99話 今日を、生きる
「うお、おおおおおお!?」
「キュキュマアアアアアアア!?!」
落ちる、落ちる。飛び込んだ大穴、下へ真っ逆さま。
腹の底に空気が通り抜ける意味のわからない感覚に身体の内側をめちゃくちゃにされつつ、遠山と九千坊が下へ、下へ。
「いでっ!」
「キュア!!」
すってんころりん。
かなり高いところから落ちたはず。なのに大した痛みもダメージもない。
もう、そういう物理法則がまともに働いていないのかもしれない。
「いってー。なんかこんなのばっかりだな、あー、タマがひゅんひゅんした」
「キュマ〜……」
「お、なんだ、ナマモノ。お前もわかるのか。っと、呑気なこと言ってる場合じゃなかったな。さっさと見つけないと」
だがもうそんなことにいちいち驚いていられない遠山は、すくっと立ち上がり、玉の位置を確認しながらカッパに話しかける。
カッパもまた、玉の位置が気になっているらしい。2人して、トントントンと跳ねて玉を落ち着かせていると。
「キュ……」
「んだ、どうしたナマモノ…… うわあ……」
カッパの鳴き声につられ、前を見る。思わず、呻いた。
鳥居。
巨大な、鳥居。それも斜めに傾いている。
いや、それだけならまだいい。それがたくさんあるのだ。
鳥居、鳥居、鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居鳥居。
傾き、沈み、歪んだそれら。
幾重にも重なり、奥に連なり、目の前にずっと鳥居が続いている。
鳥居だけで作られた万華鏡の中にいるようだ。
「絶対なんかある奴じゃん……」
「キュ……」
遠山の呟きにカッパが小さく鳴く。
「鳥居多すぎだろ。稲荷神宮のパクリか?」
「キュキュ!」
ぼやいて動きたくない遠山を急かすようにカッパがまた鳴いた。
小さな水かきをぱちぱち動かして、先を指さす。
「……ああ、わかってる、行くよ。多分、この先だ」
「キュマ……」
行きたくないし、入りたくない。だが、遠山にもう引き返す選択はなかった。
ピコン。
ふわふわと呑気に揺らぐように現れる矢印もまた、目の前に。
【オプション目標 "凡人探索者を救出する"】
進め、クエストはそう示す。
大小の鳥居が乱立する空間を、遠山とカッパは歩き続ける。見上げるような大きさものから、またぐような小ささのものまでよりどりみどり。
↓とメッセージはさらに、先。その鳥居たちの更に奥を指し示している。
「ニホン人なら問答無用でなんか、こう、厳かな気分になるな……」
無宗教という宗教観の中に滲み出る確かな畏れ。
「キュム」
「お、おい、どうした? 大丈夫か?」
【封印式・伊奘冉宮に踏み入れました】
【"神性・ニホン"による全てのニホン由来の存在に対する絶対優位権が発動しています。全てのニホンに関係する存在はこの空間において、自由に行動出来る権利はありません】
「キュ………」
「……とんでもないデバフだな。なるほど、だからニホンの妖怪であるお前も…… あれ、待てよ、なんで、俺、平気なんだ?」
バリバリのニホン人であるはずの遠山。
名瀬瀬奈の力が、ニホン由来の存在へ圧倒的な優位を持つということならば、それは自分にも刺さるはずなのだが……
【神性への対抗ロールが可能な技能発見。技能"アタマハッピーセット"、"キリの器"、"繝ぅ繝繝繝繧縺ョ鬟シ縺"、"天■■■■国■■■■習合体" 複数の技能による対抗ロール…… 成功】
少し、息苦しさを感じるものの特に不調は見られない。流れるメッセージの内容は相変わらずロクでもないものばかり。
カッパは辛そうだ。遠山は余計なことを考えないことにして道を進む。
「急ごう」
「キュ」
【オプション目標 "凡人探索者の救出"】
奥へ進むたび、鳥居のデザインが変わっていく。何重にもしめ縄を巻きつけられているものや、大量の塩に埋もれているもの。
「うわ、なんだこりゃ……」
「キュマ……」
極め付けは、真っ白な鳥居。最初はそういう色かと思ったが違う。
「お札だ……」
白く薄い和紙。読めないが赤い文字で何かが書かれたお札が何枚も何枚も貼り付けられたことにより、その鳥居は真っ白に見えたのだ。
「何のためにこんなことしてんだ……?」
よほど封じ込めておきたいものがこの奥にあるのだろうか。
【オプション目標 "凡人探索者の救出"】
絶えず浮かぶメッセージ、そして↓、やはり、先を。この嫌な雰囲気の鳥居が並ぶ更に奥を指し示す。
ぽんぽんぽん、ぽこぽこ。
ぽこぽこぽこぽんぽん。
「……太鼓?」
気付けば辺りに響くのは何かを叩く音。太鼓の音にも聞こえるが、どこから鳴っているかは分からない。
ピーヒョ、ローロロロロロロロ。
続いて聞こえるのはお囃子の音。以前、似たような音を聞いたことがある。キリヤイバの本当の力、魂の支配と使役に近づいた時に響き出した音と似ている。
「……不気味すぎるな」
「キュ!?」
遠山がつぶやく、その瞬間、カッパが飛び跳ねた。
「あ、おい! 待て!!」
「キュキュキュマ! キュキュキュ!」
「うわ、すげえ階段…… クソ! おい、待て、勝手に動くな、ナマモノ!!」
急勾配の階段を登る。いくつもの巨大な鳥居が重なり、いくら登っても上が見えない。
だが、不思議なことに息も切れない。ただ、ただ、跳ね飛びながら階段を駆け上がるカッパを追いかけて、遠山が登り続ける。
「キュ!!」
「待てって! だから! あーー」
上。
階段が途切れる。坂の頂上にたどり着いてーー
「あ?」
そこにまずあるのは。
『アっはっハッはッハハははハハッハハハハハハハハ』
『アっはっハッはッハハははハハッハハハハハハハハ』
『アっはっハッはッハハははハハッハハハハハハハハ』
『アっはっハッはッハハははハハッハハハハハハハハ』
『アっはっハッはッハハははハハッハハハハハハハハ』『アっはっハッはッハハははハハッハハハハハハハハ』『アっはっハッはッハハははハハッハハハハハハハハ』
笑い声。
そして次にあるのは
「ぴ、ぴ、ぴーひょろぴ、たん、たん、たんららん。ぴ
ぴ、ぴ、ぴーひょろぴ、たん、たん、たんららん。ぴ
ぴ、ぴ、ぴーひょろぴ、たん、たん、たんららん。ぴ
「ぴ、ぴ、ぴーひょろぴ、たん、たん、たんららん。ぴ
たん、たたん、かん、からん
たん、たたん、かん、からん
たん、たたん、かん、からん
たん、たたん、かん、からん」
笛の音と太鼓の音。
熱気、囃子、笑い声。
階段を登りきった空間にはまず、それらがあった。
「なんだ、あれ」
広場のような空間。そこにはさまざまな簡素な箱モノが並んでる。
「……屋台?」
祭囃子の音満ちるその空間に、所狭しと居並ぶ屋台。ぼんぼり、提灯、燭台。
さまざまな灯りが明滅し、ナニカの笑い声に満ち溢れる。
『アッはハハ』
『かんら、かんら、かんら』
屋台の他にはいくつかの舞台、演台が設けられ、そこから一際大きな祭囃子の音が聞こえる。
時たま、灯りが明滅するたび、その演台の上に人影のようなものがちらつく。ひらひらとした衣装を着て、踊っているかのような人影が。
「………やばいな」
背筋が凍る。なぜか。
見えないのだ。
明らかにそこにはナニカがいて、賑わう、何かの生気に満ち溢れたことが起きているのに、見えない。
あの屋台も、あの演台も、あの太鼓も。きっと誰かがそこにいて屋台で何かを食べたり、踊ったり、鳴らしたりしているのに、みえない。
賑わいと活気がこんなにも溢れているのに、遠山の目にはただ空っぽの屋台と演台と広場が広がるだけ。
ピコン
【オプション目標 "凡人探索者"の救出】
だが、それでもクエストマーカーとメッセージは前を指し示す。
「キュ」
「ああ、……行くしかないだろ」
てちてちと、遠山の身体をよじ登るキュウセンボウのしっとり感を肌に、広場へ踏み込む。
『アッは』
「…………」
何かに覗き込まれているような感覚。歩くたびに、その場に立ち止まって蹲りたい衝動が増していく。
ここにいてはいけない、ここに踏み入れてはいけない。
畏れ。
ニホン人の多くが、例え己を無宗教だと断じていても無意識に鳥居や神棚への取り扱いが慎重になるのと同じく。
『アッはハハハハハはははは』
『ホッホほほほッホホホッ』
ナニカ、ナニカ、ナニカ。この場にいるありとあらゆる姿なき存在が遠山とキュウセンボウを見つめている。
姿なくともその視線、その声、その息遣いがたしかに。止まりたい、戻りたい、帰りたい。遠山鳴人の人間としての本能が叫び続ける。
「…………」
だが、止まらない。ここより先進んではならない、ここより先踏み入れてはならない。全て禁域、全て神域。
しかし、遠山鳴人には力がある。
人域を超えるための力。まつろわぬ霧を操り、従える力。
【畏れ
彼の白く変色した血が、この縁日の広場を歩くことを許可する。
『ホ、アッは、ハはは』
『ふ、フふふフッふッ』
「ひひ……」
笑い声はまるで、同類を歓迎するかのごとく。縁日の屋台の合間を、神楽の舞う演台の間を遠山鳴人が真正面から練り歩く。
「キュ……?」
「いい、見るな。カッパくん。目を合わさなければコイツらは手を出してこない」
なぜそんなことがわかるのだろう。遠山は根拠もない確信を口にする。そう、その確信があった。
【
ぴ、ぴ
影が、舞う。演台の上をクルクルと。祭囃子と太鼓に合わせて、何かと絡み合うように舞う。
その影は、周りのぼんぼりの灯り、その明滅に合わせて消えたり、現れたり。
【オプション目標 "凡人探索者の救出"」
メッセージが再び浮かぶ。
熱に浮かされたような光景。人ならざるモノたち、姿なき者たちの熱と活気の雑踏を、カッパと冒険者が進み続ける。
そして、屋台の並び、演台の並びに終わりが。
それは、そこに、いた。
「……キュ?」
「なんだ、アレ……」
縁日の広場、そのさらに奥の奥。
演台よりも広く、しかし低く位置する舞台がある。
そこに、何かが鎮座している。
「……岩、か?」
しめ縄がくるりと一周。舞台にどすんと鎮座する。良く見ると、その岩の周りにもまた、灯りに明滅する形で影たちがたくさん踊っている。
演台で舞う神楽のようか舞いとは違う。多数の影が円を象り、その岩の周りを囲って踊る。
それに近いものを遠山は見たことがある。
「……盆踊り? ……いよいよ意味わかんねえな。目的地はこの奥か?」
遠山がその舞台の上の大岩の辺りをぐるりと迂回しようとして。
ピコン
「キュ!? キュキュキュマ! キュキュキュマ! キュキュキュマァ!!」
「あ! おい、カッパ!? どうした!!」
「キュキュキュマ!! キュキュキュマ!! きゅきゅきゅま!!」
遠山の頭の上から飛び降りたチビカッパが四つ足で地面を駆ける。嘴をカチカチ鳴らし、興奮した様子で舞台によちよち登りだす。
そして、そのしめ縄が巻かれた大岩によじ登り、てちてちとそれを叩き始めた。
「お、おい、待てって!」
遠山が、カッパを追いかける。舞台の上、大岩が近くーー
ピコン
【オプション目標 "凡人探索者"の救出】
「…………え?」
声が漏れる、何故か。
ありえない事実に、その高い観察と知性が瞬時に答えを見出したからだ。
だが、遠山鳴人の常識が、"その答え"を受け入れられない。故に、え、と呟いた。
「キュ!! キュマ! キュま!! キュキュキュマ!」
小さな水かきで、つぶらな瞳から涙をこぼしながらその岩をペチペチ叩くキュウセンボウ。
ーー
彼は、凡人探索者の友人らしい。
「いや、いやいや」
ありえない。囚われているとは知っている。アレフチームのバカは失敗し、名瀬瀬奈の神体の中に囚われている、この前提は正しい。
そのエネルギーを名瀬に永遠に消化され続けている、らしい。
では、どこに?
