古富安奈の念願
翌日。
期末試験期間最終日、この日の十二時から午前六時までの三つ葵の警備は新明星の担当になっていた。
そろそろ勤務時間の終わりも見えた午前五時四十分、正門警備を担当していた白日の顔横に、不意に仮想画面が立ち上がる。修繕を終えた三つ葵中央校舎大時計の上に控える、遠見兼航空支援役の生徒からの通信だ。
『白日様、そちら正門に接近あり。マウンテンバイクに乗った三つ葵の男子生徒――あれは白鷺帝です。こちら出ますか?』
「帝? いやいイ、引き続き周囲警戒にあたレ」
白日の言葉に短く頷き、仮想画面は消える。一声掛ければ飛行箒に乗ってスクランブル発進させることも可能だが、帝を相手にそこまでする必要は無いと判断したのだ。
ほどなくして、報告通りスタイリッシュなマウンテンバイクに乗った帝が現れる。いつも通りの爽やかな笑みで手を挙げ、帝はバイクを手で押しながら白日のもとへと歩み寄る。
「お勤めご苦労様。はいこれ、差し入れのコーヒー。様子はどうだい?」
「ありがとウ。今日も特に異常無しダ。強いて言うなラ、五時頃から駐車場に入ってくる教員が多いナ。そっちの確認の人出が足りなくテ、正門担当のもう一人を行かせていル」
白日はそう答え、受け取った缶コーヒーを早速口にする。僅かに意識を鈍らせていた眠気が、コーヒーの香りと苦みで幾分かマシになる。
「ああ、今日は大英雄の遺体に関して、三つ葵内での研究成果発表があるからな……なにもこんな日に、って思うけど、このタイミングがラストチャンスだしね。今日の放課後に真偽の程が公表されれば、どっちだったとしても所有権は日本政府に移譲されるし」
「にしたっテ、こんな朝っぱらからよく集まるもんダ。教員全員参加って勢いだゾ」
「一応任意参加のはずだけど、内容が内容だからねえ。教員には研究者兼任も多いし、そうじゃなくても魔法使いとして興味そそられるんだろうさ」
僕だって正直出られるなら出てる、とぼやくように帝は言う。如何に生徒会長とはいえ、教員のみの発表会に無理矢理参加する権限は無いのである。
缶コーヒーを一気に半分飲み干すと、白日は「さテ」と帝に向き直る。
「――デ? わざわざ何の用ダ。こんな時間に世間話をしに来たわけでもあるまイ」
「まあね。ちょっと気になることがあってさ」
「例の研究主任、カ。イヴも気にしていたガ、氷雨の奴の最後の目撃者だっけカ」
白日の言葉に、帝は珍しく顔から笑みを消して頷く。
「ああ。もっとも、氷雨君の件に関しては、一応彼女と別れてから氷雨君一人で校外に出た映像が残ってる。なにもかも疑うことはできないけど、失踪前の氷雨君がマークしていた人物なのはたしかなんだよね」
「名前ハ、古富安奈だったナ。調べさせても大したものは出てこなかったんだろウ?」
「出なさすぎなぐらいにね。イギリスの魔法大学で博士号を取って、卒業と同時に裏東京に来て教員兼研究者に、ってところまでは調べられたんだけど、それ以前がまるで出てこない。ま、この街じゃ過去を捨ててる人間なんてそう珍しくも無いけどさ」
「確たる証拠が出ないから深入りもできなイ、ってところカ。研究主任っていうなラ、それこそ今日は研究発表に駆り出されるんじゃないのカ?」
「だろうね。そういう意味でも見ておきたかったんだけど、学校側から許可が下りなくてね……仕方無いから、一応有事に備えて生徒会室で待機しておこうって思ったのさ。
――大英雄の遺体の移譲が行われるのは今日だ。事を起こすとしたら、おそらく今日がラストチャンスだからね」
声音を変えて言う帝に、白日は右目を開けて小さく頷く。白日も、ここには居ないが勿論イヴも、同じことを考えていた。
(この時間帯の警備を新明星に当たらせたのモ、三国連合の中で一番の武闘派だからって理由だろうナ……)
白日もそれは承知の上で、今日の人員はなるべく精鋭を集めてある。自身が正門を守っているのもそのためだ。
「イヴ君にも常に連絡が付くようにはお願いしてある。彼女は彼女で、今日は涙の奴をそばにおいてるって話だしね」
「随分とお気に入りだよナ、イヴの奴モ……男の趣味が悪いというカ」
「え゛、そう言うお気に入りなのあれ」
「どう見ても溺愛だろうガ。まア、あれはあれで魅力のある男ではあるガ――」
と。
