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裏東京の異名持ち共  作者: 愛川莞爾
36/36

増援


 安堵の息が、氷雨の口から小さく漏れた。


 胸を撫でおろしたのは彼女だけではない。緊急対策本部にいる全員が、部屋のモニターを見て歓喜と安堵の入り混じった声を上げ、そしてまたすぐに己の仕事に戻っていく。あくまでも、これは作戦の第一段階が成功したにすぎないのである。


(けれど、これが失敗したら、本当に全て台無しになっていた……よくやってくれたよ、二人とも)


 モニターの中で箒の先端に引っ掛けられるようにして運ばれていく二人を見ながら、氷雨は心中で礼を言う。


 そんな彼女の横に、さりげなく寄ってくる人影が二つ。イヴと、その背後に控えるサレンだ。


「うまくいきましたわね」

「ああ、なんとかなった。問題はこれから、だけどね……千景君、障壁班の方は?」

「手筈通りに。開けた穴に干渉し、維持できています。パイプ状に障壁を伸ばし、二重障壁の外からの直通ルートを作ることも可能と言っていますが、どうしましょうか?」

「いや、計画通り穴を維持するだけでいい。直通ルートを作ると二重障壁の意味が無くなる。相手がそのことに気付けば、二重障壁内の破滅因子(ワールドエンド)がそのまま外に再召喚されかねない。そっちの方が厄介だよ」

「了解です。では増援用の箒部隊も、手筈通り常時四名待機させておきますので、突入の際は彼女らに頼るということで」


 氷雨が頷きを返すと、千景も一礼して仮想画面を大量に表示させながら下がっていく。段階が進んだことにより、各所への連絡も必要なのだろう。


 その姿を見送り、氷雨はイヴに向き直る。少し後回しにしてしまったが、この腹黒い友人が祝いの言葉を言うためだけに近付いてきたわけがない、というのは重々承知のことだった。


「待たせたね。それで、なにかな?」

「ここからの展開について、貴女の意見を聞きたいと思いまして。壁が破られた今、あちらはどう動くとお思いですか?」


 口調はいつも通りに優雅なものだが、イヴの顔に楽観の色は無い。そしてそれは氷雨も、この場の誰も彼も同じことだった。


「絶対の自信があった壁が破られ、慌てふためいて後手後手に――なんてなってくれれば万々歳なんだが、まあありえないだろうね。アナ・オールドリッチは直の能力をよくよく知っている。万全の対策をした上で、それでも破られたときのことは想定しているだろう。

 となると、相手の打てる手は大きく三つ。

 一つ目は、学校の敷地内に破滅因子(ワールドエンド)を配置して迎え撃つこと。これが一番シンプルで、可能性が高い。二人の対応にもなるし、それ以降の増援にも対処できる。

 二つ目は、二重障壁内の破滅因子(ワールドエンド)を増やすこと。これは、既に入ってきた二人のことはもう無視して、これ以上の増援を入れさせないという策だね。内部セキュリティーに自信があれば、こちらもあり得る」

「では、三つ目は?」

「それは――」


 と、氷雨が返答を口にしようとした、その時だった。


「――総指揮代理! 各所から同時に破滅因子(ワールドエンド)の発生反応が検出されています! どれも三つ葵や裏皇居からは離れた市街地に、現在反応数十二! ジオラマに表示します!」


 モニターに向かっていた観測係の生徒から鋭い声が響き、室内に動揺が走る。氷雨が苦々しい思いで長机上のジオラマに目をやれば、赤い十二個の点が範囲内に満遍なく配置されていた。


「……三つ目は、全く関係の無い場所へ破滅因子(ワールドエンド)を放ち、そちらに対応させることで増援に割く人員を削ること。この策は、こちらが『市街地を見捨てない』という前提があって初めて成り立つものだ。悪し様に言えば、こちらの善意に付け込むような策だね」

