綱渡り、繋ぐは勝ち
「がっ……! ぁぐ、~~!」
膝から下が吹っ飛んだ。
そう錯覚するほどの衝撃と痛みが、カインの右足を貫いた。体が傾いていくのを止められない。反射的に地面で丸まってしまい、そこで初めて膝がきちんとくっついていることを認識する。
戦いが始まった時点で冠持ちは既に虫の息だった、左足はもう使い物にならないはず。優位状況でカインに生まれた僅かな油断と思い込みが、その執念、タフネスと最悪の噛み合いをしてしまった。
「ギャーッギャッギャ!!」
崩れ落ちたカインに、冠持ちが逆転を確信して斧を振りかぶる。邪悪に歪んだ口から、濃密な死臭が立ちのぼっていた。
間近に迫る死のせいか、気温が一段下がったような感覚がカインを――否。比喩ではなく本当に冷気が迫ってきている。
「澄みきった清流よ。厳冬の水面、凍てつく雫を育みたまえ──『《アイシクルパイク》』!」
巨大な氷の三日月が地を滑り、冠持ちの左脇腹に直撃した。そこには、一昨日カインによって刻まれた裂傷がある。
「アギャッ!?」
まだ致命傷にはならないが、カインへの攻撃を中断させるには十分。さらにカインの元へ、ピジムが駆け寄ってきた。
「センパイ、歩ける!?」
「ごめん、油断した……ぐっ!」
助け起こされたカインだが、上体を起こしただけで痛みに顔をしかめる。歩くどころか、立つことすらままならない。
もたつく内、冠持ちが体勢を立て直す。グラシェスは再度三日月を放つものの、今度のそれは先ほどより幾分小さく薄く、かざされた斧に当たって容易く砕かれるほど脆い。青ざめた彼の顔色は、典型的な幻素欠乏の初期症状だった。
昨日の大技による消耗に加え、今日も連戦。無理からぬ話ではある。
「まずい、まずい……!」
カインの脳内を焦りが浸食していく。作戦が、手札が、ここから生きて帰れる可能性が一つ一つ潰えていく。
本来の作戦ではカインが囮となり、ピジムとグラシェスが作った落とし穴に誘導する予定だった。さらにカインが移動と共に仕込んだ術式で穴に落ちた冠持ちを拘束し、グラシェスの大技で確実に仕留める。
しかし既にカインが行動不能、グラシェスの大技はカインを助けるために使ってしまった。作戦は完全に崩壊したに等しい。
もう動ける人間は──
「センパイ、これ!」
縋るような目でカインがピジムを見たのと、彼の眼前に氷の破片が差し出されたのはほぼ同時だった。凍り付きかけた頭でそれを受け取ると、ピジムは冠持ちに相対する。
冠持ちもゴブリンらしく、もう戦えない二人よりも目の前に出てきた雌を優先したようだ。
「それで足冷やして、ちょっとでも歩けるようになって!」
「ピジム!? 無茶だ!」
「無茶じゃない!!」
どこか怒りも混じっているような、ピジムの返答だった。
「自分の心配してよ! それにオーガスタスさんは、コイツよりずっと強いんだから! あの人とずーっと特訓してた私を、信じて」
「──」
言うが早いかピジムは駆ける。一息に飛び込んで拳を振り切る、と見せかけて急ブレーキ。迎撃で振り下ろされた斧をしっかり見て右側に避けた。籠手の身軽さを活かして冠持ちの左足を狙いに行く。
「ふぅ、~っ」
熱を持つ患部に氷を押し当てながら、カインは呻き交じりの吐息を漏らす。少しだけ機能を取り戻した頭脳で、ピジムが繰り広げる立ち回りを分析する。
大柄な冠持ちに対しピジムは焦って自分から距離を詰めようとせず、相手の大振りを誘っていた。あえてゆっくり歩いて近づいたり、斧の間合いギリギリで前後にステップして揺さぶりをかける。さらに相手の左足が軸になるよう、反時計回りで動いて思うように武器を振らせない。
確かに、彼女が訓練所でオーガスタスに指導されていた内容ではあるが……手負いとはいえ一人で冠持ちと渡り合うまで腕を磨いていたことに、カインは驚きを隠せなかった。
「……これからは、もっとピジムを前に出すべきかな」
気が付くと、未来のことを考えられるようになっている。ピジムの成長に大きな勇気を貰ったカインは、木剣を杖代わりに立ち上がった。膝関節が重力によって引っ張られ、脳髄まで焼け付くような痛みに苛まれる。が、ピジムが命懸けで稼いでくれる時間を無駄にはできない。
一歩ずつ、一歩ずつ。斧が風を切る音に、いつ水音が混じるか怯えながら歩く。あえて背後は見ない。振り向いてバランスを崩せば、痛みと絶望で立ち上がれないから。
平時なら十秒足らずでたどり着けそうな距離に、どれほどかかっただろうか。柔らかな土の感触が杖を通して伝わる。ようやく落とし穴の場所に着いた。
「カ、カインさん!」
「っと。ピジムは?」
「ぶ、無事です! で、でも仕留めるのは、厳しそうですね……」
グラシェスが肩を貸してくれた。落とし穴を迂回してピジムの方へと振り返ると、彼女は未だ冠持ちを足止めしてくれている。が、先ほどより明らかに旗色は悪い。動きのパターンが読まれ始めているのか、ピジムの行く手を冠持ちのの右足が阻むことが増えていた。
さらに言えば、ピジムの攻撃は当たったところで致命傷となっていない。戦闘経験値と、生まれ持ったフィジカル。このまま膠着状態を続けても、ピジムの方が先に力尽きるのは明白だった。
「グラシェス。今から僕は、また君に無茶を言う」
「え」
「この落とし穴の水、凍らせられるかい?」
「……こ、凍らせる、だけですか?」
「うん。落とした後にね」
落とし穴に満たした水を凍らせ、落ちた冠持ちを氷の中に閉じ込める。これがカインの描ける最後の勝ち筋だった。グラシェスの幻素欠乏はより深刻になるだろうが、まだ絞りだせる物があるならやってもらう。
「こ、攻撃じゃないなら……何とかして見せます」
「ありがとう。──ピジム! こっちだ!」
カインが精一杯声を張る。それを聞いたピジムは露骨に後ろ荷重になり、一歩二歩と後ずさる。さらにこれまで見切ってきた斧を大げさなバックステップで避け、一気に踵を返して加速。全力で逃走する構えを見せた。
一連の動きを弱気と取った冠持ちは、ずんずんと前に踏み出してくる。
「ギャジェー!」
「よし、かかった!」
冠持ちとて、決して余裕のある状況ではない。目の前に突如転がってきた有利に、目が眩んだ。
落とし穴まで、息を止めてピジムは走る。向かいで見ることしかできない幼馴染二人の息まで詰まる、命懸けの鬼ごっこ。僅か五秒ほどではあるが、三人はこの緊迫感を生涯忘れることはないだろう。
最後の一歩は大きく跳躍し、ピジムは自分が掘った落とし穴を跳び越える。背後で盛大な水音と、冠持ちの悲鳴が聞こえた。