凡人探索者、そいつは今、どこにいる?
え?
ピコン
矢印が、遠山鳴人の冒険の目標を指し示す矢印がそれを指さした。
そのしめ縄の巻かれた大岩を。
【オプション目標 "凡人探索者の救出"】
「……岩、じゃない」
見る、その初めは岩だと思ってた。だが違う、それはどくり、どくりと蠢いている、脈動している。
【オプション目標 "凡人探索者の救出"】
「いや、いや、待て、囚われてる、ってまさか」
見る、岩ではない、塊だ。
何かの煮凝り、溶けて融けて蕩けて、そのあとまた固まった何かだ。よく見れば所々に筋のような、もの。血管にも見えてーー
【オプション目標 "凡人探索者の救出"】
見る、メッセージはずっとその塊の上に漂っている。↓もまた同じくその塊を指し示す、カッパのキュウセンボウもまた、その塊の上に乗っかってペチペチと必死に塊を叩き続けている。
まるで、寝ている何かを起こそうとしているような。
……誰を?
「いや、それはーー」
【オプション目標 前方 "凡人探索者"】
ーーワタシ達の仲間が捕食され、囚われている
通信の、ソフィ・M・クラークの言葉を思い出す。つまり、これは
「嘘だろ、お前」
ピコン
【オプション目標 前方 ホモ・サピエンス】
【凡人探索者は"神話回生・伊奘冉大神"に1000回殺害され殺生石に変えられた】
【凡人探索者は異界封印式"あの日の縁日"により全ての人間としての機能を封じられている】
これだ。
アレタ・アシュフィールドが追いかけ、ソフィ・M・クラークが逆転の鍵と称した人間。
それが、これ。
しめ縄を巻かれた肉塊。
岩ではない、しめ縄を巻かれたそれは巨大な肉塊だった。血管が走り、どくん、どくんと蠢いている。
それが、"凡人探索者"だ。
「いや、いやいやいや、おまえ、これ、マジか」
遠山の口が自然に開いていく。
どくん、どくん。胎動する巨大な肉体、それは心臓にも見えるし、内臓にも見えるし、脳みそにも見える。
艶かしさなど微塵もない、赤黒く煤けて、乾ききっている。
ーー食われた奴のバイタルは生存値を示している。
「……生き、てんのか? マジで?」
ソフィの言葉、それが正しいことを示すようにその赤黒い肉塊はたしかに胎動している。
どくん、どくん。生きるもののみに許された活動、鼓動を感じる。
「いや、これはおまえ、死んでないとダメだろ。人として」
なんでまだ生きてるんだ? もう感想がそれしかなかった。
「キュ!?」
ペチペチと岩ではなく、肉塊を叩いていたカッパが動きを止めて立ち上がる。
上を向いて。
《み、つけ、たあああああああああああ》
どろり。
上、粘液。
背後、圧。
遠山が後ろを振り返る。黄泉平坂で後ろを振り向いてしまった。
「……くそ」
来た。
死に追いつかれた。闇色の長い髪、暗闇を溶かして人間の形に流し入れた輪郭。
ぼ、ぼ、ぼ。
それは縁日の並びの奥からゆっくり、ゆっくり歩いてくる。死の軍勢、あの標識アタマ達の姿は見えない。
ぼ、ぼ、ぼ。
だが、それが縁日の並びを進むたび、あれだけ煌びやかに灯っていた縁日の灯りが消えていく。
順番に、順番に、ブレーカーを落としていくようにそれが歩んでくるたび縁日が終わっていく。
《おっほッホホ》
笑い声も沈んでいく、代わりに、どろり。
その闇の姿をした死に付き従うように、同じような姿をした人影達が地面から現れいづる。
《伊弉諾、伊弉諾、またも逃げるか私のもとから…… 》
《……フフ、違う、伊弉諾じゃない、鳴人くん、鳴人くん、私の鳴人くん、私の伊弉諾》
「げ」
《いみもかくし、それに触れるな、それを起こすな。ソレは祭りの賑わいにまどろみ続ける》
「あ? ……お前、何言ってんだ?」
《……その人はね、今ずっとお祭りの中にいるの。もう出られない、ドロドロに溶かして、固めたからね。フフフ、もう、自分のカタチを思い出すことすら出来ないよ…… でも、ほんと、なんでまだ生きてるんだろ》
「名瀬……お前がここにいるってことは」
《ああ、鬼裂。うん、強かったよ。フフフ、ヨモツシコメ達はみんな斬られちゃった。でも、彼だけじゃあ、私に勝てるわけないよね》
朗らかに微笑む女、
《ああ、鬼堕ちの武士、いみじくも我が子らの中からあのようなモノが産まれたのは許しがたく。ゆえに私のナカに溶かしたものよ》
「……キュキャキ!?」
「……お前、なんか混ざってんな。あのガイコツが手下をしばいた割に、またたくさん連れて来やがってよ」
《フフ、いいでしょ? これは神話の残滓。ニホンにかつて存在した神格の影法師。私は古い神話の頂点だから、影法師ならみんな従えることが出来るの、それでもかなりの数を、その人に潰されちゃったけど》
「……コイツ。まだ、生きてるのか」
《フフ、そうだよ。しぶといよね。1000回殺しても、まだ生きてる。でも、自分の在り方を、輪郭や、思い出、そういうのはもう何もないよ。ぜんぶ、全部溶かしたからね》
「趣味が良いことで」
《フフ、それほどでも。鳴人くん、そろそろ諦めてくれるよね? わかってるよね? 詰みだって》
ぞん、どろん。
どろり。
《ここに揃うは、古事記の神話。ニホンの神代を生きた神々の影法師。わかるよね? 勝てないって。今の私と戦うのってさ、つまり、ニホンの神話それそのものを敵にするのと同じなんだよ?》
「電波が。なんだよ、じゃねえよ。……だが、ヒヒヒヒ、名瀬、今お前、少しーー」
《んー?》
「焦ってるな、お前」
《…………んー?》
「いやに口数が多い。焦ってるな。あの烏帽子ガイコツがそんなに強かったか? 俺を早めに始末したいのか? カッパマスコットを逃したのがまずかったか? それとも」
「やっぱり、この肉塊が怖いのか?」
《フフ、半分正解かな》
「半分?」
《キミ。貴方も私は怖いよ。その肉塊の人と同じくらいね》
「……へえ、そりゃますますよー。この肉塊の方が気になってきたなー」
《何もさせない、ここで終わりだよ、鳴人くん》
女が、言葉を。
もはやその存在に境界はない。
《伊弉諾、貴方の遁走もここでお終い》
他者を演じ続け、しかし最後に本当の自分にたどり着いた女は古い神性、国産みの女神の自我と混ざり始めている。
果たして、彼女の目に写っているのは遠山鳴人なのか、それとも別の誰かか。
「やってみなきゃわかんねえだろうが」
もはや行き着く先もなし。逃げる場所も隠れる場所もない。
神に挑み、敗れ、溶かされ固められ。殺生石と成り果てた凡人を背に遠山は選択を強いられる。
「ここまできて、諦めてたまるか」
遠山は抗う。前を向き、己の首元に手を当てて。キリを喚びーー
「キュマ」
「え、おい、カッパちゃん?」
てちてち。
ぴょこんと、大岩から飛び降りたカッパの子。
それが遠山の前に。遠山を背に庇うようなら位置に立ち。
「キュ」
小さく鳴いて、それが始まる。
嘴を高らかに空へ。こぽり、こぽこぽ。その嘴より溢れるのは清らかなるヤシロの水。
水天宮に赦されし、水に愛される権能がここに。大水が小さなカッパの嘴から溢れて、噴水のように吹き上がる。
「キュマ」
吹き上がった大水は九千坊に降りかかる。辺りに溢れる大いなる水。
「なんだ、これ」
遠山は目を剥く。溢れて流れて押し寄せてきた大水が意思を持つかのように遠山と岩の周囲を囲んで、ピタリと止まる。
そこからゆっくりカタチを変える。溢れてよどみない大水が壁のように立ち昇る。あっという間に象られるは、水のドーム。
遠山鳴人としめ縄の肉塊をぐるりと囲み、包み込む透明な水。
嘘のように透き通り、微動だにしない水の膜がまるで遠山たちを守るかのようにその場所を包んだ。
《ッ!?》
「こ、れは……」
名瀬と、遠山、2人息を呑む。
流れて、引いていく水の中、そこより出て顕れた彼の姿を見たからだ。
水は冷たく、心地よい。
清らかな水に棲まうものたち、彼はそれらの大親分である。
「いっぴゃんこっぴゃん連れてきおってに。そぎゃんにわのこぶんが怖かろうもんけ」
水か引いていく。顕れるのは大きな亀の甲羅。年季の入った薄茶色の立派な甲羅。
水かきは雄々しく、広く、大きく。嘴は鋭く、巨きく。
筋骨隆々の濃い緑色の肉体、そして水を受けて煌めく頭のお皿。
「か、かっぱ……さん?」
それは、昔話に出てくる大妖の真の姿。遠く大陸より、一族を引き連れて海を渡りニホンに渡った古い神秘。
「よか。遠山どん、アレの相手はおるがするけんど」
西国大将、九千坊。それが真の姿で水の中より顕れる。
もうキュッキュッと鳴くマスコットはどこにもいない。遠山の目の前にいるのは、西国をまとめた大妖そのもの。鬼裂と共に、古事記の神話に抗い続けたまつろわぬモノ。
《……九千坊、ヤシロの大妖、水天の飼いカッパ。フフ、往生際が悪いものね》
「こぶんより先に諦める親分がどこにおるちゅか。覚悟せんね、女。あたのねちこい想いもなんもかんも全部、ここでおしまいよ」
