58話 泥沼・ギラギラ・ご指名サンキュー
「…………あ、泣かした」
誰の呟きだっただろう。
遠山と竜たちの問答をハラハラしながら見守っていた観衆たち、誰かの言葉が広間に響いた。
「え、なんで」
遠山鳴人は焦る。
おかしい、明らかにドラ子や変態ドラゴンの反応がおかしい。
「………ひゅか、ひゅ、ひゅ」
「しゅぷ、しゅ、しゅす」
引き攣るような喉の音、嗚咽。
表情の固まった美貌から音なく滴る涙、竜の涙は外気に触れ、しばらくするとガラス細工のように固まっていく。
ぽつ、こつ。
彼女達の足元に、竜の涙が落ちていく。
おかしい。
遠山は一気に青ざめる。お腹は痛くなって、心臓は不規則に鼓動を強めていく。
「お、おい、2人とも? え、意味わからんのだけれど。なんで? なんで泣く?」
竜は無表情のまま、ただ静かに涙を流し続けるだけ。
ざわり、空気が変わる。
ステージの下、集まった客達が"竜"の落涙に息を飲み、口々に囁き始める。
「竜が、泣いてる……」
「あの男、言い切ったぞ。お前らは関係ないとかなんとか。痴話喧嘩か?」
「見たかよ、竜に対して、あの態度。あれが竜殺し…… 恐ろしい人間だ」
「例の商会に対する警戒を引き上げる必要がありそうですな。竜にあんな冷淡な態度を取る男を御しているとは…… ドロモラ商会、恐るべし」
「噂では2日前の東区での密造酒業者の壊滅、あの隠し醸造所の火災現場でも、黒髪とリザドニアンの男がいたとか」
「天使教会最強の騎士を手込めにしたって聞いたわ。あの水色の髪の少女騎士。公爵の御子息が懸想していた騎士よ」
「ドワーフの工房から貴重なアイテムを脅し取ったというのも眉唾じゃないのか?」
「カラスの連中に手を出したのも噂じゃないのかしら。連中も尻込みして未だに報復できてないとか」
「アレが、トオヤマナルヒト…… 人知竜様を惑わすチャラ男…… 寝取られ……」
「我ら、魔術師のアイドル…… 人知竜様をよくも……」
ひそ、ひそ、ヒッソオオオ。もはや隠すつもりのないヒソヒソ話がホールに満ちていく。
出るわ出るわ、この1週間で遠山が冒険都市で行った数々の行動が噂となり、そして今実話として人々に認識されつつある。
「や、やばい……」
なんだか知らんがやばい。パン屋を創る、店を始めるにあたってこの評判はまずい。
なんでだ、どうして、どうしてこうなった。俺は何を、どこで間違えた。
遠山鳴人が本気で焦り始める、ぽん、と肩に手が。
「トオヤマ様……」
「え」
「あなた様、まさか、本気であのお方達が涙を流す理由がわかっておいでではない?」
とても冷たい声だった。マダムハロトが汚物を見るような目を遠山に向けていた。
「おいでのわけないでしょうが。え、まってまって、ほんと泣くのやめて。無表情で涙だけ流さんといて。そして何か喋って」
遠山が慌てて、2人の美竜を宥める。
しかし、ダメだ。2人ともその美しい顔をまっさらな無表情にして涙を流し続けるだけ。
「……はあ、まさか、これほどとは。他者を冒すその在り方、前だけ見ない男とはここまで女心を理解できないものなのですね」
「悪口言われてる?」
「ええ、悪口にございます。ご覧なさいな、あのような可憐な方たちに涙を流させる男に、悪口以外の言葉を向ける必要がありまして?」
「あれれ、お姉さんの目が鋭いぞ。ゴミを見るような目だぞ」
「……はあ、トオヤマ様。お耳をこちらに」
「はい」
ため息をついたマダム・ハロトが遠山を手招きする。濃い花の香油の香りが届いた。
「あのお方達は、嫉妬なさっていらっしゃいます。いま、貴方に意中の女性がいて、それに自分達は関係ないから引っ込んでろと言われてショックを受けているのですよ」
「…………………は?」
遠山は、目をパチクリ。
何故そうなるのか、何も分からない。パン屋一切関係なかったってことなのだろうか。頭が混乱してそんな思考しか浮かんでこないのだ。
「いや、は、じゃないでしょうに」
「え、パン屋関係のことで不貞腐れてるんじゃなくて?」
「………うわ」
遠山の言葉に、ハロトは不快感を隠さずに唇を歪めて、目をくわりと見開いた。
「待て、でもなんで仮に、俺が本当に女目当てでこの店に来て、ドラ子がキレる意味がーー」
あ。
遠山の脳裏に巡るのは、数日前の記憶。
スマホを取り戻す際に、ドラ子と交わした約束。
ドワーフの畜生ジジイからスマホを買い戻す際、ドラ子に協力して貰った代わりに、遊びに連れて行く約束書を交わしていた。
なんか色々書かされた覚えがある、確かその中の条文に他の女を誘わないこととか、ドラ子よりも先に他の女と遊ばないとかなんとかあったような。
よく考えてみればこの状況、ドラ子から見れば女遊びに来たとしかみえない。
「わ、やべ。約束、破ったことになるじゃん……」
遠山は今更、血の気の失せた感覚を覚える。約束を破る、それは遠山にとってかなりまずいことだ。非常にダサい。
「いや、まあその、約束とやらもそうなのですが、その前にもっとあるでしょうに…… トオヤマ様、貴方、ほんとに他者と接するの下手なのですね……」
「いや、約束を破ったこと以外にドラ子が俺にキレる理由ってなによ」
「……さて、本当に気づいていないのか、それとも気づかないフリ、いや、気付かないようにしてるのか、はたまた、あなたは壊れているのか。ご自身でお考えくださいまし、竜殺し殿」
ハロトが冷たい目で遠山を、眺める。助けてくれそうにはない。
「いい…… もう、いいのだ……」
「しゅぷ、ごめん、ごめんねえい…… 怒らすつもりなんてないんだよぅ」
静かに真顔で涙を流し続けるドラゴンたち。彼女達がぽつりと呟いた。
泣き顔ではない、まっすぐ、美しい顔はそのままに一才の歪みなくただ、涙だけが静かに。
「待ってまって、違う、違うからマジで。パン屋なの、俺がね、言ってたのはね、パン屋のことなの」
「かんけいないって、ゆわれた。……やくそく、してたのに、お前は関係ないって」
ぐさり。ドラ子の呟きが遠山に突き刺さる。
「ドラ子、ドラ子さん。違うの、ほんとに。聞いてマジで」
「しゅぷ、トオヤマくんは、やさしいねえい…… 良いんだよ、今更、ボク達に気なんて遣わなくても……」
人知竜も同じく。
闇色の目から透明な雫を流して、震える声でつぶやいた。
「いや、違う違う。気を遣うとかじゃなくてね。ここに来たのは女を探しにきただけで、いや! 女を探すというのもね! そういう探すではなくて!」
「女…… やっぱり…… ひゅか、やくそく、してたのに……」
「……ボクの何がダメだったんだろう、髪も言葉も変えたのに、悔しいなあ」
らん、からん、からん。足元で固い音が響く。竜の涙は外気に触れるとゆっくり結晶となっていく。泣き続ける彼女達の足元に、光煌めく涙石が転がった。
「いや、だから! 聞いて!聞いて聞いて! ここにはね、俺パン屋創りの為にきたの! あの銭ーー」
遠山は言いかけた言葉を済んでのところで飲み込んだ。
いやまて、ここでそんなこと、銭ゲバを脅そうとしてたことなんか言い訳にしてみろ。トオヤマナルヒトの評判はそれこそ地に堕ちるぞ。パン屋の開業にも影響が出たら本末転倒だ。
喉が、カラカラに乾いていた。遠山は今更ながらに気付いた。自分が詰みかけていることに。
「……いや、ドラ子、ほんとにここには女遊びとかそういうのできたんじゃなくてだな」
ダメだ、言い訳が思いつかない。
正直に銭ゲバを脅しに来ましたというのも人としてどうかと思う。後ろめたいことを後ろめたいと感じなくなった瞬間が、品性の死ぬ時だ。
「……いい、ナルヒト、いくらオレでもわかるぞ。こんなところに盛ること以外どんな理由があってくるというのだ」
「いやー、あるんだよ、それが……」
