039
呆けたようにこちらを凝視するアレクに少しだけ居心地の悪さを感じていますと、アレクはさっと顔を背けて何かをブツブツと言い出しました。
「……──……───……」
「あの……?」
「ああ、いや。なんでもありません。やっぱりお貴族様なんだなぁと驚きまして」
少しだけ聞こえた言葉は、響きが全く異なるものでした。多分、この街の方言なのでしょう。
さっきの礼の仕方のことかと思い口にすれば、そうだと頷かれました。どうやらここでは、自己紹介をする時は笑って握手をするらしく、頭を下げるのは謝る時なのだそう。
「ああ、なるほど……なら確かに驚きますね」
「そうそう。……それに、もしかしてなんですけど……さっきのって……本名だったりします……?」
「? そうですよ」
頷けば──何故かアレクは大きなため息をついてしまいました。あまりにも大きなため息で、何か知らない間に失礼なことをしてしまったのかと焦ってしまいます。
「え、あの、私何かおかしなことをしてしまいましたか……?」
「あ〜いやそうじゃなくて……そうだとは思ってたけど……」
「……?」
「……いや、これはまあ僕の勝手な思い込みかもしれないんですけど、お貴族様の……えーと、ガル・ワガンダ様の身分って高いんじゃないですか?」
「……まあ、そうですね」
市井の人たちには家名──苗字がありません。だから家名に馴染みがないのか、少し戸惑っているように見えました。
「僕はお貴族様のことよく知らないんですけど、そんな簡単に本名教えちゃっていいんですか? 普通こういう時、偽名名乗りませんか?」
「ああ、そういう事ですか」
確かに、こういうお忍びの時や名前を知られてはいけない時、相手の身分が不確かな時は安易に名乗ってはいけないと教えられています。基本名乗る時は、精々仲介役に紹介された後です。
ですが。
「確かにそう教わっていますが、あなたは恩人ですので」
「……いや、恩人でも駄目でしょう」
「騎士の教えに反しますので」
「…………」
流石に、恩人に偽名を使うわけにはいけません。それでなくとも、正直目の前のただの少年であるアレクに名前を知られたからと言って、脅威になりえるわけがないと思ったのです。
……こういう思考になる自分が、嫌になります。
アレクはしばらく私を見つめたかと思えば、また大きなため息をつきました。
「わかりました。じゃあガル・ワガンダ様。これから街を──」
「ジェラルドです」
「え?」
「ジェラルドと呼んでください」
「え? いやいや、流石にお貴族様のお名前をお呼びするのは──」
「家名で呼んだ方が貴族のバレるのでは? ああ、それならジェラルドも本名ですからあまりよくないかもしれませんね。ええと……ジル……ラルド、ルド……どれがいいと思いますか? ああ、あとその丁寧な話し方もやめてもらっていいですか? 先程の少し砕けたような、乱雑な話し方で結構です」
「乱雑って……いや×××に××××言葉使っ××聞×××××××……」
私の申し出に困惑した表情を向けるアレク。
なかなか次の言葉を言い出さないため、そっと彼の右手を握りました。所謂握手です。それに驚きの表情を見せたので、私はにっこりと笑います。
「ね? よろしくお願いします、アレク」
「…………あなた、意外と強情なんだね」
「そうですか?」
「…………はー、わかったよ。でも本当にここの訛りと話す速度にすると聞こえないだろうから、比較的丁寧に話すね。これでいい?」
「……! はい!」
嬉しくて、思わず握手していた右手に左手を添えてしまいました。両手でアレクの右手を握りしめる私に、苦笑を零しながら「で、」とアレクは言葉を続けた。
「いつもはどう呼ばれてる?」
「え? ええと……」
「仲のいい人とか友人とか両親とか。その人から親しみを込めた×××……わからないか、ええと……ジルとかラルドとか、そういう名前を短くした呼び方だとどう呼ばれることが多い?」
「そう、ですね……」
──名前で呼ばれることなど、ほぼありません。
神の子であった時の方が、記号とはいえ呼ばれていました。人間に成ったほうが名前を呼ばれなくなるなど、あの時は露ほど思っていなかったのですが。
黙っている私に何を思ったのか、アレクは顔を歪ませ、握られるままだった右手に力を込めます。その力が思いのほか強くて、目が覚めたように顔を上げました。気づかない内にまた俯いていたようです。
──短縮した名前……ああ、そういえばアスが時々……私たち以外誰もいない時に呼んでた名前がありましたね。
「ジルと、呼ばれているかと」
「そっか。じゃあ──ルドって呼ぼうかな。よし、ここでのお貴族様の名前はルドで!」
「えっ?」
いつも呼ばれている名前を聞かれたのですから、その名前を使うかと思ったのだが違うようです。聞けば、『普段から呼ばれてるような名前をここで使ってたら偽名の意味がないから』だそうです。
よしじゃあ改めて、とアレクが言ったかと思えば、握ったままだった手に左手を添えて──両手を取り合っている形になったかと思うと、アレクは万遍の笑みを浮かべました。
「僕はアレク。よろしく!」
「……! ……私は、ルド。──よろしくお願いします」
そうして改めて自己紹介を交わした私は──
今後も、アレクとの関係が続いていくものだと。
信じて疑わない、哀れで無垢な子供だったのだ。