《カッパ風情が? 私の想いを? フフ、面白いね。ようやくあと一つ。厄介な神秘たち、あのまま、貴方たち2人があの渓流で戦い続けていたら面倒だったけど。フフフ、わかってるよね? ここは私の領域、あの渓流とは違うんだよ》
「あたの言葉はほんなこつあくしゃうなこつたい。やかましいとよ。……勝つのはおるたち、おるにはそれがわかっちょる」
《フフフ、伊弉諾伊弉諾伊弉諾。待っててね、この河童を締め殺したら次は貴方。その肉塊みたいに溶かして、綺麗に産みなおしてあげるから。フフフ、ああ、楽しみだ、なあ》
どほり、どろどろ。
女の周りの影がさらに増える。それはいずれも影法師。古事記に語られる古い神格たちが遺した残影に過ぎない。
しかし、残影とてそれは最早一つの神話そのもの。
歴史に残る大妖とて、そもそも戦いになるような相手ではない。
「おい! 河童! 俺を出せ! 1人じゃ無理だ!」
遠山が水の膜の内側から大きな甲羅を背負う背中に声を飛ばす。
九千坊は振り返らない。ただ、大きな水かきを横に、ぐっと親指だけを立てて。
「あたはあたの為すべきことを。おるはおるの為すべきことを。遠山どん、おるのバカで可愛い子分を頼むったい」
「ーーッ、待て、九千坊!!」
《どいてよ、九千坊。退け、水天宮の飼い子、私の名前は名瀬瀬奈、私の名前は伊奘冉、これなるは国産みの母の令である》
「きかん、じんはしかん、おるは子分ば守るだけたい」
《……バカな河童》
「お、オオオオオオオオオオ!!!」
神話を前に、西国大将が吠える。
《おほ、ホホほほほ、ホホホホホ》
一際大きな、粘性のある影法師が迫る。ソレは古事記の中の豪傑中の豪傑、八岐の大蛇を討ち滅ぼした益荒男の残影。
国をも食い尽くす大蛇の首をもいだ豪腕が、九千坊に迫りーー
「八卦ーー」
太く強靭かつしなやかな脚が真上に。90度に持ち上げられた河童の脚が、ゆっくりと地面に下ろされる。
美しい四股踏み。
神に捧げるその闘い。九千坊もまた他のカッパに漏れず、それが好きだった。
《ホホ???》
がしり。真正面からその神の豪腕を受け止めて。
《う。そ》
伊奘冉が、目を丸くする。彼女は知っていた。その残影の強さを。己が愛し、憎んだ男神との子の中でおそらく最も強い子の影だったからーー
《ほ? ホ?》
「八卦良し」
隆々。力瘤が一気に膨らみ、九千坊が神の腕を押し返す。下から九千坊が突き上げるように、腕ごとそれを持ち上げて。
「のこった」
《ーーホ?》
ぶおん。
嘘のような光景。九千坊の2倍はあるかと言う影の巨躯。それをがっぶり持ち上げ、そのままそれを放り投げる。
《ホ」
《バあ」
《アあ?!》
影の大群が投げられた巨大な影法師に轢き潰される。
影法師の軍勢と、名瀬瀬奈、伊奘冉の動きが止まる。
《………は?》
神をも放り投げ飛ばす大妖。
嘴から白い蒸気を漏らし、1人立つ。
その背に庇うは己の子分。バカで愚かで間抜けで、しかし九千坊にとってなによりも大事な子分。
その背に庇うは己達の可能性。己のバカな子分と同じ人種、危うく、しかし聡く、勝つことを諦めない、九千坊が愛して止まない、進み続ける人間。
「けぇ!!! 神だろうもにゃんでろうと!! このおる、西国大将の名に掛けて!! 皆悉く投げ捨てる!!」
西国大将、任侠立ち。
嘴を裂けんばかりに巨きく開けて叫びたる。
《ほ、ホホ、ホホホ》
《へ、へへはフフへへは》
わかっているのだ、彼は誰よりも。自分だけでは神話には勝てるはずもないことを。
わかっているのだ、彼は。鬼裂が敗れた相手に自分が勝てるはずがないことを。
わかっている。自分達は敗けたのだと。自分達だけでは勝てないことを。
だが、それでもーー
「あるは、まだ生きとるぞ」
背中に子分がいるならば、残り滓の身体がまだ脈打つならば。
彼が止まる理由などこの世のどこにもない。勝ち目のない負け戦には慣れている。
大津波の如く迫る古事記の残影たち、西国大将九千坊は一歩も引かずその全てを受け止め、組み合う。
《ホホホホホ》
「オオオオオオオオオオ!!」
その身体には剛力、大妖の器に違いない金剛体。だが、勝てない。
敵は神話、敵は神、敵はニホン。
最も古きモノ達。
投げる、掴む、叩きつける。
九千坊がしにものぐるいで暴れ回るも、笑い声は止まらない。
見ろよ、見よみよ。水天の飼いカッパが戯れておる。
さわげや、歌えや。ちいさきものが踊っているぞ。
伊奘冉宮に再現された古事記、ニホン書記の物語たち。
それが遊ぶ、健気に吠えるカッパの姿を笑いつつ、戯れにカッパとの組合いを愉しむ。
「か、カッパ! 九千坊! おい!」
そのあまりの有様に、思わず遠山が水の膜に近づいて。
「来るな!!」
「ッーー」
「あたならわかっとるね!? 今、遠山どんにしか出来んことがある!! 鬼裂も、おるも、あたに賭けた!! 頼む! 遠山どん!!」
「そこのあるを!! おるの子分を! 叩き起こしてくれたい!!」
九千坊が叫ぶ。
神と組み合い、その水かきをボロボロにしつつも、叫ぶ。
そう、彼らには予感があった。神秘の残り滓達は本能的に悟っていた。
遠山鳴人という人間にしか出来ないだろうことを。
遠山鳴人という人間の中に巣食う大いなる力のことを。
それこそが。
「頼む!! おるたちの負け戦を!! しみゃーにしとくれ!!」
自分たちの敗北を終わらせる逆転の手段だと。
「ーー了解」
遠山が、振り帰る。
水の幕に背を向けて、九千坊に背を向けて、神話に1人抗う大親分の言葉を受けて。
「叩き起こせ、か」
見る、観る、みる。
水の幕の中、1人とひとつ。
遠山鳴人が、しめ縄の巻かれた肉塊を見上げる。
「見れば見るほど、意味わかんねえな。お前」
肉塊に抜けてぼやく。返答などあるはずもない。
「お前の仲間が言ってたぜ。バイタルには問題ないんだってよ。……いや、問題ないことが、問題だろ」
その肉塊にはもう人間の名残りなどどこにもない。
目も、鼻も、口も、四肢も、皮膚も、爪も、歯も。
耳も、ない。
「……お前、いったいなんなんだよ」
静かだ。
気付けば、もう水の音しか聞こえない。きっと振り返れば水の幕の外では大妖と神話の軍勢による闘いの音が響いているのだろう。
だが、それは聞こえない。今、遠山の意識は研ぎすまされつつある。
勝つためにここへ来た。
己の過去とケリをつけるためにここへ来た。
自分の、やるべき事だけを見つめる。
「……やるか」
少し笑う。
岩のような肉塊、それはまだ生きている。
岩のような肉塊、誰しもがそれのことを信じている。
アレフチームも、烏帽子ガイコツも、カッパも。
みんな、同じ事を言っていた。
「ヒヒ」
少し笑う、何故か。
そう、その肉塊のことを、その大バカと呼ばれた奴のことを話す時、みんな同じ様子だったから。
どこか、みんな嬉しそうな顔で。
【オプション目標 "凡人探索者"の救出】
さあ、考えろ。
遠山が片膝をつき、大岩を、肉塊を見つめる。
「どうやったら、お前は目覚める?」
クエストの、ぼうけんのはじまりだ。
【アイデアロールを開始します、INT値による補正とこれまでに得た情報により成功の可能性が変化します】
まずは観る。
その大岩を、肉塊を。
蠢き、胎動し、動いている。
生きて、いる。
「マジで生きてるな、きしょいから触りたくはないけど」
見ているだけで頭がおかしくなりそうだ。
「さて、考えろ。そもそもお前はなんで、そんなになっちまったんだ?」
【アイデアロールが続行されます。INT値が3以上なのでプラスの補正が発生します。アイデアロールのヒントを発見、"名瀬 瀬奈"の発言】
「……溶かして、固めて、生まれ変わらせた、か」
名瀬の言葉を思い出す。そう、言っていた。
名瀬によって溶かされ、蕩かされて、固められた結果がこれ。
エネルギーにされているとも言っていた。
鬼裂や九千坊の言葉も同じ、名瀬に、伊奘冉に敗北し、こんなのになったのだと言っていた。
敗北した結果、凡人探索者は、しめ縄の巻かれた肉塊になった。
「いや、それは、おかしい」
【アイデアロールが続行します】
何かが、引っかかる。
思い出せ、名瀬の言葉だ。あそこに違和感があった。
ーーなんでまだ、生きてるんだろ
そう、たしかにあの女はそう言った。それはつまり。
「……名瀬もコイツを殺しきれなかった?」
【アイデアロールが続行します】
引っかかっていたものが、少しづつ形になる。
これがまだ生きているのは名瀬にとっても、想定外。そして名瀬はこれを恐れている。
遠山の思考が廻る。名瀬瀬奈が紡いでいた言葉をどんどん解いていく。何かひらめきに似たものがチラつき始める。
「縁日…… あの鳥居、しめ縄……」
この空間そのもの。
ーーソレは祭りの賑わいにまどろみ続ける。
名瀬と混じった神性の言葉も思い出す。
待てよ、待て待て。
あの言葉はつまり、あの縁日の並びもこの肉塊を留めておく為のものということなのだろうか。
なら、つまり。
「……この肉塊は"神"ですら、滅ぼすことが出来なかった」
それは名瀬の言葉とこの空間が物語る。
殺すのでなく、封印を。
滅ぼすのではなく、無力化を。