「じゃあ、言ってみろ。ぐす、オレとの約束…… オレが最初に、貴様と遊びたかったのに、貴様は……」
「んぐ…… いや、ドラ子、マジで、マジでここには女遊びとかじゃなくてさあ」
ものすごく頭が痛い。たしかにドラ子の言う通りのクソ野郎状態だ。
どんな存在との約束であれ、約束は約束。破っていいものではないし、ないがしろにしていいものでもない。
完全にこれは遠山鳴人の意識不足、計画を立てる時点で考慮しなければならないことを見過ごしたミスだった。
「すぷ。蒐集竜、もうやめよう。見苦しいだけだよ。ボク達は、彼に選ばれなかった、ただ、それだけのことなんだから」
「……うるさい、貴様は黙っていろ。オレはナルヒトと話をしているのだ」
「まって、ほんと俺が悪かったから。約束のこと忘れてたとかじゃなしに、ここにはマジで俺は」
遠山がそれでも、言葉を弄してーー
「老竜」
竜はそれに取り合わない。
今や、遠山の言葉に竜を動かす力はなかった。
「すぷぷ。ーー魔術式、仮説定理開始、式別種類"探知式"、"望郷の丘" 世界法則への侵食完了…… トオヤマくんが探している人は…… ふむふむ、おや、あまり良く見えないな…… 茶髪で、長髪の女、この店の個室にいるね。かなりのお得意様みたいだよ、まあえらく遊び惚けてるねえい」
人知竜が指を振る。それだけで簡単に、おぞましく世界の法則が侵される。
人知竜の片目に、金色に光る片眼鏡のような輪郭が浮かび上がる。
闇色の目は、金色の枠を通して、遠山鳴人の探し人を瞬時に探し当てた。
遠山達があれほど探したとある権力者は、呆気なく見つかって。
「やはり、女か。店主」
「は、ここに」
指を鳴らしたドラ子に向けて、マダムハロトが膝をつき頭を垂れる。
「この店の3階、個室におる茶髪の女をここに連れてこい。頼めるな?」
「………ええ、竜からの招聘、帝国民の中で断るものがいるものでしょうか。ハイネ?」
「はい、マダム・ハロト」
ハロトの言葉、癖っ毛のハイネが腰を折って同じく竜に首を垂れた。
「3F ステルノ、ルンホニアの部屋で遊んでらっしゃるお客様をお呼びしなさい。蒐集竜様、人知竜様からの招聘であると、お伝えして」
「承知いたしました、マダム。いと尊き竜様、御身のお名前を口にし、使用することをお許しくださいませ」
「よい、くるしゅうない」
「ああ、構わないともさ」
竜が、ハイネの言葉に答える。もう2人の美竜の目に涙はない。
残るのは、背筋のひりつく無表情で飾られた美貌のみ。
「え?」
もう遠山にはどうしようもない。
「……見定める」
「なんて?」
遠山の言葉にはなんの価値もなく。
「オレが見定める。ナルヒト。貴様が執着するに値する雌かどうか」
「はたして、ボクよりもキミに相応しいのかどうか」
竜の言葉が、無慈悲に続く。
「オレが」
「ボクが」
「「その女と話す」」
「あー……」
遠山は少し、目を瞑り、息を吐いた。
完全にやらかしたなー。
無力な男は未だ煮え切らず、心の中である女に小さく謝った。
今回はマジでごめん、と。
………
……
…
〜同時刻、夜店"レイン・イン" 3F 逆指名客用、キャストの個室エリア。
ルンホニアとステルノの個室にて〜
その女は、人生において今、絶頂の中にいた。
「ウッヒョヒョ!! そらそらー、逃げなさい、かわしなさーい」
「わ! もーう! お姉様のえっち!」
「テルドさまー、僕の方はいいのー?」
そこには笑顔しかない。喜色満面、ほくほくのニコニコ顔のそばかす茶髪の女が笑う。
「うっぴょぴょ! ルンくんもよー! そーれそれそれ! ほらほら、お水を避けないとぉ、その可愛い紙で出来た服が透けちゃうわよーん! おっぴょっぴょ!」
部屋の中央に位置する浴槽、地下から湧き出る源泉を利用したテルマエに肩まできちんと、つかる女。
テルド・サーカス、仮名。
本名、カノサ・テイエル・フイルド、帝国にその名を轟かせる天使教会の主教その人である。
普段の白髪は、今や色の濃い茶髪に。
怜悧な美貌もそばかすのついた牧歌的なものに変わっている。欲望と野望の紫瞳を隠す糸目は今や、くりくりとしたアーモンド型に。
「わわ、テルド様に濡らされちゃった」
「おっふ、美少年の脇を濡らしちゃった、かーっ、捕まる、教会騎士に捕まっちまうわー、かーっ、どうしよー」
教会に伝わる継承秘蹟、"大主教令"と同じ歴史の深さを持つ変装の業により姿を変えた彼女は夜の街を遊び倒していた。
「うぴょぴょぴょ! あー、可愛い。ほんと美少年と美少女は白金貨の次にこの世で尊いものだわ。良い温泉に、美味い酒、そして麗しい妖精たち、生きるってスンバラシイわー」
手に持った工房謹製のおもちゃ、水吹き矢と呼ばれる筒を両手に持って、ニッヨニヨ。
レイン・インにおいて、キャストに選ばれた一部の賓客にのみ許されるゲーム。その名も"水遊び"。
ルールは単純。水の噴き出るそのおもちゃをつかって、浴槽の中からキャストに向けて水を掛けるだけ、だけなのたがーー
「えいえーい!」
「きゃ!」
「そいそーい!」
「わ!」
ぴゅっと、カノサが構えた筒から水が噴き出る。それが浴槽の淵に立つ美少女と美少年の服を濡らした。
「あはあ、当たっちゃった」
「ふふ、お姉様に見られちゃう」
紙だ。
キャストの服、簡素な白いバスローブのような服は紙で出来ている。
水吹き矢を当てるたびにキャストの紙で出来た服が水で透けていく、帝国が誇る由緒正しい遊びの風景がそこにあった。
「ブヒヒヒヒヒヒ、ルンちゃん、ステちゃん。ほらほら、もう少し、もう少しお風呂に近づいてよー、上手く当てられないわーん」
所々が透けていく紙の服に身を包んだ美少女と美少年に向けて鼻の下を永遠に伸ばした主教が笑い続ける。
「えー、どうする? ステルノ」
「んー、どうしようかしら、ルン」
「近づいてくれたらー、お姉さん、お小遣い奮発しちゃうわよー!」
「きゃは、お姉様だいすき」
「いいよー、お姉様ー。僕、次はどこを当てられちゃうのかな」
「ムッホッホホホホホホ、くるしゅうない、くるしゅうないわー。あー、たのしー」
水吹き矢の先端を浴槽につけて、お湯を補充していく。
ジャグジーに浸るカノサが狙いをつける。
浴槽の淵に腰掛けて、胸を張ったり、笑いかけてくる妖精のような美少女、美少年の服を再び濡らそうとして。
「ほーれほれほれ、お姉さん当てちゃうぞー」
「「きゃー、もう、お姉様のエッチ」」
筒から噴き出る水飛沫が、少女達を濡らしていく。主教は今確実に、人生の絶頂の中にいた。
「お姉様、僕もおそばでお風呂入ってもいーい? お服びしょびしょなんだー」
「あら、お姉様、私もいい? とてもいい東領のグレプの実があるの。一緒に食べよ?」
「うっひょひょ、美少年と美少女に挟まれてのご入浴!! 来なさい来なさい、ぐーっ、と来なさいな」
美少女と美少年を侍らせての酒池肉林。
カノサは差し出された丸く紫色でぷにぷにした果実をあーんと食べさせてもらいながら、思う。
「ああ、生きてるって素晴らしいわ……」
「ふふ、よかった。お姉様、リラックスできてますか?」
「あーん、もう、ステちゃんはほんとイイコね。リラックスしまくりよ、しまくり。最近、ほんと仕事がやばくてね」
「お姉様、お仕事お疲れ様ー、はい、ラドンシェリーだよー」
「ルンくんもありがとねー。かーっ、あー、沁みる、喉が暖かくてきもちいー」
左側に侍る少年から差し出された琥珀色の液体を小さなコップで一気に煽る。
酒精を強化された強い酒、辛口のそれを舌で転がすと先に口に入れていた果実の甘味と絡み合いとろけ合う。
喉を通る熱さはカノサに、生の実感を与えて。
「いーお酒ねえ。さすがはレイン・イン」
「ふふ、ありがとー。マダム・ハロトがお酒にはうるさいからねー。天使教会の定めている醸造所からしか絶対買わないって決めてるんだって」
