49話 はじまれ! とおやまのゆめ!
「知識の眷属?」
目の前でそう名乗る女を見て、遠山は奇妙な既視感を覚えていた。
どこかで、見たことのあるようなーー
「はい、この度あるご縁により、あなたの心の中に私の公文書館を建てさせて頂きました。立地は最悪、隣人は極悪の不良土地ですが、まあ、背に腹は、といったところですか」
「……要領は得ないが、嫌味言ってるのはわかるぞ」
しかし、その既視感はすぐに霧散して消える。
「あら、これは失礼。ですが私、こう見えてあなたのことは高く評価しているつもりですよ」
「夢に出てくるやつに何言われても嬉しくねえよ」
小さな顔に、人形のように整ったパーツ。羽飾りのついた帽子から覗く灰色の髪を耳にかけながら女が笑う。
「まあ、これは手厳しい。夢の住人とはいえ私も意思ある存在、かなしゅうございますね」
「意思ある存在……?」
「おっと、近頃流行りの難聴系主人公ではありませんでしたか。言葉には気をつけないといけませんね」
「……きなくせえ、なんかこの感じ覚えがあるぞ」
怪しさ満点だ。このこちらの神経を逆撫でしつつ、あちらだけ全てを知っている嫌な感じ。
「あら、それはもしかして」
眼鏡の奥の灰の瞳が、心底愉快とばかりに歪んで。
ピコン
【こういう感じでございますか?】
メッセージが流れる、目の前の女の口の動きに合わせて。
「てめえ」
コイツなのか、あのタチの悪いメッセージを流し続けていたやつは。
遠山は目の前の人物への警戒を一気に最大限にまであげた。
「ふふふ、まあ、怖い顔。今にも殺されてしまいそうですね、私」
慇懃無礼な口調はそのまま、目の前の女の余裕の現れだろう。
「余裕綽々のツラでうるせえよ、あのメッセージはお前か」
「うーん、その辺は少し話がややこしくなってまして、一部はYES、一部はNO、とお答えしましょうか」
くしゃりと苦笑しつつ、ふと、目の前の女がいつのまにか現れていた椅子に腰掛ける。
奇妙なデザインの椅子だ。角張っているところが一切ない。せもたれ、足に至るまで全て丸っこくて。
「……単なる夢、じゃなさそうだな」
遠山の隣にも同じ椅子が現れる、促されるまま遠山もその丸っこい椅子に腰掛ける。
もう一度あたりを確認すると、本棚や、暖炉、全ての調度品に至るまで丸いデザインをしていた。
「ふふ、それはあなたの判断にお任せします。まあ、出来ることならば私としてはあなたが油断し、この会話をただの夢だと軽視してくれる方が楽ではありますが」
「……その夢の住人が俺になんの用だ。あのメッセージのこととか色々教えてくれる訳か?」
思考を切り替える。夢という割には様子がおかしい。何かまた自分の常識の外にいる存在にちょっかいをかけられている、遠山は認識を改めた。
「まあ、そう答えを急がずに。久しぶりのお客人なのです、どうですか、一杯」
「……貰う」
椅子の次はティーテーブルに、今淹れたばかりかと思う湯気の立つ紅茶が現れる。
これも全て丸いデザインで。
遠山はティーカップを手に取り、そのままそれをゆっくり口に含む。
芳醇な茶葉の香り。まろやかさと僅かな酸味が心地よい。
適温の紅茶は舌に乗せた瞬間に香りを鼻の奥まで届ける、温度管理から入れ方まで全て完璧なものだ。
その味覚や温感は現実となんら変わらない。
「おや、少し意外です。あなたは警戒するかと思いましたが」
遠山が飲み物に口をつける様子をメガネの奥から覗いていた彼女が意外そうな声を上げた。
「……知識の眷属とか言ったな、聞き覚えがあるぞ、その名前」
それを無視して遠山は話を進め始める。会話の中で何か情報を掴む必要がある、そして知識の眷属という言葉はこの世界に来てから何度か目にしたり、耳にしたりしていた。
「ああ、今日の午前中、冒険者ギルドで私の水晶を使った話ですか? あれは申し訳ありません、この世界の存在ではない貴方を認識するのは中々難しくてですね」
「その辺も理解してる訳か。ますます怪しいな…… ん?」
自分の行動を監視されていたのか。遠山はそこでふと、また、女に既視感を感じる。
「おや、どうかしましたか? お口に合わない?」
知識の眷属と名乗った灰色の髪の女が首を傾げて。
「いや、紅茶は激うまだ。……アンタ、昔どっかで会ったことあるか? なんか、見覚えがあるような」
既視感は、その女の服装だ。どこかで、見たことのある服装、制服のような。
「……さあ、どうですかね」
薄く笑う女はそれ以上そのことについて喋る気は無さそうだ。遠山は小さく息を吐く。
「あー、まあいいや、もう考えるのめんどくせえ。単刀直入に聞くぞ、俺になんの用だ」
「はは、話が早いのは探索者の美徳ですね。ええ、あなたに良い話をご用意したのです。ちょうど条件も整いましたしね」
「良い話?」
怪しい話に決まってる、遠山が当たり前のように身構える。
「ええ、あなたそろそろ知りたくありませんか? 今の自分の状況を」
「お前……」
遠山の目が細くなる。コイツは何かを知っている。
「おっと、私は何もあなたと争う気はありません、そうですね、お近づきの印に、あなただけに見えるこのメッセージについて、私の知ることを代価なしでお教えします。ふふ、それが命乞いの証となりませんか?」
剣呑な遠山の雰囲気を感じ取ったのだろう。両手を挙げて降参のポーズをとりながら女が笑った。命乞いと言いつつ、その姿からは何の怯えも見えない。
「……言ってみろ」