そんな話をしていると、再び白日の顔横に仮想画面が立ち上がる。通話相手も先ほどと同じだ。
『白日様。今度は黒門方面に接近あり。徒歩、三つ葵の男子生徒で、あれは……阿部礼司ですね』
「礼治? こんな時間ニ?」
「え、礼治君が? 試験期間中は自主練も朝練も禁止だって知ってるはずだけどな……」
二人は揃って首をかしげる。まだバスも動いていない時間帯だ、まさか「目が冴えちゃって」なんて理由ではあるまい。
『黒門警備の者に引き留めさせることもできますが、如何しますか?』
「いヤ、通らせロ。あいつに危険は無いだろウ」
「そうだね。ついでに言うなら、校内に入ってからもどこに向かっているか報告してくれるかな。ちょっと気になるし」
「お前なア……まあいイ、敷地内に入ってからも都度報告を頼ム。一応なにか不審な動作を見せたらスクランブルで警告しロ。礼治単体では戦闘能力は無いはずダ、脅しで足りル」
白日の指令に、通信相手は短く応じて仮想画面は消える。
(さテ、こんなときになにしてるんだカ……)
飽きない奴だナ、と白日は一人呟いて苦笑する。全くだね、と帝もそれに頷いた。
■
礼治は焦る気持ちをなんとか押しとどめて、『森』へと向かっていた。
黒門が開いていて助かった。門のそばに新明星の制服を着た生徒が何人かいたが、あれは例の警備の人員だろう。そちらにもしかしたら引き留められるかも、とも警戒したのだが、意外なことに声も掛けられなかった。
(時間は、大丈夫だな。よかった。いつもバスだったから気付かなかったけど、歩くと結構距離あるんだな……)
彼はそのまま早足で三つ葵の奥へと進んでいき、目的地に着いた頃には丁度午前六時頃になっていた。
しかし、雑木林の周りには担任の姿は無い。まさかあっちが遅刻だろうか、なんて考え始めた頃、不意に礼治の顔横に仮想画面が立ち上がる。
『――もしもし、私です、古富です。礼治君そばまで来てますよね? すみません、森の中の広場までお願いします』
「あ、はい。分かりました」
それだけを告げて仮想画面は消える。まさか担任と映像通話をすることになるとは、と礼治は内心驚く。個人的に電話番号を教えた記憶は無いが、そういえば入学時に連絡先として提出している。安奈はそれを見て掛けてきたのだろう。
ともあれ、言われたとおりに広場へと向かう。下見のために一度来たことはある場所だ。相変わらずの悪路に多少苦戦はするものの、スムーズに辿り着くことができた。
森の中にぽっかりと空いた空間に、安奈の姿はあった。特別武装しているようすもなく、表情にも緊張は見られない。むしろいつも以上の穏やかささえ感じられる立ち姿であった。
「おはようございます、礼治君。よく来てくれましたね」
「ええと、はい。それで、これからどうすれば?」
「ふふ、ついてきてください。ちょっと驚くかもしれませんね」
これから氷雨の救助に行くのではないのか、と思わず聞きたくなるほど緊張感の無い安奈に、礼治は若干の違和感を覚える。いや、これが大人の余裕なのか、あるいは自分を不安がらせないための虚勢なのか。そんな疑問を抱える礼治をよそに、安奈は広場の中央から少し歩いたところに片膝をつき、地面に手を翳してなにやら呪文を口にする。
するとどうだろう、それまではただの石畳だった場所が、テクスチャーを切り替えるように重厚な鉄板に変化し、それが自動的に持ち上がって地下へと通じるスロープを露わにする。
「これは……?」
「三つ葵の地下には優秀な魔法使いの死体が集められていることは知っていますよね? 正式には検体保管庫、よそからはモルグなんて呼ばれたりしますけど、そこへの直通通路です。大っぴらにできないものを搬入する場合や、物が大型だったり大量だったりする場合、こっそりここから受け入れてるんですよ」
「あ、あの、これ俺が知っていいものなんですかね……?」
礼治の問いに返ってくるのは、唇に人差し指を当てた安奈の悪戯っぽい笑みだけだ。
(公言はしないようにしよう……にしても、たしか普通の研究棟って、ここからかなり離れてるよな? 地下空間ってどんだけ広いんだろう)
礼治はなにか底知れないものを感じながら、安奈の導くままに地下へと向かっていく。二人が中に入ると、蓋をするように鉄板は閉じ、代わりにぱっと照明が付いた。