ニホンの神話体系の頂点、その力を得た存在ですらそうせざるをえなかったのならば。
「この肉塊は名瀬に敗れて生まれ変わった姿……」
遠山が手を合わせて、ブツブツと考察を続ける。
あともう少し、いや、それなら。
ぐちゃぐちゃの思考が、一つの答えに辿り着く。それは到底信じられないし、そんなものいていいはずがないことだった。
ーー奴のバイタルサインは正常値を示して。
アレフチームの言葉。
それが遠山の思考を完成させた。
「………………え? つまりお前、マジで不死身? それ、自前の力で生きてんのか?」
【アイデアロールに成功しました】
【自力での考察が成功した為、"凡人探索者"の技能が解放されまママーー
TIPS€ "耳の血肉"
"耳"の部位保持者は、肉体を完全に再生することが出来る。どんな状態からでも元の身体に戻ることが出来る。死亡カウントが100を超えた段階で、この技能は自動発動する】
「あ、マジか」
あっけなくつぶやく。あっけなくたどり着いた。
メッセージが、その肉塊の力の全容を伝える。
簡素な内容だが、なにげにとんでもないことが書かれているそのメッセージ。
それはつまり、アレフチームのバカとやらが不滅の存在だということを意味する。
「あー、なるほど」
名瀬はこれを無力化は出来たが、ついぞ、殺せなかった。リスクを孕んで、己の中に封印という手段を取ったのだろう。
ならば、遠山鳴人はどうするべきか。
ピコン
【凡人探索者の救出】
「あー………」
思考。
流れるのはこれまでの会話の中に存在したピース。
溶かして固めて生まれ変わらせた。死亡回数100。肉体の再生。凡人探索者。アレフチームの馬鹿。烏帽子ガイコツ。カッパ。
"叩き起こせ"
烏帽子ガイコツと、カッパのセリフ。同じ言葉だ。
「ーー思いついちまったな、これ」
遠山鳴人はやり方を思いついた。
凡人探索者が完遂出来なかった作戦の続行を、それをなす為の方法を。
それは決して正気ではないやり方、それはきっとまともではないやり方。
だが、元々遠山鳴人の脳みそはハッピーに仕上がっている。
出来ると思った、だからやる。
いつも通りに、遠山鳴人は己の首元に手を当てた。
《アハハハ、九千坊。九千坊、九千坊。哀れね、あなたの抵抗も、もう終わる。あなたを溶かし、て………… え? まって、鳴人くん、あなた、なにを》
余裕こいて神話と九千坊の戦いを眺めていたらしい名瀬の言葉が淀んで。
「キリヤイバ」
遠山の首から引き抜かれるのは、彼の最強の探索者道具。
彼の敵を、彼の意のままに刻み、斬りつけ、殺し尽くす兵器。
それは牙と爪を持たない遠山へ、彼の友が与えた牙と爪そのもの。
ならば
「アレフチームの奴」
それは果たして。
《待って、鳴人くん、あなたほんとに何をしようとーー》
「お前を叩き起こす」
果たして、不滅の化け物の命にすら届くのだろうか。
ずぷん。
欠けたヤイバの切先が、その肉塊のど真ん中、そこに突き立てられた。
《え》
「直刺しだ。1番どぎついのをよ、ぶち込んでやるぜ」
びち。
キリが、流し込まれる。
キリヤイバの欠けたヤイバが見た目よりも柔らかかった肉塊に突き立つ。それだけでは終わらない、直に刺された刃がたちどころにキリに変わる。
それすなわち、全ての生命を斬り刻むヤイバになりて。
《あ》
名瀬の、伊奘冉の引きつった声。
「ヒヒ」
遠山の笑い声。
そして
『アーー、ギッ、GYAAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A AAA A A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A AAA A A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A AAA A A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A AAA A A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A AAA A A A!!!??!?!!!?!』
誰のものか分からない汚い悲鳴が鳴り響く。
「ヒヒヒヒヒヒ!!! ビンゴ、だ!! 生きてるな!? 生きてやがんだな!! アレフチーム!!!」
強く、強く、強く。
遠山鳴人が、キリヤイバを突き立てたまま、その肉塊に向けて叫ぶ。
血が噴き出すのもおかまいなし。遠山は自分の予想が的中した興奮に酔い、気にもしない。
そして、ここから、遠山鳴人の予想が正しく、その狙いが的を得ているのならばーー
「悪いなぁ!! "アレフチームの大バカ"! 閃いたんだ! お前よお! ぶっ殺しても死なないんだってなぁ!」
ぐりりと、さらにヤイバを深く食い込ませて。
『ンンンGYAA A A A AA AAAAAAAAA AAAAAAA!??』
震える悶える。
キリヤイバを突き刺された肉塊が震えて悶えて、叫び続ける。
口も、鼻も、喉も。声を出す為の器官などないのにそのしめ縄の巻かれた肉塊は叫び続ける。
生きているのだ。
痛みを感じ、それに苦しみ、叫ぶ。それは汚くてみっともなくて、恥ずかしい姿。
だが、それこそが生きているということに他ならない。生とはつまり、そういうことなのだから。
【警告】
悶える肉塊、踊るメッセージ、それを見て遠山はさらに目を見開き、口角を吊り上げた。
【"耳の血肉" カウント進行 1回死亡】
『ンンンGYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAーーーFUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUKUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUU CKKKKKK!!?!?』
一際大きな流血、肉塊に巻かれたしめ縄はすでに真っ赤に染まる。
「ーーっ、ヒヒヒヒヒヒ!!! そうだ! それでいい! 死ね!! そのまま死に続けろ!! でも決してくたばるなよ! アレフチーム!!」
噴き出る返り血に髪を濡らしつつ、遠山鳴人の威勢はそのままに。
嗤いながら、笑いながら、さらにキリを流し込む。
《ーーっ、まさか、鳴人くん……! ダメ! 皆、疾く集え! 遊びは終わり!! 今すぐあの水のまくからあの人を伊弉諾を、鳴人くんを! 引き摺り出せ!!》
イザナミ、あるいは名瀬の言葉、余裕の色がだいぶ薄くなっているその声に応じ、彼女の元に伏せていた神の残影達が、また一斉に湧いて。
「きゅ、きゅーきゅはははははははははははははははは!!!」
《ッ……》
押し寄せるのは、大波。
神の残影を押し流す大水とともに、豪胆な笑い声が響いた。
「やった、やってくれおった! 遠山どん! あたはほんに、いばしかいひゅうもんたい!」
《…… 邪魔を、するな!! 九千坊!! かしこみ、かしこみ、奉る》
大波を退けながら、名瀬が手で何かの印を結ぶ。
たちまち、彼女の近くに侍っていた神の残影。襤褸をまとったそれが蠢く。
ぼこり、ぼこぼこ。関節を膨らせ、変じていくそれ。
しゃきん。
襤褸、その腕の裾から現れたのは骨の刃。
かぶりをふるい、頭を覆っていた襤褸が剥がれる。そこには見た覚えのある烏帽子が。
《…………く、そ》
苦しげに漏らされる声に、九千坊は目を剥いた。
「………やって、やってくれちょる、なぁ」
《伊弉諾宮異界神殿 "新解釈古事記・鬼"。 行きなさい、目の前の大妖を斬れ。最古にして最恐の鬼狩りよ》
《う、オオオオオオ》
苦悶の声。
闇に呑まれたガイコツ、真っ暗な眼窩から闇を零し、襤褸と粘液に囚われた鬼狩りの末路がそこに。
「……鬼裂どん!! アタまで!!」
イザナミに敗れた鬼狩りは、その神話体系に組み込まれた。黄泉の軍勢をすら斬り滅ぼすその武は、たしかに神の物語に列するに値する。
ある男の探索者道具として夢を共有した大妖と鬼狩りが、不毛な殺し合いを始める。
悲劇。
名瀬が苦悶する九千坊ににやりと笑う。
《フフフ、フフフ、フフフフフフ。間に合う、ほら! 鳴人くん、もう諦めなよ、鬼裂が行くよ、九千坊をすぐに斬って、あなたも斬りに行く、だから、ほら諦めてーー》
神性の混じる言葉だ。
今や、名瀬瀬奈の存在は半分以上が、妄執を共にする神秘の残り滓、ヨモツオオカミ、伊奘冉と成り果てている。
名瀬の言葉には、誰しもが思わず耳を傾けてしまう威厳と魅力がーー
「ヒヒヒヒヒヒヒ!!」
ああ、届かない。
ノリノリになってしまったその男には神の言葉すら、届かない。コイツはもう人どころか、神の話も聞きやしない。
代わりに。
「九千坊!!」
「っ!」
神の話すら聞かない男が、水の幕の向こう側、カッパの大親分に声を届かせた。
「身体張れ!! 踏みとどまれ! 邪魔をさせるな! その代わり、てめえの子分は俺に任せろ!!」