「メッセージ、いえ、秘蹟、"クエスト・マーカー"恐ろしき力ですね。もともとあらゆる人に定められている運命、使命、宿命。それらの知らせをあなただけは可視化出来るわけですが……」
「定められた?」
女の言葉に遠山が口を挟んだ。
「ええ、そうです。人は皆生まれた瞬間に運命を定められています。その人生でどこに行き着くか。何をすべき人間なのかを。あなたのそのクエスト・マーカーは己の運命を可視化し、その使命を果たす手助けになるもの」
紅茶を口に含みながら女が話し続ける。
その言葉が本当なら、あの時ラザールを見捨てることが本来のーー
「あの矢印とメッセージロクなこと指示して来なかったんだけど」
だが、遠山はそれをぶん投げた。
あの時だけでなく割とかなりの回数、気に入らないメッセージに逆らい、矢印をギタギタにしてきたわけだが。
「……ええ、あなたはなぜかそれを放棄した。あなたは辿るべき使命を放り投げ、握り潰し、それに唾を吐くことで運命の螺旋から抜け出した存在になりました。……ほんと、ありえないっしょ」
「あ。なんか言った?」
女の最後の言葉が妙に、刺々しいものだったような。
「いえ、別に。要は貴方は今、真の意味で自由な存在というわけです。本来生まれ持って与えられた使命を放棄し、何者にも縛られぬ、しかし、何者にも守られぬ道を歩んでいる」
女は口調を取り繕い、言葉を続ける。
丸い暖炉に置いてある薪がごとりと崩れた。
「あなたはこの世界の誰もたどり着けない場所に辿り着くかも知れない、あなたはこの世界の決まった行く末すら変えてしまうかもしれない、しかし同時に、いつ死んでもおかしくない。運命をぶん投げたその瞬間から、あなたは荒野に投げ出されたのです。誰にも守られぬ理不尽な死と隣り合わせの世界に」
「その言い方だと他の連中は違うみたいだな」
遠山は言葉を咀嚼し、考える。決められた運命、メインクエスト。
帰還、と題されたあのメッセージのことを。
「ええ、運命に縛られた人間はしかし同時に運命によって護られています。死すべきその時が来ない限り、絶対に死ぬことはない。あなたにその加護はない」
「じゃあ逆に言えば俺は死すべき時にすら死なない可能性があるわけだ」
軽く笑いながら遠山は言葉を返す。思考を回しつつ、女の言葉は聞き逃さない。
「ええ、詭弁ですがその通りです。それは果てしなく困難でしょうけど」
ティーカップを傾ける女、ふうと小さなため息は果たして誰に対してのものなのだろうか。
「で、そのクエストマーカーとやらを俺に与えたのはお前ってわけだ。なんのためにそんなもん俺に寄越した?」
あのメッセージに干渉した女、つまり、自分の運命とやらを握っている存在に遠山は問いかける。
鋭い視線が、女を捉えて。
「……いつ。私がその力を与えたと言いましたか?」
ぼそり、女の呟きに遠山の視線が少し緩んだ。
「あ? だってそんなに詳しいんなら」
「私ではありません、その力をあなたに与えた存在は別にいますよ」
女がため息混じりの声でつぶやく。
「……ややこしい話を夢で聞くのはなんか頭おかしくなりそうで面倒なんだけど」
こんがらがり始めた会話に遠山はうへえと舌を出しながらぼやく。
「それでも聞くのをお勧めします。あなたはただでさえ死にやすい。不確定事項や不明なことは少しでも潰しておきたいのでは?」
「嫌な言い方するな、あんた」
「ふふ、性分でございますれば。……あなたにその力を与えたのは我らではない」
わずかな軽口の後訪れた、短い沈黙。
そういえばここの建物には窓がない。遠山はふとそんな関係ないことが気になってーー
「あなたに秘蹟を与えたのは"天使"です」
「あー……、なんか最近聞いた名前だな」
意外かどうか微妙な感じの存在の名前を女がつぶやいた。
「はい、この世界のどこかに存在すると言われているナニカ。誰もその正体を知らぬはずなのに、確実に世界に影響を及ぼしている我ら眷属を侍らせし者」
教会で聞いた主教の言葉を思い出す。誰も何もわからないナニカ、この世界のどこかに存在して蠢くように影響を与えているナニカ。
そんな訳の分からない存在が、自分にあのメッセージを与えた存在だと女は宣う。
「そいつは何者なんだ?」
知識の眷属と名乗るくらいなのだ。ならば、この女が天使とやらのことを知っているに違いない、遠山は当たり前の疑問を彼女にぶつけて。
「まったくわかりません」
「え」
帰ってきた答えは拍子抜けするものだった。
「何もわからないのです。我ら眷属の誰1人としてその正体を知る者はいません」
「いや、お前、それはおかしくないか?」
「ええ、その通り。我々眷属は確かに天使に従属する力そのもの。本来であれば自らを創り出した者なのですから認知していて当然なのですが、"天使"、この呼称ですら、誰が呼び始めたかもわからないのです」
「キッショ」
思わずつぶやく。
なんだそれ。言いようのない不安と、嫌悪感にも似た困惑に遠山は顔を歪めた。
「ええ、まったく、まったくもってその通り。"知識"の眷属として由々しき事態でございます。この私すら知らないものというのは真不愉快でございます、ですが、それももう終わる。手がかりが現れたのですから」
同じく嫌悪感に顔を曇らせる女はしかし、ふと顔を上げる。
その目は遠山をじっと見つめていた。
「手がかり?」
「あなた様、ですよ。強欲なる人、運命をぶん投げ、竜を殺した我らが夢の主人よ」
ことり、女がその細い指で机を叩いた。
