60話 パン文書館
「はーい、それでは第1回パン文書館脳内会議を始めたいと思います。拍手ー」
「パン文書館言うなし」
パチリ。
暖炉で赤々と燃える焚き火、火の粉が炉の中でゆっくりと舞う。
高い天井にゆらめく蝋燭のシャンデリア、壁にいくつか引っかかられたカンテラの暖かく、しかし僅かな光だけが、壁のように聳え立つ本棚たちを照らしていく。
ここは、遠山鳴人の夢。冒険者の夢にして、知識の眷属、ハーヴィーの公文書館。
いや、今はもうパン文書館だ。
「うるせえ、拍手はどうした根暗吸血鬼モドキ」
遠山は、安楽椅子に深く背中を預ける灰色髪の女へ刺々しい声を向けた。
赤ブチメガネに、羽飾りのついたベレー帽。
白い肌に小さな顔。幼さと妖艶さが同居する美女が気怠げにため息をつく。
「はあ、意味わかんない。あたしのどこが根暗なのよ。てか、アンタなんで何食わぬ顔でここに顔出してるわけ?」
ハーヴィーの言葉はもっともだ。最後の接触の記憶は確か、血を吸われそうになって逃げて有耶無耶になった筈。
「いや、知るかよ。寝たらここに来てたんだよ。こちとらさっきまでホストとしてドラゴンズの接客したり、銭ゲバ女と取引したり大変だったのによー。睡眠障害になったら責任とれよマジで」
だが、ついさっきまでホストになっていた遠山鳴人に今やもう恐れるものはない。
吸血鬼が夜の生き物ならば、ホストは夜の王。つまり、自分の方が強い。
竜の気に当てられ、アルコールに酔わされ、そして興奮によるダンジョン酔いの併発、頭がいい感じになったまま眠りについた遠山は夢の中でもキマッていた。
「なるわけないじゃん。きちんとアンタの肉体と脳は休んでるんだからさ。てか、アンタも大概図太いよね。……あんな別れ方した女の前でずいぶん余裕じゃん」
にいっと、笑う女の唇。そこから覗く犬歯というにはあまりにも鋭い牙。
遠山鳴人は、あのレイン・インでのパーティーナイトを乗り越え、事後処理を全て終わらせたのちシーツと藁だけのオフトゥンによって、また夢のパン文書館にやってきていた。
「まあな、お前なんだかんだ味方っぽいし」
「へ?」
脅すようなハーヴィーに対して、遠山がこともなげに言葉を返す。
断りも入れずに、暖炉の側に置いてある薪を拾って炉の中へ差し込んだ。瞬く間に乾いた薪の表面を炎が舐めていく。
ささくれたった木の繊維が赤熱する様子が遠山の栗色の瞳に朧げに映って。
「あー、暖炉、いいな……」
「呑気にしてるとこ悪いけど、聞かせてよ。どういう風の吹き回し?」
暖炉の前であぐらをかく遠山にハーヴィーが声を向ける。浅く腰掛ける安楽椅子が、きいっと静かに音を鳴らした。
「ヒントだよ、ヒント。なんだ、あれ。ほら、スピーチ・チャレンジ。なんかあの妙にテンション上がって口が回り出すタイミングあるじゃん。今晩のドラ子やら人知竜やらの時も、お前多分手伝ってくれたろ?」
暖炉に向かってチルしている遠山が、ハーヴィーの方へ振り返る。
「……別に、アンタの為じゃないし。同じ女としてあの子たちに少し同情しただけっていうか」
灰色の髪、ベレー帽から垂れている三つ編みをいじりながらハーヴィーが目を逸らした。
「あっそ、まあ、それでもありがとな」
「は?」
知識の眷属が、ぽかんと口を開けて。
「なんだよ、その反応」
「いや、少し驚いて。アンタ、そんな人間だったけ? 人間関係不感症じゃなかった?」
「てめえ人のことをなんだと…… まあいい。あー、少し、反省したんだよ。最近、周りの人間に恵まれすぎて調子に乗ってた。世の中にはクソ野郎が多いからな、数少ない自分の周りのいい奴らにはきちんと感謝しておきたいんだわ」
ホストになる直前の自分のミスを遠山は振り返る。ドラ子や人知竜、違う生き物に対して少し思いやりがなさすぎた。
感情を寄せすぎてもダメだし、突き放しすぎてもダメだ。例え違う生き物であっても、恩には礼を。遠山の得た教訓はとてもシンプルなものだった。
「へえ、あたしが、良い奴ねえ」
「あの人知竜とかいう奴と同じで意味わかんねえけどな。でも、今までも何度かお前は俺にヒントをくれたりしてるだろ。だから、えーと、名前なんだっけ」
「……ハーヴィー。いまはそう呼んで」
「ああ、ハーヴィー。ありがとな。これからも宜しく」
その教訓は忘れない。遠山が再び暖炉に向かってチルし始めて。