明らかになるのは、長く緩やかな下り坂だ。大きな吹き抜けを中心に、円筒形の空間の壁面に螺旋状のスロープがひたすら続く。二人が歩くたびに近くの壁面の明かりがつき、離れると消える。一部しか照らされないため、この竪穴がどれだけ広く深いのか礼治には判別がつかない。
まるで、地の底にまで続いてるみたいだ――礼治がそんな不気味さを覚えたのは、その果てにあるのが死体だから、というのもあるだろう。
長い長い坂を降りた先にあるのは、物言わぬ死者ばかり。まさに神話に出てくる死後の世界じみた話だ。安奈が不自然なほど軽快な足取りで案内するのも相まって、彼が不安に思うのも無理からぬことだろう。
「あの、冷泉院さんは、この先に?」
「ええ。地下十五階、検体保管庫エリアに。実を言うと彼女、少し大英雄の遺体の件に関して深入りしすぎてしまったんです」
「深入りしすぎたって、まさか不法侵入とか?」
未遂に終わったが、過去に計画を立てていたことは礼治も聞いている。氷雨ならばやりかねないとも思えた。
しかし、安奈から返ってくるのは苦笑と否定の言葉だ。
「いいえ、そういう物理的な意味ではないです。ただ、知りすぎてしまったと言いましょうか。それと、冷泉院さんを捕らえている人物も、最初から一定期間大人しくしてくれれば開放するつもりだったようです」
「じゃあ、冷泉院さんは無事なんですね?」
「ええ。軟禁状態ですが、健康状態は良好らしいです」
「それじゃあ、俺はなにをすれば?」
「しっ。ここでは言えません。どこで誰が聞いてるかも分かりませんから。その時になったら説明します」
安奈はそう言って礼治を制し、変わらず軽快な足取りでスロープを下っていく。
ぐるぐる、ぐるぐると、緩やかな下り坂をどれだけ歩いてきたことだろう。最初こそおおよその階層を数えていた礼治だったが、目印も無い螺旋の中でいつの間にか分からなくなっていた。少し疲れも感じ始め、それ以上に不安に襲われ始めていた。
(古富先生は、どうして俺を呼んだんだ……? 冷泉院さんが軟禁されているっていうなら、そこから救出するため……?)
そう言われればもっともらしい。安奈は戦闘系の魔法使いには見えないし、いざという時のために少しでも戦力の補強が欲しいというなら礼治を呼んだ理由にも納得がいく。
だがしかし、だ。
薄暗いスロープを下り続ける中で、礼治を襲う言い知れぬ不安はなんだ。この不気味な地下への螺旋が、礼治を疑心暗鬼へと手招きしているようだった。
と。
不意に先を行く安奈が口を開く。
「――礼治君、まだ少し歩きますし、ちょっとお話でもしましょうか。礼治君は怪談とか平気なタイプですか?」
「一応、平気ですけど……」
この場ではしたくない、というのが本音であったが、それは言わないでおく。
「そうですか。といっても、完全にオカルトの話というより、魔法で説明のつく話なんですけどね。今私達が向かっている検体保管庫、そこって結構出るんですよ」
「出るって、その、幽霊とかですか?」
「ええ。そりゃもう日常的に。大抵はほとんど意思も無く、ふらふら歩きまわってまた消えるようなものですけどね。それもそのはずで、世に言う幽霊とかってほとんどは魔力によって現出した残留思念の類なんですよ。優れた魔法使いなら死後も魔力が残りやすいですし、そもそも我々研究者もそういう保存の仕方をしますし。あとは残留思念さえあれば、化けて出るのは当然の帰結なんです」
「その、残留思念とやらは、大抵あるものなんですか?」
「多かれ少なかれ、大抵は。残留思念って、要はこの世に残した無念です。内容は人それぞれですが、ほぼ全員に共通するのは『まだ生きていたい』でしょうね。だからこそ、生きていた頃のような姿で現れる。
私、元々専門はゴーレムだったんですけど、わけあって死霊術も修めてるんですよ。そのせいで、意識してなくても多少は聴こえちゃうんです」
職業病みたいなものですね、と安奈は苦笑する。
今のは怪談だったのだろうか、と礼治は首を傾げたくなるが、数多の死体の声が意識せずとも聴こえてしまう、というのは間違いなくホラーだ。観客を怖がらせるように演出された作品よりも、今の話の方がよっぽど真に迫った恐ろしさがあった。
(聞かなきゃよかった、マジで……!)
