄光、市場王の称号を手に入れるだけだ。
「あった…… 1860年、アメリカ、ドイツ系移民の屋台……1916年、ニューヨーク、ブルックリン、ネイサンズチェーン」
本を読み進める。それは知識の眷属との取引により手に入れた遠山鳴人の力の一つ。
「18世紀後半…… トマト、ナポリ、マルゲリータ王妃」
この世の全てをすら知り尽くせたかもしれないその可能性は今や、"パン"の知識だけに絞られた。
「ピタパン、貧民街、18世紀、ジョン・モンタギュー諸説あり……」
この異世界の歴史ではない。知識の眷属の公文書館にはより優れた知識だけが収束していく。
ありとあらゆる歴史、世界の優れたパンの知識だけがパン文書館に集う。
この世界では生まれなかった文化。天使により剪定されたヒトではたどり着けなかった可能性が、今ここに。
何に庇護されることなく、殺し合い、食べて、犯して、寝て、そしてまた殺し合う。そうして世界を生きてきた人類だからこそ得ることの出来た文化が、今ここに。
「必要なのは、肉と野菜と…… 竈か。 ラザールなら作り方を知ってるか? いや、最悪あのドワーフたちを雇ってもいい。だがそうなると家賃やらなんやら考えてもう少し金がいるな……」
ゆっくり世界は変わり出す。
だがそれはやはり焼き直しに過ぎない。遠山鳴人が生きた自由な世界も同じように変わってきたのだ。
「……欲しいな。もっと、もっと必要だ。小麦粉、乳、そうだ、たしかここにきてからチーズを見たことないな…… 銭ゲバをもう一度揺すってみるか? いや、でもな」
世界をゆっくり変えるのはいつだって、ちっぽけな人間の欲望だ。
遠山鳴人が、本をめくりながら小さく嗤う。
知識もまた、力なれば。
それは遠山鳴人の冒険を助けることになるだろう。
知識の眷属には歩み寄りを。
霧の悪魔には契約を。
汝、その強欲を以ってゆめを率いよ。
「さーて、現代グルメ無双の始まりだ」
たのしい夢は続く。ぺらり、ぺらり、一枚ページを捲るたびに香る焼き立てのパンの香り。
遠山鳴人は、ひたすらにページをめくりつづける。
ぱちり、遠くの暖炉から火の爆ぜる音がして。
夢から覚めるその瞬間まで、パン文書館にはページを捲る音だけが静かに、静かに。
………
…
「で、結果は? 彼を脅かすことくらいは出来たわけま、聞く必要もないだろーけど」
知識の眷属が、ティーカップを傾ける。床に垂らしたお茶の液はしかし、カーペットに落ちる直前、くるくる廻ってハーヴィーのカップに戻っていく。
「ふん、何を偉そうに。貴様もその様子だとえらく絆されておるではないか。あの忌まわしい書だらけのこの場所もえらく香ばしいものになったものよ」
霧を従わせ、ぬうっと現れたお札の巨人。その場にあぐらをかいて気怠げにあくびしつつ答える。
遠山鳴人がひとしきり本を読み、夢から去ったのち主人なきゆめの世界で彼らは語る。
「はっ、この世の全てを支配出来る知識よりも、パンの知識を選ぶなんてどんな頭してたら予想出来るのよ」
「ああ、うん、それはまあ、貴様に少しばかり同情せんでもないの。まあ少しばかり肝が冷えた。やはりあやつ、アレの飼い主だけあるわ。文句なくイカレとる。……あの扉に近付いたのはやはり、よばれたんかの」
「でしょうね。アレって元々は群れを作る生き物でしょ。彼のことを仲間か、家族か、少なくとも群れの一員だと今でも信じてるのよ」
「ふむ、じゃからあやつが死にかけたあの時現れた訳か。うーむ、湖の底に沈めたが、この調子じゃとまた出てきそうじゃの。次はもう無理ぞ、儂。同じことが出来るとは思えん」
「出来ないんならあたし達は滅ぶだけよ。でも、アンタその割になんか嬉しそうね。キモいんだけど」
「やかましいわ、貴様に言われとうない。……儂ゃ、やはり決めたぞ。此奴が欲しい。死んだ後は、此奴の身体で旅がしたいわ」
「は? 何言ってんの。彼が死んだ後はあたしのだから。彼はきっと、あたしがどこから来てどこからきたのか。それに近い場所にいる。死如きで、あたしの探究から降りさせるわけないじゃん」
「知ったものかよ。と、言いたい所じゃが、アレがまだある以上貴様と争うのもバカらしい」
「……そこだけは同感。少なくとも、アレと比べたらアンタが彼の死体を動かす方がマシね。アンタはまだ考え方が人寄りだもの」
「……げに恐ろしきは、獣の法か。いくら懐いても、いくら近くても、ああ、無邪気ゆえにほんに、恐ろしいものよのう」
「ま、アンタがいなければあたしも今頃消えてるだろうし。手を組む気はないけど、話が通じることだけは評価してあげるわ」
「ほほ、アレと比べられるのも気に入らんが、まあ良かろ。……仮にじゃが、今、儂の勇者が死んだらアレは何をするかの」
「さあ。分かるわけないでしょ。でも、予想は出来る。あたしらの最悪の予想の下を行って、それを突き抜けるくらいのことはするんじゃない? 飼い主が飼い主なら、アレもアレよ。……ま、別に彼のそーゆー所嫌いじゃないけど、てかアンタの勇者じゃなくてあたしのなんだけど」
「うわー、ちょろー。オボコか? 貴様」
「黙れ、肉ダルマ」
「ほほ、怒るな怒るな。まあ、そういうわけじゃ。また我が勇者がここに来た時は遊びにくるわ」
「ざけんな、ボケ老人。……ねえ、アンタさ、もう一度アレが目を覚ましたらどうなる?」
「わからん。アレの機嫌しだいじゃろ。まあ、間違いなく言えるのは」
「儂ら2人とも殺されるじゃろ。アレがその気になればの。まあ、そうならんように、我が勇者が死なんように祈っておこうぞ。あー、でも死なんかったら肉体を貰えんの。やや、ほんにこの世は思い通りにならぬなあ」
「……これだから死生観狂ってる連中って嫌いなのよね」
ゆめの住人の会話、霧の中で続く会話はひとしきり。
その声の届かぬ場所、パン文書館のまん丸扉、パン文書館の外、まん丸のみずうみ。
遠山鳴人のゆめの中、愉快な住人たちはひっそりとそれぞれの思いを主人に預けて、動き出す。
ゆっくり、ゆっくり、動きだす。
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