再会と脱出
静かに倒れていく礼治を確認し、安奈はゆっくりと息を吐いた。
礼治の強化と魔力の供出によって当初の予定よりは随分マシだが、それでも彼女の身に掛かる負荷はかなりのものだった。もとより今彼女が発動させた魔法は、一介の魔法使いが単独で行使できるようなものではない。軽くふらつく身体を強引に立ち直らせ、彼女は眼下のステージ中央へと目をやった。
黒い長方形の塊――あれは、遺体保存用の冷凍装置だ。言ってしまえば高性能な棺桶。この検体保管庫には幾多あるうちの一つで、その中にあるものこそが安奈が求めたものだった。
上部の蓋がずれ、その中から白い腕が伸びている。安奈はそれを見て魔法の成功を確信し、心底安堵し、その棺桶の元へと向かおうとする。
早く、早く、と焦る気持ちでドアノブに手を伸ばし――しかし、手が届く寸前で彼女はその場から飛び退いた。
ドガァン!
轟音と共に鍵を掛けたはずのドアが外からぶち開けられる。上部の蝶番が吹っ飛ぶ威力に、安奈は即座に戦闘態勢に入る。
生贄を逃れた者がいたのですか、と警戒していたのだが、現れたのは別の人物であった。
「――やってくれたな、先生」
ショートカットに眼鏡、幼い風貌でありながら確かな知性を感じさせる少女の顔が、今は静かな怒りに燃えている。トレードマークの白衣は無く、どころか上下下着だけというあられもない格好で廊下に立っていたのは、行方不明になっていたはずの冷泉院氷雨であった。
氷雨は床に倒れ伏す礼治を目にして、更に強く安奈を睨む。しかし安奈は突然の来訪者に動揺した様子すら見せなかった。
「おや、あの部屋から抜け出してしまったんですか……見張りのゴーレムを置いておいたはずですが」
「これだけの大魔法を行使したんだ、いくら自動型でも影響は受けるさ。隙をついて破壊させてもらったよ」
「そうですか。――殺さずに軟禁していたのは、失敗でしたね」
私も甘い、と安奈は苦笑する。しかしその瞳は氷点下まで冷え切っていた。
――この子は邪魔だ。
安奈がそう判断し、目の前の少女を敵として排除しようとしたその瞬間、氷雨の背後から一枚の頁が矢のように安奈の眼前まで飛んでくる。
(ッ!? これは、事前に詠唱を終えていましたね……!?)
油断した。氷雨の呪文より、自分のアクションの方が早いと高をくくっていた。
何が来る。安奈は反射的に身を躱そうとするが、それも無意味だ。眼前で光って消えた頁は、彼女の視界を完全に奪う濃霧へと姿を変えたのだから。
(これは、霧煙る時計塔の都……! 不意打ちを狙うつもりですか……!)
良い作戦です、と思わず評価してしまうのは、未だに担任としての自分が抜け切れていないからか。ともあれその狙い通りになるつもりは毛頭無い。安奈は濃霧に視界を奪われながらも、その中で何かが動く気配に感覚を尖らせる。安奈を無視して部屋の奥へ一直線、狙いは不明だが動きは知覚できていた。
「そこッ!」
「ぐぁ……!」
安奈はボールペンを迷わず投擲する。ただのペンといえど、身体強化した魔法使いが投げれば立派な凶器だ。囮ではないかと疑っていたがどうやら氷雨本人だったらしく、苦悶の声が返ってくる。
ならば、と安奈は懐に隠し持った本命の手術用メスを続けて放つ。しかし、今回返ってきたのは刃物が床に刺さった高音のみだった。
(避けた? いえ、この気配は……)
警戒は保ちつつ、安奈はそれ以上の追撃はしない。やがて三十秒もしないうちに霧は消え、改めて確認してみれば残されたのは安奈ただ一人。
氷雨が飛び込んできた場所――つまり礼治が倒れていた場所には、僅かな血痕が広がっているだけで、二人の姿はそれこそ霧のように立ち消えていたのである。
「この場からの退避を優先しましたか。どんな方法を使ったのかは知りませんが……上出来ですね」
良い判断です、と虚空に向かって呟いて、安奈は今度こそ廊下へと出ていくのであった。
■