「この策も、敷地内で十分に迎え撃てる準備があるからこそ打てるものですわ。何があるかは分かりませんが、二人が危険なことは確かですわよ?」

「だろうね。そのことを考えれば、ここは市街地を見捨てて、あくまでも攻勢に徹するのが最善手なんだが――」


 そう呟いた氷雨に割り込んできたのは、スーツを着た禿頭の男だ。男は恰幅の良すぎる身体で床を震わせながら、顔を真っ赤にして氷雨に詰め寄る。


「ま、待ちたまえ! 市街地を見捨てる!? こんな街中に現れた破滅因子(ワールドエンド)を放置して見ろ、どれだけの被害が出ると思っているんだ! 特にこのあたりなんかは宿泊施設やマンションなんかも――」

「分かってます、分かってますよ署長さん」


 そちらの立場もね、と内心で付け加えつつ、氷雨は男を宥める。


(指揮権も戦力も学生しかもっていないのに、いざなにか起これば警察なんかはどうあったってその責任の一旦を負わされる羽目になる。事が起こってしまった以上、彼らとしては是が非でも被害を最小限に抑えたいのだろうな……)


 理不尽な話だ、と相手に同情する程度の余裕はある。というより、氷雨はもとより一般市民を完全に見捨てられるほどの強靭な精神を持ち合わせていないのだ。


「千景君、増援のために用意しておいた部隊を、出現した破滅因子(ワールドエンド)への対応に当たらせてくれ。二重障壁内で戦闘している陽動部隊たちも一度下がらせて、可能ならそちらに回そう」

「……よろしいのですか?」

「今は仕方無い。それぞれ対応しつつ、どうにか攻め手を探すしかないさ」


 氷雨の言葉に、千景は一瞬の間を置いて了解する。そしてその姿を見せると、禿頭の男も安堵したのか「くれぐれも頼むよ」と言い残して離れていった。


 ふぅ、と今度は安堵ではなく疲労感の漂う溜息を一つ漏らし、氷雨はイヴに目をやる。


「……君だったら、市街地は見捨てたかな」

「ええ、勿論。帝さんも、きっとそうしていたでしょう」

白日(バイリー)先輩だったら、自分で市街地を助けに行ってただろうね」

「間違いでしょう。――でも、貴女は貴女、その判断は間違いではありませんわ。一般人を平然と見捨てられる私達の方が、人でなしというだけですもの」


 イヴはそう言いながら、いつも通りの笑みを崩さない。


「……やっぱり、ガラじゃないよ、ボクが総指揮代理なんて。ほんと勘弁してほしい」

「うふふ、今更逃げられませんわよ。ほら、元気出してくださいまし。貴女の友人として、私もできる限りの手を尽くしているのですから」

「それはありがたいけど――ん? 手を、尽くしている……?」


 手を尽くす、ではなく、尽くしている。その現在進行形の言い回しに、氷雨は引っかかる。


(いやまあ、アヴァロン所属の生徒への指示出しとか、千景君の補佐とか、ボクへの助言とか、間違いなく現在進行形で働いてくれているんだけど。今の言葉のニュアンスは、また違う風に聞こえたんだが……)


 は、と氷雨は気付く。


「あの、まさかと思うけど」

「ええ、そのまさかですの」







 礼治と直が降り立ったのは、第一校舎棟の昇降口前であった。


 箒に揺られていたのはほんの五分程度だったというのに、礼治は軽いふらつきを覚える。それも無理は無い、高所からの自由落下から、反動で吹っ飛び、さらにはほぼ宙づりでここまで降ろされたのだ。意識を保っているだけでもほぼ一般人の身としては十分賞賛に値するだろう。


「じゃ、悪いけどあたしは一旦下がらせてもらうよ。脱出の際のピックアップポイントはここね」

「了解です。ほんっと、ありがとうございました。先輩達の神業がなけりゃ失敗してました」

「あ、ありがとうございました」


 直が素直に頭を下げるのに少々驚きつつ、礼治も同じように礼を言う。


「いいっていいって。むしろこっから先は手伝えなくてごめんね。ほら、あたしの戦場は空だから。地下に潜ってくのとか向いてないのよ。それよりあんたら、こっからが本番だからね? なにがあるか分かんないし、危なくなったらとっとと救援呼ぶこと! 最速で飛んできてあげるから!」


 それじゃあね、と早口で言い残し、白い箒は甲高い爆音と共に飛び去って行く。


(こっからが本番、か……たしかに、目的はあくまでも先生を止めることだもんな。一息なんかついてられねえ)