「へえ、さすがはレイン・イン。間違いないわね」
「うん、マダムがその辺は厳しいんだー。この前もー、南区にあった密造酒の醸造所が火事で燃えた時、ウチには一切影響なかったしねー。他の店では安い密造酒を使ってるところもあったからそういうところは大変だったみたいだよー」
レイン・インのキャストはみな情報通だ。夜の街に造作深く、また上流階級の相手をすることから地頭もいい。
幼げに見えるこの2人もしっかりと、専門の教育と教養を施されていた。
「………へえ、そんなことがあったのねえ」
蜜のような濃い酒を舐めながらカノサがふと、主教の顔に戻る。
そんなこと、と言いつつその密造酒の醸造所が火事になることを決めたのは他でもない彼女だ。
竜殺し、異端審問官、トオヤマナルヒトに命じたその粛清は彼女の想像よりも遥かにスマート、かつ徹底的に行なわれた。
醸造所の人間、"カラス"構成員はもちろん、その醸造所に来ていたカラス幹部も含めて30人以上を処理、密造酒のレシピや取引業者の書面はきちんと回収した上で、夜が明けるまでには全てを消し炭に変えた。
"影の牙"、そして"第一の騎士"の力もあるだろうが、その仕事ぶりは驚嘆に値する。
遠山鳴人の仕事は、カノサが今まで見てきたどんな人間、どんな冒険者の狩りよりも周到で狡猾で、確実だった。
違う世界の男、そう結論したのは自分だが、あのような仕事が出来る人間を生み出す社会とは果たしてどれほどの骸を生み出すものか。
怖気すら、感じる。
「……でも思ったより遥かに、いい買い物だったかもしれないわね」
まあ、それはそれ。これはこれ。遠山鳴人の異質さの考察はほどほどに。
そんなこんなで、結果的に主教は大儲け。
滅した密造酒醸造所のレシピは手に入る、目障りな酒事業のライバルが1つこの世から消え去るなど懐が大いに潤っていたのだ。
「あ、お姉様。今僕たち以外のひとのこと考えてた」
「えー、ショックね。お姉様、誰のこと考えてたの?」
「んー? なんのことかしら?」
美少女と美少年がしなだれかかってくるのを流しつつ、つい仕事モードに入ってしまったカノサは思う。
異端審問官、トオヤマナルヒト。あれへの認識をどう決めるか。アレはおそらくそう簡単に御せるものではない。
しかし手放すのには惜しいし、恐ろしい。
竜関連の厄介ごとに巻き込まれてでも、手元に置いておきたい人材だ。冷酷で残酷で、しかし人情と常識が両立している頭のキレるおかしい男。それがカノサのトオヤマナルヒトへの認識だった。
「さて、次はどんなふうに働いてもらおうかしら」
トオヤマナルヒトが天使教会に庇護と後ろ盾の役割を求めていることには気づいている、ならばそれを与えてやろう。そのかわり、もっともっと働いてもらおう。
1日24時間働いてほしい。アレの労働には価値がある。
打算と打算。ある意味最も信頼出来る関係性だ。天使教会最高指導者は、新たに手に入った手駒の性能を割と気に入っていてーー
「お楽しみの所大変申し訳ございません、テルド・サーカス様、少しよろしいでしょうか?」
「あれ、ハイネの声だー。お姉様、お部屋の扉開けてもいーい?」
「うん? え、ええ。あれ、まだ夜明けじゃないわよね? うそ、楽しすぎて時間の感覚なくしてたかしら」
「失礼致します、テルド様。いつも当店をご利用頂き誠にありがとうございます。ステルノ、ルンホニアを可愛がって頂き何よりです」
「ええ、私、可愛いものと美しいものが好きだから問題ないわ。えっと、それで何か御用かしら? ……貴女も可愛いわね、一緒に遊んでくれるの?」
「お戯れを、テルド様。ルンホニアとステルノが妬いてしまいますよ。……当館主人、マダム・ハロトより伝言をお伝えしに参りました」
「あら、マダム・ハロト? 気になるわね、何かしら」
「テルド様がえっちすぎるから怒られるんじゃないかしら?」
「怒られたら僕が庇ってあげるからね」
「ムホホホホホホホ、えっちでごめんね、ごめんねー。ステちゃんのおへそ触っちゃおー! んもう、ルンくんたら、マジ妖精だわ。課金させて」
「マダム・ハロトからの伝言です。蒐集竜、アリス・ドラル・フレアテイル様、並びに人知竜、アイ・ケルブレム・ドクトゥステイル様。2竜は貴女様の招聘をご希望されています。至急、1F、メインホールまでお越しくださいませ、と」
ハイネの声が淡々と部屋に響いた。
豊かな湯が湧き出る音、砕けて、こぼれて、溢れる。その音だけがただ、部屋にあった。
「……………………ナ、ンテ?」
「竜が貴女様をお呼びにございます。光栄です、テルド・サーカス様」
「……………………ナ、んで?」
「………なんでも竜殺し様が貴女様にご執心だとか。2竜はその件で貴女様からお話しを聞きたいとのことです」
「り、う、ごろし…… トオヤマナルヒト………」
「はい、メインホールにて現在、竜と朗らかにお話し中にございますれば」
現実がやってきた。
夢の時間は終わり、主教カノサ・テイエル・フイルドの元へ特に意味のない試練がやってきたのだ。
「あんのくそヤロオオオオオオオオオオオオオオオオ!!?! この私を今度は何に巻き込みやがったアアアアアアアアアアアアアアアアオアアオアオアアアアアアアアアアアアアアアア!!? やっぱアイツ嫌いじゃあアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
彼女の慟哭はしかし、防音性の高いモンスター素材で出来た壁紙がきちんと吸ってこの部屋以外のどこにも届かなかった。
………
…
いったい、どれだけの時間が経っただろうか。
2人の竜が据わった目でこちらを無言で見つめ始めてからもう20分ほどになる。
「あの、ドラ子、話を」
「ならん、貴様は口が立つ。その茶髪の女が来てから話す」
「あの、えっと……」
「アイ、だよ、トオヤマくん。キミがつけてくれた…… いや、この話も最早虚しいな。人知竜、そう呼んでくれ」
「えっと、人知竜さん」
「ボクをさん付け? キミが。ふ、寂しいな……」
「ええ…… じゃあ、人知竜、その少しね、俺らの間には勘違いがあってね」
「アイって、呼んでくれないの?」
「え、いや、……めんどくさ……」
「しゅぷ」
「あ、ああああ?! な、泣くな、泣くなって、アイ! 悪かったから」
「……ほう、ずいぶん、ずーいぶーん、この老竜と仲が良いのだな。ナルヒト。ああ、別に気にしてはおらんが。どうぞ、続けて?」
「ええ、コワー……」
地獄だ。ティラノサウルスとヴェロキラプトルのご機嫌を同時に取るよりも難しい地獄に遠山はいた。
まずい、勘違い主人公ムーブをかましてしまったせいで状況が非常にまずい。
「あ、あの、ドラ子さん……」
「つーん」
このままではこの街からの評判が悪くなりパン屋の開業にも影響が出てしまう。
それに約束。ドラ子との約束を破ったことになる。それもまずい、ダサすぎる。少ない友人をまた無くしてしまう。
遠山はそれも、怖かった。違う生き物でも友達になれる。幼い頃、別れたモフモフの友に教わったことを裏切る。それだけは嫌だ。
「なあーー」
遠山が口を開きかけたその時だった。
「お待たせいたしました、蒐集竜様、人知竜様。お探しの方、テルド・サーカス様をお呼びいたしました」
「…………いと尊き2柱の竜様、この度はお呼び立て頂き恐悦至極に」
「あ、銭ーー」
「ーー!!!」
「あ、ハイ」
「ほう、貴様が……」
「へえ、うん? ……気のせい、か」
「尊き竜様、テルド・サーカス。此度の招聘、誠に光栄にございます。御身の眼前にこの卑しき身を晒すこと、どうかご容赦を」
「よい、女、いくつか聞きたい。かんけつに、嘘をつかずに答えよ。老竜?」