「――くん! 阿部君! 起きてくれ阿部君!」
「ん、うぅ……?」
身体をゆすられる感覚と、己を呼ぶ聞き覚えのある声によって、礼治は目を覚ました。
酷く身体が重い。瞼を開けることすら億劫で、そのままもう一度眠ってしまおうかとも思ったが、呼び声の必死さが礼治を引き留める。礼治は気力を振り絞って目を開いた。
鋭い眩しさは無い。そこはぼんやりとした明るさの空間で、天井も壁も随分遠くにあるように感じる。ここはどこだ、と視界を探す中で、礼治は枕元に先程の声の主を見つける。
「れい、ぜいいん、さん……?」
「お、起きたんだね! 良かった……! 大丈夫かい!?」
一週間ぶりに見る友人の無事な姿に、礼治の意識は一気に覚醒する。彼は疲れも忘れて飛び起き、しかし氷雨の姿を改めて見て硬直する。
――下着姿、なのだ。
普段のイメージから完全な平坦かと思えば、ほんの僅かながら女性らしい曲線はある。幼さを残す身体には不釣り合いな黒の下着がそれを引き立て、こんな状況でも否応無しに礼治を意識させる。
「え、ちょ、冷泉院さん!?」
「本当に良かった……立てるかい? 歩けるかい? 正直ボクもかなり消耗してる、身体強化を使っても君を担いで行くのは無理があるから、自分で歩いてもらう他ないんだけど」
「い、いや、ちょっと待て! その、だ、大丈夫なのか!? 酷いことされたりしなかった!?」
礼治は思わず氷雨の両肩にがっと掴む。見る限り外傷らしい外傷は無いが、それでもうら若き乙女があられもない姿でいるのだ、そういう心配をしてしまうのは無理からぬことだろう。
氷雨の方は、礼治の必死の形相に面食らって戸惑い、ワンテンポ遅れて今の自分の姿について思い出す。氷雨は普段の彼女からは考えられないような甲高い声を上げて礼治を突き飛ばし、両手で身体を隠しながら叫ぶように言った。
「だ、大丈夫だから! そういう心配は要らない! ただなにも隠し持てないようにって、ひん剥かれて監禁されてただけだから!」
「そ、そっか……あー、その、なんだ、悪いけどこれ着てくれると話しやすい」
礼治は気まずそうに目を逸らしながら制服のシャツを脱ぎ、一度自分で匂いを確認してから氷雨に突き出す。氷雨は消え入るような声で礼を言い、いそいそとそれを羽織った。
氷雨はわざとらしく咳払いを一つ。仕切り直しとばかりに、強いていつも通りの口調で言う。
「阿部君、端的に言って我々は今ピンチだ。正確に言うなら、裏東京自体が危機に瀕していると言っていい」
「裏東京自体が……? っていうか、それよりもまず、ここどこ?」
本題に入る前に、礼治は改めて周囲を見回して問う。
どこから照らされているのかぼんやりと明るく、壁も天井も見えないほどに広い空間だ。下を見れば床は一般家庭にあるようなフローリング、それも奥へ奥へと長々続く一本の廊下のようになっていて、両端は曖昧に空間に溶けている。
記憶が正しければ、自分は安奈に魔力を使い果たされ、あの部屋に放置されたのではなかったのか。
「ああ、ここは鳶足君の『なにが出るかな』の内部だよ。と言っても、今は普段よりも遥かに拡張されているはずだけど」
「『なにが出るかな』の中……? あ、前に行ってた、疑似的な異空間トンネルって奴か!」
「そういうこと。彼には予め話を通してある。彼の手の届く範囲まで行ければ、現実世界に引き上げてくれるはずだよ」
「それって……冷泉院さん、こうなることも予想済みだったってことか?」
礼治の問いに、氷雨は「まあね」と苦笑する。それは誇らしげなものではなく、むしろ自嘲気味な苦笑だった。
「最悪の予想が当たった、ってところさ。さて、それじゃあさっきの裏東京自体の危機についてもあわせて説明しよう。時間が惜しいから、歩きながらね」
氷雨はそう言って立ち上がる。礼治も、力のこもらない足に鞭打って、彼女に続くのであった。
■
時は戻って約一週間前。