ふわり、ふわり、それを合図に本棚から丸い本がまるで蝶々のように空を舞い、女の手元に収まる。
メガネのずれを直しつつ、女がその本のページをめくりながら言葉を重ねた。
「あの天使があなたに干渉したのです、己の運命を知る力をあなたに与え、あなたに介入しようとした。あなたは天使の興味を引いた人間というわけですよ」
「……クエスト・マーカー、あの矢印やらメッセージやらは天使とかいうのが俺に見せてるからか?」
会話から得た情報を整理しつつ、遠山が言葉を紡ぐ。
「はい、その通り。あなたが運命の隷属から逃れることが天使の思惑通りかまではわかりませんが、確実にあなた様と天使には何か、何かの接点があるでしょう」
女は愉快げに笑いながら返事をする。
ガラス玉のようは瞳はしかし、明らかな熱を帯びていた。
「いや、まて。それはおかしい。そこまで正体わからねー存在なのに、なんであのメッセージやら矢印を与えたのが天使だと言い切れるんだ」
当たり前の疑問を遠山が口にする。目の前の女の言葉は矛盾している。
天使の正体が分からないのに、あのメッセージが天使由来という結論に繋がるロジックがまるで理解できない。
「ああ、なかなかお鋭い。頭の回転の早い定命の者との会話は嫌いではありません。シンプルな答えですよ、この私をあなたの夢に植え付けたのが天使だからです」
「……植え付けた?」
嫌な響きの言葉、遠山が思わず聞き返す。
「はい。気付けば私はあなたの夢の中にいた。眷属である私にそんなことを強制させる存在など、天使以外に存在しません。そしてそもそも運命や宿命、使命に関与出来る存在など"天使"を除いて存在しない。簡単なロジックですよ」
「おまえの希望的観測なだけの気もするけどな。状況証拠だけだろ」
「あら、これは手厳しい。ですが、仮説を立てるには充分すぎる証拠です」
割とコイツノリで話してるな。遠山はそいつの話を話半分に聞く方向へと切り替える。
手がかりに希望的観測を盛り込むのは人であれ、それ以外の存在であれ変わらないらしい。
「……お前があのメッセージに干渉出来る理由は?」
先程の現象、メッセージを通じて話しかけられたことの仕組みを遠山が問う。
「ああ、それは私の権能の応用です。あなたの夢を通してメッセージを届けているだけ。ほんの少しの手助けですよ」
「じゃあそれ以外の、そのあのふざけたクエストとやらは……」
「"クエスト"と銘打たれたそれは紛れもなく、この世のどこかから鳴り響き続ける運命の声に他なりません、あなたに与えられた秘蹟はそれを可視化し、あなたに届けているわけですね」
「……気味悪いな」
メインクエスト、サイドクエスト、そして隠しクエスト。あれは自分のオタクとしての脳が見せる幻覚かと思っていたが、そうではないらしい。
ただただ、訳がわからなすぎて気味が悪かった。
「ええ、まったく。ですが、正直、ふふ、私が1番気味悪いのはあなた様でございますが」
「あ?」
唐突に放られた言葉の棘に、遠山が声を低くした。
「だってそうでしょう? あなたは元々持っている側の人間だった。運命を定められ、成すべきことを決められ、それに辿り着くための補助輪まで与えられていた。なのに、あなたはそれを全てぶん投げた」
愉快げに、女が笑う。メガネに映るのは遠山と暖炉揺らめく火。
「フ、フフフ。あなたは奪われたが故に与えられた存在だった、なのにそれを全て捨てた。それはある意味、何も持たずに生まれたモノよりも、歪んでいると思いませんか」
「何が言いたいかわかんねえんだよ、回りくどい言い方するな」
「あら。ではシンプルに。あなたと取引がしたいのです。我らが夢の主人よ、天使の枷を外した強欲なる人間のあなたと」
「怪しい奴とはしたくねえ」
きっぱりと遠山が言い切る、きな臭いことこの上ない。
「あら、フフフ、用心深いですね。では相互理解の為に私の目的を包み隠さずお話ししましょう」
「微妙に話噛み合わねえな、まあいいや、目的ってのは?」
夢の中の住人との会話、怪しいし信用することは出来ないが、シンプルな好奇心で遠山は返事をして。
「私はどこから来て、どこにゆくのか」
遠山は、少しその言葉に固まった。
女の表情はまっすぐ、遠山に向けられていて。
「知りたいのはそれでございます。全ての知識を持つ存在となってなお知り得ぬ課題。知識の眷属すら届かない天使の隠した秘密、それが知りたい」
「……へえ」
少し、遠山はその女へ興味を抱く。
知識とは、いつもそんなふうに人に忍び寄ることを遠山は忘れていた。
「眷属とは交代制で廻ってくる役割のようなものです。天使によって決められるロールプレイとでも言いましょうか。私は知識の眷属、ハーヴィーですがそれはあくまで役割の名前。私は私の、本当の正体が"知りたい"のです」
「あー、自分探しの旅に付き合えってか?」
軽口を返す遠山、ハーヴィー、そう名乗る女は頷く。
「そう言うことになります、ああ、もちろんただとは言いません。これは取引です。あなたに沢山のメリットをご用意しております」
ハーヴィーがにやり、笑った。
「私の公文書館、この中にある書籍の権利をあなたに与えましょう」
ひょい、にょい。
細長い指をタクトのごとく振るうハーヴィー、それに従うように一冊の分厚い本がまた本棚から舞う。
それは静かに音も立たず、遠山の元へたどり着いた。
「うお、なんだ、この丸っこいの…… 本……?」