「ああ、もちろん。術式構成、侵食完了。秘蹟やスキルほどの厳密さはないが、大抵の"嘘"なら全てわかるよ」
「よい、女。まずは一つ、この男のことを知っておるか?」
「はい、存じております」
「……」
「よい、その調子だ。心せよ、オレ達竜は、存外貴様ら人間に優しくないのだ」
「竜の御心のままに」
「ふむ、この男と貴様は想い合う関係か?」
「いえ、それだけは天地竜明にかけてあり得ません。例え天地に於いて男と女が彼と私だけになろうとも、私が彼に懸想することはございません」
「これも、本当。嘘じゃあないねえい」
「……貴様、この男のことをよく知らないのに言うではないか」
「ギーー 申し訳ございません。詭弁なく申せとのことでしたので」
「ほう? 貴様、なかなかに面白い女よな。よい、許す。名を名乗れ。始めて会うはずなのに、どうしてかな。オレの知る賢しい女と少し似ておる」
「……今の私はテルド、テルド・サーカス。北領の寂れた炭鉱街から冒険都市に出てきたしがない商人にございますれば」
「……これも、嘘じゃあないねえい。……ふむ、ただ、でも、やはり、何かが」
「ふむ、では貴様。この男、トオヤマナルヒトとはどういう関係だ? 雌と雄の関係ではないと言うのなら、ナルヒトが貴様を探しにここまで来た理由が知りたい」
「いや、ドラ子、だからっ……」
遠山が口を開いた瞬間だった、テルド、いや主教からの視線を感じる。
怒りと焦りと苛立ちと、そして、何かを託すような視線。
主教の唇が、ぱくぱく動いた。遠山はそれを見逃さない。
だ、ま、っ、て、ろ。
「……仕事の関係にございます。私の事業に彼の力を借りたりしております」
「その仕事とは、なんだ」
「世直し、にございますれば」
「ほう、ほうほうほう、よい。貴様、なかなかに肝が据わっておるではないか。オレを正しく恐れ、正しく敬うその姿。ますますあやつに似ておるわ、あの銭ゲバ女にのう……」
「彼女の言葉。嘘じゃないね、これも」
ほんの少し気を良くしたと見える竜2人が声色をわずかに明るくする。
ちらりと、頭を下げ続ける女と遠山の目が合った。
(てめえ何してんのマジで)
(いや、もう、ほんとごめんなさいマジで)
アイコンタクト交わしながら遠山は頭をフル回転させていく。
まずい、今のところマジでいいところナシだ。モテモテ作戦では役立たず、ドラ子と人知竜はキレさせる。スキャンダル狙ってた相手に庇われる。
いくらなんでも、ダサすぎる。
「ふむ、ふむふむ。さて、今のところ聞いた話によると、ナルヒトは仕事の用事で貴様を探していたわけ、か。ふーむ」
「いや、待ちなよ。幼竜」
「なんだ、老竜」
「そこの彼女、さっきから嘘は言っていない。嘘は言っていないんだけどねえい…… 何かが、おかしい。奇妙だよ。蜃気楼を見ているような気分だ。私達は彼女に何かを誤魔化されている」
「ほ、う」
「すんすん、香りも顔も魂も全て何かがおかしい。魔術式での変性でもない。これは…… とてもとても、古い力の香りだ。すぷぷ、奇遇だねえい。これと同じ香りのする女をボクも知ってるよ。………天使教会の歴代主教に継承されるあの令。アレと似てるような」
「ひぎ」
主教、悲鳴。
「ひぎ?」
「い、いえ、ひじ、肘がその、あは、あははは………」
(あばばばばば、しぬ、マジで死ぬ。竜殺しあんたのこと私絶対絶対許さないから! ほんとまじで反省して)
(ごめんごめんごめんって、今考えてるからマジで、今回は本当俺が悪いです)
ダラダラと脂汗を浮かべまくる主教、もうアイコンタクトも限界だ。
「……女」
ドラ子の声、恐竜の足音のごとく腹に響く声だ。
「は、は、はははい」
主教も思わず、声を震わせてしまった。上位生物の圧は例外鳴く人を震わせる。
「答えよ。偽証はまからん。虚偽も許さぬ、真実以外に貴様が答える言葉はない。心せよ、竜の、言である」
「……あ、は、御意に」
「オレに隠していることは、ないか?」
やられた。
先ほどまでは、のらりくらり。真実でもないが、嘘でもない答えで交わしていたが今回は無理だ。
隠していることはないか? に対する答えなんて、はいか、いいえしかない。
その証拠に先ほどまで割とすらすら竜の問いに応えていた主教が黙りこくる。
「…………」
いや、でもあの銭ゲバ女は気持ち悪いほどに頭がキレる、この場面も、もしかしたら自力でなんとかしてしまうかも。
遠山がそんな希望を抱いて、主教を見ると
お、わ、た。
口が、ぱくぱく。遠山にしかみえぬ角度で涙目の主教が死にかけの金魚みたいな口をこちらに向けてきた。だめっぽい。
「どうした? 答えられぬか? ん?」
「……あまり、ボク達も気が長いほどではないんだ。いやなに、別に、キミに対して怒ってるわけじゃあないんだ。ただねえい、隠していることは気になるのさ。ねえ」
ひっと、主教が息を飲む気配、音なき悲鳴が聞こえた。
ステージを照らすシャンデリアの明かり、竜達を照らすそれが映す影が、一瞬、人の形ではなくなる。
翼、尻尾、牙、舌。
およそ人には決して届かぬ高き存在、その片鱗を光が暴いていく。
彼女たちは竜。決して交わらぬ、決して理解できぬ、決して並び立たぬ。
ヒトと違う、上位の生物。世界の柱、惑星の概念。選び抜かれ、そうありかしと定められた存在。
「あーー」
遠山は、主教の小さな悲鳴を聞いた。
詰んだ、そんな人間の声だった。
遠山は、竜たちの涙を見た。
静かに、しかし深い無表情の絶望がそこにあった。
「馬鹿か、俺は」
何が、パン屋だ。
ーー怪我はないか、ナルヒト。
出会いは最悪だった。でも、そいつには何度も助けられた。高潔で、高慢で、傲慢で、なによりも自由で、そしてひとりぼっちの竜。
彼女の友になると決めたのは誰だ。
何が、関係ないだ。
ーーキミを幸せにする、キミだけのさいきょーに賢いドラゴンさ
出会いは意味不明だ。でも確かにそいつに命を救われている。意味不明、理解不能、でも何故か嫌いになれない、不思議な感覚をもたらす、奇妙な竜。
彼女に助けられたのは、誰だ。
「俺……」
この状況を作り出したのも、しくじったのも、やらかしたのも全て。
「俺じゃん」
呟き、気づき。
「恩知らずのクソ野郎じゃん」
遠山が立ち上がる、主教が睨みつけるも止まらない。
竜がみじろぎしても、圧されない。
おじけても、退いても多分ダメだ。遠山鳴人がじっと、2人の竜を見つめて。
「ナルーー」
「ここへは、パン屋の為に来た。誓って、女遊びに来たんじゃない」
「そんなことを言って、オレが信じるとでも」
「嘘かどうかわかるんだろ?」
「………」
「嘘、ではないねえい……」
「だ、だが、ナルヒト、お前がオレとの約束を関係ないとか」
「悪かった、ドラ子。人知竜。さっきのはどう考えても俺の言い方が悪かった。例え女がどうとかじゃなくても、お前らが関係ないとか言うのがおかしい」
頭を回せ、舌よ、跳ねろ。
どれだけ真摯に思っても伝わらなければ意味がない。2人の女は怒っている。そして同時に悲しんでいる。
遠山鳴人は脳を壊されている。ある女の妄執は未だに遠山を縛りつける。
1人で生きろ、1人でたどり着け、1人で行け。
ある女はそこに、美しさを見出した。遠山鳴人が変わらぬように、歪なまま、欠けたまま、自分と同じ存在のまま居てくれるようにと願いを込めた。
女の呪いは遠山を鈍く、愚鈍に変えている。
だけど、それとこれとは関係ない。そんなこと言い訳にはならない。
「お前らは、俺の友達で、恩人だ。だからあんなこと言うべきじゃなかった、ごめん。本当にごめん」
「「………」」
ピコン。
【スピーチ・チャレンジ再開】
今まで、何度も女を怒らせてきたことがある。高校の時も、フリーターの時も、そして探索者になった時も。