氷雨は安奈との約束の場所である三つ葵の森の中の広場に訪れていた。
石畳の広場の縁、安奈は森との境目に蹲り背を向けている。氷雨はその背に五メートルほど距離をとった辺りから「先生」と声をかけた。
「ああ、冷泉院さん。すみませんね、こんなところに呼び立てて。もうちょっとだけ待ってもらえますか?」
「それは構わないが……先生、一体何を?」
好奇心に負けて氷雨は安奈に近付いていく。横から覗き込んでみると、安奈は小さなスコップで穴を掘り、そこに何かを埋めているようであった。
(埋めているのは、石? いや、あれは、魔石の類か)
結晶や宝石に魔力を込めて加工した物を魔石と呼ぶ。安奈が埋めているのは、どうやら魔力を使い切った小さな魔石達であるらしい。
そしてその穴の横には、木の枝を蔓で結んで作った、十センチほどの簡易な十字架が置かれている。
「お墓、なのかい?」
「ええ。ここ最近手伝ってくれていた子達が、とうとう寿命を迎えたので。冷泉院さんとは、たしか一度お会いしていますよね」
氷雨は躊躇いがちに頷く。安奈と渡り廊下で出会ったとき、四体一組で段ボールを運んでいたゴーレム達、その成れの果てがここにある小さな魔石なのだろう。
けれど、と氷雨は思う。
使い捨てのゴーレムに墓を建ててやるだなんて、随分と魔法使いらしくない話だ。まだ幼い魔法使いが、初めて作ったゴーレムとの別れを乗り越えるために――というのならばまだ分かるが、安奈は以前見た限りかなりの実力をもつゴーレム使いのはずである。
たとえば、教師が授業で折ったチョークにいちいち祈りを捧げるだろうか?
そんな不自然な行為に、氷雨は安奈のゴーレムに対する愛着というより、なにか異様な執着じみたものを感じざるを得ない。そしてふと顔を上げてみれば、手作りの十字架はその一つだけではない。数十本という単位で、この広場の縁に等間隔で立てられていたのだ。
ぞ、と血の気が引く思いで、氷雨は我知らず一歩後ずさる。それに気付いてか気付かずか、安奈は穏やかに微笑みながら言う。
「……私は、どんなゴーレムにも心が宿るものだと思うんですよ。こんな一山幾らの安物の魔石を核にして、寿命一か月程度の使い魔として作り上げられたものだとしても、それはきっと変わらない」
「その程度の単純労働ゴーレムだと、心どころか思考すら無いはずでは……? ただ言われた通りに動く機械のようなものだろう?」
「ええ、機能としてはその通りです。ですが――ええ、分かっています。これは単に私の信仰。私の願い。そうであってほしい、と考えているだけですから」
躍起になって否定することも無く、安奈は自嘲気味に頷いた。
やがて、小さな墓が出来上がる。安奈は胸の前で十字を切り、手を組んで静かに祈る。そして目を開けてからも、氷雨の方に向き直ることなく口を開いた。
「さて、お待たせしました。今日はどんな御用でしょうね。前に言っていた、ゴーレム使役の魔法をお教えしましょうか?」
「――古富先生、あなたの論文を読んだよ。『ゴーレムの疑似人格のサルベージ法について』、とても興味深い内容だった」
「おや、あれは研究者レベルの内容のはずですが、流石ですね」
「一定以上の性能のゴーレムならば、疑似人格を持つことは知られている。そして一般的に、その疑似人格は人の精神と同じく、容易には移し替えられないこともね。ましてや先生が論文の中で論じていたのは『既に魔石に込められた魔力を使い切った状態』のゴーレムだった。つまり、今埋葬した彼らと同じ状態だね」
氷雨はちらりと新しい墓を、そして安奈の横顔を見遣る。安奈の表情は変わらず笑みをたたえたままで、こちらの言葉の続きを期待しているように見える。
(核となる魔石の魔力を使い切ったゴーレムは、基本的に目覚めることは無い。繰り返し魔力を充填できる魔石も開発中ではあるけれど、それも実用化されたって話は聞かない)
つまり、ゴーレムも他の生き物と同じく、一度限りの命の存在なのだ。