円形の本、装丁もページも全て円形。角が、ない。
「はい、本にございますれば。開いてみてください」
「……真っ白なんだけど」
言われたまま開くと、しっとりした羊皮紙のページには何も書かれていない。空白が広がるだけ。
「その本の空白はあなた様の望む知識によって埋められるのです」
「……どういうことだ」
怪しい言葉、しかし、どういうわけか遠山はその空白の本から目を離せない。
「言葉のまま。権利を持つ者が必要とする知識を公文書館は与えます。あなたが勝利を願うのならば、この館には敵を殺し、報酬を得るための知識が」
女が指を一本立てる。その言葉はこの世界の攻略するためのチートを指さす。
「あなたがもし生存を望むのならばこの館にはどんな方法でもあなたを生き残らせる知識が」
女が指を二本立てる、その言葉はこの世界を生き残るチートを指さす。
「あなたがもし、帰還を望むのならば、元の世界に戻るための知識がーー」
女が指を三本立てる、その言葉は遠山鳴人の冒険のーー
「てめえ……」
女の言葉を遮り、遠山が視線を鋭く。
コイツは、知っている、遠山鳴人がどこからきたのかを、少なくともこの世界の存在ではないことを知っているのだ。
「夢の中に住まわせてもらっておりますゆえ、色々と拝見させて頂きました。遠山鳴人、上級探索者、性別は男、使用武装は主に鈍器、拳銃。性格は自己中心的かつ、慎重で狡猾、好きな食べ物は蜂蜜、パン、お菓子、野菜全般。……個人的には探索者となった後よりも、学生時代のあなたの物語が好みでした。敵を許さず、欲望に忠実、冷酷で独善的、かつ、身内に甘い穴だらけの自我。大人にならざるを得なかった孤独な人、そしてーー」
灰色の瞳、その瞳孔が四角に歪む。人をたぶらかし、誘惑する存在、西洋において悪魔の似姿とも呼ばれる羊のような瞳が、遠山を見つめていて。
「そして、この世界の人間ではない異物そのもの」
「その辺の事情も全部ご存知なわけか」
手札はだいたい理解できた。こちらのことは全て知られていると認識した方が良さそうだ。
遠山はじっと、その四角の瞳孔を見つめ返す。
「ええ、あなたの夢に植え付けられた時から既に、シートは完成しております故。……異なる世界の異物よ、あなたを護る運命は既に消えました。あなたには今、知識が、力が必要なのでは?」
ピコン
【メインクエスト 発生】
【知識の従者】
【クエスト目標、知識の眷属、ハーヴィーの取引に乗る】
響くのは、皆に定められた運命の音。遠山鳴人には選択肢がある、それを受け入れるか、拒否するか。
矢印が灰色の髪の女を指していた。
「ほら、運命の音が届きましたね。まあ、正直なところあなたはそれに従ってもいいし、拒んでもいい。ただ、逆張りだけが正しいとは限らないとだけお伝えします」
「………説明が足りなくねえか?」
「はて?」
「取引、とお前は言ったな。お前は俺へのメリットだけしか話してない」
悪魔との取引だ。
遠山は静かに言葉を紡ぐ。
「はて、目的はお話ししたつもりでしたが」
ゆかいげに微笑む女、ハーヴィーの表情は妖艶とも言える色を浮かべている。
「とぼけんな、タコメガネ、この取引でお前は俺に何を望む? 俺に何をさせる気だ」
取引の内容を理解しようと遠山は進む。
誰もがそうだ、悪魔との取引を自分だけは上手くやれると勘違いするのだ。
「ふむ、ふむふむ。なるほどなるほど、あの主教とまともに交渉できるだけはございますね。さすがは夢の主人、フフフ、人知竜もなかなかどうして節穴ではございませんね」
「うわ、お前、あの変態ドラゴンの関係者かよ」
聞き覚えのあるキャラの強い名前に遠山が反応する。
「……こっちのセリフだしマジで。ーーコホン。ええ、主教、カノサ・テイエル・フイルドには私も目をつけておりました。しかし、彼女はどこまで優れていても運命と宿命に愛されすぎている。私の目的にはそぐわない」
また聞き覚えのある名前だ、世の中狭いなと呑気なことを考えつつ、遠山は話を聞き続ける。
「そして、人知竜、アイ・ケルブレム・ドクトゥステイル…… 彼女は……… ほんと。なんであんな風になってしまったのでしょうか。いくらなんでも絆されすぎでしょ…… 」
「いや、どう言う関係?」
「彼女とは…… つい最近まで同盟のような関係でした。全知の竜と知識の眷属ですから、互いに求めるモノは似ておりまして…… ただ、その1ヶ月前、急に人知竜と名乗り始めてからはもう…… ただただあんな感じの愉快な存在に……」
「ああ、そう……」
聞かなくてもなんとなくわかった。ほんの少し遠山は目の前の女に親近感と同情を覚えて。
「くそ、マジで何が人を知る竜だし…… 永遠探究者とか名付けてあげたのバカみたいじゃん……」
「今なんか言ったか?」
ボソボソとしたぼやき、何を言ってるか分からない言葉を聞き返す。
「いえ、別に。主人殿、ええ、あなたの言う通り。私、つい取引の詳細を伝え忘れておりました、ご容赦頂ければ嬉しいのですが」
取り繕うに咳払いしつつ、ケロリとした顔でハーヴィーが言葉を放つ。
「タヌキ。いいから早く教えろ、お前のメリットを。俺が払うべき代償を」
遠山がそれを流しながら先を促して。
「ええ、簡単な、ほんとうに簡単でシンプルなことです。公文書館で得た知識を使い続けること、それだけにございますれば」
「ふーん」
その条件を、遠山は反芻する。
なんとなく嫌な予感はする。その代償が聞いた感じでは軽すぎるからだ。
