第1話 妖精王様のお使いで
チッカ。チッカ。
タイトルだけ書かれたWord画面で、カーソル位置の縦線が能天気に点滅している。
窓の外は真っ暗。聞こえてくるのは空調の音と、キーボードを叩く音、あとは研究室の明かりによってきたカナブン?あれ何の虫?が窓に体当たりしている音くらいの、静かな夜だ。
「あぁ〜! もう無理! 俺もう帰る」
隣のシマの中窪君がヤケクソ気味に荷物をまとめ始め、リュックに放りこもうとしたノートの間から大量のメモが抜け落ちた。悪態をつく声に、向かいの席で沈没していた森下が顔を上げた。
「クボ、帰る?」
「これ以上書ける気がしねー。森下は?」
「追加実験中……結果出るまで何もできない……」
「お嬢は……何これ、まっ白じゃん……中間発表のやつは? せめて序論あれ使えねーの?」
覗き込んできた中窪君が眉をひそめる。
ドン引きだよね。わかるよ。
松原美奈、24歳。お嬢という呼び名に特に意味は無い。単に理系の女がレアだと言うだけで、悲しいかなロマンスがあるわけでも無い。
それに、最近テレビ見てないけどリケジョ?ってまだ呼んでるの?私の場合は学部で就活に失敗して院に上がってきたクチだ。成績だけは良かったから進学に問題はなかった。
それがこの2年間、決めたテーマから脇道にそれにそれ、見境なくあれもこれもと手を出した結果……未だに結果と呼べるものが一つも無いなんて。修論提出まであと3ヶ月だよ?
答えない私に同情の目を向け、中窪君は帰って行った。
静かな研究室。残っているのは私と森下だけだ。デスクに突っ伏して沈没しているこの森下、博士に進む予定で、修論ついでに学会誌への投稿も考えているらしい。
片や私といえば、またも就活にも失敗し、唯一書けた修論タイトルすら疑問が残る、2年間を無意味に過ごしたダメ院生。修士修了すら怪しい。怪しい? 留年確定でしょ、これ。
チッカ。チッカ。
点滅する縦線に催促されるまま、無意味にスペースを入れては消し、入れては消す作業に戻る。
「お嬢……そろそろ実験室行ってくる……しばらく戻らないから帰るなら鍵お願い……」
そう言って森下がよろよろと立ち上がり、自分用の鍵を持ってふらふらと出て行った。一定のリズムで点滅する縦線を眺めているうちに30分も経過したらしい。
無駄な30分、無駄な1日、無駄な2年間。お父さんとお母さんに何て言おう。
留年するから学費もう1年分よろしくぅ〜!
退学するよ〜2年分の学費ありがとね〜!
就職? 決まってないっす♪
鬱だ。死のう。飛び降りよう。えぇ……人生まだまだこれからだし。恋して結婚して子供ができて、みたいな? 相手がいればだけど。この縦線は呑気でいいよね。リズミカルにチッカ♪チッカ♪って。私だって……
カッ。
妙に、ずっと続いていた虫のボディアタックが大きく聞こえた気がした。
カッ。カッ。カッ。ピシ。
「ぴし?」
弾けるような音に顔を上げると、窓ガラスに蜘蛛の巣のようなヒビが入っていた。例の頑張り屋の虫が繰り返し繰り返し体当たりする度に、蜘蛛の巣が大きく広がっていく。
カッ。ピシ。カッ。ピシッ。
「えっ?! ちょっ……」
立ち上がりざまノートパソコンを閉じ、ロッカーに向かって走り出した。
何?とりあえずダンボール?割れたらロッカーにホウキで、マスキングテープで窓を、どこに……
視線は窓、まだ割れてない。ホウキを左手に、森下の机に立て掛けてあったキムワイプのダンボールを引っ掴んだ。
ダンボールでおさえれば。ホウキ。大きい破片はホウキ、細かいのは掃除機で……
カッ!ピシッ!ピシシッ!