「先生が論文で論じていたのは、いわば疑似的な死者蘇生だ。ゴーレムに適応する新しい身体を用意し、膨大な魔力と、それ以上に膨大な生への希求――『生きていたい』という正の感情を用いて機能停止したゴーレムを蘇らせる――そんな内容だよね」
「荒唐無稽だと思いましたか?」
安奈の苦笑交じりの問いに、しかし氷雨は即答する。
「いいや。やり方自体は人間の死者蘇生法として古くから考えられているものの延長だし、論文を読む限り実行の難易度を横に置けば論理に破綻は無かった。人間の魂と比べれば、ゴーレムの疑似人格の情報量は遥かに少ない。また、もとより人工物であるから、新しい身体を用意するのも比較的簡単だ。身体を乗り換える上で実際一番の失敗原因って新しい身体に対する拒絶反応だし、それをクリアできる時点でこの論文は十分評価されるべきだ。
――そして、ことこの三つ葵においては、これを実行するのも決して不可能ではない」
氷雨の断言で、場の空気がぴんと張り詰めた。
安奈の表情は変わらない。しかし、氷雨は真横から感じる静かな圧力のようなものに、思わず生唾を飲む。
だが、退かない。ここからが勝負だ、と彼女は内心で覚悟を決める。
「そうでしょうか? 膨大な魔力の確保は? それに、膨大な生への希求の方は、更に難しいと思うのですが」
「……魔力はどうにでもなるさ。魔力障壁や破滅因子の召喚のため、校内には幾つもの魔力炉が設置されている。そこから幾らか引っ張ってこれれば事足りるだろう。生への希求の方はもっと簡単だ。『検体蒐集家』と揶揄される我が校の地下には、公式に記録されているだけで三千体以上の魔法使いの死体が安置されている。どれも生前は優秀な魔法使いだった者達だ、それらが放つ残留思念はさぞ凄まじいだろうさ」
「では、肝心の新しい身体は?」
「作ればいい。幸い我が校のコレクションは世界一だ、モデルとなる大英雄の遺体は三体もある。それを参考にするなり、あるいはそのままゴーレムに作り替えるなり、先生ほどのゴーレム使いならば好きなようにできるはずだろう」
その氷雨の言葉に、安奈は小さく笑いをこぼし、初めて氷雨の方に顔を向ける。
「冷泉院さん、いつの間にか私が大英雄の遺体を使ってゴーレムを復活させる、という話になっていますよ?」
「最初から、その話をしているんだよ、古富安奈――いいや、こう呼ぶべきかな。
アナ・オールドリッチ――十年前、巨人と共にイギリスの森に消えた、当時の調査隊唯一の異名持ち。
十年前にあなたが森の中で出会ったのは、世間が大英雄のクローン問題で揺れる中で、大英雄本人が気まぐれで作った大英雄のクローンとしてのゴーレムだった。これは想像だけれど、おそらくその外殻は巨大なゴーレムであり、核となる魔石は――人型だったんじゃないかな。魔法を保存するうえで最適な形は人体だから。
そして、今回この裏東京に運び込まれてきたのは、その人型の魔石だ。限りなく人体に近く、魔石でありながらそれ自体がゴーレムである存在だ。
あなたは、この再会を待ち望んでいた。そして、その復活を十年掛けて準備していたのではないのか?」
氷雨は安奈に向き直り、断罪するように言い放った。
彼女の正体については、イヴからの情報が決め手になった。当時の調査隊のメンバーが、古富安奈はアナ・オールドリッチと酷似していると認めたのだ。そして年齢的にも一致し、異名持ち級のゴーレム使いであること、名前の日本語への置き換えや、帝から得た「裏東京に教師としてくる以前の情報が一切出てこない」という事実も、その補強となった。
古富安奈がアナ・オールドリッチである、ということを前提にすれば、十年前の『夜な夜な徘徊する森の巨人』と今回の件を結びつけることも可能だった。森の巨人が、大英雄のクローンとしてのゴーレムである、という飛躍が必要とされたが、そう仮定すると全てを繋ぐ線は更に強固になった。