「ええ、ええ、あなたはあなたの為に私の知識を使い続ける、ただそれだけでこの公文書館はあなたのもの」
「勝つための知識を得たならあなたは勝利し続ければいい。生きるための知識を得たならばあなたは生き続けなければならない。ただ。それだけのこと。それだけのことであなたは新たなる知識を得ることが出来るのです」
「我らが夢の主人、あなたは知識の価値を知るお人のはず。失わない為に、手に入れる為にあなたには力が必要なはずです」
「力、ねえ……」
それはたしかに今日一日強く感じていたことだ。
自分の力だけではいつかどこかで限界が来る。遠山は自分の生き方を変えるつもりはないし、それのために死ぬのなら、それはそれで構わないと本気で考えている。
だが、自分が死ねばーー
「はい、あなたがここの知識を使い続け人生を進めていく。私の願いはそれです。天使の関心を惹くあなたが暴れれば暴れるほど、この世界に影響を与えれば与えるほど、必ずほつれが現れる。私の求める答えの手がかりにはなるでしょう」
ハーヴィーの説明は理解出来るものだ。遠山は頷く。
「なるほど、要は俺はなんかの囮か撒き餌ってわけか。天使とやらがちょっかいかけてくるのを期待してるわけだな」
「フフ、いえ、そんな。これはもっとwin-winな取引のはずです。どのみちあなたには敵が多い。この先もこの世界で生きていくのならば争いは避けられないでしょう? 私はそれを見守るだけにございますれば」
「それを囮っていうんだよ」
きなくせー。
遠山は白紙の本を開きながら目を細める。古今東西、何かを与える代わりに何かをしろとか言う奴にいい奴はいない。
得られるメリットと、予想しうるデメリット。
知識を得る代わりにそれを使い続けるのが条件。ぱっと聴くと大したことはない気がするが、それは間違いだ。
おそらくそれは本当に使い続けなければならない。勝利のための知識を求めたのなら、その存在は勝利し続けねばならない、常に闘争に身を置かなければならないはずだ。
そんな歪んだデメリットをハーヴィーは隠している、しかもそれを破ったとき、どうなるかも説明していない。
悪魔との取引は、現代での契約書を交えての大きな買い物にも似ている。
聞かなかった方が悪い、とか平気で言うのだ連中は。
遠山はそういうお約束を理解している人間だった。
よし、断ろう。
遠山は口を開こうとして。
ピコン
【いいんだ、……これでいい。あとは、頼む。お前は自由に…… そのままで…… ああ、本当に夢のような数日間だった」
頭に、流れ込んでくるイメージ。
ラザールが血まみれで倒れている。仰向けに倒れている彼の周りから影が染み出し、その身体を地面に引き摺り込んでゆく。
「あ……?」
頭を抑える、しかし、そのイメージは止まらず。
【あに、き…… ごめん、足手まといに……」
イメージ。
みんな、死んでいる。見たことない部屋の中、子供達が死んでいる。頭から血を流し虚な死に顔を晒すルカ、真っ二つになっているニコ、血溜まりに沈むリダ。ペロとシロはその血まみれの服だけが残されてーー
「まて、ま、て」
椅子から、崩れ落ちる。
身体の力が抜ける代わりに、また頭に新たなるイメージが。
映像と声がーー
【ならば、オレは、ヒトの世界を選ぶ、貴様が価値なきと叫ぶこの世界に、オレは価値を見出そう! ヒトの営みが貴きモノだと思うゆえに、オレの蒐集品たる価値がある故に!!】
金色の竜が暗雲たれこめる空に叫ぶ。渦巻く炎そのものに向かって心を叫ぶ。美しき絢爛な金色はしかし、天より放たれた炎に包まれる。
その最期まで、金色の竜はヒトの世の価値を尊び続けた。炎の中から6回の咆哮が轟き、そして金色の竜は溶けて消えた。
「なん、なんだ、これ……」
吐き気と寒気が身体の中で大暴れしている。遠山はたまらずその場に手をつき、うずくまる。
その様子を、灰色の瞳はただ、見つめるだけ。
【冒険都市を人類世界として詐称認識開始、現況を"人類"の危機として仮定認識、魔術炉心にボクの全存在を選択……… 条件達成。さあ、出番だよ、行こう。ヒトの生きた軌、ヒトの残した跡。今回は正しい役割をあなたたちへ。うん。満足さ、さよなら、ボクの、ううん、私のーー】
銀色の髪が、黒色に戻っていく。暗雲たれこめる空を見上げた彼女は溶けゆく金色の竜を優しく見つめ、天にまどろむ炎を睨みつけた。
その存在を焚べていく。全知の力を人知の理でもって使用する。彼女は消えゆく、それを代償として存在を捧げて喚び起こすのは、天より顕し、大きなヒトーー
それが6体、人類を滅ぼさんとする炎に大きなヒトが相対して。
「……はあ、はあ、これ、アイツら……」
流れ込む映像、今自分がどこにいるのかすらわからなくなるリアル。夢の中で見る夢は遠山の意識を犯していく。
現実も夢の区別がつかなくなっていく。公文書館が見せるイメージはそれほどまでに鮮明で、残酷でーー
「何が見えましたか? いいえ、公文書館は果たしてあなたに何を見せたのでしょうか?」
ハーヴィーは、笑っていた。
遠山を見下ろすその眼はどこまでも愉快げに。
「て、めえ…… 今のは、お前が」
「私ではございません、それは公文書館の知識があなたに見せたもの。ご存知ですか? 知識とは見つけられるのを待っています、使われるのを待っているんです」
見上げる遠山、ハーヴィーとは違いその表情に余裕は微塵もない。