「っ、がってん!」
互いに振り返ることはない。
遠山は肉塊を、九千坊は鬼裂を見つめて、言葉のみを交わす。
九千坊が神の軍勢を捌きつつ、鬼狩りの白刃を掻い潜る。一手、一手、一手が進むたび、九千坊の甲羅にはヒビが、皿には傷が、水かきには裂け目が。
確実に追い詰められる。
だが
「起きろ、起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ!! アレフチーム! ここまでしてんだ! てめえ、起きたらマジで働けよ!! 死ぬ気で!」
『ギ、GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA AAA A A AギギギニギギキGI GYA!?』
【"耳の血肉" カウント進行 7回死亡】
一手、一手。九千坊が時を稼げば稼ぐほど、遠山鳴人が肉塊の命を一つ、また一つと奪っていく。
名瀬によって、溶かされ固められ、肉塊として生まれ変わらされたその生命。
それを丁寧にキリが殺し続ける。
『イ、ア、 A A A A A A A A A A A!?!』
ぶしゅうううううう。
肉塊が、真上に血を噴き出す。おぞましい赤。その血が辺りを覆う水の膜に触れて、混じっていく。
透明な水のベールが、徐々に赤く濁っていく。
「聞け!! アレフチームの大バカ!! 今! ここで、みんなが戦ってる! 全員が命を張ってるんだ!!」
白い血が、遠山の目の中、虹彩を濁らせる。
悶え、叫ぶ肉塊は本当に人間なのだろうか。遠山はしかし、メッセージを信じるしかない。
だから、声を上げ続ける。目覚めろ、と。
「てめえの作戦を知った!! 勝ち目があったんだろ?! それを続行しろ! それはてめえの仕事だろ! 探索者!!」
【"耳の血肉" カウント進行 19回死亡】
びくん。
探索者、その言葉を発した瞬間、肉塊が強く蠢いた。聞き覚えのある言葉を聞いた、そんな反応。
《だめ、だめ、ダメダメダメ、やめて、鳴人くん、ほんとに無理だよ、無理だから、そんなのありえないから》
「きゅはははははは!! 道敷の! 顔色悪くなっとたい! どぎゃんしたとや!」
《ーーうるさい》
「ぬ……、しもうた」
《オオオオオオ、く、ウ、すまん、九千坊……》
ぶりん。
白刃、一閃。
ついに、鬼を裂く刃が大妖を捉えた。
けさざきに一撃は、九千坊の皿を割り、嘴を折り、右手を斬り飛ばし、肩から腹を裂く。
「きゅ、は…… 見事、太刀筋、鬼、裂……」
《く、オオオオオオ、オオオオオオオオオオオオオオ!!!》
崩れ落ちるカッパの大将、それを見下ろし慟哭するのは闇に飲まれたガイコツ。
ある男の友人たちは、互いに滅ぼし合い、ついに皆力尽きた。
悲劇ーー
「振り帰らねえぞ!! 九千坊!」
遠山が叫ぶ。
背後で、九千坊が斃れた気配を感じ取りつつ、決して振り返ることはない。
「まだだ、まだ終わりじゃない!! おい、アレフチームの大バカ! 見ろ! 聞け! 今、てめえを助けようとしたカッパが、九千坊が、命を張った!!」
背後。
カッパの骸を踏みつけて、神の軍勢が迫る気配を感じる。だが、遠山と肉塊を包む水の膜は未だ消えず。
例え骸と成り果てても、その大妖の意思は消えない。
【"耳の血肉" カウント進行 28回死亡】
「九千坊だけじゃない! 烏帽子ガイコツ、鬼裂も1人で戦い果てた!! てめえの負け戦をひっくり返すために! てめえを負けさせない為にあいつらは命を使った!!」
コイツらの関係はあまり知らない。神秘の残り滓とやらも大して理解出来ていない。
わかるのは一つだけ。ガイコツもカッパも、みんなこの肉塊の為に死んだ。
命を賭けたのだ。その姿は遠山にとってまぶしく、羨ましく、尊いものだ。
「2人ともが言ってた! お前を叩き起こせって!! いや、あの2人だけじゃない!!」
「アレフチームが、ソフィ・M・クラークが! グレン・ウォーカーが! そしてーー」
『ァーーレf』
「アレタ・アシュフィールドが!! 全員がお前を待っている!!」
「だから! 起きろ! お前にそんな暇はない!」
「だから、戦え! お前はそれしか出来ることはない!」
「いいのか! このままじゃ、お前マジで! 全部、奪われるぞ!」
『ァ、 A A A A A A A A A A A A A A A A A Aギギギニギギキギギギニギギキギギギニギギキギギギニギギキギギギニギギキギギギニギギキギギギニギギキギギギニギギキギギギニギギキギギギニギギキ AAABBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB Owwww wwww』
捩れる、歪む。
身悶えを始める肉塊、キリに何度も殺され、その度再生していく肉塊は明らかに、遠山の言葉に反応してーー
《させない、そして、間に合った、よ》
「!? クソ!」
ず。
名瀬の声、背後に。
斃れた九千坊を踏み越えた神の残影達が、ついに水の幕のすぐ外にまで来てしまった。
ず、ずずず。
彼らの暗闇と死で構成された手が水の幕に触れる。たちまちに澱む水の膜。
煮凝りのようなゼリー状の手が、何本も何本も、たあくさん、遠山の体に伸びる。
《よく頑張ったね、鳴人くん。正直、君がここまでやるって、思ってたけど、思ってなかったよ》
《でも、これでお終い》
ずず。
遠山の背中を、遠山の足を、遠山の腕を、遠山の腹を、遠山の首を、遠山の顔を。
暗闇色の腕が、そっと撫でる。
《希死念慮》
「ーーっ、あ、が……」
がくり、遠山が膝をつく。
寒い、寒い、寒い。大風邪を引く寸前の寒気を人が殺せるレベルまで大きくしたものが身体の芯を奮わせる。
熱がなくなる。生きることに必要なそれが全て冷たさに変わっていく。
《鳴人くんは、よく知ってるよね。あの子と、死にたがりのあの人と共に過ごした貴方はよく知ってるよね》
《生命とは、生き物とはいつか必ず終わって消え去る哀れなモノ。その歩みもその思いもその記憶も、いずれは全て消えてなくなる不確かなモノ》
《故に、命とは不完全、命とは無意味。いずれ消え去るモノになんの価値があるというの?》
《ああ、だから、あの人はきっと誰よりも正しかった、あの人は誰よりも知っていた。生に意味などないことを、生きることの無力さと無意味さを》
《そうだよね、海城さん》
《人はみんな、死にたがりなんだよ》
「う、お……」
《辛いよね、わかるよ。完全ではないから、滅ぶことが決まってる運命は辛い、この世には不完全なものが多すぎるよね。どんなに頑張って生きても、等しく死んで全部終わりなんて、哀れすぎるよね》
黒い手、数多の黒い手が遠山を撫で続ける。
喉を、まぶたを、尻を、耳を。愛撫
「………………」
がくり、遠山が膝をつく。
視線を下に落とし、身体を弛緩させ、赤い返り血を髪から垂らしながら、膝をついた。
《悲しいよね、鳴人くん。虚しいよね、鳴人くん、わかるよ、うん、ほんとによくわかるよ》
遠山の頬を撫でる黒い手。
それは名瀬の言葉と共に、艶かしく蠢く。
《でもね、安心して? もう大丈夫だよ、鳴人くん。もういいんだよ、貴方はこれから完璧になるんだから》
《もう何も貴方を脅かすものはいなくなる。貴方は私の伊弉諾になるの》
《もう何も貴方は恐れることがなくなる。貴方は完璧になるの》
《もう何も貴方は欲しがることがなくなる。貴方は全てを手に入れることになるの》
「…………全て?」
ぼそり、遠山が名瀬の言葉に反応する。
その言葉に、黒い手達がざわめく。歓喜、その表情、浮かべるかのように。
《そう、全て! 貴方は1人でたどり着く、貴方は1人で完成する、天上天下において貴方は1人で、唯尊くあるの、そうなるべきなの》
「……なんで、お前はそこまで」
《貴方を愛してるからだよ、遠山鳴人》
《愛してるの。本当に。貴方のことを考えるだけで、ううん、貴方がこの世界に生きているということだけで、私は生まれてよかったとそう思えたの! 貴方の姿を見るのが好き、貴方の匂いを嗅ぐのが好き、貴方の声を聞くのが好き、貴方の殺意を眺めるのが、貴方と一緒にいるだけで! 貴方は私をおかしくさせたの!》
《でもね!! 貴方はもっと素敵になれる!! ダメだよ、鳴人くん! 私が愛した貴方は! 他者なんて必要ない! 弱い、よわよわ、弱くなっていく貴方を見たくない! 他人と通じ合ったり、何かを託したり、頼ったり、信じたりする貴方なんて見たくない! 誰かのモノになった貴方なんて、誰かと一緒にいる貴方は違うの!! 誰かと共に歩む貴方も、誰かに選ばれて愛し合う貴方も全部違う!! 違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う!! 全部!! そんなの解釈違いなの!! そんなの遠山鳴人じゃあないの!!》
死の力を従える神話体系の頂点が語るのは、どこまでも傲慢で歪んだ言葉。
《私が、貴方を完璧にする。理想にする。貴方は1人で進むのが1番美しいの、だから貴方にーー》
