大英雄の遺体 2
三つ葵魔法学園高等部の一角、第一研究棟の二階、『Chilly Rain Labo』という表札の掛かった小さな研究室の中で、魔法の学術論文を読んでいた氷雨は、不意の起動音に顔を上げる。また礼治からの質問だろうか、と思えば、それは映像通話の呼び出しであった。
「お疲れさま、直。休憩かい?」
『ええ。三つ隣の射撃ブースの奴が「邪魔するな!」って怒鳴り込んできたから、仕方なくちょっと引っ込んだの。すぐに場所変えて再開するわ』
「いつも賑やかだねえ……で、なにか気になることでも?」
『んー、そういうわけでも、ないんだけど。ああ、そういえば、別にどうでもいいんだけど、礼治からなにか返信とか来た?』
成程。ポニーテールの毛先を落ち着かない様子でくるくる弄る親友に、氷雨は思わず苦笑を浮かべる。怒鳴り込まれた云々は本当だろうけど、珍しく喧嘩にならずに退いたと思ったら、そういうことか。
(よっぽど心配なようだねえ……いやあ、柄にもなくニヤニヤしちゃうなあ)
こういうことに過剰反応してしまうのは、なんだかんだ自分も年頃の女子なのだろう、と氷雨は自己分析する。ちょっとつついてやりたいところだが、後が怖いのでやめておく。
「一度『検体蒐集家』ってなに、っていう質問が来たから答えておいたよ。それ以降はなにも」
『そう。どういう流れでその単語が出てきたのかしらね』
「うーん、想像の域を出ないけど、もしかしたら外で有名な魔法使いでも亡くなったのかもね。もしそうだとしたら、最近生徒会長が忙しくしてたのはその受け入れ準備。今は裏東京に入ってからの護衛について会議してるのかも」
『検体の護衛ね……そこまで大騒ぎするってことは、よっぽどの大物なんだろうけど、今の時期はどこの学校も引き受けたがらないでしょ』
毛先で遊ぶのをやめ、真剣な口調で直は言う。
「だろうね。期末試験直前だ、なるべくなら誰もリスクは背負いたくない。どんな事情があったにしても、期末試験は欠席すれば零点だ。この護衛依頼で大怪我でもすればまず期末試験には間に合わないし、そこまでのリスクを冒して実績を欲しがる奴なんていないだろう――君以外は」
氷雨が溜めを入れてそう言うと、直はふんと鼻で笑う。
『あたしだって、ここまで切羽詰まってなければ、そんな冒険したくないけどね。まあでも、そのことはあの暴君も分かってるはず。そういう点では信用できる男よ』
「だろうね。ここで積極的に引き受ければ、他校に対しても恩が売れる。そもそも三つ葵に持ち込むんだから、メインは三つ葵が担えって話でもあるしね。
まさか明日ってことは無いだろうけど、急に言われても対応できる準備はしておくといいよ。って言っても、君は身軽な魔法使いだったな」
『体調さえ維持してれば明日だって行けるわ。ま、依頼が来たらすぐに動けるようにしておく。――その、礼治のサポートも含めて、ありがとうね』
最後は早口で言い切って、映像通話は途切れる。不器用なことだ、と氷雨の顔に慈愛の笑みが浮かぶのも無理からぬことであろう。
■
「――護衛任務は三つ葵がメインで受けよう。お互いこの忙しい時期だ、受け入れ先としての責任も果たすとも。君たちは可能なら補助人員を出してくれればいい」
大袈裟に手を広げ、にこやかに帝は言い放った。
礼治にはそのパフォーマンスにどのような意味があるのかは分からないが、周囲の反応を見る限りかなり呆れ顔が目立つ。文面通りの責任感や親切心から出た言葉ではないのだろう。
「お前、また全力で恩を売りにきやがったナ……まア、正直ありがたいのは事実ダ。うちからは車と運転手を出そウ、どちらの性能も保証すル」
「では、我々からはルート補助のガイド役と、こちらのサレンをお出ししましょう。三つ葵が誰を出してくるかは想像付きますから、サレンであれば流れ弾の処理は完璧にこなします」
イヴがそういうと、背後のサレンは無言のまま小さく頭を下げる。カチューシャ付きのオールドスタイルのメイド服、さっぱりとしたショートカットに、高等部二年とは思えない大人びた美貌、そして凍り付いたかのような無表情――動かなければ置物のように存在感無く、しかし僅かでも動けば言い知れぬ迫力を放つ少女であった。
そんなサレンを横目で見て、声を上げたのは麻央だった。チャイナ服に身を包んだその身体は、長身痩躯の帝よりもなお大きい百九十センチ。ドレスから伸びる手足も、性的な視線を抜きにして見惚れるほどに見事に鍛え上げられ、しかしその顔は女性らしい愛らしさも保っている。頭の左右に配されたお団子には、可愛らしいパンダの飾りもついていた。
「あたしは出なくてもよいのですか、白日様」
「構わねえヨ。戦闘があるとは限らないシ、むしろ下手に手を出さない方が実績稼ぎにゃありがたいだろウ?」