「ッせーい!」
ダンボールで押さえれば強度アップじゃん?割れてもガラスは中には……
押さえつける瞬間、脆くなった窓ガラスへの衝撃を抑えようと力を抜いた途端、視界を覆うダンボールのフチが光った気がした。
まだ割れていないはずの窓、あるはずの窓を突き抜けるダンボール、右手、それから……
「は?」
あるはずの窓枠、あるはずの壁、倒れる体、通り抜ける体?冷えた外気、顔、外、下、ここは6階で……
「ああぁぁあああアァ!!!」
松原美奈、24歳。無駄尽くしの人生の最後の締めくくりは、ホウキとダンボールを手にした墜落死……
ピリオド?
『大丈夫よ! まだ終わらないわ!』
背後から放たれた甲高い声?が鼓膜を引っ掻いた。
冷たい夜の風が顔を撫でていく。通りを走る車たちが夜景を飾っている。ヘッドライトの白い光、テールランプの赤い光。見慣れたようで、どこか見慣れない。
何一つ、動かない……?
下に見えるは、玄関のひさし、階段、アスファルト。まだ緑の濃い枝ぶりの植木が街灯に照らされている。
迫ってくる筈の光景が静止画のように停止していた。
「え……あ、あれ?」
犬かきのように手足をバタつかせる私の目の前に、羽音をたてるナニかが飛び込んできた。
『あれ? なんで? カズキ君じゃないの?!』
「へ? カズキ? 森下一樹?」
『ヨージ君は? カズキ君じゃないならヨージ君は?!』
ヨージ?? 中窪洋二??
『あんた誰?!』
「あんた何ちょっとうるさいんですけど?!」
ブブブブブブ……。羽音と風の音だけが聞こえる。
もうひともがきして落ちないことを確認し、とりあえずダンボールの上に座った。なぜか直接地面に広げたような座り心地がした。持っていた箒を落とさないよう、ダンボールの端と一緒に握り込む。
指の長さほどの虫?が同じようにダンボールの端にとまっている。かろうじて届く研究室の蛍光灯に照らされて、居心地悪そうに……正座?している。
私も同じように姿勢を正した。
よく見れば、それはカブトムシ?甲虫?のような色と質感の艶々した体に手足の生えた、透き通った羽のある小さな人だ。角があるような、髪が生えているような、顔があるような、そんな気がするが、黒くて暗くてよくわからない。
無言でちょこんと座ったその様子は叱られるのを待っているようで、つられて込み上げてきた怒りに、私はダンボールを人差し指でトントンと叩いた。
「それで?」
『はい……』
「私、考えごとで忙しかったんだけど? 何なのこれ」
『あの……助っ人異世界人を探していまして。私、妖精王様のお使いで……』
「妖精王? 助っ人? 私?」
『その、候補者のカズキ君かヨージ君はどこかなと……』
適正がどうの、優秀な候補者を連れ帰ってどうの、人違いでどうの、とポツポツ話す虫?人?謎の生き物の話を総合すると、だいたい次のような感じだ。
人と魔物と妖精が、そこそこの諍いとそこそこの平穏をもってそれなりに暮らしていた世界、タヨーセ。
ここ千年で均衡が崩れ、特に人と魔物の関係があやしくなってきた。そこで他所の世界から中立の助っ人を呼び寄せることになった、と。曰く、これまで通りつつがな~く暮らせるよう、仲をとり持って欲しい。
ファンタジー溢れる話、そこはいい。似たような話はネットにゴロゴロ転がってるから内容も承知した。
ただ人違いって何よ? 優秀じゃなくて悪ぅございましたね?
「で、何? 帰っていいの?」
『た、大変申し訳ないのですが、既に転移魔法が発動してしまっているので……』
「何それ。帰れるの? 帰れないの?」
『千年ほど待っていただければ次の転移魔法の際に便乗して帰ってくることもできるかもです。たぶん』
そいつはこめかみに片手をあてて首を傾げた。
はい? テヘペロ?
『と、とにかく! んー……巫女様?ってことで! とりあえずお手伝いいただければ! いろいろ便宜をはかって貰える予定で、不便はありませんので!』
ザザッと視界一面に走査線が走り、ダンボールがぐらついた。謎の虫人間が羽を広げて宙に舞う。
『あとで合流しますので〜!』
落ちる?!
「ああぁぁあああアァ!!!」
『あ、私の名前はミィナです〜!』
松原美奈。24歳。
今度こそピリオド? たぶん。