考えてみれば今まで自分が関わってきた女はみんな、怒りやすく、比較的怖かった連中が多い気がする。
その中でも、怒らせたら1番怖かった女、日下部日菜との記憶。
遠山鳴人はレベルアップしない、だが経験により成長することが出来る、対応することが出来る。
多くの人と同じように。
「……思い出せ、大丈夫、俺なら出来る」
名瀬を宥めた記憶。レイン・イン、逆指名、夜遊び。傷ついた女。
【スピーチ・チャレンジ ヒント。"20歳時、ハイ・ランウェイロッポンギ店での記憶】
遠山鳴人の答えは経験の中にある。
怒った女を鎮める方法、高校を卒業して探索者になるまでのフリーター期間。無駄と思えた時間はしかし、たしかに土壌となっていて。
「竜殺し様?」
「……お姉さん。俺は今、逆指名されてるんだよな」
「え、ええ、おっしゃる通りです」
「OK。目には目を。夜遊びには夜遊びを。見せてやるよ。ニホンの由緒正しい夜遊びの力を」
丸テーブルに置いてある銀の水差し。それを掴んだ遠山は、ばしゃり。
自分の頭に水をかける。冷たい水を顔に感じる。
目を見開き、濡れた癖っ毛のある髪をかきあげて、デコを丸出しにした。
「「え?」」
「ちょ、マジで、マジでやめてよ、これ以上アホなことしないでよ、聞いてる?」
びしょ濡れの遠山。誰しもが動きを止めた。
客達のざわめきも大きく。竜殺しがイカれたとつぶやく。それは間違いだ、遠山鳴人は既にーー
「安心しろよ、テルド殿。俺の間抜けの不始末は、俺が責任を取る」
「いや、ほんと待って。そのガンギマリの目でこっち見るのやめてくれる?」
主教の言葉を無視して遠山は、竜たちに近づく。
無表情の2人の美竜、黙っている彼女たちは余計に怖く、しかし美しかった。
【スピーチ・チャレンジ ヒント。補正発生
技能 "竜殺し(意味深)" により雌の竜との交渉にプラスの補正が発生します。
技能 ラン・ホース・ライトにより、生命の危機状態においたのスピーチ・チャレンジ中に記憶や経験から活路を見出しやすくなります】
「ドラ子」
「つーん」
「人知竜」
「………」
問いかけるも、2人の竜は顔を背ける。
マイナスからのスタート。おじけることは許されない、誤魔化すことも許されない。
己の間抜けを濯げるのは、己の挑戦だけだ。
息を、吸って。
【スピーチ・チャレンジ目標 "不機嫌な2人の竜を
コマせ"】
すう、遠山が息を吸って。
「ラザぁアアアアル!! ストオオオオオオル!! 1番テーブルご指名入りましたあぁぁぁぁぁ!!」
男の叫び声が、ホールに響く。
ニホンの夜に彼らは生きる、夜と欲望の街に咲くのは美しい華だけとは限らない。
その国の夜の街には彼らがいる。遠山鳴人の探索者になるまでのほんの少しの冒険譚。
その経験、職歴が今ここに活かされる。
「うん?」
ハロトが目を丸くする。
「え?」
人々が耳を疑う。
「なに?」
ドラ子は眉を上げて。
「すぷ?」
人知竜は首を傾げた。
「おかしくなったかな?」
主教が淡々と短くぼやいた。
「ようこそ、お嬢様方、今宵はここ、クラブ、レイン ・インでの特別開店。ドロモラ商会パン事業部、ラザール・ベーカリーホストクラブにお越し頂き、誠に、誠にありがとうございます」
言葉とノリと誇りを武器に、ニホンの夜を生き抜く彼ら。
「な、ナルヒト?」
「お嬢様、良ければ私のことはこの一夜だけ、ナル、いえ、NALとお呼び頂ければ」
ホスト。
遠山鳴人の答えだ。竜を怒らせたからホストになろう。
頭の良い人間を追い詰めると、こうなるのだ。
遠山がドラ子に向けて腰を折り、パチリとウインクをかました。
「狂ったの? トオヤマナルヒト」
「静かにしてろ、ZeNi」
「誰がZeNiよ」
パチリ、髪をかきあげ指を鳴らして主教を黙らせる遠山。
本当に疲れた顔で主教が口をつぐんだ。関わったらダメだ、本能で彼女はそう判断した。
「な、ナル?」
「いいえ、お嬢様、ナルではなく、NALと。発音にお気をつけて」
「え、え?」
無表情だったアリスの顔には、いまやはっきりと困惑の色が灯る。
餌箱に、大量のカリカリを溢れてもなお、ぶちこむ続ける飼い主を不安げに見つめる猫みたいな顔だ。
「アリスお嬢様、どうなされたのですか? いつもの灼けつく太陽の如き威光も素晴らしいですけど、戸惑う貴女もとても新鮮ですね」
「アリ、な、名前、ギャゥ…… で、ではなくてだな、ナ、ナルーー」
「NAL」
思わず鳴いてしまうアリスの言葉を遠山が短く訂正した。
今の遠山鳴人は遠山鳴人ではない、昔取った杵柄、ホストクラブ"ラン・ウェイ"のキャスト、NALだ。
あるトラブルのおかげで1週間でクビになったが、その時の職業の記憶は今も遠山の中にある。
ヒトの経験とは、そう簡単には風化しないものだ。そしていつも経験はヒトを助ける。
「……ど、どうしてしまったのだ? お、オレが責めすぎたか? ろ、老竜、どうしよう、ナルヒトがおかしくなってしまった」
「す、ぷぷ。あー、そういえばトオヤマくん、ヤケクソになったらバカになるんだったねえい……」
遠山鳴人の突然の奇行に、ソワソワし始める美竜2人。
大いなる生物特有の大雑把さ、2人の美竜の頭の中からもはや、茶髪の女のことは消えかけていた。
「ラザァァァァァルウウウウウ、ストオオオオオオルウウウウウ!! 出番だ、出番! お嬢様達を座らせるソファ用意してくれ、ソファ!!」
もう一度、NALが仲間を呼ぶ。
薄情で、判断が早く、そしてーー
「…………ご用命とあらば」
「あー…… いと尊き2柱の竜。お初に、ディス」
ーー肝心な時には必ず助けてくれる仲間を呼んだ。
ステージに、影が生まれる。その中からどろり。疲れ切った顔のラザールとストルが現れた。きちんと2人で大きなソファを抱えていて。
「LAZ! ST! いい仕事だ、さっ、アリスお嬢様に、アイお嬢様、どうぞこちらにおかけ下さいませ。お飲み物は……」
そのソファに2人の美竜を誘い込む遠山こと、体験ホスト歴1週間のNAL。得意なことはトイレ掃除だ。
「な、ナルヒト、だ、大丈夫か? 大丈夫なのか?!」
「すぷぷ、じゃあ、そうだねえい…… NALくんの、おすすめが飲みたいなあ」
なんやかんや竜はNALが用意したソファに腰掛ける。
4人がけの大きなソファ、NALを挟み込む形でドラ子と人知竜が位置する。
「承知いたしました、アイお嬢様。HEY! LAZ!! 塩とグラスと蒸留酒と柑橘系の果物とそれのジュースを頼むぜ、オーゥラァイ」
「ナルヒト、お前、頭が……」「NAL」「……了解、NAL」
ラザールは遠山の様子に全てを諦めたようだ。マダム・ハロトと一言二言話した後、銀のお盆に遠山の注文した食材を用意してくれた。
さすラズ。
「ほいほい、ほいっと」
慣れた手つきで遠山が酒をこしらえる。
グレープフルーツに似た果実を切り分け、果汁で飲口を濡らす。
濡れた淵に塩を塗して、ゆっくりと蒸留酒を注ぐ。コップの6分の1ほどの蒸留酒、そして上から跳ねないように果汁のジュースを入れて、完成だ。
「あら、どうして、なかなか……」
その手つきを見ていたマダムハロトがつぶやいた。彼女も知らない不思議な酒の割り方。
少なくとも、コップにまぶされた塩や、蒸留酒と果汁を混ぜるその飲み方は帝国には存在しない。
カクテル、現代においてそう呼ばれる酒は、この世界には宗教的な理由からまだ認知されていない方法で。
「ソルティ・ドッグです。スノースタイルの塩の舌触りと、なんかいい感じのフルーツのさわやかな香りをお楽しみください」
「すぷ。トオヤマくんが、ボクのために作ってくれたお酒……」
うっとりとした顔で、人知竜がストローグラスを受け取る。すっと、男から渡されたグラスを傾ける人知竜のその姿はホストクラブに通い詰める地雷系美人そのまんまだ。
