初めての仕事の後始末
とん、と。
軽い足音が、屋上に響いた。
狙撃銃を取り落とし、ただ呆然と口を広げるばかりだった男は、無意識のうちにその音に顔を向ける。そこにいたのは、一人の小柄な少年だった。
「――今日はたまたま起きられたけどさ、ぼく朝はあんまり強くないんだ。こんな時間から仕事なんて、みんなほんとよくやるよね」
「お前、は」
何者だ、と続けるつもりだった言葉が出ない。我知らず、喉が震えていた。
足音がもう一つ近付く。おかっぱ頭の少年が、その顔に無感情な笑みを張り付けて、泥沼のように濁った瞳でこちらを見つめてくる。
「ぼくは早く上がりたいんだ。眠いし。そろそろおなかも空いた。何か持ってない? スニッカーズとか好きそうな顔してるね、君」
「――――――」
逃げなければ、と男は思った。一歩一歩近付いてくるその少年に、男の本能が警鐘を鳴らしている。
あれは、先程の地竜なんか比べ物にならない化け物だ――と。
しかし男が立つのは屋上の角、逃げる場所などどこにもない。取り落とした狙撃銃も、装填されているのは殺傷能力の無いマーキング弾だけだ。
「でもまあ、やることだけはやらないとね。ぼくの要求は簡単だよ。君の仲間の情報を教えてくれればいい。拒むなら君は泥に沈む」
「ッ! 仲間は売らない! お、俺達は誇りと信念で繋がってる! たとえ捕まえたとしても、口を割るだなんて――」
「ああそう。なら結構。でも悲しいかな。
――誇りも信念も、涙に汚れて全て泥だ」
少年の放った短い呪文が響く。その声によって変化が生じたのは、少年自身の身体だった。
右の目尻から、まるで涙が流れるようにして、真っ黒な粘性を持った液体が零れ落ちる。その一筋を皮切りに、左目から、頬から、首から、両手から、とにかく少年の全身から液体が漏れ出したのだ。
光を根こそぎに飲み込むような漆黒の正体は、重々しい泥である。しかし当然、ただ尋常なものであるはずもない。
「――これは涙積泥土。ぼくの魔力を混ぜて具現化した、人の負の感情そのものだよ」
「お前、黒魔法使いか! くそ、忌々しい化け物め……!」
「言うねえ。君たちだって破滅因子を使ってたんだ、似たようなもんだろうに。
ま、ぼくの泥は、破滅因子より少しタチが悪い。どういうことかって言うと――ああもう面倒だ、ちょっと喰らってみなよ」
説明するのが億劫になったらしく、少年は右手を男の方へと伸ばす。すると少年の足元を浸していた泥が、まるで意思を持った蛇のように俊敏に男へと跳ねた。
その予想外の軌道と速度に、男は身動きも取れず直撃する。重々しい打撃が男の贅肉を波打たせ、蛇の頭に当たる先端部は男の首筋に噛みつくように激突した。
泥が男の地肌に触れた、その瞬間。
男は突如として膝を折り、その場にうつ伏せに倒れ込む。サングラスが衝撃で吹き飛び、露わになったその目は、まるで薬物中毒者のように虚ろで焦点の合わないものであった。
だらしなく開いた口からは涎を垂れ流し、一瞬にして廃人のようになった男に、少年は平然と近付いてくる。
「分かったかな? ぼくの泥は、純粋な負の感情。形を持たないそれが、人間に当たるとどうなるかっていうと――うん、当たった人の一番の負の感情の記憶、つまりトラウマをフラッシュバックさせちゃうんだよね。形が無いが故に、形を求めるらしくてね、我ながらえげつないと思うよ」
少年は笑みを崩すこともなくそう言いながら、倒れた男の顔横にしゃがみ込み、付着した泥に軽く指を浸す。
「ぁ、ぅ、ぁあ……」
「――ふうん、君のトラウマは、ハイスクールでの陰湿ないじめか。ええと、こんな感じ?」
触れた泥からトラウマを読み取った少年は、まるで映画のワンシーンをふざけて再現するような気軽さで、男の腹を爪先で蹴り上げる。
「ぉうっげ……! ひ、ひ、や、やめ! やめてくださいぃ……! も、もうお金、無いんです……親の財布からも、これ以上は無理なんですぅ……!」
「あーあー可哀想に、トリップしちゃって。お金はいいからお仲間の情報出して。早く」
「は、はい! 出します! 全部出しますからっ!」
男は少年にスマホを差し出し、その巨体を可能な限り小さく丸める。情報はその中に全て入っているということだろう。少年はそれを受け取って電源ボタンを押すと、呆れ顔で小さく溜息を一つ。
「ねえ、ロック番号は?」
「す、すみません! 一七七六です!」
「一、七、七、六っと。ああ、おっけーおっけー、うっわ壁紙星条旗とか。そっか、一七七六年ってアメリカ独立だっけ」
分かりやすくて結構だよ、と呟きながら少年はスマホの中身を漁り、同時進行で自分の仮想画面を呼び出す。ワンコールで画面に映されるのは、ウェーブの掛かった金髪を揺らす少女だ。
『はい、こちらイヴです。なにか分かりましたか、涙』
「犯人一人確保したよ。そいつのスマホから今作戦要綱見つけたから、そっちに送るね。仕事したしそろそろ帰っていい?」
『ふふ、駄目ですよ。今人手不足なので、貴方はそのまま残りの犯人の確保に向かってください。殺さないでくださいね』
「ぼく夜型なのに……仕方無い。じゃあ、こいつは泥飲ませておくから、後で誰か回収にきて。超デブだから二・三人用意した方がいいよ」
言い終えるなり一方的に通話を切り、少年はもう一度男に目をやる。彼は未だに頭を抱えて丸くなる男の髪を引っ掴み、無理矢理に口を開けさせ、その上に己の右手を翳す。右手からは重い泥がぼたぼたと落ちて男の口を汚し、男はそのまま白目を剥いて気絶した。
ビルの屋上、まだ少し冷たい風が吹く中、少年はようやく姿を見せ始めた朝日を忌々しげに睨む。そして転落防止のフェンスをひょいと乗り越えると、彼はそのまま朝日の街へと身を投げるのであった。