 よし、と打ち合わせもなく二人は声を合わせ、顔を見合わせて少し笑う。大丈夫、息は合ってるしまだ笑う余裕もある――そのことを確認するといくらか緊張もほぐれる。


「じゃ、これからの動きを確認するわよ。まずは最短距離で地下の検体保管庫まで行く。研究棟に直通のエレベーターがあるから、それを利用することになるわ。氷雨が言うには、そこまでのセキュリティーが書き換えられてる可能性が高いらしいけど、その時は力業でぶっ壊す。道中破滅因子(ワールドエンド)に邪魔されるだろうけど、極力無視で突っ走るから、遅れるんじゃないわよ」

「了解。っていうか、敷地内は意外となんもいないね……? 来る前は、下手すりゃ破滅因子(ワールドエンド)でぎっしりかも、とか脅されてたのに……外に出した分とかで弾切れなのかな?」


 礼治はそう言いながら辺りを改めて見回す。障壁の外の騒ぎが嘘のように静まり返っていて、まるでここだけなんでもない休日のような様子である。


「んー、たしかに相当数の破滅因子(ワールドエンド)は出してるはずだけど、まだ弾切れってことはないと思うんだけど……たしかにちょっと不気味なぐらいね。ま、邪魔が無いならそれに越したことはないし、とりあえず油断はせずに行くわよ」

「分かった」


 動きの確認が済むなり、二人は研究棟へと小走りで向かう。二人とも周囲への警戒絶やさずに進むが、破滅因子(ワールドエンド)が飛び出してくるでもなく、かといってゴーレムが待ち構えているわけでもない。


「なにこれ、マジで弾切れなのかしら……っと、氷雨?」

『――もし、もしもし? あ、やっと繋がった。二人とも無事かい?』


 若干ノイズ交じりの仮想画面が、直の顔横に浮かび上がる。何らかのジャミングでもあるのか、聞き取れないほどではないが若干の乱れがあった。


「無事よ。今研究棟に向かってるんだけど、中はやけに平和。破滅因子(ワールドエンド)の一匹も出てこないんだけど、これどういうこと?」

『一匹も、かい? それは流石に妙だな……確実に何らかの迎撃手段は用意されてるはずなんだけど。

 あ、それより、すまない! 今市街地の方で大量に破滅因子(ワールドエンド)が召喚されてて、そっちに回せる人員がいないんだ。できるだけ早く人を回すようにするから、今は二人で行けるところまで進んでくれ』

「え、一人も増援無し……? 白日(バイリー)先輩とかは?」


 礼治は思わず口を挟むが、氷雨はすまないと繰り返す。


『あの人も消耗が激しくてね……今一旦退いて治療を――え? なに? 当て木だけしてもう出てった? 市街地の方に? 一人で? 利き腕折れたって言ってなかった?』

『「震脚さえ使えればなんとかなル」とか言って、箒飛行部一人さらって行ったらしいですわ』

『街中で震脚連打はやめてほしいなあ! 既に水道管破裂の報告が来てるんだけど! ……っと、すまない、どちらにしても、増援には行けないみたいだ』


 仮想画面越しに聞こえてくる滅茶苦茶なやり取りに、流石の直ですら閉口する。


 閑話休題。礼治もないものねだりをしていても仕方ない、と切り替える。研究棟はもう随分近付いていて、目の前の角を曲がれば見えてくる――とそんなタイミングで、わずかに先を行っていた直が角の直前で急ブレーキをかけた。


「うお!? え、なに、どしたの!?」

「ちょ、あれよあれ! あれなに!?」


 直は角の植木に身を隠しながら、その先の様子を指差す。礼治はわけが分からないままに、同じように角から少し顔を出してその先を見る。


 そこにあったのは、人込みだった。


 老若男女問わず、皆同じ病院服のような物を着た五十人からなる人込みが、研究棟の前の道に虚ろな表情で立っていたのだ。明らかに生徒でも教師でもない、病院から入院患者が集団脱走でもしてきたような光景だ。


「……なんだあれ?」

『なに? どうなっている? ちょっとこっちにも見せてくれ!』

「あ、うん、そっち向けるわよ」


 直が仮想画面をその集団に向けると、画面の向こうで氷雨がはっと息をのむ。それは異様な光景に驚いた、という反応ではなく、一目でその光景の意味を理解したが故の反応であった。