「な、老竜、貴様……」
「すぷぷ。なんだい? 幼竜、ああ、美味しいなあ。舌を触る塩辛さはしかし、フルーツの甘酸っぱさとウィカ酒の香りと混ざり合い心地よい。んん…… 竜殺しから渡される酒のなんと芳醇なことだろうかねえい」
一瞬で機嫌を良くしたらしい人知竜に向けて、ドラ子がわなわなと身体を震わせる。
彼女はどうやらまだ事態を飲み込めていないようだ。
「い、いや、これ、これは、これは明らかにおかしいのだ! な、ナルヒトはこんな感じの奴ではないだろう? 吹っ切れるにしても前の時はもっと真面目な感じでーー」
「アリスお嬢様、いかがなされましたか? ……こういう俺は嫌いですか?」
喚くドラ子に、遠山がすっと身体を寄せる。びくり、ドラ子がソファに預けていた身体を浮かせた。
「ギャ、ゥ…… や、やめよ、ナルヒト、そんな目でオレを見るな……」
ドラ子が顔をそらす、そらしたかと思えばちらりと遠山、いや、NALの顔を見てまた、目を逸らす。
その頬はゆっくり、赤くなっていく。怒り、戸惑い、それとも。
ピコン
【竜殺し(意味深) 発動】
流れるメッセージ。しかし、遠山はそれを見ていない。
ただ、自分の伝えなければいけないことをまっすぐ、友人に届ける。
「アリスお嬢様、いや、アリス、聞いてくれ。さっきは本当に悪かった。オレ、実はバカだからさ、そういうのわからないんだ」
「な、なにを」
NALとして、遠山鳴人の言葉を伝える。
「お前がなんで怒ったのか、泣いたのか、本当にわからないんだ。でも、嫌だ。友達が泣くのが、嫌われるのは嫌だ。だから、アリス。教えてくれよ。何でお前はそんなに怒ったんだ?」
遠山は嫌だった。パン屋の評判ももちろん理由だが、それよりもドラ子を泣かせたままなのが嫌だった。
「は、は、は? お、怒って、なぞ、いや、そもそも、貴様、なん、なんなのだ!? 冷たいかと思えばふざけて、ふざけたと思えば真面目にな、なりおって、オレは、オレは、……なんで、怒って……」
膝をついたまま、遠山はドラ子を見つめる。
互いに無意識、しかしゆっくりとドラ子の手、遠山の手、ソファに置かれた2人の手がゆっくり互いを探すように、近くーー
「ねええい、NALくうううん、すぷぷ、寂しいなあ。ボクのお酒を作ってくれるはずなのに、幼竜にかまいすぎじゃあないかい?」
ぎゅっと、首に感じる暖かさ。そして背中に感じる2つの膨らみ、柔らかさ。
人知竜が、遠山鳴人の背中に抱きついた。やばい、すごくいい香りがする。
それは、上座の生物の魅力。人より優れた遺伝子は呪いにも似た魅了と変わる。人知竜にその気はなくとも、人は皆彼女に魅せられる。
人の枠を超えた古い魔術師達とて抗えうことの出来ないそれが遠山に向けられて。
ピコン
メッセージが、遠山の視界に流れる。
【上位生物(竜) による"魅了"による影響、精神対抗ロール開始、対抗技能"頭ハッピーセット"により魅了を判定なしで対抗成功、やるじゃん。竜の色に惑わされて鼻の下伸ばすのとか、見たくないし】
だが、ホストには効かない。
ピンチになったからホストになろうと判断するような人間に色も魅了もへったくれもなかった。
ホストはコマされるのではない、コマすのだ。
「おっと、アイお嬢様。これは大変失礼を。貴女の髪、本当に美しい。月の光をまぶしてるかのようだ」
遠山が反転、背中に抱きつく人知竜にあえて体重を預けて彼女と至近距離で向き合って。
「……! すぷぷ。ああ、キミはやはりいいなあ。キミの言葉はとても心地よいよ、トオヤマナルヒトくん。でも、その月の光が偽物だと知ったらキミはどう思うかな」
人知竜が、ぱあっと顔を輝かせ、しかし次には妖しく微笑む。月蝕の如き笑顔にもしかし、NALは怯まない。
完全にここはもうホストクラブ、レイン・インだ。
「俺が美しいと、俺が綺麗だと感じたんだ。そこに偽物も本物もない。何度でも言う、本当に綺麗だ」
便所掃除ナンバーワンホスト、NALが竜をコマす。
「すぷ。推しの口が上手い。すぷぷぷ、聞いた? ねえ、蒐集の竜、聞いたかあい?」
嬉しくてたまらない、そんなふうにほおを緩めた銀髪美女が、遠山の向こう側のドラ子に鼻息をむふーっと向けて。
「…………ナルヒトは、NALだった……?」
だが、ドラ子は混乱している。
ホストに対応できてない、ホストは竜すら惑わすのだ。
「ああ、こりゃだめだねえい。シンプルドラゴンめ、あれだけ機嫌悪かったのにもう、飲まれちゃってまあ」
すぷぷと人知竜が笑う。微笑ましいものを見るように、幼き竜に目を細めて。
「アイお嬢様」
「う、うん? な、なんだい、トオヤマくん。その、すぷぷ、そんな見つめられると嬉しいんだけど、少しボクでも照れるんだけど」
人知竜が僅かに、身を引いた。しかし、NALはその距離を詰める。
彼女にも、きちんと伝えなければいけない言葉がある。その涙を遠山は見ていたから。
「言うのが遅くなって申し訳ございません。あの時、助けてくれてありがとうございました。貴女も俺に関係ないことなんてない。俺の言葉が間違っていました」
そう、シンプルな答えだ。人知竜には救われている。教会騎士とのトラブルは彼女の介入なしには全く違う方向に終わったかもしれないのだ。
恩知らずほど、この世で醜いものはない。遠山はそれにはなりたくなかった。
「あ、ははは。嘘、じゃない。ああ、嘘じゃないねえい。キミが、ボクを見てくれている。……うん、トオヤマナルヒトくん。いいよ、何度だって、いつだって、ボクはキミを助けるから。お安いご用さ」
流れる月灯りのような銀の髪。それを何度も何度も手で梳きながら人知竜が俯いてつぶやいた。
「……貴女が何を言っているのか、やはりよく分かりません。それでも」
この竜の言葉は不思議だ。何を言ってるのかよくわからないのがほとんどだ。
だが、それでも遠山はこの言葉を言わないといけない。
「ありがとうアイお嬢様、それと今の俺はNAL、です」
ぱちり、ホストウィンク、悲しいことに竜のみしか効かないであろうそれをNALがかます。
「しゃぷ」
しゃっくりのような小さな悲鳴を人知竜が。
「も、もっかい、もっかい名前呼んでくれない? あ、ああ、今度はもっと、剣呑な感じ。こう、なんて言うんだろ、愛憎まみれて殺さないといけないけど愛した相手を呼ぶ感じで、呼んでくれない? あ、ああ、ホスト、ホストだもんね、お酒? お酒頼んだらいいの? 高いの頼むから、1番高いの頼むからさあ」
次の瞬間には鼻息を荒くして、すごい早口の彼女が興奮した様子で詰め寄ってきた。
人知竜はホスト遊びには向かない竜だった。
「……ずいぶん愛想を振る舞うではないか。ナル「NAL」……NALとやら。竜にそのような戯れ事が通じるとでも?」
冷静さを取り戻したらしいドラ子の声に、NALがまたもや反転構成。出来るホストにとって同時攻略など当たり前の戦略なのだ。
「……アリスお嬢様」
「む、ぐふう。……なんだ」
竜殺し(意味深)が満遍なく、竜達に刺さる。冷淡ない言葉と裏腹に、ドラ子からのプレッシャーはどんどん穏やかなものに変わってゆく。
「竜に通じなくても、貴女に届けばいい。どれだけ言葉を尽くしても足りんないのなら態度と振る舞いで。アリスお嬢様、先ほどの答え、俺はまだ聞けていませんよ」
「だ、だから、近い! 近いのだ! 今の貴様はやはりおかしいぞ!」
「教えてほしいんだ、アリス、友達だろ」
上回っている。
遠山鳴人はいま、2人の竜を前に完全に上回っている。
観客の誰しも、百戦錬磨の夜の住人たるキャスト達も皆、その立ち回りに唖然としていた。
彼らの想いは一つ。
(ラザール・ベーカリーホストクラブってなに?)
