8-5 血を濯ぐ、清流と颶風
突然の乱入者に、ジェヴォーダンも警戒を強める。
水の鞭を振るった張本人――カミラが、その白い鎧を月に晒す。その背後、亡霊が闇に紛れるように佇んでいた。
「大丈夫か!? 良く持ち堪え……何だ、オーガスタスか」
「何だとは何だよ。それに、その言葉を言うのは俺にだけじゃないだろ?」
オーガスタスの言葉に、カミラがピクっとなる。クラレンスの方へぎこちなく首を向け、すぐに戻した。
「あ……ああ。うん、そうだ、な」
姉弟なのだ、顔は一目見て分かったが……カミラの口からは碌な言葉が出てこなかった。
「……とりあえず、無事で何よりだぜ」
こりゃあダメだな、とオーガスタスは会話を繋いでやる。
「戦ってるのはもう2人。集落の入り口付近、テレザとシェラがいる。向こうも良い状況じゃねえだろう」
「分かった。ど――」
「……」
どうする、サイラス? とカミラが聞く前に、サイラスは草地を滑るようにテレザ達の方へと向かって行く。相変わらず完全に無言ではあるが、付き合いの長い2人には彼の意図がはっきりと伝わった。
「くっく。『弟から逃げるな』だとよ、カミラ」
オーガスタスが笑った。その目は優しく、カミラとクラレンスを交互に見ている。
「……分かっている。だが、ややこしい話は後だ」
カミラが渋面で武器を構え、ジェヴォーダンを改めて睨みながら、大声で無理矢理場を締めた。
「クラレンス! 貴様がどれだけ強くなったか、私に見せてみろ」
最後に会った10余年前と何も変わらない、凛とした厳しい声がクラレンスに届いた。散々憎み、恨み、そして憧れていたこの声に、かつてならカッとなって言い返していただろうが――今は懐かしさすら覚える。穏やかに、彼の口角は上がっていた。
「言われなくとも、見せてやるさ。俺なりに、死線は潜ったつもりだからな」
クラレンスの余裕ある返しを、オーガスタスは横目で誇らしげに見ていた。
「よし行くぞ。カミラはいつも通り最前線、クラレンスはその補佐。俺が決めの一撃を叩き込む。良いな!」
「任せろ」
「了解した」
カミラとクラレンスが並び立つ。それを挑戦と取ったかジェヴォーダンが一声吠え、飛びかかる。振り上げた右前肢、そこに備わる爪が鈍く月光を帯びて2人へと叩きつけられた。
が、その手応えは先ほどとは違う。かざされた2枚の盾が完璧に連動し、1枚の壁を思わせる堅固さでジェヴォーダンの爪を弾き返した。
「隙あり、だ!」
オーガスタスが顎へ向けて振るった戦鎚を嫌い、ジェヴォーダンは地を蹴って反転後退。ついでとばかりに鉄線を束ねたような尾を振るうが、そこへまたしても壁が割り込んだ。ジェヴォーダンが忌々し気に唸る。
「良いぞ2人とも! 息ピッタリじゃねえか」
「な、何がピッタリなものか!」
「俺が合わせてやったんだ」
「ピッタリじゃねえかよ……」
死闘の最中にも関わらず、オーガスタスが相好を崩した、その刹那。
3人からやや離れた集落の入り口辺りで、光と音が爆ぜた。
テレザにとっても、それは全くの不意打ちだった。
地面に押し倒され、もがいていた彼女の視界が重く激しい音と同時に白く染まる。直後に風圧が走り抜け、風に巻かれた土が頬を叩いた。
「いっ……!?」
眩さは一瞬。白と黒を一瞬で往復した視界はまともに機能していないが、体にのしかかる重さが一気に軽くなったことは分かる。今なら跳ねのけられる!
「っ邪魔よ――、?」
テレザが思いっきり腕を跳ね上げると、マーブルウルフの体は何の抵抗もなく傾き、地面へと倒れた。そして感じる、腹部への温かみ。まだ腹を噛まれたりはしていないはずだが……と不思議に思いつつ上体を起こし、自らの体を見下ろしてみる。
すると、
「なっ……これ、こいつの血?」
彼女の鎧をしとどに濡らしていたのは、マーブルウルフの血だった。地面に倒れたそいつを見れば脇腹に大穴が空き、千切れた内臓と骨が肉と混ざり合って覗いている。その体と草の間からは未だ止めどなく血が流れ続けていた。
思わず風の吹いてきた方向を振り返る。その先には銃を地面に突き立て、それにすがるように立つシェラの姿があった。そして、彼女に向かって身をたわめる、生き残りの2頭も。
「させるかっ、『炎熱噴射』!」
シェラのおかげで、まさしく九死に一生を得た。そして2頭は目の前にいる。テレザは残る力を振り絞り、足から熱気を吹き出して跳ぶ。右拳をこれでもかと握り込み、助走の勢いをそのまま手前にいた1頭に叩きつけた。
「ギャンッ」
何処かの骨を砕く感触。犬らしい悲鳴が上がるが、状態を確認する暇はない。駆けだしたもう1頭の尾を左手で引っ掴む。脇を絞って股を割り、マーブルウルフを力づくでその場に留めた。
「これで終わりよ――」
さらにテレザは左腕に渾身の力を込め、テレザを振り払おうともがくマーブルウルフを地面から引っこ抜く。無防備になったその腹に、右拳を打ち込んだ。
「『熱杭』!」
破裂音と共に拳が皮を裂き、骨を折り、内臓を潰す。突き込んだ腕だけでなく顔、胸にまで体液やら未消化の肉やらを浴びながら、テレザは周囲を見渡した。
……先ほど殴り飛ばした1頭が、立ち上がっていた。
「……良い加減にしてよ」
呻くように言って、テレザはふらふらとマーブルウルフの方へ歩き出した。先ほどの閃光の影響はもう残っていないはずなのに、視界がぼやける。幻素欠乏を起こし極限に達した疲労により、瞼が閉じかけていた。筋肉が、骨が、肺が、心臓が、脳がもう休ませろと全力で休息の信号を送る。
それでも、進む。
「……『風杭』」
かすかに聞こえた詠唱で、テレザは足を止めた。目の前でマーブルウルフが不意に地面から浮き上がり、ビクッビクッと痙攣する。その背中から、収斂した風の杭の尖端が生えていた。呆然と振り返ったテレザの目に、ボロボロのローブを纏った男が朧げに映る。
オーガスタスの知り合いの、無口な男。テレザが再三殴って仕留めきれなかったマーブルウルフを易々と……恐ろしい術式の冴えだ。
「サイラス、だっけ……? シェラを、お願い」
それだけ言って、テレザは地面にへたり込んだ。