「知識があなたに見せたのは不足したまま歩むあなたの終わり。知識はあなたにこう囁きました。守る為に、手に入れる為に、覆す為に、力が必要でしょう?」
「う、あ……」
脂汗を浮かべたまま、遠山は顔を覆う。
映像が、声が、正常な判断を失わせる、絶望と悲劇が遠山鳴人の自我を蝕んでいく。
「さあ、あなたはどの知識をお選びに? 敵を殺す為の知識? いいでしょう、あなたの敵があなたの大切な者を殺す前に殺しましょう。それが1番早い」
弾む声、どこまでも愉快げに。
「それとも生き残る為の知識? いいでしょう。人の別れ、喪失とはつまるところ死が原因です。ならば失いたくないのならあなたと大切なものが永遠に生き続ければいい。それが1番効率的です」
楽しくて仕方ない、言葉にせずともその声は騙る。
「うっせ、うるせえ…… こんなん明らかにてめえ、怪しすぎんだろ」
本能的に遠山は判断を拒む。
しかし、それすら公文書館、知識そのものが認識を歪ませていく。
「ああ、フフ、我らが夢の主人、あなたは大人にならざるを得なかった人間です。誰も守ってくれず、誰も救ってくれず、全てを諦め、しかしそれでもと立ち上がった人間。……だから、ほら、後ろをご覧ください。あなたが捨てた彼は今でもそこでひとりぼっち」
遠山の背後を、ハーヴィーが指さした。
それは、この空間。
とおやまのゆめだからこそ、可能であるおぞましい芸当。
眷属が、そこに呼び寄せたのは。
「は?」
指を刺された背後を振り向く、振り向いてしまう。
そこにいたのは。
「お、俺……?」
遠山だ。
遠山の背後に、遠山がいた。
目をくり抜かれ、口を縫われ、耳をそぎ落とされた遠山がーー
フッ、と。
それの姿が消えて。
次の瞬間には、遠山とその遠山の身体が重なっていた。
「マジかよ……」
異変が起きる。
身体が縮んでいく。鍛えた肉も、馴染んだ血も、洗練されていった頭脳も。
遠山の存在の時間が、意識の中で巻き戻り始める。
遠山鳴人が人生という時間をかけて得た武器が全てなくなる。
夢の世界、己の深層に深いその場所に押し込めていたモノを知識の眷属が引っ張り出した。
「ほら、これで元通り。完成していないあなたは今、幼少の頃に戻りました。人は成長していけばいくほどに己の心の声を無視するようになっていく」
ハーヴィーが笑う。
彼女は定命の存在の脆さをよく知っている。1人では決して完成せぬ存在、本質としてか弱い存在である人間の堕とし方をよく知っていた。
「あ……」
気付けば、遠山鳴人はこどもの姿に変わっていた。
手入れのされていないぼさぼさの髪、細い手足に華奢な身体、目つきだけはわからない、ぼさぼさの前髪は彼の目を隠していた。
「ですが、その姿ならばあなたは本当の心の声に従える筈です、フフフ、とても美味しそうですねえ」
困難に立ち向かうことも、危機を乗り越えることも、そして理不尽を殺すことの出来ないこどもに、知識の眷属は笑いかける。
ぺろりと、赤い舌が唇を拭っていた。
「ほら、おいでくださいませ。私の公文書館をご案内いたします故……」
「……うん」
手を引かれるまま、灰色の髪の女、ハーヴィーと共に本棚を巡り始める。姿に精神が引っ張られ、遠山の思考が朧げになってゆく。
「あなたは何が怖いのですか?」
知識の眷属が、子どもに問いかける。小学生に戻った遠山はこころのままに問いに答える。
「……よわいのはこわい、ぜんぶ、うばわれるから」
剥き出しの心、子どもの姿の遠山が本人ですら自覚していない心の1番無防備な部分をハーヴィーに曝け出す。
「ああ、たしかに。それは恐ろしいですね。でしたらこの知識なんていかがですか? 強さの知識、この世界に眠る強さへ至る秘密があなたのものになります、誰もあなたに比肩するものはなく、あなたはあなたの思うがままに力を振るうことができるのです」
「……」
「おや、お気に召しませんか。いいのです、時間はたっぷりありますから。あなたは何が欲しいのですか?」
「……ともだち、いつもひとりなんだ。だからさびしい……」
「ああ、でしたらこれはどうでしょうか? 人に愛される為の知識、これを使えばどんな人間だろうとも無条件であなたを愛してくれます。あなたは数多の愛に包まれて2度と孤独を感じることもなくなります」
別の丸い本をハーヴィーが差し出す。その本に記されるのは愛欲の知識。どんな存在にも愛される為の力と知識。
「………いい」
しかし、こどもはそれにも首を振る。ひとりぼっちをいやがり、孤独を恐れているはずの彼は愛を拒む。
「うん? おかしいですね、あなたは人一倍欲望に素直な方の筈……」
ハーヴィーが少し、戸惑う。今顕れているのは遠山鳴人という人間の最も弱くて最も正直な部分の筈。
故に偽りはできない、故に我慢も出来ない。渇望を誤魔化すことはできないはずなのに、力も愛も遠山の興味を惹くことは出来なかった。
「ま、まあ、まだまだ知識はありますから、さあ、教えてくださいな、あなたの欲しいものを」
「欲しい、もの……」
「え、ええ、そうです。私はあなたに与えます、私はあなたに捧げます。この世界を攻略する為の力を、この世界を攻略する為の知識を。欲しいでしょう? 見たでしょう? 弱いままのあなたがこれから何を失うのか、嫌でしょう? 奪われるのはーー」
膝をつき、こどもの遠山と目線を合わせながらハーヴィーが灰色の瞳を澱ませる。
手がかりとして遠山鳴人を利用するのとは別に、彼女はその役割の本能として、人に与え、その顛末を見届けることが生き甲斐でもある。