「……ねえ、やっぱさあ、一口でいいから吸わせてくんない? 先っぽだけでいいから」
すっと、背中に人の肌の暖かみを感じた。音もなく、気配もなく。
知識の眷属が、遠山の背中にしなだれかかっていて。
細い腕が首に回される。長い指が遠山の首をそっと抱きしめて、触れるか、触れないかの強さでその頬を撫でた。
艶々の爪に、暖炉の火が映っていて。
「古今東西、人類史が始まって以降、先っぽだけでいいからと言う奴が、先っぽだけで済んだ試しはねえ」
吸血鬼。
人を獲物にする上位の生物。生き物の機能として人類を魅了するその機能はしかし、頭の壊れた男にはあまり効果がない。
遠山がその手にデコピンかましながら、吸血鬼の申し出を断る。
「我吸血可?」
くすくす、からかうような声色でハーヴィーが耳元で囁いた。
「ほら! そういうのだよ! どうせお前は最後に、嗚呼…… 全体吸血完了…… とか言うに決まってんだよ!」
唾を飛ばしながら遠山が声を荒げた。
「ちえっ、ケチ」
いじけた様子、しかし愉快そうにハーヴィーは遠山に背後から抱きついたまま離れない。
「油断も隙もねえ。てかなんで俺の夢ん中に吸血鬼住んでんだよ……… いや、待て、なんで、お前、そのノリを知ってる?」
軽口言いながら、ふと、遠山は背筋に寒気を感じた。明らかに今のハーヴィーの言葉はおかしい。
「んー?」
「とぼけんな。今のお前のしょうもない冗談、お前全部理解して使ってたよな。それはネットのスラングだ。お前が知ってる訳、ない」
たわいもない会話だ。ネットのスラングをアレンジして軽口にぽつりと出す。それだけの話のはずだ。
ここが異世界で、それを口にしたのがその世界の存在でなければ。
「ふひ、あたしは知識の眷属って言った筈だけど」
ハーヴィーが笑いながら、しかし、しっかり遠山の身体に密着したまま声を返す。
「誤魔化すな。それをどこで知った?」
自分の夢に住む奇妙な存在。完全な理解は得られないにしてもある程度どういう存在かは絞っておきたい。
遠山は低い声で問いかける。
「……ふーん、この知識は、じゃあやっぱりこの世界のものじゃないのか」
「あ?」
「この前した話、覚えてる? あたしの目的」
ハーヴィーの、問いかけ。
遠山は、目を瞑った。ハーヴィーの冷たい手が自分の頬を撫でる感覚と、暖炉の火がそれをゆっくり暖める感覚。
世界にそれしかなくなった後、遠山の脳はきちんと記憶を取り出して。
「…… D'où venons-nous |?《我々はどこから来たのか》 Que sommes-nous ?Où allons-nous |?《我々はどこへ向かうのか》」
それは彼女との初対面の時に聞いた言葉。
知識の眷属はそれを知らない。故にそれを求める、と。
「そ、よく覚えてんじゃん。流石、無駄に頭が回るだけはあるよね」
「無駄は余計だ」
「ふひ、ま、そゆこと。あたしは、ハーヴィー、知識の眷属。この世界において"天使"によって役割を持って存在を決められた存在。あまねく知識の象徴にして、世界の裏側に住む者…… だけなはずなんだけどね」
「はず?」
「そ、筈だよ。でも、あたしの中にはあたしの知らない知識と記憶が残ってる。まるでいつ書いていたのか、何のために書いたのかもわからないメモだけがカレンダーに殴り書きされてる感じ?」
「でも、そのカレンダーに書いてある字は間違いなくあたしのもので、きっと忘れたくなかったものなんだと思う」
ピコン
【INT 6 会話に必要な知性を満たしています】
メッセージが流れる。夢の世界でも遠山に秘された蹟
はその冒険の標となって。
「……ゴーギャンだ」
遠山がつぶやく。
友達のいない学生生活、金もないので教科書と図書室が絶好の遊び場だった。途中から何人か邪魔してくる奴らも現れたが、それでもその頃の記憶は今もしっかり、遠山の血肉となっていて。
「ん?」
「フランスの画家。お前の言葉は彼の作品のタイトルなんだよ。高校の時に読んだ美術の教科書に載ってた」
まただ。
ハーヴィーの言葉は、異世界にいる者が知っているはずのものではない。
彼女は、遠山のいた現代の知識を保有している。そう考えて間違いないだろう。
「へえ、じゃあこの言葉もまたハーヴィーであるあたしが知らないはずの知識なわけか。ふひ、人知竜に振られたのは痛いわけね。あの探究者なら何か知ってそうだけど、まあ、もう遅いか」
それが自覚あるのかないのかはわからないが、この女は何かおかしい。