だが、誰しもが竜をコマすホストに畏敬を抱きつつあったのだ。
「ギャ……ゥ。う、…… ってこい……」
そして、ドラ子に限界が訪れる。100年生きた幼竜にもしかし、ホストはまだ早かった。
「うん?」
「酒だ! 酒を持ってこい! いや、オレだけではない! ここにおる全てのこの街の人に酒を振る舞え! 皆の者、歓喜にむせべ、このオレ、蒐集竜が貴様らに酒を奢ろうぞ!」
ドラ子が選んだ道は単純、もうシラフではホストと化した遠山とまともに話せなくなっていた。
竜はみんな、ホストクラブの遊び方が下手だった。
「ハイ! アリスお嬢様から注文入りましたァ! LAZ!! ST!! お客様のお言葉通り、会場の皆様へお酒の用意をお願いシャスシャスのシャース!」
ノリノリのNAL、ダンジョン酔いと場酔いと覚悟を決めた男にもはや退路も、理性もなかった。羞恥心すら。
「……LAZ、あれ、どうすんディス」
「ST、慣れるしかないさ。アイツは追い詰められるとあんな感じになる、頭が痛いな」
「……その割には楽しそうな顔ディスね。牙が見えてますディス」
「君もな。口角が上がってるぞ」
ヘルプのホスト2人、いつのまにかタキシードに着替えている2人もなかなかにノリが良い。
騒ぐナンバーワンホスト、NALに向けてそれぞれ互いだけの思いを込めた笑みを浮かべている。
「ふん、アレに負けたのがアホらしいだけディスよ。さて、マダム。うちの、……ボスが言うには竜の奢りらしいディスが。どうしますディスか?」
ストルがため息混じりに、この店の主人に声をかける。
「……困りましたわ。まさか、こんなことになるとは。ラザール様、ストル様、あなた達のご友人はとんでもないお方ですね、レイン・インが乗っ取られてしまいましたわ」
NALに店を奪われた夜の女帝はしかし、どこか愉快そうにため息をついて。
「姉さん……」
「ハイネ、全キャストに伝えなさい。メインホールに全員集合、いと尊き竜がこの店で酒盛りを始めてくださるわ。竜のお言葉、竜の望み通り、酒樽を空にする勢いでお配りなさいな」
「……はい!」
キャスト達が、その号令のもと一気に動く。
会場に集まる人々に、レイン・イン秘蔵の銘酒、美酒が振る舞われる。
それは、紛れもなく竜の奢り、振る舞い酒。
建国伝説と同じ光景が、ホストによってもたらされたのだ。
「よい! くるしゅうない、遍く広がるヒトよ! 今宵は竜の奢りぞ!飲めぬなどと言うものはおるまいな!」
竜は騒ぐのが好き、お酒も好きで、お祭りも好きだ。
ドラ子も寸分違わず、竜である。
「り、竜の奢り?!……」
「帝国の建国伝説と同じじゃないの……」
「レイン・イン、来てよかった……」
「あの男、何者だ……」
「ドロモラ商会と懇意にしてる冒険者だとか」
「あの銀髪の女、人知竜……? 全知竜という魔術師の護り竜の話は聞いたことがあるぞ」
「じ、人知竜さま…… なん、で、そんな人間種の男なんかに…… ね、寝取られた……」
「竜の奢り! 竜から振舞われた酒だ! 伝説の建国当代の貴族の連中や初代皇帝と同じだぞ!」
「蒐集竜様に感謝を! 貴女の金色の光が帝国を照らさんことを!」
「全知の竜に、叡智の願いを! 貴女の探究が我らと永遠に共にありますように!」
「「「「「竜万歳! 竜万歳! 竜万歳! 我らが偉大なり、尊き竜! 世界の柱にして、護り竜!」」」」」
「ホストもいいぞー!! もっと頑張れ!」
「あわわわ、人知竜様が、雌の顔に…… かわよ……」
一気に湧くホール。
熱狂、帝国民にとって特別な存在たる竜からの施しなど貴族や皇帝一族であってもそうそう与えられるものではない。
ホールに集まって、竜と竜殺しの痴話喧嘩を見せつけられていた人々は今、歓喜と熱狂の渦に包まれていた。
「蒐集竜さま、よろしければこちらを。王国の樹海の深奥、千年樹のウロで発酵された"樹酒"にございます。当店で最も価値ある酒にて」
熱がその場を上げていく。
人の熱狂に酔いそうなその空間に、一際強い酒精の香りが広がった。
マダム・ハロトとキャストが押し車で竜に差し出すのは、奇妙な酒樽だった。
それは普通の酒樽ではない。歪にねじ曲がり、欠けている。
木だ。
切り株をそのまま樽に流用した、知る人ぞ知る秘密の酒。"副葬品"と希少性を同じくする王国産の秘酒。
木のウロに溜まるのは、金色の酒。
ドラ子が、目を輝かせた。ぺろり、赤く長い舌が唇を舐める。
その瞳は、縦に裂けて瞳孔が開いていた。
「ほう、女。なかなかに良い趣味だ。良い色だ、美しい琥珀の色がオレ達、竜よりも古い歴史を感じさせるではないか、くるしゅうない、請求は竜大使館へ送れ」
「はは……」
街単位の予算、冒険都市並みの巨大都市ならば払えるだろうその金額の酒。
マダムハロトが、ドラ子に角で出来た酒杯を差し出す。
満足そうにそれを受け取ったドラ子が、角杯木のウロに突っ込み、酒を掬い取って。
「む、良いな。強い酒精、火を吹きたくなるほどの辛口であるが舌に転がしていくうちに温かな甘さが生まれる。良い酒だ」
ごくり、ごくり、ごくり。角笛みたいな杯をドラ子が何度も煽っていく。
酒樽に並々注がれているはずの琥珀色の酒はみるみる間に少なくなっていた。
「あ、アリスお嬢様、その、そんなに飲んで大丈夫ですか?」
「〜んーむ、うるひゃい、貴様のペースに乗せられんためには、オレも酔わねばやってられぬ。ニャルヒト、きしゃま、まだオレはきさまときちんと話さねばならぬのだ」
「人知竜様も宜しければ……」
「すぷぷ、ああ、ありがとう。後で頂くからそこに置いてくれ。竜ですら酔わせる"樹酒"、マダム、なかなかに恐ろしいねえ、世界に少ない"漂竜物"の名を冠する品の1つじゃあないかい。……どこから仕入れたのかなあ?」
人知竜はその酒を口にはしなかった。目を細めて、静かに、しかし有無を言わさぬ威圧をもって、ヒトに問う。
「ええ、あるお方と親交がございまして。特別に手に入れることが出来ました」
果たして、マダムハロトのその冷静さはどこから来るのか。
「へえ……」
人知竜はそれ以上の追求を止めた。
「うまい、もういっぱい! にゃる! ふ、ふかか! ニャルヒトが近くにいてももうおかしくならんぞ! よい、許す、もちっとちこうよれ!」
すっかりご陽気ドラゴンと化したドラ子が、遠山に迫る。
顔は耳まで真っ赤だ。
「OH.お嬢様、いけないな。あまり飲み過ぎはお体に触る……」
「オレの言が聞けぬのか、生意気で、ああ、ほんとに面白き生き物よ。じゃあ、オレが近寄ろう」
NALのホストムーブもしかし、酔っ払いの竜には効かない。ぎゅーと、竜の力で身を寄せられるNAL。ものすごい力強かった。
「あれ、やべ。ホストがきかねー、LAZ! どうしたらいい?! LAZ! ヘルプ!!」
「NAL、お前がナンバーワンだ」
「お前、助ける気ねえな!」
LAZがNALをあしらう。助けは期待しない方が良さそうだ。
「ナル、ニャル、オレ、オレの話を聞け、なんで、貴様はオレにそんな意地悪なのだ」
ふっと、ドラ子の勢いがしゅんとしぼんだ。
それから、ぽたり、かちり。
また、涙。ドラ子の蒼い瞳に珠のような涙が浮かんでいて。
「待って待って、ドラ子、お前泣き上戸なの? あ、やべ。素に戻っちった。あー、えー、アリスお嬢様、貴方の話ならいくらでも」
ホストもそろそろ時間が近い。ラザール・ベーカリーホストクラブは1部営業のみなのだ。
「う、ううう、わからぬ、わからぬわからぬ。ナル、貴様はオレの友人だ。友人とは理解し合うものだと本に書いてある、でも、オレには貴様がわからぬ、それがとても苦しいけど、理由もわからぬ、オレは……」
目に涙を溜めながらつぶやくドラ子。力なく、その顔を遠山の肩に預けた。遠山も、それを拒むことはない。
「……貴様は、今はナルヒトではないんだな」
ふと、アリスが小さく。喧騒の中、遠山だけにしか聞こえぬ声量でつぶやいた。
「NAL、とお呼び下さい。アリスお嬢様」
ホストも正念場、NALが頷きながら言葉を返す。
「ふん、バカめ。……では、NAL、オレには友人がいる。オレの退屈を殺してくれた大切な友人だ。だがな、其奴は意地が悪いのだ。其奴はよくわからぬ奴なのだ。其奴はたまにとても腹が立つのだ。でも、どうしてかな。気になって仕方がない」
ぽつり、アリスが語るのは友の話。彼女にとっての初めての対等な友人で、彼女を殺したある男の話だ。
「其奴をずっと見ていたい、近くにいるようで、とても遠い場所にいる其奴を理解したい。それだけのはずなのに、なんでかな。……奴がオレに興味がなさそうなのが、とても、辛い……」
「ゆっくりで結構です、続けて」
「……オレはどんどんおかしくなっていく。でもそれが悪くないと思う自分もいる。……其奴に聞かれたのだ、何で怒るのか、悲しむのかって。……オレには、わからない。この気持ちがなんなのか、オレは奴にどうしてほしいのか。わからないから、答えられないのだ」
竜は、冒され、変わり始めている。決して完成せぬ自我はしかし、進み続ける。その身に灯る欲望を目指して。
その有様は、竜をすらーー
「アリスお嬢様、大丈夫です。その友人も貴女と同じですから」