『これは、まずい……! そ、そういうことか……!』

「え、なに? なんなの? これ突っ切っちゃまずい奴?」

『ああ、迂闊に近付くなよ? 彼らは――死人だ』

「「……は?」」


 二人の声が重なる。この総指揮代理は一体なにを突拍子もないことを言っているのか。問い返すよりも先に、早口の答えが返ってくる。


『彼ら全員、地下の検体保管庫で眠っていた優秀な魔法使いの遺体なんだよ……! あの服は検体に着せられるものだし、資料で見たことある顔が幾つもある。あれはもう全員死んでるんだ』

「は、はあ? なに、それじゃああれ、全員ゾンビだっての!?」

『そうだね。恐らくアナ・オールドリッチが死霊術で――いや、彼女の本来の専門を考えれば、あれはむしろゴーレムとして運用されているのだろう。死霊術に必要な生への希求は、本命の大英雄の遺体の復活で搾り取られてるだろうし、適当な魔石を核にすれば死体を疑似ゴーレムとして運用することは不可能じゃない……言うなれば、あれはゾンビゴーレムだよ』

「ゾンビゴーレムって……」


 礼治はその名前を繰り返しながら、以前直と話したことを思い出す。三つ葵の地下の死体が一斉に動き出したらどうなるか。数にして公式発表で三千体からなるそれらが、殺意をもって襲い掛かってきたら一体どうなるか。


(嘘だろ、おい……)


 思わず礼治は生唾をのむ。身体強化によって強化された彼の目は、ゾンビゴーレムのうなじに不自然なふくらみを捉える。あれが核となる魔石だとすれば、砕いて無力化するのは容易なことではないだろう。


「――氷雨、そのゾンビゴーレムって、ここにいる五十体ぐらいだけだと思う?」

『……いや、確実にもっと多い。それはむしろ氷山の一角にすぎないだろう。地下へ向かう道はそいつらでぎっしりだと思った方がいい。恐らく稼働時間は精々一時間程度だろうし、「動く奴に襲い掛かる」ぐらいの単純な命令しか与えられていないだろうけど、それでも閉所の迎撃には十分すぎる』

「魔法は、使ってこないの?」

『ああ、そこまで高性能じゃないはずだ。だが……』


 氷雨は口を濁す。無理もない。如何に単体の力は弱いとはいえ、無数に湧き出る相手など、高火力の一撃が売りの直にとっては天敵と言ってもいい。


 どうする。

 礼治と直は顔を見合わせるが、都合の良い解決策などあるはずもない。仮にこの場を凌ぐ方法を思いついたとしても、進んだ先も同じ手が通用する保証は無い。


「……直、散弾タイプをぶっぱなしながらごり押しで進む、ってのは可能?」

「確実にガス欠起こすわよ、あたしもあんたも。あたしの散弾だと、跳ね返って自爆しかねないし」

「なら、いっそここから真下に全力で一発打ち込んで、大幅ショートカットとかは?」

「あたしの弾丸が真っ直ぐ真下に行くわけないでしょ。地下で暴れ回って崩落でも起こしたら詰みだっての」


 にべもない答えに、礼治はそれ以上案が出ない。


(くそ、多勢に無勢は本当に相性悪いな……こんなとき、会長なんかだったら全部叩き潰して悠々進めるだろうに)


 仮想画面の中の氷雨も険しい顔で黙るばかり。しかしこうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていくのだ。


 なにか、なにか手段は――と焦りが首をもたげた時、直がはっと顔を上げる。


「? 直、何か思いつい――」

「なにか、来る」

「は?」


 彼女はそう呟いて上空の一点を見上げる。礼治もつられて見上げてみれば、そこには先程二人が開けたばかりの大穴がある。そしてその更に向こうに、黒い点のようなものがたしかにあった。


 点は徐々にその大きさを増し、輪郭をあらわにしていく。遥か彼方の空から高速で近付いているのだ。


「え? 増援は無いはずじゃ――」

『三つ葵からは出せない、ということですわ。ですので私共アヴァロンから、とっておきの戦力をご用意いたしましたの』


 と。氷雨の背後から、豊かな金髪を揺らしながら現れたのは、アヴァロン生徒会長であるイヴだ。彼女は上機嫌に笑みを浮かべ、自慢げですらある口調で告げる。だがそんなイヴに反して、氷雨は何故か苦虫を嚙み潰したような表情である。