己の理想を他人に強要する、それを
《愛は必要ないよ》
「………………」
いくつもの黒い手が、一つになる。合わさり、重なり、一つになる。
【警告 敵、神性による精神汚染を受けています。警告、ヨモツオオカミ・イザナミ習合体の神性による"死"の影響を受けています】
始まった。
間に合わなかった。
名瀬瀬奈は、伊奘冉はついに追いついてしまった。
鬼裂が道を切り拓き、九千坊が時を稼ぎ、遠山鳴人がたどり着いた。
だが、間に合わなかった。
死が、圧倒的な死という概念そのもの、一つの神話体系において"終わり"を司る大いなるものが、その歪んだ妄執を遠山に向ける。
「…………………」
遠山が、ぐったりと膝をついたまま動かない。
黒い手が、その身体を握りしめるように包み出す。
【警告 神性による精神汚染への対抗ロール開始………… POW値による対抗…… 失敗。技能・"頭ハッピーセットによる補正……………
失敗】
「……………………」
《フフ♪》
女が満足そうに嗤う。
抵抗出来ていたはずの女の力に、ついに遠山が力尽きる。
そもそもが、この領域。神秘の残り滓達、鬼裂と九千坊が斃れた時点で、伊奘冉の世界に対抗する領域は消え去った。
もう、あの渓流もどこにもない。
そして神秘の残り滓達が斃れたことで、そちらに回していた伊奘冉の力のリソースは、今全て遠山鳴人只1人に向けられる。
結果が、これだ。
「…………………………」
魂の抜けた虚な顔。
ぐったりとその場に項垂れる身体。
【"霧" ……ここ、までか…… やはり、無謀じゃった、祖母君に、黄泉の国の主に、人間が、儂がついたところで……】
【警告 "お前の血は白色だ" による神性への抵抗…… 失敗…… "キリヤイバ"による神性への抵抗…… 失敗……】
これまで、遠山鳴人の冒険を支えてきたもの、危機に立ち向かい、跳ね除けてきた全てが敗北していく。
ダンジョン酔い、名瀬瀬奈による刷り込み、探索者組合による記憶洗浄、それらの数多の外的要素により変質し、異様に強くなった脳みそも、その神の力に抗えない。
その神と出典を同じくするキリヤイバを構成する強大で陰湿かつ老獪な存在も、ついに正気に戻ってしまった。勝てない、その事実に気付いてしまった。
「…………………………」
黒い手が、遠山をどんどん包んでいく。
生まれ変わりの儀。名瀬により、存在や記憶、魂すらも溶かされ、固められ、新しく生まれ変わる。
この肉塊と同じく、身動きできないままに力尽き、溶かされて終わる。
死ーー
《怖い? 鳴人くん》
《怖いよね、わかるよ。死は恐ろしい。死んだら全部無意味だものね。わかるよ》
《でも大丈夫、貴方はこれから新しく強く生まれ変わる。貴方は死すらも超えて完璧になるの、これはね、必要なことなんだよ》
暗い。
何故、ここにきたのか、何故、戦おうとしていたのか。
何故?
全てがわからなくなっていく。
あるのはひとつ。消えたい、ただそれだけ。
生きていたくない、消え去りたい、死にたい。
暗くてつめたくてあたたかくてあまくてからい。そんな何かが身体を覆っていく。
希死念慮。
神話の中で"死"を掌る存在の権能、国、あるいは世界をすら滅ぼすことが可能な力が、遠山鳴人ただ1人に向けられる。
生物ならば、わずかながらに誰しもが持つ"終わり"への憧れ。
楽になりたい、終わらせたい、安心したい、苦しみたくない。それは誰しも気づいていないだけで必ず心のどこかに潜む本能に似た何か。
「……………………………………死にたい」
遠山鳴人はそれに追いつかれた。ついに言ってしまった。
どれだけ世間が、人々が綺麗事を並び立て、美しい言葉や表現で飾ろうと決して変わらない一つの事実がそこにある。
そもそも、生きるということは苦しいのだ。
それは当たり前のことだ。何も悪いことではない。名瀬の力はそれにつけ込む、それを利用する。
人である以上、決して抗えない"死"の力。
《ああ、最高……》
もう、遠山の身体は囚われた。身体を黒い手が包み、首を、喉を、頬を黒い手が闇に染めていく。
これから遠山は溶かされる。魂や記憶、人格、生命。人であることを定義する全てを神性により溶かされる。
そしてそのあと、再構成されるのだ。名瀬瀬奈の望む形に整えられた彼女にとっての理想に。
「…………………………」
《長かった、本当にここまでくるまで時間がかかったよ》
《ん? フフ、もう、ダメじゃない、鳴人くん》
名瀬がそれに気づく。
遠山鳴人の手、だ。
身体の9割を黒い手に包まれたまま、しかし、その手。
キリヤイバを握りしめ、肉塊に突き刺すその手。
その手が、未だ離れていなかったことに。
《ほら、鳴人くん。それはもう必要ないでしょ? 離そうね》
真っ暗な視界、名瀬の声だけがぼんやりと聞こえる。
何故?
遠山は考える。
なんで、ここまで来たんだっけ、何をしようとしていたんだっけ。
ああ、全部が面倒臭くて苦しくて、嫌だな。やりたくないな。
生きるのが、辛い。
理由が、わからない。なんで今こんなに苦しいのか、なんで今、こんなに辛いのか。
なんのためにこれに耐えているのか、わからない。ただ、悲しくて哀しくてめんどくさくてどうでもよかった。
《鳴人くん、離そうか、ね? それ、ね?》
名瀬の声だけが聞こえる。
遠山にはもう考える力もない。これまで彼の冒険を助けてきた知性、考えるということすら"死"という根源的な力の前になすすべもない。
そうだ、離そう。やめよう、全部。
遠山が、それを受け入れる。
希死念慮。問答無用で生命をその気分にさせてしまう名瀬の最大最悪の力。
"アレフチームの大バカ"も、名瀬瀬奈のこれに敗れた。
"気分"、感情に働きかける大神の力に信念なきものは抗うことなど出来ない。
では、遠山鳴人は?
彼にはたどり着くべき場所の光景がある。その人生を進める原動力である欲望がある。
彼は進み続けることを己に課している。何度も何度も、自分を鼓舞する時に、試練に立ち向かう時に自然と口から溢れていたその言葉。
「……………………………なんだっけ、おれ、なんで、生きてるんだっけ」
それすら、忘れてしまった。
《……フフ、たまんない。不憫で、かわいいよ、鳴人くん》
遠山鳴人も、名瀬に敗れる。
死にたい、その気持ちに追いつかれ、生きることに絶望し、溶かされることを望む。
《さあ、その手を離して。私を受け入れて。生きるのは辛いでしょ? 苦しいでしょ? 大丈夫だよ、生きる、それ自体がおかしいことなの。生きるから苦しいの、生きるから辛いの。私が貴方を救ってあげる。素敵な、素敵に、……フフ》
混ざっている。
取り込んだ神性の影響を受け、名瀬瀬奈自体も、もはや目的と手段が入れ替わり始めている。
ここにあるのは、死。ここにあるのは終わりと停滞。
だが、きっとそれはつめたくもあたたかく。時に人にとって死は救いにもなるのだろう。
凄絶な生よりも、安穏とした死を。
それが間違っていることだと言える存在などこの世のどこにもいないのだからーー
溶けるーー
「……………」
溶ける。遠山の身体が溶け始める。
霧の神性の器として変性しつつあったその肉体も、もはや耐えられない。
輪郭を、黒い手が侵していくーー
意識が薄れる。眠たい。消えていく自我の中、遠山鳴人がそれを、それすら手放す。
ぼうけんをやめるーー
遠山も、霧の神性も、知識の眷属も抗えない。
あとはもう、何もーー
わん!
「…………………え」
懐かしい、声。
それが聞こえた、気がした。
がっり。
「ーーっ?!」
痛みが、はしった。
手、何かに噛みつかれたような。
ぺちゃ、ぺちゃ。
そのあと、何かが手を舐めて。
噛んだことを、謝るかのようにーー
「あ、なん、で」
疑問。その痛みと、ぬるりとした感触に、遠山の意識がドロ底の中から浮き上がる。
今の痛みはなんだ?
今の感触はなんだ?
自分は何故、何故、何故。
こんなにもつらくてくるしくて、消え去りたいのにーー
なんで。
《鳴人……くん? 今、何か…… ていうか、ね、いい加減、それ、そのーー》
この手を。
キリヤイバを握るその手を離すことができないのだろうか。
もふ、もふ。
"死"は全ての終わり。死んだら全てが無意味、全てはいずれ消え去り、忘れられていく。
故に命とは無価値、生きるということはとてもつらくてくるしいものに過ぎない。
名瀬瀬奈はそう言った。
もふ、もふ、ふわ。
ほんとうに?
なら、これはなんだろう。その手が覚えているんだ。幼い頃に死に別れた友達の、ふわふわの身体を。ビロードのような手触りの小さな耳の感触を。
死で、全てが終わりなら、生命は死ぬことで全てが無意味になるのなら、これはなんだろう。
幼い遠山の友は死んだ。きっと冷たい水の底で1匹で死んでいった。
彼は終わり、彼といた時間は無意味となり、彼は忘れられて消え去る。
だから、彼の生とはつまり、初めから意味なんかなくて無価値で、くるしくてつらいものなのだ。
それで、いいんだな?
