036
「……ーい、おーい」
誰かが何かを呼ぶ声が聞こえます。
アスがよく私を遠くから呼ぶ時にこんな掛け声でしたねと少しだけ楽しい気持ちになりました。
「……ぞくさま〜? うーん、×××駄目××」
頬を軽く触れられる感覚と、早口と訛りでよく聞き取れない声が耳に入ります。先程の呼ぶ声と同じ声ですが、そこには何か呆れたような、途方に暮れたような響きがありました。
王宮でこんな話し方をする人はいません……あれ……? 私は……?
「っ!」
「うおっ! 起××!」
がばりと起き上がれば、私に覆い被さっていたと思われる子が慌てて飛び退きました。急に飛び起きたにも関わらずぶつかりはしなかったため、余程反射神経がいいみたいです。
急に起き上がったためか、少しだけ頭痛がします。額に手をやると、それを見たその子──先程の声の主でしょう──が、用意してあったのか水を出してくれました。
「綺麗な水です」
「あ、はい……ありがとうございます……」
その手から水を受け取りましたが、ふと口に運ぶ前に手を止めます。固まってしまった私を不思議そうに見ていたその子は、何かに気付いたように私が持っていたカップを奪い取ってしまいました。
あっと止める間もなく、その子はカップの中の水を私の目の前で一口飲みます。
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
再度受け取り、今度は躊躇い無く水を飲みます。思いの外喉が乾いていたようで、全て飲み干してしまいました。
やっと落ち着いた心地になり、自分の状況を理解すべく辺りに視線を巡らせます。
そこは虫小屋程の広さしかない小さな部屋で、私はその角にある布団に寝かされていたようでした。右角は内側に四角く欠けており、そこに小さな物置があるのか、扉が付けられています。
左の壁にも扉があり、奥の壁には何かよくわからない物が沢山置いてありました。部屋の中心には、これまた小さな机と椅子らしき物があります。
全体的に小さいですが、恐らくこれが“ここの普通”なのでしょう。本当にこんな狭い空間で人が生きていられるのか不思議ですが、でもそれを言うと駄目だということは学んでいます。
キョロキョロと物珍しそうにしていたのが面白かったのでしょうか、水を渡してくれた子はくすりと笑いました。そうしてそっと、私の手から空になったカップを取ります。
「おはようございます。ご自分がお倒れになられる前に何があったのか覚えていらっしゃいますか?」
「はい……」
そうです、私は確か大人に追いかけられていたところをこの子に助けられて──……。
そこまで思い出して、さっと姿勢を正します。見るからに相手は市井の者ですが、礼儀は必ずしなければなりません。
「すみません、助かりました。このお礼は必ずお返しします」
「ああ、良いですよ別に。困っている時はお互い様です」
「……? ありがとうございます」
なにやら不思議な言い回しですが、気にしなくていいようです。正直、抜け出してきたのでその心遣いは助かります。
へらりと緩んだ笑顔でひらひらと手を振り、その子はカップを向かいの壁にある小物が置かれたところへと持って行きました。小さ過ぎてわかりませんでしたが、どうやら炊事場のようです。炊事場と寝室が一緒になっているとは、なんて小さな部屋なのでしょうか。
「ええと……、お名前を伺っても?」
「あ、これは失礼致しました」
大きな礼にはならずとも、個人的にこっそり物を持ってくるくらいならできるかもしれません。とは言え、恩人の名前すら知らなければできるものもできないでしょう。
こちらに背中を向け、カップを片付けていたその子は慌ててこちらを振り返りました。頭の下の方で一つに縛られた、背中の中ほどまである綺麗な髪が動きに沿ってさらりと舞います。髪先まで手入れされているであろう艶のある髪に、つい目を奪われてしまいました。
「僕のことはアレクとお呼びくださいませ」
そう言ってその子──アレクは、にっこりと笑いました。
「アレク……アレクですか。ありがとうございます。助かりました」
「いいんですよ、そんなに何度も仰らないでください。お貴族様にそんなこと言われちゃうと居心地が悪くなります」
「えっ!?」
思わず声を上げてしまって、慌てて両手で口を抑えます。
そんな私の行動が不思議だったのか、アレクはぱちくりと瞬きをして、首を傾げました。
大声は如何なる時もあげてはならないと教えられていた私は思わず口を覆いましたが、今この場に先生は居ないことを思い出し、恐る恐る手を離します。そして、未だ不思議そうに私を見つめているアレクに、ゆっくりと疑問を口にしました。
「ええと……どうして、私が貴族だと?」
「えっ」
私の問いに『心底驚いた』という表情をするアレクは、またぱちくりと瞬きをします。そしてあー……、と言いながら気まずそうに頭をかくと、苦笑しながら「ええと……」と言葉を続けました。
「まさか、気付かれてないと思ってらっしゃいました?」
「……はい」
「いやぁ、×××! あははははっ!」
すると、いきなり笑いだしたアレクに、逆にこちらが呆然となります。
あまりの驚きで笑い続けるアレクを眺めていましたが、だんだんと理不尽に思えてきて、むっと眉根を寄せました。
「何がそんなに面白いのですか!」
「いやぁ……はは、ごめんなさい。本当に×××××なのですね」
笑い過ぎて涙が出たのか、アレクは目元を指で拭いながらようやく笑いをおさめます。そして少しだけ思案するように斜め上に視線を投げたあと、急に真面目な顔をして私を見ました。