氷雨が真っ直ぐに見つめる先、安奈――否、アナは観念したように重い溜息を漏らす。
「……すべて、秘密裏にやってきたつもりだったんですがね。まさか、論文から足が付くとは」
「本当に決め手になったのはMAGAの襲撃だよ。ボクや生徒会長が、遺体の検査チームを調べ始めたのはあの一件だから。先生、あれはMAGAを捨て石にして、破滅因子召喚装置へのハッキングを試したんだね? 目当ての遺体はとっくに手元にあったんだ、偽物を強奪させる意味は無いからね」
「御明察です。ええ、可能なら後顧の憂いを断つために、三つ葵の異名持ちのうち何人か怪我をしてくれれば、とは思っていたんですが……まさかあんなメンバーが編成されるなんて思いもしませんでしたよ」
もう隠すことも無い、とばかりにあっさりとアナは答える。
(だとすれば、だ)
呼吸を一つ。更なる確信に触れる覚悟を決めて、氷雨は口を開く。
「――先生、一体どうして破滅因子召喚装置なんかに手を伸ばす? 論文の通りに、森の巨人を蘇らせるだけならば、そんなものは必要無いはずだ。
答えてくれ、先生。あなたは森の巨人を蘇らせた後に、一体なにをするつもりなんだ」
氷雨の問いは真摯で、そして切実であった。
(本当は、答えは分かっている。どうしてそんなことをしようとするのかも理解できる。だけど)
だけど、それは許されない。
それを思いとどまってほしくて、自分はこうして直接話に来たのだ。
「……甘いですね、冷泉院さんも。あなたなら、何をするかなんて、想像付くでしょうに」
「っ、本気なのかい!? 馬鹿げてる! 先生が森の巨人にどんな思い入れがあるのかは知らないけど――それでも、裏東京そのものを表の世界と断ち切るなんて、どう考えても無茶苦茶だ!」
声を荒らげる氷雨に対し、アナは諦観交じりの笑みで穏やかに答える。
「それしかないんですよ。この計画のために、私はもう随分と手を汚してきました。彼を復活させれば間違いなくその全てが明らかになる。そしたら私は捕らえられ、彼も貴重な研究対象としてもう一度死ぬまで好き放題弄繰り回されるでしょう。そうならないためには、まずは表からの戦力を断たなければ」
「そんなことをしたって、裏東京の全てがあなた達の敵になるんだぞ!? 凌げるはずがない!」
「いいえ、凌げますよ。彼はかの大英雄の魔法をその身に宿した存在です。裏東京ぐらいならば、向こうに回して勝つことは可能です」
アナが口にする言葉に虚勢は無い。彼女は本気で、森の巨人と二人でならば、裏東京全てを敵に回しても構わないと思っているのだ。
(――ああ、これはもう、無理だな)
氷雨は悟る。目の前の女には、これ以上どのような説得も通じないことを。彼女の意思はもはや言葉で折れるものではなく、彼女を止めるには最早実力行使しかないことを。
(こうしたくないから、わざわざ危険を冒して一人で来たってのに……!)
しかし、氷雨も一人の魔法使いであった。短い呼吸を一つ、身体強化の魔法をみなぎらせて身体を戦闘モードに切り替え、バックステップでアナとの距離を取る。
平和的な解決はもはや無い。残るは力でねじ伏せるのみ。
やるならば速攻だ。氷雨は左手を眼前に掲げるようにして、即座に魔本を呼び出す呪文を――
と。
氷雨の詠唱は、その一文字目が出る前に潰された。
腕だ。掌だけで二メートルはあろうかという巨大な土で出来た右腕が、氷雨を背後から襲い、すっぽりと握り込んでしまったのだ。
拳の内側からは最初こそ驚愕の悲鳴と抵抗の音が響いていたが、土の拳がぎゅっと握られると、それも嘘のように静かになった。
「――本当に、甘すぎますよ、冷泉院さん。ゴーレム使いが目の前で土を弄っているんです、なにも仕込んでないわけがないでしょうに。
でも安心してください、殺しはしません。事が終わるまでは大人しくしてもらいますけど、私の目的は彼ともう一度平和に暮らすことだけですから」