「なわけねえだろ」
己の問いに己で答える。
《……え?》
全ての立ち向かう為の力を無力化され、全ての策を破られ、協力者たちの庇護も消えた今。
死に追いつかれ、全てを諦め呆けていた遠山鳴人はしかし、はっきりと言葉を。
《なんで、まだ、手をーー》
「だめだ」
《は?》
「やめたよ、名瀬。ダメなんだ、お前のその言葉だけは、ダメだ」
ハッピーな頭も、霧の神性の器として変性したその血肉も、己を動かす衝動も。
遠山鳴人の冒険を支えてきたその全ては、名瀬瀬奈により上回られた。
だが、まだ、彼に残っているものがある。
「俺が、それを認めたら、"死"ぬことで、全部が終わりだなんて、認めたら、アイツはいったい、どこに行けばいいんだ、アイツはずっと、ひとりぼっちのままじゃないか」
《なに、なんの、話……?》
全てを取り上げられた遠山鳴人に残るのは、彼の欲望の始まり。
はじまらなかった友との約束だけが、今。
ピコン
【技能の発動条件を達成しました】
【技能 "いぬ大好き人間" 】
【付近にいぬがいるため全ての行動に補正が発生します】
ふわふわ、もふもふ。
キリヤイバを握る手に、その感触が蘇る。何かに噛まれたことで、その手が自分のものであることを思い出す。
力が、入る。
ふわふわ、もふもふ。感覚の戻ったてのひらに、優しい感触。
前にも、何故だろう、似たような感触を撫でたような。
白昼夢の中にいるような感覚の中、ただ、手に蘇る幼い頃の友の触り心地。
それは彼が滅んでも、いなくなっても、例えもう会えなくても、確かに遠山鳴人のてのひらのなかに。
「なんだよ、残ってるじゃん」
《は?》
名瀬のつぶやーー
ぶち、ぶち。
黒い手、遠山を包み、そして数多伸びていたそれが全て、千切れた。
その黒い手は、名瀬の力。伊奘冉を頂点とし、それが保有した記憶から生み出された数多の神性を元に生み出されたもの。
《ーーは?》
それが、一瞬で全て千切れて消えた。
それは即ち、ニホンの古き神性、その残影が全て一瞬で散ったことを意味する。
《ーーーは?》
「キリヤイバ」
霧が、噴き出る。
遠山が立ち上がる、その鋭い目に昏い火を灯らせて。
身体にまとわりついていた黒いシミが、ゆっくり解けて、落ちていく。泥をシャワーで洗い流すように、霧がその黒いシミを洗い流していく。
生まれ変わる必要などない、霧がそう言っている。
《な。んで》
「終わりじゃない、解釈違いだ、名瀬瀬奈」
ぶわり。キリが、霧が噴き出る。遠山の身体から、目から、口から。
それは狼煙のごとく。ゆらゆらと高く高く昇っていく。
「死んだら、終わり。死んだやつは消え去り、2度と会うことは出来ない? いや、違う」
遠山とソレは死に別れた。
少年と犬の物語は始まることすら無かった。
だが、残っている。例え死が2つを分けたとて今、ここに消えないものがある。
「消えねえんだよ、手の感触が。覚えてるんだよ、全部! もう会えなくても! 撫でた感覚も、焦げたパンみたいな犬臭さも!!」
《何、を、な。んで》
「死んでも死なねえ、生きる奴が思い出す限り、それでも、死んでも、死なねえんだ、消えてなくなるわけがない、意味がなくなるわけがない!」
死んでも死なない、死んでも死なない。
はじまらなかった物語、儚く消えた物語。
だが、夢想したその夢は遠山鳴人の中に残っている。
「ーー死、如きで!! 死、如きが!! 生きてる奴から全部奪えると思うなよ!」
立つ、2本の足で。
叫ぶ、2つの肺で。
轟かす、全身全霊で。
《鳴人くん、貴方、なんで、希死念慮を、どうやって……》
「続行だ」
無視。
再び、キリヤイバが主人の意思に応える。
既に戦意を失っている霧の神性を無視し、キリヤイバを構成するもう一つの存在が、どこまでも主人の願いを叶えるために、動き出す。
「欲望のままに、俺は必ずたどり着く」
続いている、遠山のそれは、幼き友と約束し、しかしはじめることが出来なかったそれはしかし、たしかに、ここにある。
「俺は今日を、生きる、俺の冒険が続く限り、滅びることはない」
冒険だ。ぼうけんだ。
これは遠山鳴人の冒険。子ども時代から続く約束の物語。
この男が諦めない限り、ソレが滅びることはない。
霧の神性、知識の眷属、それらをすら畏怖させる遠山鳴人の夢に棲みつくソレ。
そして、ソレが滅びない限り、遠山鳴人が諦めることも最早ない。
《待っ、く、希死念慮ーー》
名瀬の足元から、怒涛。
死、そのものが黒い手となり、再び遠山を襲いーー
わ
ん
がちり。
どこからか、聞こえるのは一吠え。牙を神鳴らす音。
それだけで。
《あ、は? フ、へ?》
黒い手、千を超え、万を越え、ニホンに1日、千の死をばら撒いたその力が、全て噛みちぎられている。
それどころか、名瀬の身体、闇と影が構成した女体すら、縦に真っ二つ。
《ど、な、ってる、の》
真っ二つになっても、滅びない。名瀬もまた神の力をすら御した超人の中の超人。
その身体は再生し始めていて。
だが。
「作戦続行!!! 死ね!! 死んで、ブッ生き返れ!! アレフチームの大馬鹿野郎!!」
名瀬は、今度こそ間に合わないだろう。
ノリノリの遠山鳴人が、その肉塊を元気に再び殺し始める。
「ヒヒ、ヒヒヒヒ!!」
『ゆ、GYA.ゆ、ゆんやああああAAAAAAAAAAA』
【"耳の血肉" カウント進行 23回死亡】
「ゆんやぁ、じゃねえんだよ!! 余裕出てきたなぁ、おい!! 肉塊饅頭!! ほら、もう少し行ってみようかぁ!!」
進む、殺す。決して離さなかった遠山の手が、キリヤイバを握りしめ、キリヤイバが肉塊を殺し続ける。
その速度は、異常だ。
【"耳の血肉" カウント進行 42回死亡】
『ウギ、GYA A AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!?』
流し込まれるキリ、それだけでは説明出来ない速さで肉塊は殺され続ける。
遠山の知らないキリヤイバの真価。遠山の知らないキリヤイバの所以。
それが、顕れようとしている。
『NNNNNNNNOOOOOOOOOOOOOO!?? IDEEEEEEEEEEEEEEE!? NNNNNN GYAAAAAAAAAAAAAA!!!』
がぶり、ぶちり。
肉塊、それが血を噴き出す。内側から斬り刻まれるのと同時に、表側もまた異変が。
一気に面積が削れて、ちぎれた。まるで、巨大な獣に噛みちぎられたかのように。
《あ、ああ、あああ、だ、だめ、や、やめて、やめて!!》
べたりと地面に臥しながら、体を再生していく名瀬。懇願するようなその声にはっきりと滲んでいるのは、恐れ。
「ヒヒヒヒ、ヒヒヒヒヒヒ、死ぬな、死ぬな、死ぬなよぉう、アレフチーム!! ぶっ殺しても死ぬんじゃねえぞ! 前科者にゃなりたくねえからよお!!」
完全無視。
完全にスイッチの入った遠山に熱が入る、それに呼応するかのように、肉塊の欠損が加速度的に速くなる。
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!!」
遠山が、キリヤイバを突き刺し内側から斬り刻む。
目から、口から、笑うたび、嗤うたびにモクモクと白いキリを漏らしながら。
がぶり、ぶちり、がちり。
遠山の笑いと比例するように、肉塊がどんどん面積を減らしていく。爪痕のようなものが刻まれ、血を流す。噛み跡のようなものが刻まれ、血を零す。
獣に貪られていく肉塊のようだ。
『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA AAAAAAAAAAAAAAAAAAAA AAAAAAAAAAAAAAAAAAAA AAAAAAAAAAAAAAAAAAAA !!?!』
「ヒヒ、ヒヒヒヒヒヒ、ヒヒヒヒヒヒ!!」
もう、止まらない。
【耳の血肉 カウント進行 69回死亡】
その作戦は、続行される。
「ヒヒヒヒヒヒ、ああ、やべえ! まだ死なないのかよ! まだ生きてるんかよ! お前ほんと、化け物だなあ!」
『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAーー』
「ヒヒヒヒヒヒーー」
そして、その時が来た。
【耳の血肉 カウント進行ーー】
異変、変化。
ああ、一つの下卑た嗤い声と、一つの汚い悲鳴が。
《あ、だ、め。それ以上、殺すと…… 起き、ちゃう》
名瀬の、か細い、声。震えてーー
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!!」
『GYAーーー HA』
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
『GYAーーHAーー
ギャハ
GYAHAHAHAHAHA』
重なる、変わる。
それは狼煙だ、それは銅鑼だ。
ああ、一つの下卑た嗤い声と、一つの汚い悲鳴が。
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒーー ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
『Gーーギャハハハハハハハハハハハハハハハハハーー ギャーハッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!』
2つの汚い嗤い声に。
嗤いながら殺す男。嗤いながら殺される肉塊。
地獄のような光景に、汚ねえ笑いが木霊する。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ、ヒャァハッハッハハハハハハハハ!!」
見よ、その男。目を血走らせ、口と目から真白の霧を吐き続け、笑いながら肉塊を何度も何度も斬り刻むその男を。
ついにその男の強欲は、創世の神のもたらす"死"への誘いすらも踏み潰した。
『ギャハ、ギャハハハハハハハハハハハハハ、ギャーハッハッハハッハハハハハハハハハ!!』
聞け、その肉塊。肉を歪ませ、血を噴き出し、殺され続けながら嗤う肉塊を。
ついにその男の笑い声は、創世の神ですら殺し尽くすことは出来なかった。
ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ
ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