「ぼくの、ほしいもの……」
「ええ! ええ! ここには全てがあります。知識とはたどり着く為の力でございますれば。我が夢の主人、貴方にはこの知識の眷属がそこに至る全てを、いえ、貴方が望む全てをお与えしましょう!」
「さあ、定命の者よ、欲しがりなさい、手に入れなさい。限りある命の中で溢れかえるばかりの、その身に宿る欲望のままにーー」
眷属、この世界より外れし力の塊。この世界には存在しない"神"と呼ばれる高次元情報体に等しいその存在が、遠山鳴人に侍る。
チートを与えようとーー
「いらない」
「……うん?」
「いらない、なにも」
「え?」
灰色の瞳が揺れる、茶色の瞳は全く動かず。
陰鬱な表情の少年はぼそり、ぼそり、呟き始める。
「いらない、ぼくがよわくてうばわれるのも、ぼくがひとりでさびしいのも、それもぜんぶぼくのものだ」
「え、いや、いやいや、何をおっしゃって」
「たとえ、たどり着けないとしても、例え奪われて、孤独で、死にそうなほど苦しくても、それは全部、その感情すら全てぼくの物だ」
本質。
遠山鳴人の本質を、ハーヴィーは見誤った。
数多の存在を見てきた知識の眷属、一時期はあの"全知の竜"すらを従者にせしめた彼女はしかし、ちっぽけなその人間を初めから見誤っていた。
「その終わり、結末から過程、その選択の全てはぼくだけの物だ。他人に誘導されることも、他人に指図されることも、他人に任せることも、他人に与えられることも、あってはならない」
「あ、がっ!?」
少年が、呆然としているハーヴィーの細い首を小さな手で掴んだ。
弱い力、細い腕。
ふと、前髪に隠れていた目が、髪の隙間から覗いた。
その目つきは変わっていない。敵を殺すことに一切の躊躇がない、探索者の目つきだけは。
いや、違う、探索者だからではなく、遠山鳴人は最初からこうだったのだ。
「あ、が、な、なに、を……」
「お前が与えるんじゃない、お前が導くんじゃない、お前が選ぶんじゃない。ぼくだ、ぼくのことは全てぼくが決めるんだ」
暗い声、少年の高くて可愛いらしい声はしかしどこまでも深く、昏く。
「タロウはいない、だけど、ぼくは"ぼうけん"をする、邪魔するな。彼とぼくのぼうけんはぼくらだけのものなんだ」
こどもの姿の彼の言葉こそ、遠山という人間の剥き出しの全て。
真なる強欲は、その欲望が叶えられなかった苦しみすらも己がものとして欲するのだ。
故に許さない、他人の介入を果たした時点でその欲望は自分のものではなくなる、それを遠山は知っている。
「あ、ぎ、た、タロウ……? ま、まさか、あの湖の底にいるのはーー」
「お前が与えるんじゃあない、ぼくが、お前から奪うんだ」
「ひ、も、戻れ!!」
バサササ、ハーヴィーの輪郭がぼやける、かと思えばその姿が無数のコウモリに変化し、こどもの遠山の首締めから抜け出した。
「……にげるの?」
「ひ、もどれ、もどれ、もどれ、もどれもどれ!」
ゆらり、後方に引いたハーヴィーに少年が歩み寄る。彼が一歩進むたび、知識の眷属が慌てて指を何度も振るい始めた。
土俵を間違えた。ハーヴィーの公文書館であると同時に、ここは遠山鳴人の夢の中。
狂った人間のありのままの本質、幼い少年の姿。Tシャツ短パンのこどもに、知識の眷属は本気で怯えていた。
「ころす、おまえ、ぼくの、ぼうけんの邪魔をしようとした、敵……」
ふらり、ふらり、幽鬼のごとき足取りで、とおやまなるひとが、獲物を見つめた。
「ひ、やだ、やだやだ!! も、ど、れ!」
ハーヴィーは既に取り繕う暇もない、何度も何度も指を振って、そして。
「あ」
ぽんっ。
シャンパンの栓が抜けたような間抜けな音。同時に遠山鳴人の姿が元に戻っていく。
「はあ、はあ、はあ、よかった……」
「いててて、頭いてー。クソ、なんだ、今の…… 身体がガキみてえになって……」
その場に座り込み頭を抑える遠山、不思議な感覚に戸惑う。
しかし、なぜかかなり、すっかり爽快な気持ちに変わっていた。
「よかった、戻った、もどってる…… フフ、フフフ、さ、さすがは我らが夢の主人、ただものではないようで」
「うるせーよ、てめえやっぱ信用できねー。人をショタ化させてイタズラしようとしてくるとはよー、薄い本みたいなことしやがって」
あの映像でまとわりついた絶望感も今はなく。
ただ、フラットな感覚で遠山は立ち上がる。
「な、なんて図々しい言葉…… あ、あんな恐ろしいこどもがショタのわけないでしょうに!」
「あ、愛くるしい感じだろーがよ」
「いえ! 確実にアレは何人か既に殺してるような…… あ、殺してましたね、そういえば……」
「なんの話だ? はー、だが、なんとなくここの仕組みが理解できたぜ。知識、成る程、お前は俺にここの知識を嫌でも使わせたいらしいな」
「え、ええ、それが私の目的へと、そしてあなたに迫る試練を乗り越える為のーー」
「決めたぜ、知識だ。俺に今必要な知識をよー。」
ハーヴィーの言葉を遮り、遠山が言葉を紡ぐ。
遠山鳴人は決めた、知識の眷属の手を取ることを、
ピコン
【メインクエスト "知識の従者" 達成】
【報酬 公文書館の権利、注意、取引の履行を行えなかった場合、知識の眷属に存在を奪われます】
予想通りのクソデメリットが露わになる。
遠山はしかし、それを笑う。
使い続ける知識は既に決めていた。