礼治は霊感など無いし、魔力に関する感知能力も「一般人にしては多少鋭い」レベルだ。安奈の言うような残留思念は感知できないかもしれない。しかし、そこにたしかにあると専門家に明言されるだけで、礼治の気を重くするには十分だった。
そんなやりとりをしているうちに、二人はついに螺旋の終端へと辿り着く。巨大な搬入用シャッターと、その横に人員用の鉄扉があり、安奈は鉄扉の前で仮想画面をいくらか操作して礼治を中に招く。
鉄扉の先は、予想外に明るい通路であった。等間隔に扉と照明が配置され、構造としては地上の研究棟とそう変わらない。いやに冷えた空気と、独特の薬品臭に目をつぶれば、礼治が予想していたような不気味さはそこには無かった。
(それに、人の気配……?)
遠くに、しかしたしかに足音がする。慌てて駆け込んでいくような足音と、大きなドアが閉まる音。少なくとも無人ではないらしい。
「礼治君、こっちです。人に見つかると厄介ですから、手早く行きましょう」
「は、はい」
やっぱり見つかるとまずい侵入方法なのか、と思いつつ、礼治は安奈がの導きに従う。どうやら彼女は行く先がはっきりしているらしく、代わり映えの無い通路を迷いもせずに進んでいく。
(しかし、行方不明になってどこにいるかと思えば、学校の地下だとはな……灯台下暗しというか。あれ、でも学校から出た映像はあったんじゃなかったっけか)
礼治自身も直経由で見せてもらったが、学校近くの防犯カメラに白衣の女生徒が歩いている映像があったのだ。たしかに顔までは見えない映像だったが、まさか制服の上に白衣を着て生活するような奇人は二人もいないだろう。
だとすれば、氷雨は一旦学校を出た後でこちらに誘拐されたのか、あるいは映像の方がなんらかのフェイクだったのか。
気になることは他にもある。軟禁場所がここである、ということだ。
この地下空間に入れるのは学校関係者か研究者だけのはず。ならば軟禁をしている犯人は学校側の人間だろう。氷雨が大英雄の遺体について知るべきではないことを知りすぎたため、学校側で一旦身柄を確保している、というのはまだなんとか理解できる。表では考えられないが、ここは裏東京なのだ、と礼治は納得する。
しかし、だ。
ならば何故、学校側の意向に逆らって、安奈は氷雨のことを救いに来たのか。ましてや安奈は大英雄の遺体の検査で主任を務めているはず。どちらかというと、彼女こそ氷雨を軟禁する方の人間じゃないのだろうか。
(学校側も一枚岩じゃないってことなのか? 最初から古富先生は訳知り顔だったし、これは先生個人としての独断専行なのかもしれないけど――)
もっと、単純に。
――果たして、この相手を信頼してもいいんだろうか。
疑心暗鬼に駆られた礼治の頭に、そんなことが浮かび始めた頃、不意に前を行く安奈が立ち止まった。なんのプレートも張られていないドアの前で、安奈は慣れた様子で鍵を取り出してドアを開け、礼治を中へと促す。礼治は警戒しつつもそれに従った。
放送室のような作りの部屋だった。左右の壁際には礼治にはよく分からない機材とモニターが並び、薄暗い部屋の中で駆動音を鳴らして今も動き続けている。
そして一番特徴的なのは奥側の壁だ。全面ガラス張りになっていて、その向こうには一階分ほど下に大ホールが見える。劇場の貴賓席のように、ステージも客席も上から見下ろせるような形だ。今眼下の大ホールには、教員や研究者と思しき大人たちが百人以上集まっており、ステージ側には大きなスクリーンの準備もなされている。更にステージの中央には、黒い大きな長方形の塊が鎮座していた。
地下にこんな空間が、と驚く礼治の後ろで、安奈はドアを閉じて電気をつける。
「――なかなか凄いでしょう? 下、普段は大格納庫兼実験場なんですけど、今日は大英雄の遺体についての研究成果発表があるから、臨時でパイプ椅子とか持ち込んで発表会場にしたんですよ。ああ、そのガラスはマジックミラーみたいなものなので、外から中のことは見えないのでご心配なく」
「あ、はい。ええと、それで、冷泉院さんは――」
「ところで一つ問題です。今回運び込まれた大英雄の遺体、結局本物と偽物、どちらだったと思います?」