【"耳の血肉" カウント進行】
ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
ギャーッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
【死亡回数 99回】
人が、笑う。
今日を生きる人が、嗤う。
そして、それが始まった。
ーー大いなる生よ、神を嗤え
ギャハハハハハハハハハハハハハハーー
どほり。
肉塊から、溶けた肉が伸びる。粘土で出来たような歪なそれがゆっくりと伸びる。
二股に分かれたそれは狙いのものに向かっていく。
《ーーオオオオオオオオオオ………… 手間を、かけた、霧の怪物狩り…… 感謝を》
「ああ、なるほど」
一つは、襤褸を纏った残影、闇に呑まれたガイコツのもとへ。
じゅる。
おぞましい光景、肉塊からのびた触腕が一気に広がり、それが口へと変化する。
一口で、それが、鬼裂を咥えた。
「……うわ」
続いて、もう一つ。
斃れたカッパ、その体のもとにも触腕が。
「……………せわ、かけたの、遠山どん。ありがとの」
じゃる。大口へと変化した触腕が、斃れて伏した大妖の体をごくりと一気に咥える。
2つの触腕、それを肉塊が引き寄せる。
ず、ず、ず。
肉塊、しめ縄の巻かれたそれが歪む。
肉が割れて、歪んだ、口が出来上がる。
人の歯、やけに歯並びのいいソレがより不気味さを強調してーー
ごくん。
それは食事だった。
肉塊に生えた口に、触腕が鬼裂と九千坊を運ぶ。一口で2人ともが肉塊に食べられた。
ぽきん、ぽきん、むしゃむしゃ。
おぞましい咀嚼音、神の領域において祀られていたソレが食事を始めた。
ああ、そうか。
それを見て、遠山は理解する。
あのしめ縄、あの演台の踊り、あの縁日。
「本気で怖かったんだな」
畏れ。
ニホン人は、古来より自然に見出した大いなるモノへの恐れを畏れとして昇華した。
どうしようも出来ないものを祀り、大いなる悪霊や災害も祀り、神として崇め、自分たちの守り神と変えていった。
それと同じだ。
この肉塊もまた、どうしようもないものなのだ。
神ですら、これを殺し尽くすこと、どうにかすることは出来ず祀って誤魔化していたのだ。
むしゃむしゃ、もぐもぐ。
2人の神秘の残り滓を平らげた肉塊が満足そうに身体を揺らす。
戻っていく。凡人探索者の友人達があるべき場所へ、あるべき元へと還る。それは悍ましく、鮮烈な光景。生きることと似ている。
遠山がゆっくりと、キリヤイバを引き抜き、一歩下り、それを見上げる。
「ーーやるべきことを、やっちまおうぜ」
その呟きに答えるかのように、ぐねり。
肉塊の真ん中が歪み、新たな何かがそこから生える。
腕だ。
日焼けした巨大な腕。それは煤けて、かすれて、ゴツゴツしている。
何かを差し出すように、あるいは何かを求めるように。
その手のひらに、何かある。
それはオレンジ色で、それは儚く、それはちっぽけで、それはきっととても暖かい。
ーー火
【ーー"はじまりの火葬者"】
【凡人探索者の神秘、その最後の1人。彼はずっと待っていた。お前が来るのを待っていた】
それは、この惑星において初めて火を扱った種族の最期の1人。
ホモ・サピエンスになれなかった類縁種、人間になれなかった人類。
かつて、種族最期の生き残りとして同胞を弔い、火葬し続けた存在。
偉大なりし、はじまりの火葬者。彼はずっと、ずっと、凡人探索者と共にいた。
鬼裂と九千坊が機を待ち、彼が時を稼いだ。
全てはこの瞬間のため。
逆転の瞬間のために。
ぼおう。
差し出された手のひらに灯る小さな種火は、待っている。
「ーーヒヒヒ」
点火の、その瞬間を。古い時代、はじまりの火葬者が天からの落雷により火を発見した時のように。
人の扱う火の始まりは、いつも誰かから与えられたものなのだから。
「火葬をご希望か?」
言葉はもういらない。遠山鳴人が、手に握るキリヤイバを構える。
呼び起こすは、魂の蒐集品。
「遺物 霧散」
白い蛇の形をした死と対峙し、それに立ち向かう為に得た力。
「キリヤイバ・拡大解釈 魑魅魍魎狭霧山野絵巻物語」
欠けたヤイバから溢れる乳白色の濃いキリ。
それは縁、それは媒介。
キリヤイバが殺した魂を再現する領域。遠山鳴人と"死"を通じて縁を結んだものを喚ぶ力。
ーーピーヒョロロロ、ローロロ
ォーーーーン
ォーーーーーオオン
祭囃子の音に混じって響くは何かの声。
遠吠え、はるか。どこかたのしげに。
そのキリが再現するは魂。
そのキリが呼び起こすは縁。
拡大する自我、拡がり続ける己の世界にて現実を冒す領域外の力。
ニヤリ。
此度、再現するは大いなる焔。
遠山の知る中で最も強く、もっと美しく、そして
「蒐集竜」
最もカッコいい竜の焔ーー
《さ、せない、やめ、やめろオオオオオオオオオオ、遠山鳴人オオオオオオオオオオ!!》
キリから漏れる金の焔、それを押さえ込もうと、真っ二つの状態の断面から名瀬瀬奈が黒い泥を溢れさせーー
《ーーアッ、なん、で?》
ばちん!
弾ける。名瀬の右腕が突如爆ぜた。黒い泥は指示を失い、見当違いの方向へ逸れる。
目を剥き、名瀬が口をぱくぱくとさせながら
《ッ、ッ!? 神体のダメージ!! 外! アレタ・アシュフィールド!! アレフチームーー!! あ、いや、それだけじゃない………?!!?》
闇色の顔に驚愕ーー
《だ、れ…… この、香り、金木犀の香り…… 海城さん……!? いや、海城さんじゃない! 似てるけど、違う! 誰?! 誰なの!? 黒色、金色ーー 私を、私の身体を外から焼いてるのは誰ーー?!》
ぼうっ。
闇色の身体が燃える。
金色の焔。それは遠山鳴人が喚んだ焔とよく似ていてーー
《お前は、誰だァァァァァああああああああああ!?》
名瀬の絶叫、もう間に合わない。
黒色の泥は、遠山鳴人には届かないだろう。
「ーーアリス・ドラル・フレアテイル」
遠山が、その名を喚んだ。
竜殺しが、竜の名前を。魂を。
《ーーアッ》
キリから現れた金色の尻尾。
美しい金色の鱗は、死の神の領域の中においても一切の穢れを許さず。
キリから顕れた金色の尻尾、その先端が膨らみ、一気に金色の焔を吐き出した。
「ヒヒヒヒヒヒ」
もう遠山を止めることは誰にも出来ない。
目を見開き、口角を上げた嗤い顔を、金色の焔が照らしていた。
金色の焔が、種火に火を点す、いやそんな生やさしいものではない。
「最強最大火力!! 最上級の焔をくれてやらァァァアアアアアアアアアアア!! こんがりと仕上げてやるぜエエエエエエエ!!」
ボオオオオオオオオオオオ!!
『ンギャァァァァあああああああああアアアアアア!!』
肉塊、その全てを金色の焔、火炎放射が焼き尽くす。
燃える、燃える。肉塊が悲鳴を上げながら燃え続ける。
ここまで来たんだ、中途半端は良くない。遠山はもう特に何も考えず、全力ブッパをかます。
良く燃える。肉塊が燃えていく。
『ギャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーー
ハー ハハハハハハハハー
ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ』
知ってた。
肉塊の悲鳴はしかし、すぐに汚い笑い声に変わっていく。
遠山はそれを見て笑う。
ああ、ほんと、こいつ。マジでイカれてるわ、と。
「自分よりよお、イカれた奴見ると安心するぜえええ!! 俺のまともさによおおお、ヒヒヒヒヒヒ、ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」
『ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!』
どろり、
焔の中、肉塊が輪郭を変えていく。
汚え笑い声の響く中、その作戦はついに再開された。
ピコン
【警告 "耳の血肉" カウント進行】
【100回 死亡】
「ヒヒヒヒヒヒ、さあ!! 起きろ!! 働けェ!! "凡人探索者"ァ」
【オプション目標 クリア "凡人探索者の救出"に成功しました】
【警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告します警告警告警告警告警告警告うわ、警告警告警告警告警告警告警告キモ警告キモ、マジでキモ警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告】
メッセージで視界が埋まる。
金色の焔の中、肉塊が形を変えて。
ねんどろり。
それが現れた。
ずも、ももも。
大岩のような肉塊、その真上に、それが生えた。
大きな、大きなそれは
「ヒヒヒヒヒヒーーーー うん?」
一対の、人の耳が、生えた。
「………………………ええ」
すんっと、遠山が冷める。
部屋の中でゴキブリを見つけてしまったように、目をしぼめて顔を固める。
『………………………………』
こちらを見下ろす大きな耳、それの耳穴が歪み、蠢き、そして、それが遠山の方を向く。
耳穴もまた、なにかもにょもにょして、動きを固める。
部屋の中でデカイゴキブリを見つけたように、固まる。
「………………………………」
『………………………………』
互いに、スンっと。
殺しても死なない、何をしても死なないゴキブリ同士が、気まずそうに見つめ合う。
世界で一番無駄で無意味な沈黙の時間ーー
生者の沈黙だ。
これから、何が起きるのか。
遠山にはわからない。人間、訳の分からない事態に直面するとノリも酔いも一気に冷めるものだから。
だが、この場に1人、それがわかる者がいたようだ。
《イーー》
《イヤぁあアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア》
名瀬の悲鳴だけが、きっと、それを知っていた。
長らくお待たせして申し訳ないです!
強欲冒険者、凡人探索者共に書籍化作業進んでおります。
強欲冒険者のコミカライズもネームがたくさん上がってきてひとりでそれを読みながらニヤニヤしたりしています。
書籍化作業とコミカライズの監修、そして普通に本業が繁忙期でWEB版更新がスローになりほんとに申し訳ない!!
その分をボリュームでお返しいたします、長い物語を読んでいただきありがとうございました。
次も宜しくお願いします!