「ふ、フフ、よかった、それは、よかった、な、何をお選びに? 力の知識? それとも愛の知識? 生の知識? 死の知識なんてのも…… あ、あ、ああそうだ、竜、竜の力を得る為の知識、竜の知識こそ、竜殺したるあなたに相応しいのでは?! そう、天使に対する唯一のカウンター……」
「パンの知識」
遠山が、求める知識を口にした。
それが合図となる。
「…………………………………………うん?」
「パンの知識が欲しい」
「……………………は? パン?」
ごとん。
それは遠山鳴人の願いを聞き入れた。
取引は、為された。公文書館はその権利を持つ者が願う知識へと最適化されていく。
「あ、うそ、ちょ、まって、待ちなさい! 公文書館!! 今のは、ナシ、ナシよ! パンの知識なんて、そんな!?」
「おお、すげえ、本が飛んでる」
「ああああああ!? うそうそうそうそうそ!?! 嘘でしょ?! なんで、なんで、公文書館が全部塗り潰されてるの?!」
「俺の夢の中だからじゃね? ほら、土地代的な」
「あ、あああ、だめ、だめだめ、止まって、止まれ…あ、ああ、私の、公文書館が、全部……」
がこん、がこん。
本棚がパズルを組まれるように変わっていく。匠感のある公文書館はおのれの雰囲気やデザインに拘るのだ。
「うわ、すげえいい匂い。パンの匂いするんだけど、この本」
パン屋の石窯のようなデザインの本棚、バケットの形をした本棚、カゴのような形をした本棚。
おまけに何故か漂う焼き立てのパンの香りもきちんと添えて。
既に知識の眷属の隷属から離れた公文書館は新たな権利者を歓待する。
「あ、あああああ……」
「へえー、全部ニホン語で書いてあんじゃーん。あ、あんぱんの作り方もある。お、こっちの本はクロワッサンの歴史…… へえー」
絶望の声を上げるハーヴィーを尻目に遠山が早速本を物色し始めた。
気付けば本のデザインも変わっている、あの円形ではない。
きちんと角のある通常のデザインに戻っていた。
「あ、あああ、力も愛も生も死も正義も契約も悪事も…… ぜんぶ、パンになっちゃった……」
「おい、お前、お前との取引内容は確か、その知識を使い続けることだったよなー。安心しろ、ぜーんぶ、使い切ってやるからよー」
香ばしいパンの香りがする丸い本を持った遠山が、嗤う。
「貴方、狂ってる…… あの悲劇を見て、なんで、パンを…… 選べるの?」
心底、理解できない、嫌悪感を隠そうともせずハーヴィーが遠山に問いかけて。
「あー? んなもんてめえが見せた幻覚かもしれねえだろうが。起こるかどうかもわかんねーもんの為に、訳わかんねーヤバいモンに手え出すのはアホのやることだぜ」
「失っても、いいと、いうの?」
その問いにもはや力はない、しかしそれは当たり前の疑問で。
「ヒヒヒヒヒヒ、そうはならねえ。失っても取り戻す、邪魔者は始末する、俺は今度こそ湖のほとりに家を建てる」
嗤う、絶望を、悲劇を。
「全部だ、今回俺は全てをやる。何も諦めないし、何も妥協しない。その為に必要なモンがなにかわかるかー?」
いつだって、探索者は絶望と悲劇を嗤い飛ばすのだ。どこの世界にいてもその事実だけは変わらない。
「……あ、ああ、その、め、そのめ、こわい……」
酔いにまみれたハッピーな目、ハーヴィーがそれをみて慄く。
「美味い食いもん、温かい寝床! 満ち足りた生活!! 試練に挑むには、欲望のままに全てをぶちのめすにはそれが必要だ。だからこの知識はありがたーく使わせてもらうぜ、知識の眷属」
ふんぞり返りドヤ顔をかます遠山、尻餅ついたまま、怯えるハーヴィー。
格付けは、終わった。
「取引成立、だな」
これでもかというほどの、遠山史上最強のドヤ顔をかます。
強欲なる男は全てを嗤い、知識の眷属からパンの知識を簒奪した。力でも、生でも、死でもなく。
故に、欲望のままに遠山鳴人が生き続ける、自分らしく生きるだけでその取引は履行される。
「あ、ああ……」
知識の眷属はようやく気付いた。
これは、関わってはいけないタイプの人間だった。
永い時をかけて創り上げたその公文書館は今や、世界の全ての知識を保存する館ではなく、あらゆる世界の美味しいパンの全てを保存する館に。
神の如き存在の領域を、強欲冒険者の欲望が侵しつくした。
「ああ、うそ、嘘でしょ…… 力の知識も、生の知識も、私の中にしか、ない。本が全部、消えちゃった……」
「あ、ホットドッグの本めっけ。これ好きなんだよなあ」
呆然と膝をついて、固まるハーヴィー。彼女の公文書館に存在していた知識はそのほとんどが、パンに侵されて。
「へー、ソーセージの作り方も載ってんじゃん。でも、あれ冷やしたりしねえとまずいって聞くしなー」
どこまでも呑気に、本棚を見回る遠山。
ぱち、暖炉の薪がまた弾けて。
「プェ」
「あ?」
ハーヴィーの方から変な声が聞こえて。
「プェ、ワ、……プァ、プェ……」
メガネの奥、灰色の瞳にみるみる涙が溜まって。すぐにそれは決壊した。
「わァ、ウワァアアアアアアアアン!! プェン、プェエエエエエエエ、ヤダあああ、私の、ハーヴィーのお本が…… わああああああああん!!」
大泣き。滝のように涙を流し、仰向けになったハーヴィーの泣き声が公文書館を揺らした。
遠山鳴人は本を小脇に抱えたまま、呆然と立ち尽くし
「………………泣いちゃった!!!」
急に泣き出した眷属を前に、割とパニックになっていた。
読んで頂きありがとうございます!ブクマして是非続きをご覧ください!
<苦しいです、評価してください> デモンズ感