「む?」
「そいつも多分何も分かっていません。同じですよ。ただ1つ確かなのはそいつもきっと、貴方には嫌われたくない。……友達少ないですから」
NALが小さく、誰かのことをつぶやいた。
「く、か。ふ、かか。……なんだそれは。ふん、バカめ…… いや、オレも同じか」
「ええ、同じですよ、きっと」
2人が身を寄せ合いながら、酒宴の中2人だけの会話を交わす。
これは、ある竜と、その竜殺しの一夜の会話、ただの戯言に過ぎないのかもしれない。
「む、オレが馬鹿と言うのか。ふん、まあ良い。今は、酔ってるから許す」
「アリスお嬢様、改めて今度、遠山鳴人がきちんと約束を果たします。どうか、それをお待ち頂ければ」
「……ああ、分かった」
だけど、2人にはきっとそれが必要だった。
友達の少ないもの同士、ただゆっくり言葉を交換した。
「すぷぷ。お子ちゃまだねえい、蒐集の竜よ、少しは成長したかと思えばやはりキミはまだまだ子供だ」
その世界に気にせず割り入るものがいる。竜と竜殺しの空間に入れるのなんて、竜しかいないだろう。
「貴様、大人しく酒でも飲んで寝ていろよ」
ドラ子がムッとしながら、ぼやく。竜以外の存在ならば震え上がるその威圧も、古い竜にはなんのその。
「そう邪険にするなよ。ねえい、NALくん、ボクはね、そこの竜とは違うよ」
ぎゅっと、人知竜が遠山に身体を寄せる。華奢なのに、妙に肉感的で柔らかな感覚が遠山の頭をパチパチさせた。
「おっ、と」
「ああ、その目、何も変わらない、自分の夢しか見ていない、自分のたどり着く場所にしか向いていないその目。……とても、素敵だ」
うっとり、人知竜がその男の顔を、目を見つめる。
夜の闇よりも深い色の瞳を遠山もまた見つめる。何故だろうか、とても綺麗だと思ってしまった。
「あ、アイお嬢様、どうしたんですか。困るな、貴方に見つめられると俺のライオンハートがトウギャザーしてしまいそうです」
色香に負けないために、なんとかホストを保つ。
「LAZ、NALもそろそろ限界に見えるのディスが」
「ST、そっとしておこう、俺たちがアレに関わるべきではない」
その様子を眺める竜殺しの愉快な仲間たちは目線を外すことを選んでいて。
「すぷぷ。完成せぬ自我はしかし、周りをどんどん侵していく。キミの在り方は多くの人を魅せていく。キミの欲望は多くの人の願いの呼び水となっていく。いいじゃないか、歪に完成した人よりもキミのような決して完成しないものの方がボクの好みだ」
「なにを」
「ボクは、幼竜とは違う、ボクはボクの心を知っている、この感情の名前を知っているんだ」
「トオヤマナルヒト、貴方を愛している」
「………あ、え?」
「ずっと、ずっと、ずーっと前。ボクも知らぬ、キミも知らぬ、誰も知らない物語の中でキミとボクは出逢い、時を過ごした。ああ、いいんだ、キミが何も知らなくても、ボクが知っている必要さえない。あるのは記憶、温かな記憶。ボクであり、ボクではないある竜の思い出。ああ、でもね、このボクがキミに惹かれる理由はそれだけで十分だ。キミのためならあらゆる悪虐をなそう。ヒトの営み、当たり前の明日、笑い合う自由、心待ちにする未来、そういうのも全て踏み躙ろう。ああ、これこそ愛なんだ。ボクはね、キミが大好きなんだよ」
「お前、なんで」
「キミが全知の竜を人知の竜に変えたんだ。すぷぷ、その責任は取ってもらうからねえい……」
「好きだよ、トオヤマくん」
「……あ」
ーー敵だよ、貴方を好きと囁く女。
ーー貴方は決して靡かない、貴方は決して満足しない。だって、貴方は私と同じ。必ず1人で辿り着く
ある女に施された機能が、発動する。その女の願望はただ一つ。
己の理想、己の解釈通りの遠山鳴人の維持。
狂った女の妄執は、遠山をたとえ世界を隔てたとしても離さない。
遠山鳴人は、己へ向けられるあからさまな好意を受け取ることが出来ない。
「て、き」
目の前の恩人、恩竜に対して自分の中のどこから湧き出るかも分からない嫌悪感が滲み出ーー
「敵じゃないよ」
人知竜の声は、穏やか。
ゆったりとした風でさざめく湖の岸辺、そんな声。
「ああ、キミの中には色々なモノが入っているんだね。血生臭い知識の眷属、胡散臭い異境の化け物達、そして、本当に女臭い妄執」
そんな声と裏腹に、がしりとその華奢な身体からは想像出来ない強い力。
人知竜が遠山のほおを両手で挟み込み、がっちりとホールドする。
「これは宣戦布告だ」
遠山と人知竜の顔の距離は近い。その闇色の瞳、底知らぬ仄暗い水底、その最奥に溜まる泥よりも暗く、見えぬ瞳の色。
「キミを捉える妄執など知ったことかよ。覚悟しておけよ、くそアマ。このボク、人知竜の男に余計なことしやがって。どんな場所にいても必ず追い詰めて、滅ぼしてやるからな」
その言葉は遠山に向けられたものではない。遠山を通して、ここではない別の場所で生きる狂った女へ向けられた呪詛の言葉。
大いなる存在、世界の柱、古い竜からの言葉。
多くの人は知らない物語、ここではない世界、今ではない時間。
人知竜の悪行、ある島への攻撃の苛烈の理由ーー
これが全てではないにしろ、きっと、大きな要因の一つだろうか。
「アンタ、何を、言って」
「教えない、重い女だと思われたくはないからねえい」
今更感がものすごいことをさらりと、人知竜がつぶやく。いたずらげに微笑むその顔は、少女のようでもあり。
「おい、老竜、きしゃま、オレの友に、近いのだ。はようそのきしゃない手をはにゃせ………」
竜すら酔わす古い樹に宿る酒精。それに酔って、ふにゃふにゃになりつつあるドラ子がふらりと立ち上がる。
「おっと、静かにしてると思ったらまんまと樹酒をたらふく飲んでるねえい…… NALくん? 申し訳ないけど、そろそろお暇させてもらおうかな。……まあ、今回はボク達の早とちりだったみたいだし、キミの心からの言葉も聞けたしねえい」
「いーやだ、まだ、オレは帰らぬぞ。酒だ、さけを、もっへえ、こい。この、オレ、しゅーしゅーりゅーのごんなるぞ!」
「恐ろしい酒だねえい…… 幼竜をここまで酔わすとは
さ。NALくん、彼女に言い聞かせてくれないかい? お客様をきちんと家に帰すのも、ホストの仕事だろう?」
「………ええ。LAZ! 1番テーブルのお客様お帰りになられまーす! お見送りの準備をシャシャース!!」
「むー、やだ。まだ帰らん。どうしても帰らせたいなら、ニャル、貴様もこい、一緒に帰るぞ」
「まだ営業中なので無理でーす! ……ドラ子、今日はありがとう。……また遊ぼう。今度は俺が誘うからよ」
「…………やくそくだぞ。やぶったら、こんどこそゆるさん」
「ああ、分かってる。竜とヒトとかじゃなくて、俺とお前の約束だ」
遠山がドラ子をまっすぐみつめる。今度は誤魔化しもなにもない。ただ、言葉だけがそこに。
「分かった…… 帰る……」
「あれれ、NALくん、ボクには何かないのお? なーんか幼竜にだけ優しくないかい?」
「あー、アイ。正直やっぱアンタが何言ってるのかほとんどわからないんだけど、でも、アンタ良い奴だな」
「すぷ?」
「いや、なんのかんのドラ子の面倒見てくれてるし。言ってることはマジでわかんねえんだけど」
「……キミの前だけさ、ボクが良いことをするのはね。おや、トオヤマくん。おでこに虫が留まってるよ」
「え?」
柔らかなせっけんのかおり。
遠山が竜の言葉に釣られて自然と顎を上げるような体勢に。瞬間、その香りに包まれた。
チ。
首元に、温かく、柔らかく、そして濡れたような感触。
人知竜が、遠山の首、喉にに口付けを。
「え」
「あ、あー! あー! この、老竜、貴様!! 貴様貴様貴様貴様!!」
ドラ子がわめく、金色の焔が彼女の身体にまとわりついて。
「すぷぷ、じゃあね、ナルヒトくん。たのしい夜だったよ。……今度は2人きりで、会いたいな」
しかし、ぱちん。人知竜が薄く笑い指を鳴らすそれだけで、2人の美竜は夢のごとくその場から去っていった。
「……消えた」
ラザールが、ほっと息をつく。
「アレが、竜。自由すぎませんディスか?」
言葉の割にケロっと、そして途中から少し不機嫌気味だってストルがぼやいた。
「ああ、我らがボスと同じくらい、傍若無人で厄介な方々さ」
ラザールの言葉に、ストルが鼻を鳴らして答えた。
何故ストルが不機嫌なのか、ラザールはもうあまり考えないようにして、この場を乗り切ったアホに声をかける。
「ナルヒト、なんとかなったな。さて、この惨状をどうするべきか…… ナルヒト?」
ぼんわり立ち尽くす遠山に向けて、ラザールが声を何度かかけて。
そして、しばらくして遠山がぼんやりした顔で、答えた。
「や、やべえ。顔のいい女にキスされた…… ラザール、俺、もしかして今モテてたのか?」
間抜けな言葉、酒宴はさらに盛り上がり、レイン・インの夜は続く。
「……ああ、モテモテさ。羨ましいことだよ、ほんとに」
ラザールは、モテモテ大作戦を完遂した友人の肩を優しく叩いた。
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<苦しいです、評価してください> デモンズ感




