047
三話目
「暫くお忍びは禁止です」
「…………え?」
ぽかんと、直立するアスを見つめます。
「お忍びは禁止ですと言ったのです」
聞こえてないと思ったのか、もう一度アスは同じ言葉を口にしました。
あれから──お忍び二回目の次の日。
昼の鍛錬が終わり、次の講義の準備をする少しの時間を縫って私の部屋にやって来たアスは、着いて早々そう言いました。
アスにも講義があるので、本当に合間を縫って来たのでしょう。先程まで一緒に鍛錬をしていた為か、襟元が若干崩れているのを指摘すれば、さっと直しました。
「ではそういうことで」
「ま、待ってよ!」
背を向け出ていこうとするアスを慌てて呼び止めます。
今、部屋にはアスと私の二人きり。いつも使用人が部屋に控えているのが普通なので、この状況が長く続かないのはお互いに理解しています。その上、お互い時間がないのですから、用事が終われば即座に出て行こうとするのはわかります。
「急にどうしたの? 街に行っちゃ駄目って……なんで?」
「……」
アスは扉のノブに手をかけたままの状態で止まっています。いつでも外に出られるようにでしょう。
私は次の講義に使う本の準備を終えると、固まったままのアスに近寄りました。
「あそこは貴方様に悪影響です」
「悪影響って……そんなことない、皆普通じゃないか」
そう言い募ると、こちらを向いたアスは私を……いえ、私を通した何かを睨み付けました。
「わかりませんか? その話し方から悪影響だと申しているのです」
「……これは……、他の人の前では、しないよ」
次にアレクと会う際、すらすらとアレクのような話し方ができるように昨夜こっそりと練習していた成果をアスに試していたのですが、どうやらそれが気に食わないようです。
確かにこの話し方はここでは適切ではないでしょう。決まりに厳しいアスですから、これは確かに私が悪いです。
「……すみません。次に街に行く時に話せるようにと、アスの前ではいいかと思って練習してました……確かに適切ではありませんでしたね、止めにします」
「……」
無言でこちらを見詰めるアスに、居心地が悪くなります。
確かに私が悪いですが、アスの前以外にああいった話し方はしておりません。どうしてそこまで怒っているのでしょう? いつもなら謝れば直ぐに許してくれていたのですが。それに、二人きりの時には砕けた口調で話してくれていた筈なのに、ずっと正しい口調のままです。……そこまで怒っているのでしょうか?
「……とにかく、暫くは禁止です。そもそも貴方様が城下に下りる必要はないのです」
「ですが、正しい知識を得るためには直接出向くのも大切だと……そう、始めに言ったのはアスの方でしょう?」
そうです。
どうして私がお忍びで街に行くことになったのか、アスが影武者を引き受けてくれることになったのかのそもそもの発端は、アスが勧めてくれたからです。もちろん、私が最初に『街に行ってみたい』と言ったのはあると思いますが、それでもアスの協力がなければ行くことはできなかったでしょう。
なのに、アレクに会ってから──いえ、アレクの話をしてから急にアスは否定的になりました。仲良くなったと思っていたのですが、気の所為だったのでしょうか?
「そうですが……とにかく、あれの調査が終わるまでは許可は出せません」
「あれの調査……?」
「アレクとかいう子供です」
アレクの調査……? どういうことでしょうか。
私が理解していないのがわかったのでしょう、アスは小さく息をつくと、あれは……と言葉を続けました。
「あれは、不自然過ぎる」
「え……?」
「貴方様は知識はあれど、あまり世間のことは理解されておりません。ですからわからないのも無理はありませんが……」
そう言って、アスは空中を睨みました。何もないにも関わらず、その目は視線で射殺しそうなほどの殺意を感じます。……私も一つ歳を取れば、アスのような殺気を出せるようになるのでしょうか。あまり想像ができません。
「普通、市井の人間は──サリクタの街に住む子供が、王宮語を話せるはずがないんですよ」
「え……」
「貴方様を見て、貴族だとわかるのは想定内です。ですがいくら口調を気をつけていても、生粋の貴族である貴方様が理解できる王宮語を即座に話せるはずがありません。あれは──」
そしてアスは言葉を切って、まるで独り言のように呟きました。
「あれは、普通の子供じゃない」
そう呟くと、アスはさっと一礼をして扉を開け部屋から出ていきます。
次の講義の時間が迫っていますから、部屋をあとにするのもわかります。わかりますが、今を逃すとアスはもう何も教えてくれないような気がして、私は慌てて廊下へと飛び出しました。扉がバタンと大きな音をたててしまいましたが、そんなことに構ってなどいられません。
「待ってアス……! アス! アシュレイ!」
私の声を聞いて、ぴたりと歩みを止めたアス……アシュレイは、くるりとこちらを振り向きました。
そこにはいつもの、無表情のアスがいて──静かに私を見据えます。
「殿下」
──ぴたりと、焦っていた心が嘘のように静まりかえりました。
「どうぞ、お聞き分け下さい」
「……わかり、ました」
長い廊下を歩いていく背中を、私はじっと見送ります。
次の先生が訪れるまで、私はその場に縫い付けられたかのように立ち竦んでいました。