ドラ子や人知竜とも違う、別の種類の異質さだ。
遠山は少し頭を回し、初対面の時のハーヴィーの言葉を思い出す。
「……お前、あの時、ここで初めて会った時に、俺を"上級探索者"と呼んだよな。なんで、それを知ってる?」
"上級探索者"
それは現代に生きるものしか知らないはずの言葉。
現代ダンジョン、バベルの大穴が存在する世界の常識を知るものの言葉のはずだ。
「……アンタが探索者だって知ってたのはさ」
ハーヴィーが、ごくと、唾を飲んだのがわかった。冷たい指先が頬から首筋に。
動脈を探すかのようにハーヴィーの指先が遠山の身体を這う。
「アンタの記憶をある程度読んでたから。……まあ、今はもうパンの本しか残ってないから読めないけど。遠山鳴人、アンタ、なかなか面白い人生を歩んできたのね。珍しく退屈しない読み物だったわ」
「趣味ワリー、人間観察が趣味ですってか。それあんま人前で言わない方がいいぞ」
「夢の中だからノーカンっしょ。まあ、それとは別に理由もあるんだけどね」
「あ?」
「不思議なんだけど、アンタを見た瞬間、探索者って言葉が出てた。手に入るかどうかも分からない何かに魅せられてる目、心の底では自分しか信用していない昏い目、そのくせ、誰かの心を引っ掻き回して変えていくような傲慢で身勝手そうな目。どこかで見たことある奴と似た感じがしたのかな」
何かを、いや、誰かを思い出すような口ぶりのハーヴィーが動きを止めた。
ぱちり、暖炉の薪の表面が少し割れて。
「うわ、ソイツ絶対ロクな奴じゃないだろ。自己中の化身じゃん」
「…………」
遠山の言葉に、ハーヴィーが押し黙る。なんとも言えない顔を向けてきて。
「なんだよ、急に黙りこくって」
「いや鏡とか見たことないのかなって。蒐集竜の家とかには姿見あったでしょ?」
「え、なんで?」
「……ごめん、疲れたから少し休むわ、あたし。どうぞ、パン文書館の本はご自由に。あ、でも本開いたまま机にうつ伏せに置いてたら殺すから。ごゆっくり、我らが夢の主人殿」
すっと、遠山の背中から離れるハーヴィー。飼い主に構うのが飽きた猫のように本棚の向こう側に歩いて、それからもう見えなくなった。
「変な奴。あーゆーのが哲学キメることになるんだろーな。さて、それじゃ仕事を始めますか」
ぱちり。燃える炎と、赤い薪。暖炉は良い。永遠に眺めていられる。
自分の家に作るサウナはやはり、薪サウナにしようと遠山がモチベーションを新たにして立ち上がる。
ついでに暖炉も居間に欲しい。木を割ってゆっくり火を育てて、それを眺めながら飯を食う。良い、良さがすぎる。
欲望の光景、辿り着く場所を思い描き立つ遠山は幾重にも重なる本棚に近づく。
「えーと。これと、これと、これ。うーん、やっぱ図書館っていいなー、テーマパークに来たみたいだぜ」
すーっと、息を吸うと何故かわずかに香ばしいパンの香りが鼻をくすぐる。
もうこの書館の本のデザインは普通の本のものに変わっている。始めて訪れた時のような丸い円形のデザインでもない。
パンの絵が描かれた分厚い装丁の本を何個か脇に抱えて、遠山は己のパン文書館を物色し続けて。
びゅう。
ふと、隙間風。
空気の流れを感じて。
「ん、なんだ。まだ奥があんのか? はえー、でっけえ扉……」
本棚の谷を行くと、部屋の隅、半ば本棚に隠されるように大きな扉が現れる。
観音開きのドアだ。だが、不思議なことにそのドアには鋭角がなかった。
丸い形、ドアノブも丸く変なデザインだ。
何故だろうか、遠山はそれから目が離せない。本を近くのテーブルに置いて、その扉の方にふらふらと近づく。
無意識に、自分の胸の辺りをぎゅっと抑える。
懐かしい、そう思えた。
その扉に手を伸ばしてーー
「わぬし、それはまだ開けん方がええぞ」
背後から、伸びた声にはっと、遠山は動きを止める。同時に思考が戻った。
足元にはいつのまにか、霧が満ちている。白いモヤの溜まる足元を見た後、遠山はため息をついた。
「……よう、お札マッチョ。ヤダ、俺の夢、変な奴多すぎ」
「まあ、夢の主人がわぬしじゃからのう…… しゃーなかろ」
ぽり、ぽり。
顔にお札を貼った半裸和服マッチョが自分の顔を人差し指で掻きながら遠山を見下ろし、呟いた。
読んで頂きありがとうございます!ブクマして是非続きをご覧ください!
<苦しいです、評価してください> デモンズ感