「そうだね、ご高配に感謝するよ。うちからはいざという時のための戦闘要員を二人、それから予備の運び屋を一人だそう。万が一のときも、その運び屋一人で三つ葵に辿り着けば任務完了だ」
帝の言葉に、礼治はそこまで保険を掛けるのかと他人事ながら感心する。しかし考えてみれば、本物か不明とはいえかの大英雄の遺体だ、そのぐらいの用意は当然なのかもしれない。
と、不意に帝が振り向く。なんだろう、と首をかしげると、帝はにっこりと笑ってこう言った。
「じゃ、そういうことだから。――明日、君と直君が戦闘要員、勇君が運び屋担当を頼むよ」
「………………え? は、俺!? なんで!?」
あまりに予想外な言葉に数秒フリーズしてしまった。突拍子が無さすぎる提案だ。
しかし帝は悪びれもせずに、少し言葉を選ぶようにしながら答える。
「直君一人じゃ心配だから、ってのは言いすぎか。だが、君なら彼女をうまく扱ってくれると信じてるよ。本来行方知れずの弾丸は完全な攻撃特化型だ、護衛だの防衛だのは向いていない。それを無理矢理使おうと思ったら、君のような補助役兼補正役が必要だろう」
「じゃ、じゃあなんでそんな無理矢理使う必要が? むしろ、会長の魔法なんか最適だと思いますけど……」
なんせ範囲内に入った瞬間誰でも無力化できるのだ。護送車が動く要塞になると言っても過言ではないだろう。
しかし礼治の提案には、帝は含みのある苦笑で首を振る。
「んー、その辺りは僕が言えることじゃないな。仕事が済んだら直君に直接聞くといい」
「うぅ、結局そうなるんですか……っていうか、明日? そんないきなり?」
「今夜中に裏東京に運び込むからね。裏東京の駅にもそう長くは置いておけない。明日の早朝、裏東京駅から三つ葵の地下にある検体保管所まで運ぶ。君達の仕事は、三つ葵の構内まで大英雄の遺体を無事護送することだ」
「本気で、俺みたいな素人に?」
「本気だとも。この僕を打ち負かしたその機転、初仕事で存分に生かしてくれよ」
帝は心底愉快そうに笑う。礼治は助けを求めるように視線を泳がせるが、二人の生徒会長は穏やかに微笑むばかりで、チャイナ服には無視され、メイド服には「明日はよろしくお願いいたします」とばかりに小さな一礼を返された。誰かが異論をはさんでくれる様子は無い。
(なんつう調展開だ……)
いきなり超重要な会議に飛び入り参加させられたかと思えば、そのまま超重要案件の仕事に大抜擢だ。魔法使いを目指す以上、いつかはこんな活躍をしたいとは思っていたものの、明日すぐにとは思ってなかった。いくらなんでも急すぎである。
戸惑いを隠せない礼治に、帝は大丈夫大丈夫と肩を叩いて無責任に励ます。反対側には、いつの間にか横に来ていた白日もいて、頑張レ頑張レと快活に笑いながら肩を叩く。生徒会長二人に弄られる転入生という絵面を見て、男性は楽しそうですねえとイヴは微笑み、従者二人は何とも言えない顔で頷くかどうか迷っていた。
と。
それじゃあ直君や勇君にも連絡を、と帝が仮想画面を立ち上げた、そんな時だった。
蝶番の擦れる音が響く。重々しい両開きのドアが、来客を招き入れるように自動で開く。
とん、とん、と。軽い足音であった。
迷いなく、淀みなく、慣れた様子で踏み入れる。逆光でよくは見えないが、足音の通り、その主の身体は男子生徒としては随分小柄。黒髪をおかっぱのように切り揃え、アヴァロンの男子制服を素直に着こなす姿は、クラスに一人はいる目立たないタイプの少年といった風情だ。
しかし。
(なんだ、これ……)
礼治は戸惑っていた。足音が近付くたび、肌にまとわりつくようなその感覚に。そして、その感覚に覚えがあることに。
この感覚は、そう、あのときのもの。
自分の体質に気付いたあの事件、あのときに感じた――恐怖だ。
(なんだよ、これ……!)
勘違いじゃない。自分が怯えているのが分かる。呼吸が浅くなり、声が出ない。
外からの逆光が弱まり、少年の顔が見える。中性的な童顔で、薄く笑みを浮かべている。だがしかし、なによりも目を引くのは、その双眸だった。
光の無い目。まるで泥の沼のように濁りきって、あらゆる輝きを嘲笑うような、底無しの黒。
――動きが速かったのは、サレンと白日だった。
飲まれたのは一瞬、すぐさま気を取り直すと、サレンはイヴを、白日は麻央をそれぞれ己の背に隠すようにする。礼治はその二人の動きにはっと我に返り、自分も護衛として帝の前に出ようとする。しかし、それは帝本人の手で制された。
足音だけが響く沈黙を破ったのは、仮想画面からの声だった。
『――こちら直、なによいきなり。そっちの会議は終わったの? 礼治はどこに――』
と。画面越しに礼治を探す直の視線が、少年をとらえた瞬間に停止する。
そして、悲壮な叫びが空を裂いた。
『礼治ッ! 早くそこから逃げなさい! そいつは裏東京の災害――名を呼ぶことなかれよッ!』