「アヴァロンから? つっても、あんたもサレンもそこにいるじゃない」

『あら、異名持ち(ネームドクラス)ばかりが主役だなんて傲慢ですわよ?』

「そりゃ、まあ異名なんかなくても強い奴は――はぁ!? ちょ、あんた、この場面で!?」


 なにに思い至ったのか、唐突に声を荒らげる直に礼治は目を丸くする。上空の黒い点はまだ遠く、礼治の目ではその正体を知ることはできない。


『ふふ、戦況を変えるジョーカーですもの、ここで切らずにどこで切ると?』

「っの、あんたホントお上品な顔でとんでもないことを……! 礼治、さっさと逃げるわよ!」

「え? は? 逃げる?」


 礼治は思わず聞き返しながらゾンビゴーレムたちに目をやるが、向こうがこちらに気付いた様子は無い。少なくとも感知能力はそう高くないらしい。


(アヴァロンからの増援と合流して態勢を立て直すってことか? もう時間も無いし、悠長なこと言ってる場合じゃないと思うけど……)


 そんな思考を巡らせる礼治を、直は焦りを隠そうともせずに怒鳴りつける。


「馬鹿! そっちじゃないわよ! あの『増援』から逃げる、っつってんの!」

「はぁ? って、うぉ!? ちょ、待てって!」


 言ったが早いか、直は無理矢理礼治の手を取ると、足音が出るのも構わず全力で走り出す。向かう先は一番近くの校舎、研究棟に背を向けて本当に逃げ出す形だ。


 どういうつもりだ、と問う余裕も無い。なんとか転ばないように追い縋りながら、礼治は視界の端で黒い点が確かな像を結ぶのを捉える。箒は俗に旧式と呼ばれる掃除用の箒の形を保ったもので、それに跨り操るのはドレスのように華美なアヴァロンの制服を身に纏った少女だ。


 そして、その後ろに乗っていたのは。


「――礼治、飛び込め! 一滴でも浴びたらアウトよ!」

「飛び込めってぇ――!?」


 目の前には工作室。当然不用心に窓が開いているはずもなく、しかし逃げ場はそこにしかない。そして『増援』の正体を知ってしまった礼治に、迷う余裕も無かった。


 二枚の窓がぶち割れる破砕音が響き渡る。

 直は華麗に一回転して受け身を取り、礼治は半回転で軸がぶれて背中を床に強かに打ち付ける。彼はその激痛に悶絶するものの、割れた窓ガラスでハリネズミにならなかっただけ幸運と言えるだろう。


 そして。



「――涙雨(ダーティーレイン)



 叫ぶでもなく、張り上げるでもない、ただ呟いただけの短い呪文が、何故だか二人の耳まで届く。


 直後、窓の向こうに夜の帳が降りた。


 否、それは夜闇ではなく、空を覆いつくす真っ黒な泥だ。上空で箒から飛び降りた術者が、空中で一瞬にして大質量の泥を放出し、それを文字通り雨あられとして地面へと叩きつけたのだ。


 窓ガラスを割った音とは比べ物にならない轟音が炸裂し、同時に衝撃が周囲一帯を震動させる。工作室の窓にも泥の飛沫はびっしりと張り付き、割れた窓枠から室内にまで飛んでくる。二人は悲鳴を上げながらそれから逃れ、その一滴にすら触れないように慎重に大回りして外の様子をうかがう。


 斜め打ちに叩きつけられた大質量の泥は、研究棟の前にたむろする五十人からなるゾンビゴーレムの集団を飲み込み、圧し潰し、そして吐き捨てた。先程まで礼治達が話をしていた辺りは、並んでいた樹木や外灯すらへし折られて真っ平に整地され、そんな泥の湖の中央にただ一人立つ人影がある。


 誰か、などと問うまでもない。この広い裏東京の中にあっても、このような芸当ができるのはただ一人だけだろう。



「――名を呼ぶことなかれ(アンネームド)、呼ばれてないけど参戦するよ」




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