礼治の言葉を遮り、安奈は満面の笑みで問いかける。この場、この状況にそぐわないその笑顔には吹っ切れたような爽やかさがあった。
その顔には見覚えがある。帝と決闘したあの日、家まで送ってもらった車内で、もうすぐ念願が叶うと語っていたあの顔だ。
古富安奈の念願とは、一体なんなのか。
礼治は我知らず一歩後ずさる。だが無意味だ。部屋の出入り口は一つしかなく、その一つの前には笑みをたたえた安奈がいる。
「せ、先生……? あの」
「ぶぶー、時間切れです。正解は、偽物です。まあ大体の人にとっては案の定ってところでしょうけど――私にとっては、その偽物こそが、本物でした」
「なに、なにを、言って」
疑心暗鬼が確信に変わる。だが遅い、あまりにも遅すぎた。既に逃げ場は無く、礼治一人では打つ手も無い。
「ずっと、ずっと待っていたんですよ、私は。彼の身体が、この街にやってくることを。彼が死んでから今まで、十年間。
ところで礼治君、知っていますか? 実は大英雄の遺体って、もうこのモルグの中に三体もあるんですよ。勿論全て偽物ですが、クローンの死体でも十分に有用な研究対象ですからね。そして予想通り、彼の身体もここに運び込まれました。
そしてこの時のために、色々と準備もしていましたよ。三つ葵に入るために死霊術を学び、権謀術数を尽くして研究員としての地位を高め、教員としても信頼を集めて破滅因子召喚装置の扱いも任され、学校の外でも動かせる手駒も用意して――あぁ、思えば十年なんて、本当にあっという間でした」
笑みのままで、安奈は一歩一歩礼治に近付いてくる。武器も無く、構えもしていないが、直や白日との組手を経た礼治には安奈に隙が無いことが分かる。仮に全力で突撃して強行突破しようとしても、きっと容易く組み伏せられてしまうだろうと、試すまでもなく理解できてしまうほどだった。
故に礼治はただ後ずさる。しかし狭い室内だ、礼治はすぐに奥のガラスまで追い詰められてしまう。
「っ……このっ!」
「駄目ですよ、校内暴力は」
苦し紛れに放った礼治の拳は、しかし容易く受け止められ、そのまま背中の後ろに捻り上げられる。その姿勢でガラスに押し付けられ、まるで身動きも取れなくなった。
「ぐぁああ! くそっ、なにが、何が目的なんだ先生! 冷泉院さんは無事なのか!?」
「ふふ、この状況でまだそれを言いますか。残念ですが、お人好し過ぎて魔法使い向いてないですよ、礼治君。
――でもね、実は君には感謝してるんです。私の当初の計画ですと、あまりにも魔力が足らなくてですね、今下に見えてる人達全員生贄にする予定だったんです」
「生贄……!? あんた、なに言ってんだ!?」
耳元で平然とささやかれる言葉に、礼治は心底ぞっとする。眼下には百人以上の人間がいるのだ、その全てを生贄になにをしようというのか。
「でもね、君の特異体質で私の魔法を強化すれば、多分死ぬまで搾り取る必要は無いと思います。それでも全員昏倒ぐらいはするでしょうけど、まあそのぐらいで済めば御の字でしょう。私だって別に大量殺人がしたいわけじゃありませんし――ただ、彼にもう一度会えれば、それだけでいいんですから」
穏やかな声がそう言い終えた、その時だった。
――カチ、と。
礼治は自分の中で何かが噛み合う感覚を得る。そしてそれと同時に、身体の中身の全てが焼き尽くされるような、凄まじい熱量の放出が迸った。
「ぁ、あ、ああ、ああああぁあぁ……!」
命までも燃やすような魔力消費に、礼治は叫び声をあげる。しかしそれすらもろくに続かないほど、彼は瞬間的に使い潰されたのだ。
臓腑を焼く熱が去った後の身体は、抵抗はおろか真っ直ぐ立つ力さえ残っていなかった。「お疲れ様です」という囁きを残し、安奈が捻り上げていた手を離せば、礼治はガラスに全身をこすりながらゆるゆると崩れ落ちていく。
虚脱感に霞む礼治の視界でも、眼下の異常はおぼろげに見える。真っ白だったはずの床には、大ホールすべてを覆うほどの巨大な魔法陣が浮かび上がり、そこにいた百人以上の人々は全員例外なく倒れ伏していた。
そして、そんな全てが静止したホールの中で、ステージ中央の黒い長方形の塊がわずかに揺れる。上部の蓋がずれ、その中から白い腕が伸びて――礼治の意識は、そこで途切れるのであった。




